『前後裁断・私の蕎麦人生』(4)
「早々とあきらめるな・いつまでもしがみつくな」
を 2011年3月にブログに書いて以来、久しぶりの
職人のひとり言『前後裁断・私の蕎麦人生』(5)
になりますが・・・
高校を卒業してから、家業の蕎麦屋に入って
今年で50年目を迎えることになりました。
50年と言えば・半世紀 思えば長いようで…
あっという間のような気もしますが・・
蕎麦を打ち続けて半世紀近く
何回くらい打って来たんだろう・・
何万回…多分6万回以上になりますか?
最近は、体力的に若い頃のようにはまいりませんが…
齢 67才を今月迎える事になり
今でなくては打てない蕎麦ができるかもしれない?
そんな思いを抱きながら…
一日一生の思いで、蕎麦作り励んで参りたいと存じます。
今こそ大切にしたい言葉…
『早々とあきらめるな・いつまでもしがみつくな』
BEN
先月末に、総合的な学習の一環として訪問された
浜松市の中学生7名の皆さんから感想文が届いた。
今年1月に、私も齢・66を重ねて…
当店の将来をどのように考えたら良いかと
思いを巡らせる今日この頃・・・
5日間のお休みを頂き、ベトナムへの旅に行って来ました。
私も、今月・65才の誕生日を迎えました。
そば職人として、40年余り毎日のように
そば作りに励んで参りましたが・・いつの間にか
年金をいただく年齢となってしましました。
私が、40才の時に、縁あってサンフランシスコで
そば打ちパホーマンスの旅を経験させて頂いた時から
人生の折り返し点として、誕生日が来るたびに
ひとつづつ、年齢を減らして来て・・
今年で15才となりました。
そろそろ・そば職人としての、人生の最終章・・
あと、何年そばを打ち続けられるか分かりませんが
これからも、一日一日・一年一年・若返って行って
子供の頃の純粋な気持ちで・・・
そば作りに励んで参りたいと存じます。
「ホップ・ステップ・ジャンプ」
あと15年・そろそろジャンプしましょうか!
昨年末に、三人の若者たちがやって来ました・・
蕎麦とそばつゆの関係は切っても切れないものですが・・・
水回し
久しぶりのお休み,毎月一度のカイロプラテイックへ・・・
そばを打ち続けて、ガチガチになった体をほぐしてもらう。
引き出しを整理していたら、大切にしまってあった文集が出て来ました。
これは、以前そばの作り方を教えてあげた時に、
子供たちがお礼に書いてくれた文集です・・・
先月、三月二十二日から台湾の台南市へ松本観光コンベンション協会の
観光キャラバンの一環としてそば打ちパフオーマンスをやってまいりました。
今月、私は62歳の誕生日を迎えた・・・
信州の冬は厳しい寒さが続きますが・・・
先日、嵐がやって来ました・・・と言いましても
季節はずれの台風がやってきたわけではありません。
実は、嵐のリーダーOさんが食事に来てくれたのです。
なかなか感じのいい好青年でした。
やまびこセットを召し上がって頂きました。
「世界遺産 平泉の中尊寺から鳴子温泉に泊り
翌日、最上川の船下りを楽しんできました」
国宝 中尊寺の金色堂
建物の中は写真が撮れないので外観だけ・・・・
中はさすがに素晴らしかった!
信州小諸懐古園の近くにある藤村ゆかりの宿「中棚荘」
お盆休みで帰省中の「琴宇留賀さん」が挨拶に見えました。
今年も山岳自転車レース「ツールド美ヶ原2013」が6月30日に開催されました。
毎年のことですが梅雨時のこの時期に開催されるため
天気が心配されましたが無事に開催することが出来ました。
「おかげさまで今年のゴールデンウイークも多くのお客様に
お越しいただき誠に有難うございました。5月4日には開店以来最高
の人数・売上を記録しました。誠に有難うございました。」
去る、1月28日午後2時21分、自宅療養中でした父が91歳の生涯を終えました。
ケアマネージャーさん・訪問看護さん・ヘルパーさん・お医者さん・デイサービスの皆さん
など多くの方々に支えられ、最後は家族に見守られ、眠るように息を引き取りました。
去る、1月31日の葬儀では大勢の方々にご参列いただき心より御礼申し上げます。
また、心に残る葬儀をやっていただいた神宮寺の住職はじめ
関係者の皆さんに感謝申し上げます。
三代目は91歳の天寿を全う致しました。四代目の私はこれからも
身体の動くかぎりは、そばを打ち続けて生きたいと思っております。
おかげさまで私の後を引き継いでくれる、五代目も育ってきております。
これからも末長く当店(手打そばあるぷす)を宜しくお願い申し上げます。
「今、当店には二つの暖簾がある・・・」
一つは北アルプスの常念岳をイメージしたもの
「先日、話題の東京スカイツリーに行ってきました」
隅田川の船の上から仰ぎ見ると・・・
先日、高校時代の四十数年ぶりの同窓会があった・・・
第69回卒業生の還暦を記念しての同窓会、
百名以上の参加者があり、大変盛会でした。
中にはいつも会っている友もいるが、久しぶりに会う人、
また、中にはすぐには名前も顔も思い出せない人などもいたりして
本当に長い年月を感じざるえませんでした。
当時のある先生「カラス」(注・あだ名)が挨拶の中で、
『皆さんが在校生の頃、男子の長髪運動があって
それまで長い間丸坊主でしたが、当時の生徒会の
熱心な長髪運動で、我々の学年が卒業後に長髪になった。
それが良かったのかどうかは、それぞれ意見の分かれるところでしょうが、
今日、この同窓会で皆さんの頭を見渡すと、せっかく長髪にしたのに・・・
誠に、長髪にした甲斐が無い』 と挨拶で笑いをさそっていた。
なるほど、周りを見渡すと髪の毛が相当薄くなった人、
白髪が相当増えた人など、いろいろだ。
ちなみに、私は同輩に比べると少しは・・・
最近は外国からのバイトさんはいませんが・・・
数年前までは信大の留学生のアルバイトの皆さんが
何人か続く時期がありました。
最初は中国の上海から来た陳君です。
留学生のバイトさんは初めてだったので少し心配でしたが、
何事にも真面目に取り組む仕事ぶりに、本当に感心しました。
そのあとはベトナムから来たユイ君です。
明るくユーモアにあふれる彼は、
いつも皆の気持ちを和ませてくれました。
モンゴルから来たウジャちゃんは将来は国に帰って
会社の社長になるんだと言って張り切っていました。
マレーシアから来たのは、ウオンちゃんとタンくんです。
ウオンちゃんはおっとりとした中にもしっかりとした
考えを持っていました。
先日、一年前に結婚したウオンちゃんが御主人と
お兄さん夫婦でマレーシアから訪ねてくれました。
すっかり大人になって綺麗になったウオンちゃんに
時の経つのを感じざる得なかった。
皆で記念写真をパチッリ・・・
『おひさまとそば屋』
NHKテレビ小説「おひさま」
『前後裁断・私の蕎麦人生』
「早々とあきらめるな、いつまでもしがみつくな」
今から十二年前の丁度今頃の季節に、ニュージーランドへ旅行に行く機会があった。
先日、クライストチャーチで大きな地震があり、多くの人々が被災された、
日本人も何十人も被害に合われ、行方不明の方々もまだ沢山おられるとのこと。
本当に大変な被害になってしまいました。
私が行った時も多くの日本人が住んでいると聞きました。
町は緑豊かで、家々の庭には花々が咲き乱れ、きれいな川が町中を
ゆったりと流れていた。レンガ作りの古い教会など素敵な建物も多く、
飲み水もおいしくて、聞くところによると三十数万人の町の飲料水が
地下水でまかなわれているとのことです。
私は、蕎麦屋をもし外国でやれるとしたら、この町がいいな~と思いました。
実は、私はニュージーランドの旅の途中、クイーンズランドという町の
あるホテルで、アポなしでそばを打って食べてもらったことがありました。
以前、アメリカにそば打ちに行った事がありましたが、
今回はアポイント無しで、チャンスがあったら是非そば打ちをやってみたい、
一回そばが打てる分のそば粉と、トランクに入る長さに切った麺棒だけを持って・・
その時、心の中に「早々とあきらめるな・いつまでもしがみつくな」
という言葉を常に胸にきざんで行動しよう。迷惑をかけないように、
どこまでが諦めないで、どこからがしがみつかないのか・・・
クイーズランドのホテルでそば打ちができたのは、
自分のやりたいという思いの強さも当然ありますが、
運の良さと、何よりも協力してくれた出会った人々がいたからだと思う。
朝食の時に初めて合ったのに、そば打ちをやりたいと無理を承知で言う
私に戸惑いながら、レストランマネージャーのアンドリューに話してくれた武田さん。
(彼は当日からワーキングホリデーでホテルに働き出したばかり)
私の思いを受け止めてコック長のロイドンさんに掛け合ってくれたアンドリューさん
自分の子供さんが日本語を習っていて、日本の食文化にも理解のあるロイドンさん、
私の少し強引な思いを通訳してくれた旅行社の安藤さん・・・その他etc
おかげ様で何とか実現できました、「涙ぐみながら美味しい」と喜んでくれた武田さん、
「私もよい英語の勉強になりました」と言ってくれた安藤さん、皆さん本当にありがとう。
なれない場所で調理台の高さが10㎝以上も高い、包丁は両刃で上手く切れない、
そばを茹でても掬うざるがない、など普段仕事をやっているのとだいぶ条件が違うとしても、そばが考えられない程短くなってしまったり、不揃いになってしまった。
それでも、ロイドンさんが大サービスで昼食を作ってくれたので、そのごちそうを
食べた後で、茹でて一時間以上経ってからそばを食べたけど、本当に旨かった。
やってみて思ったことは、やり遂げた喜びと共に、自分の未熟さを痛感させられました。
その後、オークランドのホテルのフロントに鈴木さんという女性がいらしゃって、
クイーンズランドのホテルでそば打ちをやってきたという話をしたところ、
「ここでも是非やってください、三十人位今日中に集めますから」と言われたが、
私は、「すみません、もうそば粉がなくなってしまってできません。残念ですが!」
と言うと、鈴木さんも大変残念がっていました。
行くまでは、ニュージーランドは農業国なので、食料品の持ち込みは厳しいよ、
とても、そば打ちなど無理だ!と多くの人から聞いて行ったけど、
「成せばなる」だよな~行ってみれば喜んでもらえたりする、
まあ、運が良かったってこともありますね。
べん
「感謝する気持ちと感動する心」
以前、アメリカのサンフランシスコへ蕎麦打ちのデモンストレーションに
行った時の話をブログで書いたことがありました。 今回は・・・
十数年前のことになりますが、サンフランシスコの近くのバークレーという町にある
カリフォルニア大学での蕎麦打ちデモンストレーションの時の話・・・を
カリフォルニア大学のスプリングフェステイバルに招かれ、
蕎麦打ちデモンストレーションをやることになりました。
場所はインターナショナルハウスの2階にある教室で、中村さんと
いう女性が待っていてくれた。彼女が教室の中を和紙や蛇の目傘で日本の
風因気を演出してくれ、頼んでおいた道具も用意してくれてあった。
しかし、水道と流しは隣の部屋にあるのですが、小さなのが一つ、蛇口をひねると
ほんの少ししか水が出ません。その上排水が壊れているのか水が流れていきません。
さあ、どうしようここは日本じゃないんだ・・・そばはなんとか打てるが、
打ったそばを、ゆでて冷やす水をなんとかしなければ・・・
すると、「氷なら製氷機にたくさんあるから利用したら・・・」と
いうアドバイスをしてもらい、なんとか目途がたった。
でこぼこの学習机を、いくつかつなぎ合わせ、蕎麦打ちを始めると、
何人かの人達からいろいろと質問があった、(もちろん中村さんが通訳してくれた)
アメリカの人々は、健康に良い日本食に興味があるようだ、また私の
着ている作務衣やわらぞうりにも興味があるようで質問されました。
中でも陶器のそば猪口に入れて飲む、そば湯のことを質問された時、
私は、「日本では古くから陶器の器を使い、そばを食べて残ったつゆにそばの
茹で汁を入れ、飲むのが習慣になっている。それは、そば湯には身体に大変良い
栄養が溶け込んでいることと、そばつゆの栄養と旨みを残さず頂くことです。」
そして、もう一つ付け加えると「そば湯を入れて飲み干すことで、器もきれいに
なり、食器用の洗剤も少量で済み、環境にも優しいと思うのです。」などと話をした。
多くの人々に来て頂き、 終わってから何人かの方から(デリーシャスなど)喜びの言葉もかけてもらい、「アメリカまで来て良かった」と、ホッと胸を撫で下ろした。
後日、日本に帰って来てから、中村さんからの手紙で「齊川さんの蕎麦打ちの
デモンストレーションに大学の教授が感銘を受け、授業で話をしてますよ・・・」
と書いてあり、ビックリしました!本当に有難いことです。
今回のアメリカのサンフランシスコ周辺での蕎麦打ち旅行は、たくさんの方々
との出会いや協力があって、成し遂げることができた。一人では何にもできない
という事がよく分かった。と同時に、蕎麦打ちという一つの日本の食文化が、
言葉がうまくしゃべれなくても、外国の方々と心が通じ合えることも分かった。
多くの皆さんとの出会いに、感謝する気持ちと
感動する心を与えていただきました。
それにしても、大変お世話になった、ジェニーやエリースは、今どうしているかな~
べん
「幻の蕎麦」
もう、ずいぶん前の話になりますが、私が中学生だった頃
今の天皇陛下が皇太子の頃、浅間温泉のある旅館に宿泊したことがありました。
その節、当店の蕎麦を出前で召し上がって頂いたことがありました。
その時の蕎麦を私も味見させてもらいました、
舌の上でとろけてしまいそうな、上品でやさしい味・・・
いままでに食べたことのない、忘れられない味でした。
最近になって、親父さんにその時の蕎麦の話を聞きますと、
「別に特別な蕎麦じゃない、普通の蕎麦だったと思う」と言う。
しかし、今でも私はあの時の蕎麦の味は、
もう一度食べてみたい幻の味であり・・・
いつの日か作ってみたい幻の蕎麦である。
「普通の蕎麦」
まだ、私が蕎麦を打ち出して数年の頃だったと思います。
その頃、当店の職人だったシゲちゃんが調理場から店内の一点を見ていた。
そこを通りがかった私は「シゲちゃんどうしたの・・・」と聞いたら、
いやー「俺も何十年この仕事をしてきたが、あんなに見事に蕎麦を食べる
お客さんに出会ったのは初めてだ」と見入っていた。
私も、そのお客さんの蕎麦を召し上がっている姿に目を奪われました。
「蕎麦を食べるリズムが一定で無駄がないんです、流れるように自然で、
美しいんです」私は思わず、お客さんに声をかけてしまいました。
「お蕎麦はいかがでしたか?」
すると、う~ん、と首をひねって・・・
「そうだな~ここの蕎麦は、生まれて初めてここの蕎麦を食べて、
そして、あちこちでいろいろな蕎麦を食べて・・・死ぬ前にもう一度
ここの蕎麦を食べて死にたい!」そういう蕎麦だな~と 一言。
「ごちそうさま!会計して下さい」 そして、二~三歩 玄関の方へ歩いたあと・・・
「あなたは真面目に仕事をしていますね! 私はこういう普通の蕎麦が
あってもいいと思う。頑張って、これからも蕎麦を作り続けてください」と言って・・・
颯爽と玄関の戸を開けて去って行きました。
私は、先程言われたお客さんの言葉に、ガーンと頭を殴られたようで
しばらくの間金縛り状態で、お客さんの名前を聞くことも考えられませんでした。
私は、この時から「普通の蕎麦を作り続けていきたい」 と、心に刻みました。
べん
前後裁断
過去を悔むより
先を不安に思うより
今あることを考える
(1) 『声が聞こえる・・・』
朝一番にそばを打つとき、木鉢にそば粉を入れ手を合わせる。
「今日一日よろしくおつき合いください」
このようにして一日が始まるのも二十数年になるだろうか。
私が若かった頃、「日本一のそば屋になりたい・・・」と
肩に力が入り、思いばかりが空回りしていた時期がありました。
長女がまだ小学校に上がる前だった頃、娘にそばを食べさせた、
丁度その日、私の親父さんが年に数度しかそばを打たない、そばを打った、
いい機会なので親父の打ったそばと、私の打ったそばを
娘に食べさせてみよう・・・
すると、娘が言うには・・・
「お父さんの打ったそばもおいしいけど・・・
おじいちゃんの打ったそばのほうが、もっともっとおいしい。」
子供は正直です・・・ね!
私は毎日何度も一生懸命やっているのに、形も揃っていて腰もあるはずなのに、
親父さん年に数度しか打たないのに、そばを打つ時間も短いし、
そばも太いもの細いもの・・・不揃い! おかしいな~
私も親父さんのそばを食べてみました・・・
娘が言うように、私の打ったそばより、味わいがあるんです、
中身があるんです。そして何か、やさしい味がするんです。
私の打ったそばは、形ばかりで中身がなかったのです・・・
娘や親父さんのおかげで、私は自分の未熟さを知りました。
それから1~2年後、いつものようにラジオを聞きながらそばを打っていると、
ラジオから「これからはベストワンよりオンリーワン」の時代だよね・・・
という言葉が心に入って来ました。
そうなんだ、ベストワンじゃなくてオンリーワンでいいんだ!
今まで、どこか「ベストワンになりたい」と、肩に力ばかり入っていて、
自分が主役になって、材料(そば粉)が脇役になっていたんじゃなかったのか・・・
「ベストワンじゃなくていいんだ、オンリーワンでいいんだ」
と思った時から、肩の力が抜け楽な気持ちになった。
「主役はそば粉で私はお手伝いする人」なのだ・・・
その時から、木鉢に入れたそば粉に自然と手を合わせるようになり、
そして、声が聞こえた・・・
そば粉が私に・・・
『お前もようやく職人の入り口に来たな』・・・と
べん
前後裁断
過去を悔むより
先を不安に思うより
今あることを考える
もう三十年以上前になりますが・・・
先代の柳家小さん師匠がお越しになった時、
色紙にサインを頂きました。
一枚は、あるぷすそば店に、「たぬき」を・・・
これは、「他抜」と書いて縁起ものだそうです。
たぬきの傘の部分は醤油で色をつけてあります。
「ラストサムライ・IN・あるぷす」
先日、あのラストサムライのWさんがいらしゃいました。
あの映画には、私自身思い出がありまして・・・
「数年前のある日、高校生だった娘が友人と
ラストサムライを見てきてすごく良かったよ・・・
特にWさんが素晴らしかった、」と感激して話を
してくれました。その話を聞いて、「お父さんも
是非、見たいな~と言うと、じゃあ一緒に行こう」
と、言うことになって二人で映画館へ・・・
素晴らしい映画で感激しました。
娘(次女)と二人で映画を見に行ったのは、後にも先にも
この時、一回だけだったのでとても印象に残っています。
忘れられない思い出となりました。
おそばを召し上がって、帰り際に、Wさんに
そんな話をさせていただくと、わざわざ車まで筆ペンと
印鑑を取りに行ってくださってサインをしてくれました。
私の思うところ、そばの一生(一年)と
女性の一生を重ね合わせてみると・・・
新そばは、10代のモチモチとした弾力
のある肌合いの、色白な女性の感覚。
しかし、あっさりしすぎて味わいが足りないかも!
味わいが出てくるのは、新そばが出だして
から2カ月程過ぎてから、「色・香り・味」
のバランスがとても良い!
そう、女性で言ったら20代・30代位か・・・?
また、梅雨、暑い夏のそば粉にとって
厳しい季節を過ごしたそば粉は、女性に
例えたら経験豊かな熟年期、味わいの深い風味!
そば作りには少々気を遣いますが
職人としては、1年のお礼の意味も込めて
そば作りにやりがいを感じる時期です。
私は、「新そばを1日でも早く・・!」
という思いは、分からないでもありませんが、
ただ早ければいいとは思いません。
実は、1年前の玄そばを少し取っておき、
新そばに少しブレンドさせることによって
新そばに足りない「味わい・深み」を
感じることができると思っております。
これは、この時期にしか味わえない
楽しみでもあります。あと数日で終わります。
よろしかったら是非ご賞味ください。
最後に、そばの香りでいえば一番
強く感じるときは、水回し・(そばを練る
時の最初の作業)でそば粉に水回った時に
一瞬、香り立つそばの香りは、
そば打ちの時だけの特権かも・・・?
べん
まず最初に待っていたのは、ラジオの生出演と
新聞社での取材でした。日系のラジオ放送なので
日本語でよかったのですが、なにしろ初めての経験で、
ちょっと時差ボケもあって、とんちんかんな受け答えを
してしまい、恥ずかしい思いをしてしまいました。
そば打ちパフォーマンスを行ったのは、ジャパンタウン
にあるJCCCNCという日系人の公民館のような所です。
日系人を中心に四十人ほどの方がいらっしゃって、
今回のそば打ちを楽しみにしていてくれたようです。
期待に応えられたのならよかったのですが?・・・
皆さん優しい方ばかりで喜んでくれたようです。
自分としては精一杯やらせていただきました。
調理場で後かたずけをしていると、一人の男性がやって来て
、『私はサンフランシスコにきて二十年になるが、
日本人の心を忘れかけていた、
今日、齊川さんに会って日本人の心を
思い出すことができました。
是非、私の店でお寿司をごちそうしたいので
来て下さい。』と言われました。
この方は、「WE-BI-SUSI」というお寿司屋さんを
サンフランシスコでやられている方でアンデイー殿塚
さんと言われます。あまり熱心に殿塚さんが誘って
くれたのでお言葉に甘えることにしました。
殿塚さんの店はあまり日本人観光客の来る地域では
ないとのことで、店の中は外国の方ばかりでした。
殿塚さんが、サンフランシスコに来てから二十年、
アメリカの方のも合うように工夫してきた、という寿司
は、とてもやさしい味で美味しかった!
殿塚さんの店には、松本市出身の若い女性の店員
さんがいてビックリ!また、美奈さんという年配の女性
が私に『うちの親方がさっき帰ってきて、今日はいい人
に合った、と大変喜んでいました、齊川さんに会えたことが
よほど嬉しかったようです。』と言ってくれました。
私も嬉しくなって、そば打ちの話や、信州松本の
花がいっせいに咲く今頃の季節の話などをしていると
美奈さんは、『私は今日まで長い間生きてきて、
五分間話をしただけで、こんなにさわやかな気持ち
になったのは齊川さんが初めて!』と
すこし濃いめの化粧の目から、黒い色をした泪が
頬を伝わりました。
若い頃アメリカに渡り今日まで人に言えない
苦労をしてきたんだな~と思うと、私も涙が
知らずに頬を伝って来ました。
あ~アメリカまで来て良かった!
『感謝する気持ちと感動する心』を
教えていただきました。
べん
いろいろとアクシデントがありましたが、
なんとか、サンフランシスコに着きました。
今回の企画の責任者のジェニーが
迎えに来てくれました。
ジェニーの車で、あのゴールデンゲートブリッジを
渡り、サンフランシスコの対岸にある滞在先となる
テイブロンの町に着きました。
その夜は、近くに住む芳子さんのお宅で、
打ち合わせを兼ねたパーテイーがありました。
ベランダから見える風景は、眼下にサンフランシスコ湾
が広がり白い帆を上げたヨットが点々と浮かび、
向こう岸にはサンフランシスコのビル群が立ち並び、
左の方角には、昔、監獄だったアルカトラズ島や
さらにその先にはベイブリッジも、かすかに見えます。
しばらく、今まで見たこともない素晴らしい景色に
見入っていると、、長旅の疲れが一気に
吹き飛んでしまいました。
そして、遠くまでやってきたんだな~
さあ、明日から頑張るぞ~と、
勇気が湧いて来ました。
べん
「今まで、生まれてから今日まで、この浅間温泉から
出たことがないので、書道で使う動かない・・・文鎮(ぶんちん)
というタイトルでブログを書いてまいりましたが、
今回からは海を渡ったことにより人生の転機となった
事などを書いてみたいと思います。」
文鎮 Ⅴ
『ベストワンよりオンリーワン』
三十代前半は、そば職人として目覚め、
毎日、一生懸命そば打ちに励んでおりました。
「日本一のそば職人になるんだ。」という思いが
心のどこかにありました。
そんなある日、私の父(3代目)がそばを打ちました、
(父はその頃はもう、年に数回しかそばを打つことがありませんでした。)
父の打ったそばと、私の打ったそばを、
たまたまその場にいた、4~5歳になる私の娘に食べさせると、
「おとうさんの打ったそばもおいしいけど、おじいちゃんの
打ったそばのほうが、もっと、もっとおいしい」って言うんです。
娘の言葉に私は絶句してしまいました。
私も食べ比べてみると、娘の言うとうり
父の打ったそばの方が、味があるというか、
やさしい味がするのです。私の打ったそばは、
形はきれいにそろっているし腰もあるように思うのですが、
味わいがないんです。
「俺は毎日、何回も必至にそばを打っているのにそんなはずは・・・
父は年に何回しか打たないのに、どうしてなんだろう?」
それから、しばらくの期間(1~2年)悩みました。
そんなある日、朝一番でそばを打つ時、木鉢に入れたにそば粉に
心の中で「今日一日よろしくお付き合いください。」と
自然と手を合わせておりました。、
ようやく私は気がついたのです、いままでは
自分が主役になろうとしていたんだ、と・・・
「主役は素材(そば)であって、自分は脇役(お手伝い)なんだ。」
その時、そば粉が私に声をかけてくれたんです。
「ようやくお前も職人の入り口に来たな・・・」
本当に私には声が聞こえた気がしたんです。
そんな時ラジオからこんな言葉が聞こえて来ました。
(SBCラジオのつれづれ散歩道)
「これからはベストワンよりオンリーワンの時代だ」と・・・
そうなんだ、ベストワンじゃなくていいんだ、
それぞれが個性を持ったオンリーワンなんだ。
それから私は、肩の力が抜けて、少しはやさしい味のする、
そばが打てるそば職人になれたような気がします。
そば粉の声を聞いて以来、二十年余り、
毎朝そば粉に「今日一日よろしくお付き合いください」
と、手を合わせ、今日もまたそば打ちができることに感謝し、
そばを食べに来て頂いたお客様に感謝しております。
べん
『職人・・・もの作りの魅力』
私が30才になる頃、近所に「手仕事屋きち兵衛」
さんが木彫の店を開きました。
手仕事屋・・・少し変わった名前に興味をひかれ
店の中を覗いていると、モジャモジャ頭に
顔中ひげだらけのちょっと気難しそうな人が
小さなこたつの上で黙々とノミで木を彫っていました。
「近くで見せていただいてよろしいですか。」
と聞くと「どうぞ・・」と応えてくれたので、
遠慮なくこたつにはいり込んで
見させていただきました。
ノミが木を削っていくときの木肌の美しさに魅せられ、
暇を見ては毎日のようにお邪魔して、きち兵衛さんの
美しい仕事ぶりに見入っておりました。
「俺もこんな美しい仕事のできる職人になりたいなあ!」
と思うようになりました。
今、思えば本気でそば職人になろうと思ったのは、
きち兵衛さんとの出会いがあったからだと思います。
木彫とそばの違いはありますが
「手仕事屋きち兵衛さん」が私にとっての
師匠といえるかもしれません。
その後、何年かしてきち兵衛さんが
弾き語りをしてCDを出し、コンサートを
やるようになるとはその時は
想像できませんでした。
べん
『写る』
イカリソウ
そば屋の跡を継ぐといっても、すぐにそばが
打てるようになるわけではなく、出前配達や掃除、
接客や会計、経理などをやっていた。
この仕事を始めるまで、恥ずかしながら、
りんごの皮もむくことができなかったのです。
仕事の空いた時間に毎日、野菜などの切れ端
を包丁で切って練習しました。
いつかそばを切る日が来ることを
思い描きながら・・・
2年程経った頃、親父さんが「手打ちうどん」
を作ってみないか!と言った。
(そばを打つのに役に立つから)
ということで4年程打ちました。
ねって、ねかせて、足でふんで、
生地を麺棒に巻きつけながら
麺台に叩きつけるようにして延ばしていきます。
結構、力のいる作業でした、
夏と冬では塩水濃度が違い、
冬は、うどん生地を足で踏むときなどは
足の底から冷たさが伝わってきました。
私が初めてそばを打ったのは24才の時でした。
そばを打つということは私にとって
覚悟のいることでした。
いままで長い間、そば職人のしげちゃんがそばを
打ってきたので、私がそば打ち場に入るということは、
しげちゃんの仕事を奪うということになるからです。
その覚悟ができるまで6年かかりました。
実際、私がそばを打ちだしてしばらくすると、
私がしげちゃんにそば打ちをお願いしないかぎり
しげちゃんは打ち場に入ることはありませんでした。
初めて打ったそばを、
今は亡き、美鈴湖の昭平叔父さんが
丁度店に来たので食べて頂くと、
お世辞もあったと思いますが
「初めて打ったとは思えない、
親父の打ったそばにそっくりだ
血は争えないな・・・」といった言葉を思い出します。
(叔父さんは、美鈴湖で民宿をやっていて
手打ちそばも打っていました。)
そういえば子供の頃、ランニングシャツ姿で
首に手拭をかけ、汗をかきながらそばを打っていた
親父の後姿に、骨格とか筋肉の動きが
目にやきついている。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」と言います。
やっぱり、写ったのかな?・・・
文鎮 Ⅱ
『かけそば一杯、 もりそば一枚のお客を大切に・・・』
私が20才の時、今の店を新築しました。
(跡を継ぐことを決めたということもあったかもしれません。)
その頃は、浅間温泉も賑わっておりました。
芸者さんがお座敷の行き帰りに、きれいな着物姿で
歩く姿は、華やかなものでした。
店にも毎晩のようにお客さんと二次会で来てくれて、
夜遅くまで三味線の音色が響いておりました。
(今では、遠い昔話となってしまいました。)
23才の頃、私の祖母が亡くなりました。
仕事で忙しかった両親に代わり、子供の頃
何かと面倒をみてくれました。そういう意味では
私はおばあちゃん子だったかもしれません。
その祖母が死ぬ間際に、私ひとりを病室に呼んで、
『かけそば一杯、もりそば一枚のお客を大切にしろよ、
ねぎは良くさらせよ・・・』と言い残して
息をひきとりました。
私は祖母の亡骸を背負って、病室から中庭を歩いて
玄関の霊柩車まで運んだ時、祖母の重さだけでは
ないものを、肩にそして背中にずっしりと感じ、
一生そばの道を歩んで行くんだ・・・と思いました。
『道は開ける』
人の気配で目を覚ました。まだ夜明け前、
外はまだ暗い。ふと振り向くと人影が、・・・
目を凝らすとそこには、
おやじとおふくろが座っていた。
そのとき初めて、両親から
『店を継いでくれ』と言われた。
その朝始発の汽車で、私は
東京のある料理店に
修業に行くことになっていた。
いずれ時期が来たら店を
継がなくてはいけないかな・・・
とは思っていたが、
とにかく今は都会に出てみたい、
という思いだけで深く考えていなかった。
その時私の頭の中に浮かんだことは・・・
そして口から出てきた言葉は
『車を買ってくれたら、店を継いでもいいよ』
その頃車の免許を取ったばっかりで
毎日車の本ばかり見ていた、
〔サターンエンジンでマフラーが
バリバリのGSハードトップ〕
そう、あの車がほしかったのです。
私は店が終わると毎日その車でドライブ、
<マフラー バリバリ イワセナガラ・・・>
後で考えると、ずい分ご近所に
迷惑をかけたみたい!
そんな生活を2年も続けていると、
さすがに自己嫌悪になってくる、
仕事は何も出来ないし、
床屋には2年も行っていないし、(学生時代は
ずっと丸坊主だった反動か?)
頭の毛はボサボサ・・・心はモヤモヤ。
『俺なんか生きていても意味無いんじゃないか』と思うこともあった。
そんな折一冊の本に出会った、
『道は開ける』(D.カーネギー著)だ。
「あなたは今どん底にいる、今より底は無いんだ!
静かに目を閉じて、そこに座ってごらんなさい、
暗闇の中で心しずかに何も考えずに・・・
さあ、目を開けて上を見てごらんなさい、
小さな光が見えるでしょ!
足元を見てごらんなさい、
今、足元にあることをやればいいんです!
あとは、光を目指して
一歩一歩登って行けばいいんです。」と
私の心のモヤモヤは
一冊の本によって晴れました。
今、俺に出来ることはなんだろう・・・
次の日から一生懸命出前配達をやりました。
若かりし頃の思い出です。
しかし、これが文鎮の始まりになろうとは・・・。
べん
昨年、新そばの収穫の頃、北海道を旅する機会がありました。北海道は国内で、そばの生産量が日本一です。自社でも北海道産のそば粉を使っていることもあり行ってみたい所だったので、旅行の何日も前から大変楽しみにしておりました。
そんな私を見て、友人が「旭川に行くなら、是非行っておいで」と一軒の居酒屋を紹介してくれました。その名は「独酌 三四郎」旭川の繁華街を少し抜け、一つ通りを入ったところに、その店はありました。年代を感じさせる古めかしい民家調の建物で障子戸を開けると、中はまさに北国の居酒屋といった風情です。煙でいぶされた天井、壁は長い年月を経てどっしりと重厚な色をしています。日焼けしていて、ごま塩頭の漁師のような親父さんと和服の似合う女将さん。少し遠慮して、カウンターの一番端に座りました。カウンターの中では使い込まれた小さい丸椅子に親父さんがちょこんと座り火の番をしています。女将さんが焼いている魚の土釜。その土釜は真っ黒に黒光りして、それはそれは懐かしい昔ながらの土釜です。私は子供の頃、お袋の実家にあった土釜を思い出しました。『いまだに使っているんだ』子供の頃の懐かしい記憶が、よみがえるような不思議な気持ちでした。そんな私に気づいたのでしょう。親父さんが、「ここに店を出してから五十年も使っているんだよ・・・」と、ボソッと話しかけてくれました。
私は、その土釜にすっかり心を奪われて、いっぺんでこの店が大好きになりました。ようやく気持ちが落ち着き、手もとにあるお通しを見ると煮大豆が数粒。一つ食べてみて、私は驚きました。存在感のある大豆の味が口いっぱいに広がり、「これぞ素材の味だ!!」と唸りました。 これなのです、私が大切にしていることは!
そば打ち職人を続けて30年。振り返れば長い年月ですが、毎日、本当に毎日、素材に生かされている。どんなに腕があっても素材の力がなければ、うまいものはできないと考えています。だから私は素材を生かし、また同時に私も生かされていると信じています。毎回、そばに向き合うたびに無心になり、そばの声を聞く。そこからお互いに、うまいものを作っていこうじゃないか!と始まるわけです。
この大豆。薄味なのにしっかりと主張があって、私は参りました。親父さんの友人が作っているそうです。手作り豆腐もあるとのことで、それもいただきましたが、何せおなかはいっぱい。(北海道だからと夕食は寿司フルコース。食べ終えるのももどかしく、三四郎目指して飛び出してきたからです)女将さんが「半分にしましょうか?」と、やさしく声をかけてくださり半分の豆腐をいただきました。今でも、全部食べたかったなぁと悔やまれます。 土釜、お通し、豆腐で幸せいっぱいになり、次回は女将さんのお任せコースで一杯やりたいなぁと後ろ髪を引かれる思いで宿に帰りました。帰り際、記念にと思って頂いてきた箸袋。宿に着いて、楽しかった時間を思い出しながら、改めて見ると、そこには、大きく大きく 「原点」 と店主の筆字で書いてありました。
原点・・・胸を突かれました。
私の…私の原点とは何か?箸袋を見つめたまま私は動けず、深く考えさせられました。
人は各々自分の原点を持っています。物を作るという仕事は、自分の作ったものに己のすべてが映し出されることだと思っています。なぜなら、そば一打ち、一打ちに誠にはっきりと自分の心の状態が現れることがあるからです。
「平常心」 常に平穏な心を持ち続けることは職人として第一条件だと思っています。だから、三四郎の「原点」という文字に『ああ、この人も私と同じ考えを持っているのだ』とはっとしたのです。原点とは、そこを出発して、長い人生を歩み、最後に必ず還って来る処です。自分の原点をさがす、もう一つの旅に出てしまった私です。
原作 べん( 大将) 脚色 万里ちゃん 構成(信大生)内田、太田(友人) 大竹
私は生まれて今日に至るまで、この地を離れたことがありません。
「そば屋の四代目を、いつの日か継がなくてはならないのかなあ~」と、漠然と思っておりました。若い頃は、「自分には、もっと、違う道があるんじゃないか・・・もっと、可能性があるんじゃないか。」と、あがいておりました。でも。他に能もないので、結局後を継ぐ事になりました。
しかし、年を重ねて五十も半ばを迎え、今では、天職だったかな~と思えるようになりました。もちろん、長い年月の中では、自分の人生、間違っていたんじゃないか?と思うこともありました。
そんな中で出会ったり、お世話になった方から戴いた『シンプル イズ ベスト』『スモール イズ ビューティフル』『ベストワンよりオンリーワン』という、言葉が私の中で心に残り、仕事をしていく上でのキーワードになっております。
その上で、一番大切な『誠意』を忘れずに、毎日そばを作り続けて生きたいと思います。
この狭い店の中で、毎日同じ仕事をしているだけの自分ですが、「いつの日か空の高さ(深さ)を知る日が来ることを、夢に描きながら・・・。」