カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
孫たちが「バァバとジィジのおうちにまた行きたい!」(最近何かで「じぃじが 建てた家でも ばぁばんち」という様な川柳を見た気がしますが、我が家も順番はこの通りだそうです)とのことで、11月の最後の三連休に一家全員で、松本に二泊三日で来てくれました。
二泊三日といっても、初日は横浜からの移動で、三日目は松本から横浜へ帰るので、フルに自由なのは中一日だけ。
当初は、我々が事前に予行演習もしながら、婿殿が仕事の都合でお盆に行けなかった白馬岩岳マウンテンリゾートに行って、「マウンテンハーバー」で眼前に拡がる白馬三山の絶景(上手くいけば三段紅葉)を見たいという希望だったのですが、チェックしたところ岩岳の(グリーンシーズンの)営業は11月中旬で終了(期間を置いて12月からスキーシーズンの営業開始)とのこと。確かに考えてみれば、早ければ10月末。遅くも11月に入れば上高地やこの北アでは三段紅葉が見られる時期ですし、11月末の三連休には信州は里の紅葉でさえもう見頃を過ぎているかもしれません。
そこで紅葉は諦めて、孫たちを連れて行った先は、昨年の3月にも行った駒ヶ根に在る養命酒の運営する「くらすわの森」でした。
養命酒の工場に隣接する森の中に作られた「くらすわの森」のベストシーズンは、おそらくせせらぎに沿って遊歩道を歩きながらの森林浴が楽しめる夏だと思うのですが、この晩秋、初冬の時期に他に孫たちを連れて行ける様な施設や場所は、この信州では残念ながら他に思い当たりませんでした。

この日は三連休の中日ということもありますが結構混んでいて、平日だった前回は停められた第一駐車場は既に満車で、結局第三駐車場に駐車しました。しかも中京方面を中心に県外車も多く、結構な集客力だと感心しきり。
婿殿は初めてなので、先ずは雑木林の中のフォレストリングをぐるっと一周回ってみることにしました。


11時を過ぎていたので、先にランチを食べることにしましたが、前回のビュッフェのレストランはパスし、個人的にはランチプレートのあるカフェでと思ったのですが、今回娘たちが選んだのはミートデリのイートインでした。


こちらは養命酒の手掛ける自社ブランドの信州十四豚(これでジューシーポークと読ませるのだとか)の自家製ソーセージやハムを販売し、その場でも食べられる場所。長~いソーセージを自家製のバンズで挟んだホットドッグセットなどを注文。少し塩味を効かせたソーセージはプリプリ、皮もパリパリでとても美味しかったです(ただ、男性陣にはチト“おしょうびん”だったので、ミートデリの戸外のキッチンカーでのグリルドソーセージも、味見を兼ねて追加で注文しました。因みに外のテラス席ではワンコもOKです)。


その後、養命酒の工場に隣接する敷地13万㎡という広大な森の中の遊歩道を歩いて、前回3月に来た時は降雪の翌日だったためぬかるんでいるからと諦めた滑り台「丘の上のスライダー」と、遊歩道の先に在る「森のライブラリー」へも行ってみました。





そして最後にインフォメーションの建物の屋上が展望台になっているので、上ってみました。
背後の駒ヶ岳(木曽駒。伊那谷では単に駒ヶ岳か、東の甲斐駒に対し西駒とも呼んでいます)と、そして正面に拡がる“南アルプスの女王”仙丈を始めとする南アルプス(標高第2位の北岳、奥穂と並んで3位の間ノ岳も)の絶景を眺めてから帰ることにしました。


オープンして間もない話題の施設ということで、県外車も含め観光客の車がひっきり無しに訪れます。係員が2名いて誘導しているのですが、たまたま我々は運良く駐車出来ましたが、駐車台数はそう多くは無いので常に満車状態。偶然駐車スペースが空いたタイミングでなければ、せっかく来ても駐車出来ずに諦める車が殆どでした。
我々もせっかくなので中に入ったのですが、ショップとカフェがあって、屋上部分には展望テラスと諏訪湖らしく足湯もあるのですが、如何せん狭過ぎ。展望テラスも足湯もせいぜい10人も集まれば一杯で、座る余地もありません。岩岳マウンテンリゾートなどの白馬エリアや志賀高原の横手山や竜王など、各地にこうした展望テラスがオープンして人気を集めていますが、そうした最近人気の施設と比べると規模が小さ過ぎて、ここは観光施設としては微妙・・・。作ったのが“町のお菓子屋”さんでは資金力の問題か、いずれにしてもショボ過ぎます(どうせなら共同展開する地元の仲間を集めて倍位の規模にした方が、現在のお菓子とカフェだけの店舗より集客的にも選択肢が増えて効果的だったのでは?)。些か前宣伝がオーバーだったのか、評判倒れの感は否めません。少なくともまた来たいという気には残念乍らなれませんでした。むしろ諏訪湖を眺めるのなら、道を挟んだ諏訪湖畔へ行った方がよっぽどゆったりと湖畔の景観を楽しむことが出来るでしょう(その前に良く考えてみれば、高速をわざわざ降りずとも、諏訪湖SAの方が高台からの展望も良いので遥かにマシでした)。

それにしてもここのスマートICは、諏訪湖SAが高台にあるため止むを得ないのでしょうが、湖畔までの標高差数十メートルを下るのに山をくり抜いたトンネルが新設されるなど、大工事。
確かにこのスマートICの開通により、岡谷側からの諏訪湖畔へのアクセス(岡谷ICからだと岡谷の市街地を抜ける必要があり、諏訪湖へは遠い)と、諏訪湖の西側に在る観光施設(諏訪ガラスの里や原田泰治美術館など)へのアクセスは格段に便利になりますので、宿泊施設などが林立する東側に比べ、観光開発という意味においては(嘗て地元でも“半日村”などと揶揄されて)遅れている湖畔西側(通称“西街道”)の開発には(もし新たに開発する意欲があるのであれば)効果があるかもしれません。しかし、茅野市側の蓼科高原や白樺湖、霧ヶ峰へのビーナスラインへは現行の諏訪ICからの方が早いので、あまり効果は期待出来ません。大混雑する年一回(新作花火を入れれば二回)の諏訪湖の花火大会の時は、諏訪湖の西側から高速へ乗るのには確かに便利になるかもしれません。しかし、これまでの事業費は総額97億円だそうですが、ここまでして地元自治体も負担してスマートICを設ける必要があったのでしょうか(まぁ、合併効果という意味でその結果の是非は別として、「平成の大合併」では各自治体が自己主張ばかりで、県内で唯一合併が無かった諏訪広域ですので、今回のスマートICで岡谷市と諏訪市が連携したのであれば決して悪いことではありませんが・・・)。
そうであれば、もう諦めにも近いJR中央線の上諏訪~下諏訪エリアの複線化と、諏訪湖側にも改札口を設けるなどしての、このエリアで一番みすぼらしく感じる上諏訪駅の改築と駅周辺の活性化に資金を投じた方が良いのではないかと、諏訪に本社がある会社にお世話になり且つ数年間とはいえ諏訪の社宅にも暮らした身からすると、生粋の“諏訪人”からすれば要らぬお節介と言われるかもしれませんが、個人的には真剣にそう思うのです。
ましてや、例えそれが“棚ぼた”であれ、二年後の朝ドラ「巡るスワン」の舞台として願っても無いチャンスが“降って来た”のですから、だからこそ余計それを諏訪の地域活性化への起爆剤にして、少なくとも一過性に終わらぬ様にと・・・。
先日、高校卒業50周年の記念式典とパーティーがあり、友人と待ち合わせて参加して来ました。我々が卒業したのは昭和50年、1975年になります。

屋上に立派な天文台を備えた第二棟の校舎など25年前に新築された建物群には立派な体育館もあり、当時バレー部の練習で低い天井の梁に当たらぬ様にトスをしていた東・西体育館や汚い部室(今がキレイかは不明)、そして高校生活最後の文化祭に向けて音楽部で毎日合唱の練習をした音楽室の姿は、今では記憶の中にしか残っていませんでした。
因みに、昭和初期の旧制中学時代にこの深志ヶ丘に移転するまでは松本城の二の丸に校舎と本丸には校庭があり、当時の生徒たちは休み時間にふざけて天守閣の屋根で逆立ちをしたりお堀で泳いだりしたとも伝わります。市川量造を始めとする市民の努力により維新後の廃城を免れたものの、当時荒廃していた松本城の修理を訴えて修理保存会を立ち上げ、その実行に導いたのは初代校長であった小林有也先生でした。そして高校の正面玄関の横に立つ先生の胸像が、「世の悪風に染むことなかれ」と、来年で創立150年を迎える今も生徒たちをしっかりと見守ってくれています。





そして、この校舎の屋上に立って松本の市街地を眺めて思い出すのは、飲兵衛のバイブル「居酒屋百名山」などで私淑する高校の大先輩でもある太田和彦氏が、「ニッポン居酒屋放浪記 立志編」の中の「松本の塩イカに望郷つのり」の文中で曰く・・・、
『母校深志高校へ行ってみることにした。
下駄ばきで高台の坂を登り通学した三年間は忘れ難い青春だ。バンカラで自由な校風は、山奥の中学の洟タレ小僧だった自分を大きく成長させた。(中略)
屋上へ上った。眼下には松本平が一望できる。今日はよく晴れて乗鞍岳や遠く南アルプスも見える。あの先が東京だ。いつかはこの町を出るんだと、自分の将来を考えながらここに立っていた日々を思い出した。(後略)』
『青春時代を過ごした信州松本は、充実した三年間だったが、上京してからは信州的なものがすっかり嫌になった。井の中の蛙が大海に出たのだろう。そして三十年、今松本の酒場を訪ねてきた。冷やかしてやれという気分で歩きまわるうち、いつしかそれは消えていった。
私の好きな古い町並みや建物は松本によく残っていた。知らない地方都市に
へ行かなくても足元に在ったのだ。三十年の歳月が故郷を見る目を温かくさせているのかもしれない。誰でも若い時は自分の故郷は恥ずかしいものだ。脱皮してみてそれが判る。故郷に反撥してその気風を疎んだのは、昔の自分がそこに在ったからだ。松本はいい町だと今は自信をもって言える。(後略)』
と、正しく太田和彦氏が書いたのと半世紀前は私自身も同じ心境だったのです。
しかし、私が太田和彦氏とその後の置かれた立場が少々違うのは、それは私自身が本ブログの2009年の第40話「ふるさとは・・・」の中で書いたのですが・・・、
『 犀星が、青年期に「美しき川は流れたり。そのほとりに我は住みぬ」と誇らしげに謳いながら、後年「ふるさとは遠きにありて思うもの・・・(中略)帰るところにあるまじや」と(反語的であれ)自分自身に対し、突き放さざるを得なかった「ふるさと」。
誰しも、高校生の頃は、山に囲まれた「何も無い(と思えた)ふるさと」から、山の向こうにあるであろう可能性という「無限に拡がる世界(都会)」へ憧れて、希望を胸に故郷を後にして都会へ出て行く・・・のではないでしょうか。
私も、自身の決断(幼い頃から、今は亡き祖母から事ある度に「お前は帰って来るだでな!」と「帰るべき」を深層心理にまで埋め込まれた結果)とはいえ、“都会”から故郷である“田舎”の松本に帰ってきて暫くは、何か仕事などで面白くないことがあったり、一方で都会の華やかさの中で活き活きとしている友人を見るにつけ、とかく他責で自身の不満を「家」を含めた故郷「松本」のせいにしていたような気がします。
そして、今もその時の心象風景が鮮やかに甦ってくるのは、本当に冗談のようですが、まさに自分自身がその△△社に勤務(もし長野県にUターンするとしたら、県か市の公務員か、民間だと当時はその2社くらいしか実際に新卒採用はありませんでした)し、クラシック音楽の流れる、まさしくその「まるも」で休日に一人コーヒーを飲みながら、その本を偶然手にしていたのです。
ですので、「そうか・・・、そうなんだよなぁ!」と甚く自身に合点が行き、(それまでは故郷「松本」のせいにして逃げていた)その時の自分の心にその“納得”が深く静かに染み込んでいったのを、まるで昨日のことのように覚えています。

私とは違って、子供の頃から海外でも暮らした彼等ですので、この狭い松本に縛られる必要もないと思います。
しかし、若い頃は「何も無い」と感ずる故郷ですが、それは都会に「今あるもの」の方が遥かに魅力的だから。でも、故郷に昔から「あった」ものがいつか見えてきた時に、帰るところがあることの幸せを、やがて(彼女等も)感ずる時がきっと来ると思います。後年(定年後でいいので)帰る故郷があり、それが(彼女等にとっては)この松本だった幸せを噛み締める日が。そして、その時は間違いなくもう居ないであろう親たちの暮らした痕跡を、この街でデジャヴュのようになぞる時が・・・。
そしてその時まで、彼女等にとってのふるさとは「遠きにありて思うもの」であってイイのだと思うのです。』
という、私自身の“松本”への懺悔の気持ちだったのだろうと思います。

そんな想いが、一棟の校舎の屋上から嘗て自分も青春の頃に見た大好きな松本の街と山々を眺めながら、まさに半世紀・・・同じ様に歳月を重ねた友人たちの懐かしい横顔と共に、50年に亘る時間が走馬灯の様に頭の中を駆け巡ったのでありました。
源智の井戸の清掃ボランティア「源智の井戸を守り隊」の事務局をしていただいている、松本市の第二地区地域づくりセンターの課長さんや職員の皆さんが企画した「井戸巡り講座」が開かれ、参加人員に余裕があるとのことからお誘い頂き、「源智の井戸を守り隊」のメンバーの中で希望された皆さんと一緒に参加しました。
講座は女鳥羽川の南側と北側の湧水を巡るコースの2回に分けて行われました。講師は街づくりを始め松本の街の歴史にも詳しい、地元松本出身の都市計画家倉沢聡さんです。

最初は、中町の昔の酒蔵を移築した建物「蔵シック会館」の前に在る「蔵の井戸」(硬度85。以下松本市が発表したH28 データより)で、市の「水めぐりの井戸整備事業」で平成19(2007)年度事業で設置されました。昔懐かしい青い手押しポンプも併設されていて、隣のカフェではこの水を使ってコーヒーを淹れています。

そして以前もご紹介した様に、この井戸の横を流れる蛇川では、病院施設のフェンスで囲まれているため安全と分かるのか、水草の中を何匹もの大きなニジマスが悠々と泳いでいるのを見ることが出来ます。
続いて、江戸時代の「嘉助騒動」と呼ばれる農民一揆の農民たちの助命救済に奔走した、松本藩士鈴木伊織の墓所に隣接する「伊織霊水」(硬度104)。
そしてイオンモールへ至る日の出町の二つの井戸、信州薬祖神社の境内にある「薬祖水」の井戸(民間の井戸採掘業者のデータで硬度83)と勤福会館の敷地内に在る「日の出の井戸」(硬度77)。「薬祖水」は近年になって一度枯れてしまったのを掘り直し、自噴する“薬の神様”の井戸がまた復活したと地元紙で報じられました。
そして、江戸時代から現在まで利用されている松本市の上水道の水源の一つである「源地の水源地」(硬度131)。平成21年の市の「水めぐりの井戸整備事業」で井戸が整備されて、毎分150リットルが湧出されています。因みに講師に依ると流れているこの水は湧水ではなく、殺菌濾過済みの水道水のため水路に藻が繁殖しないのだとか。知りませんでした。そして、最後が我々の「源智の井戸」(H28 データでは硬度142)です。
源池の地名にもなっている「源池の水源地」から、ここを水源とする榛の木川や民家からの湧水を集めて流れる蛇川の流れを辿る様に「源智の井戸」まで歩いて行ったのですが、印象的だったのは、途中あちこちに湧水や井戸が在って、中には空き地にも湧水が自然に湧き出していて湿地の様になっている場所もあったり、駐車場内にも自噴している井戸があったりと、この辺り一帯は本当に湧水が豊富であることが分かりました。

今回の最初は辰巳の御庭の井戸からスタートし、そして今や松本の市街地に残る一の造り酒屋となった、善哉酒造の女鳥羽の泉。続いて槻井泉神社の湧水から鯛萬の井戸、最後に東門の井戸というコースです。
ここから、マサムラ本店方面へ東に向かう道は勾配が緩やかに上って行く坂になっているのですが、これは松本城の総掘りを埋め立てて土を盛った地形の跡で、土を盛ったことから「上土」(あげつち)という町名の由来になったのだとか。



今回二度に亘り市内の湧水や井戸を巡ってみて、松本がブラタモリでも紹介された松本城のお堀の水に始まって、築城の頃からこれらの湧水を活かした城下町作りがされ、その町をあちこち巡ってきた何本もの湧水の水路が、榛の木川や蛇川だけではなく、最後全て女鳥羽川にそれぞれ注いでいることが分かりました。

松本の街中を流れる女鳥羽川では、一般的に清流に生息するウグイやカジカガエルの生息も確認されていて、夏になるとホタルが飛び交うのも見られます。但し、残念ながら場所によっては町会の対応がままならないのか、アレチウリなどの外来植物やススキ類が蔓延っていて、川縁を歩けない箇所も見受けられました。

源智の井戸清掃の仲間の方から教えて頂き、あがたの森で開かれている市民講座「サロンあがたの森」へ参加して来ました。
11月8日の第229回で今回のテーマは「多様性に富む松本市街地の井戸水-松本盆地の地下水の水質について-」で、講師は総合地球環境学研究所の上級研究員の藪崎志穂さん。
女史は筑波大大学院卒の地球環境科学専攻で理学博士。筑波大、福島大を経て現在に至るまで、溶存成分や同位体などの化学分析を利用して、地表水や地中水の水質、地下水流動の解明に関する研究を行っておられ、「平成の名水百選」選定を機に、各研究者が分担して選ばれた各地の“名水”を調査した時に、女史はたまたま「まつもと城下町湧水群」を担当することになり、その松本の湧水の多様性に魅せられて、その2008年以降今日に至るまで定期的に松本に足を運ばれて、各地の井戸の水を採取分析し、その水質の研究を継続されて行っておられる方です。
因みに、総合地球環境学研究所というのは、京都の北区にある国立の地球環境問題を研究する研究所だそうです。

その検査の目的は、水の性質と水の動き、そして水の年齢(滞留時間)を知ることで、その結果、この水がどこから来たか、その水の特徴を推測することが可能になります。
そのために女史が調べられている測定項目は次の通りです(以下の掲載資料は当日の配布資料より)。

また、放射性同位体である3H(トリチウム)や安定同位体は自然界に存在していて雨に含まれているので、その溶存成分量が多いと、地中に滞留していた時間が長く掛かっていることになるため、その水の年齢(滞留時間)が分かるのだとか。
こうして分析された項目は、その相関性を見るのに、一般的に「シュティフダイアグラム(ヘキサダイアグラム)」が用いられます。
この六角形のヘキサダイアグラム(シュティフは考案者)が、グラフ化された各項目の相関を知るのに、一目で認識し易いとされているそうです。

その結果言えることは、松本盆地は糸魚川静岡構造線で二分されていて、飛騨山脈以西の古生代にまで遡る古い地層と、比較的新しい東側の筑摩山地の地層に分かれ、そこから複数の河川によって運ばれ堆積した複合扇状地を形成しており、上記の分析結果(水質と安定同位体)により、大町、安曇野の地下水は飛騨山脈の北アルプスが涵養地、松本市街地の地下水は美ヶ原高原などの筑摩山地がその涵養地と推測されるとのこと。
因みに、同位体比は、PC上で検索した内容より引用すると、
『標高が高くなると、同位体比は低くなる「高度効果」が見られます。これは、水蒸気が上昇して雲になるときに、水蒸気中の軽い同位体(例えば16O)が残りやすく、重い同位体(例えば18O)が先に雨や雪となって降ってしまうためです。標高が高い場所ほど、このような「軽い」水が残った降水が供給されるため、同位体比が低くなる傾向があります。』

・松本の地下水は井戸深度により異なる、複数の地下水流動系(女鳥羽川系、薄川系)が存在すると思われる。そのため、距離が近くても井戸深度により水質が大きく異なる場合がある。
・内容的には、比較的溶存成分が多く、水質組成が多様でCa-HCO3-型が多くみられること。また、Ca-Cl型(カルシウムと塩化物)が多いこと。
その中で、北馬場柳の井戸(深度80m)は特異で、イオン濃度とマンガンが高いことから、局地的に有機物層(植物?)が堆積している可能性が考えられること。また、地蔵清水は(Na+Mg)HCO3型で、これは全国的にも珍しい(理由不明)
・一方、酸素、水素安定同位体比での松本の地下水の涵養標高をみると、涵養域である筑摩山地の女鳥羽川の北側は涵養標高(雨の降った場所)が高く、南側は涵養標高が低いことが分かる。
・なお、鋭敏な舌を持つ人は、一般的にNaが多いと塩味を感じ、Ca-Clが多いと甘味を感じる。
【松本市街地の地下水の水質組成図(2009年3月の調査)】

【トリリニアダイアグラム(2009年3月の調査)】

(*赤いドットでの区分けと吹き出しは講師の説明を元にした筆者の記入)
また、これまでの17年間で見る水質の長期変動(2008年~2023年)で言えることとしては、
・北門大井戸と北馬場柳の井戸を例にとると、水質が比較的一定であることから、これは松本市の行政や地域住民による長年の河川や井戸の清掃活動などに依り、水質が維持管理されてきた成果だと思われる
・一方、山間部の湧水には2018年から変化が見られるが、これは融雪剤(塩カル)散布の影響ではないかと推測される
ということだそうです。
そして、今後の水質管理に向けて重要なこととして、女史が挙げられたのは、
・地下水の涵養域としての、山地部の自然環境を保全することが重要
日本の一部では、近年増え過ぎた鹿の食害により、檜林の樹皮が悉く食べられて、樹勢が衰え枯れてしまったエリア(滋賀県)や、樹木草本が食べ尽くされて消失し、その結果裸地となって土砂崩れが起こってしまった場所(長崎県)もある
・そのためにも地下水の涵養域を推定し、水源地を保全していくことが重要
・近年の温暖化に伴う環境変化で、これまでのシトシトと降 る様な梅雨から、最近はゲリラ豪雨などが多発する様になってきているが、シトシト降る雨は地下に徐々に浸透していくのに対し、一気に降るゲリラ豪雨では地下に浸透せずに地表を一気に流れ下ってしまうことから、長期的に見て地下水の水量低下などの地下水の流動系への影響が懸念される
ということでした。

また、市街地だけでなく一歩郊外に出れば、自然に恵まれて山歩きを楽しみながら、美味しい水にも巡り合えるので、そんな湧水も楽しんでくださいとして、松本の近郊で一例として挙げられたのが、私も昔飲んだことがありますが、安曇野市堀金の烏川沿いにある「延命水」と、塩尻市上西条神社境内の「強清水」で、この湧水はその名の通り、石灰岩質の地層から湧き出る硬水なのだそうです。

この日、昼過ぎから「あがたの森」で開催されるイベントに参加する予定があったので、その前に久しぶりに松本駅のアルプス口にある「谷椿」に、昼にのみ提供されているラーメンを食べに立ち寄りました。
現在は松本駅の西側も再開発ですっかり整備され、東西自由通路がある新しい駅舎になって西口も「アルプス口」に変わりましたが、シンガポールから帰任後、西口に月決めの駐車場を借りて諏訪まで電車で通勤していた当時は、松本の正面玄関である東口(現在の「お城口」)に比べると、西口は片や如何にも田舎風の木造駅舎で、裏口だった西口と呼ばれた頃から、この「谷椿」だけは今も昭和然とした佇まいの当時のままで、時が停まった様に何も変わっていません。
そんな昭和レトロな店内同様に、ラーメンも昔懐かしい“これぞ、ザ・中華そば”とでも云うべき、あっさりした鶏ガラベースの醤油スープに、チャーシューが一枚とメンマにナルトと刻みネギ、そしてモチモチした多加水の中細のちぢれ麺という王道派の醤油ラーメンです。洒落た“無化調”などとは一切無縁。しかもレンゲも付いて来ないので、スープは丼から直接啜らなくてはいけませんが、これでイイ!と思わず唸りたくなります。

だからこそ、時代に取り残された様な昭和然とした店内で、これまた“絶滅危惧種”の様な懐かしい醤油ラーメンを食べる、そんな 至福の“一杯の醤油ラーメン”をしみじみと味わうのです。
このラーメン、色んな工夫を凝らす今時のラーメンに比べると、むしろ進化しないことが逆にそんなラーメンを或る意味小馬鹿にしているかの様な、シンプル過ぎるラーメンかもしれません。そんな昔ながらのこのラーメンは、時代に取り残されて昨今の物価高の中でも値上げするのを忘れたかの様で、一杯450円也。大盛りでも600円です(数年前と比べると、それでも50円アップにはなっているのですが・・・)。

夜に来ると、カウンターやテーブルに置かれた古びたガスコンロに載ったジンギスカン鍋は、火を点けると長年使い込まれて沁み込んでいる脂が自然と滲み出て来て、そしてどんと載せられた肉やホルモンの焼ける煙で換気扇の換気が追い付かず、店内はいつももうもうとした煙が充満しています。
そんな焼き肉屋さんらしく、昼の名物は世間の牛丼とは一線を画する“牛めし”(500円)です。夜の焼肉に使った端切れの牛肉がブツ切りにカットされ、タマネギと一緒にすき焼き風に甘辛く煮込まれていて、ご飯の上にゴロゴロと載っています。メニューには書かれていないのですが、常連さんの多くはそのハーフサイズの“半牛”(250円)とラーメンをセットでオーダー。〆て700円也。更に毎日ランチを食べに来られる方には、600円の日替わり定食もあります。

昔はチャーシューメンがあったのですが、このところのお昼はご主人の姿が無くおばぁちゃんのお一人で切り盛りされているためか、今はラーメンの並みと大のみ。
店内はL字型のカウンター席が10席程とテーブル席が2つだけ。最初にほうじ茶とサービスでおばぁちゃん自家製の漬物が、ランチや丼だけでなくラーメンにも出してくれます。いつもは白菜が主ですが、この日は珍しくキュウリの浅漬けでした。
ラーメン丼に並々と盛られた、あっさりとした鶏ガラのスープ。先ずはスープを一口といきたいところですが、レンゲが無いので先に少し麺を食べてからにします。
中細の縮れ麺は個人的にはもう少し固ゆでが好みですなのですが、今では珍しい多加水麺で非常にモチモチしています。自家製の豚チャーシューが柔らかくて美味。出来れば、以前メニューにあったチャーシューメンで食べたいくらいです(大を頼むと、確かチャーシューが二枚になる筈です)。
スープはあっさりとした鶏ガラベースの醤油味で少し生姜が効いていて、テーブル胡椒を掛けるとまたピリッと締まる感じがします。
時代に取り残された様な、この「谷椿」のラーメン。シンプルで全く派手さも無くて、今風のSNS映えも全くしませんが、どこか懐かしくてまた食べたくなる、そんな昭和風の醤油ラーメンです。これでイイ!否、これがイイ!!

飲み干した後のラーメンの丼の刻まれた「谷椿」の店名と、そして一桁「3」の若い数字の局番が、何とも店の昭和の歴史を感じさせてくれました。



