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三役ブログの火曜日担当、堀川です。
3年前の6月、その頃私はモンゴルの地にいました。
草木の無くなってしまった広大な草原に植樹を行う事業に参加したからです。この日本では考えられないその広い草原に、日本の北信越地区から参加したこの組織のメンバーと共に、数百本にものぼる苗木を植え、数年後にはその成長した木々を上空から眺めると「OMOIYARI」という字を描くという、国境を越えた夢のある事業でした。
この事業を企画した当時のメンバーの企画力、そしてその情熱とそれをまとめ上げて行くリーダーシップ等を当時の自分は参加者として眺めていましたが、それぞれの背中から伝わる「男気!」は、自分に大きな影響を与えてくれたことを覚えています。
その植樹事業のもう一つの目的。それは北信越の福井、新潟、長野から計4人の高校生を選抜し、共に日本を飛び出し、モンゴルでの植樹を通して、地球規模で何かを感じてもらうことでした。その立役者はなんといっても、夜回り先生こと水谷修さん。
この事業に共感するとともに、先生にとっても一番大切な全ての子ども達にチャンスを届けたいと、北陸信越地区で連日の講演キャラバンを実施してくださり、各地の会場で多くの観客の方々に向けて、この植樹事業への募金を呼びかけました。県ごとの各会場では、その地のメンバーが声を枯らし、募金活動を行いました。会場出口に整列する仲間達、声をあげて呼びかけ、それに呼応する観客の皆様。
その想いの形は、高校生のモンゴルへの夢切符となり、その4人の人生の更なる扉の一つとなりました。
その高校生それぞれが、どのような事情の中、どのような経緯で選ばれたのかは知りません。ただ日本の空港を度立つ時と、帰国した時の“瞳”の輝きの違いが、モンゴルを何度も往復し、相当な苦労をしたであろう企画メンバー全員に充実感を与えてくれました。
時は流れ、3年と2ヶ月―。
8月21日、新潟県上越市。当時高校生だった4名と、その引率担当のメンバーとの“モンゴル同窓会”が開かれました。企画してくれたのは、
高校生からお姉さんと慕われた 小林さん。連絡、お店予約等を全てこなして下さり、 「再会」の場を用意してくれました。
私も車に飛び乗り、一路上越へ。 みんなどんな成長をしているか楽しみで、高速道路のスピードも上がりがちでしたが、諸事情により車のメーターが120kmを超えることはありませんでした。(6月1日ブログ参照。笑)
午後4時から始まったその同窓会。大学生になった天谷君は東京から、革作家になった小倉君は福井から、綺麗なお姉さんになった有里ちゃんは長岡から、そして松本市からは、立派な社会人となった石原君が駆けつけてくれました。当時高校生の4人は、立派にそれぞれの道を歩んでました。再会したみんな、いい顔してたなー。
モンゴルでのウーロン茶での乾杯が、3年後にはジョッキになっていることが驚きです。。。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎ、終電の時間。一人、そして一人とそれぞれがギリギリの時間まで残りながら、再会を名残惜しく帰っていきました。
後日、メンバーの有里ちゃんから思いがけず、宅急便が届きました。中には新潟のお酒2本と手紙が入ってました。モンゴルでもそして日本でも会った時にはいつもお酒を飲みまくっている私の姿が、若い有里ちゃんには印象的だったことでしょう。笑 そして添えられた手紙にはこう書いてありました。
<抜粋>
私はモンゴルに行った3年前、正直人付き合いを自ら避け、人を疑うことしかできずにいました。だけどあの1週間モンゴルの現状を知り、現地の可愛い可愛い子ども達に出会い触れ合う内に今の自分がどれだけ甘くてどれだけちっぽけな事で悩んでいるのか、思い知らされました。
【モンゴルの児童養護施設の子ども達】
【子ども達の現状を知って・・】
みんなで過ごせた1週間、私自身、言葉では表すことができない大きくて暖かい“何か”を手に入れる事ができまいた。あの出会いがなければ、、私は本当に全てにおいてダメダメなままでした。
そして21日。3年と2ヶ月経って、再びああやって大好きなメンバーで集まることができたことを本当に幸せに思います。
★モンゴルチーム★ 有里
今、モンゴルの木々はどうなっただろうか。
3年たって、木々が枯れてしまっていたらそれでもいい。当時、それぞれの環境で悩みもがいていた少年少女に、この事業が未来への扉となったようだから。
当時、本当に苦労してくれたメンバーに感謝しつつ、更なる人々へのきっかけづくりに邁進したいと感じる今日この頃です