誠に恐縮ですが
12月1日より長期休業させて頂く事となりました。
少なくとも冬期間は休業となりますので
宜しくお願い申し上げます。
少々話しが長くなりますが
宜しかったらお付き合い頂ければ幸いです。
明治二十七年に、初代「為吉・まつ夫婦」が
この地で蕎麦屋を創業した訳ですが…
まつさんは、蕎麦作りが上手だったそうで
親戚や近所の方々の評判となり、そば屋が本業となったとの事⁉
それまでは、養蚕や浅間焼(生活雑器)を焼いていました…
そこで、初代の頃は屋号を「せとや」と言いました。
時代は明治から大正に入る頃、二代目「龍太郎」は
北アルプスに何度も登るほどの山好きだったそうで
店名を「せとや」から「アルプス」に変更しました。
龍太郎の妻「ひでの」は、山陰の松江市の生まれで
仕事が忙しかった両親に代わって、私の面倒をよく見てくれました。
(大正10年生まれの父の話では自分が生まれた頃には
すでに「アルプス」という屋号だったそうです)
三代目の私の父は、若い頃から野球が好きで…
松本城(深志城)の広場で「キャッスル」という
チーム名で六大学のチームとも試合をやったそうです。
しかし、時は第二次世界大戦の頃…北支(満州)へ出兵!
戦後、ソ連で2年余り捕虜として抑留され
厳しい状況下の中,何とか帰還しました。
私の母は、大正14年松本近郊の梓川村で生まれ…
戦時中は挺身隊として、名古屋の「中島航空機製作所」にて
米軍の孟爆撃を受け、命からがら故郷に帰って来ました。
そんな二人が、縁あって結婚して夫婦になったわけです。
(母の話では、その頃父はノンプロで左ピッチャーとして活躍していて、阪神タイガースから入団の誘いがあったそうですが、母が反対して蕎麦屋を継ぐことになったそうです)
昭和27年1月に長男として私が生まれた訳ですが…
その一年前の昭和26年4月に三代目の父は資本金27万円で
「有限会社アルプスそば店」を設立、今年で69期となりました。
その後、私が二十歳になった時に今の店を新築して
その時に、カタカナの「アルプス」から
ひらがなの「あるぷすそば店」に変えました。
後一年で70年というこの11月末で…
「有限会社あるぷすそば店」を解散させて頂く事となりました。
高校卒業後,家業の蕎麦屋に入って今年で50年目…
心身共に金属疲労(勤続疲労)⁉
寄る年波には勝てません(笑)
『早々とあきらめるな・いつまでもしがみつくな』
この言葉を胸に刻み、頑張って参りましたが…
このあたりが潮時かなあ と判断した次第です!
しかし、店の経営から身を引いても
何かしら私でお役に立てる事があれば
そば職人として生きて行きたいと思っております。
また、おかげさまで初代が明治二十七年に創業以来
今年で125年目を迎えることができました。
そう考えますと…私といたしましては
「誠に不徳の致すところ」ではありますが…
今まで、ご愛顧頂きましたお客様はじめ
多くの方々に心より深く感謝申し上げます。
12月1日からは長期休業(冬眠)させて頂きますが
出来ますれば、暖かい季節を迎えた頃…
この地にて、若い方々に新しい蕎麦屋を
やって行っていただければ幸いに思っております。
店主敬白
コメント追加
何年か前にそちらに2回ほど立ち寄らせていただき、まりさんにお世話になりました。まりさんもお元気でしょうか?(アオキと言えばわかるかもです)
東京の知り合いにも紹介したところ、彼らも何度かそちらに立ち寄り大変好評で。
先日その知人達とちょうどあるぷすさんのお蕎麦が食べたいなと話していた矢先でした。
しばらくは冬眠という事で残念ですが、ご主人様のおっしゃる通りに暖かくなったら冬の眠りから目覚めて頂きたいなと願います。
しっかりお休みを取られて、ご自愛ください。
またあるぷすさんのお蕎麦が戻って来るのを楽しみに待ちます。