皆さん、お元気ですか? 金曜日といえば井上、井上と言えば“マイ割り箸派”の専務理事井上です。
さて、今回取り上げるのは「合成の誤謬」です。
「合成の誤謬(fallacy of composition)」とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、かならずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語です。これは、「不況期、個人・企業が消費・投資を控えるのはミクロ的には合理的だが、経済全体としては(つまりマクロ的には)不況を悪化させることになってしまう」というデフレ・スパイラルをさして用いられることが多く、近年特に聞かれる言葉です。
「合成の誤謬」となってしまう現象は、経済のみならず社会の至る所であり得ることと思いますが、この言葉を聞いて一つ感じることがあります。
それは、個々人(ミクロ)で合理的もしくは正しい行動をするならばまだ良いのですが、正しいかどうかも疑わしいことを個々人(ミクロ単位)にさせ、その結果マクロで更に状況を悪化させてしまうケースがあるのではないか、ということです。
例えば、“マイ箸”に始まる環境に関する国民的運動などがその一例です。
そもそもマイ箸を持とう、という運動は、割り箸を使い捨てにするのはもったいない、森林破壊につながる、という気持ちから広まった運動であったかと思います。マイ箸運動が一過性のものとなって終息した(?)のでホッとしていますが、この運動が徹底されていたらどうなっていたのであろう、と思うわけです。果たして、環境にとって本当に良くなっていたのでしょうか?
日本の国土の約66%が森林と聞きますが、木を切り出し角材にする過程でどうしても廃材がでてしまいます。元々割り箸はこれを有効に利用してつくられたものです。ちょっと短絡的に申し上げると、例えば、マイ箸運動が広がることが廃材利用の減少を促し(実際はそのようなインパクトはないと思いますが・・・)新たなごみ問題が生じる可能性があります。
元々廃材を利用して作られてきた日本の割り箸と、中国など海外で無計画に伐採されて作られた割り箸とを一緒にして割り箸を使うこと自体が悪であるかのような風潮の元、マイ箸ブームが広がった感があります(むろん、マスメディアがこれを牽引した影響が大きいと思われます)。
個人的な見解を申し上げますが、そもそも“割り箸”にまつわる環境問題とは、日本の森林活用の問題である、と思っております。
個々人でマイ箸を持つことは個人の自由ですし、お店でもお取り扱いしてございます(結構おしゃれです、一膳いかが?)。しかし、これが全体に広まった時の影響を考えるとまた新たな問題を生み出す可能性があるわけです。
何が正しくて、何が間違っているか・・・
答えを見つけるが難しいこともあると思います。
しかし、私たちは、自らの行動の社会的意味合いを客観的に評価し行動する自覚が常に問われている、ということを忘れてはならないでしょう。
より深く本質を問う姿勢を忘れずに今後の活動を行っていきたいと思い、今日はこの辺で。
それでは、よい週末をお過ごしください。 グッバイ。
専務理事 井上 博文