カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 我々、生粋の“松本っ子”や“信州人”が当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。

 9月に放送された「秘密のケンミンShow 極み」での、“山の民、長野県民の山への愛”は、ナルホド!そう云われてみれば・・・と、感心することしきりでした(後日YouTubeで視聴しました)
それは「長野県民に聞くと、自分の住む場所の標高が誰でも言える」とか、「山への愛がハンパ無い」という内容。
云われてみれば、私メも本ブログ中に「松本は標高592mで、597mの東京の高尾山とほぼ同じ」とか、城山が700mでアルプス公園が770mとか、確かに標高に拘っているのが分かります。
また“山への愛”も、松本平に暮らす人間が常念岳であったり、諏訪であれば八ヶ岳、上田なら浅間山であったり・・・という様に、信州人の誰でもが自分が住む場所から仰ぎ見るそれぞれの“故郷の山”、或いは“心の山”を持っています。 
ただ、標高についていうと、登山者やトレッキング愛好家は誰でも標高に関心を持っている筈です。登山口と登る山の頂きとの標高差がどのくらいかで登りの程度を知ることが出来ますし、また本格的に山を登る人は地図の標高線がちゃんと読めなくてはいけません。
ただ、そうは言っても「自宅のある場所の標高」となると、いくら登山者でもそこまでは・・・でしょうか。確かに、それは長野県内の小学校には、標高と緯度経度が書かれた標識が校門近くに必ず立っていたこともその一因なのかもしれません。
ただ、1000mを超える高原地帯の小学校の子供たちが、理科の沸点を調べる実験で、現実は91度で沸騰したのと教科書に記載された沸点との違いで、先生が「テストでは100度と書きなさい」と云われ怪訝な顔をしたところで終わっていましたが、実際は自分の住む場所と海抜0メートル地点での沸点の違いについて、ちゃんと先生は説明して子供たちもその理由を確認した筈(長野県の先生もそこまでイイ加減ではない)だと思います。
 松本だけではなく、県外や海外、或いは県内でも他の街で暮らした経験を持つ自分も一番感じるのは(それも松本生まれの信州人だからかもしれませんが)、「山を仰ぎ見る視線の違い=山の高さの違い」です。
以前も、ブログに「息苦しい街?松本」(第504話)として同じ内容を書いたので、そちらを参照してください。
    (モルゲンロートに染まる初冠雪の常念岳:10月26日撮影)
 冒頭「ぶったまゲーション」の導入として、「当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすること」と書いている様に、今回の「秘密のケンミンShow 極み」で放送された「標高」についての指摘で、久し振りに長野県民=信州人の特性についてナルホドなぁと得心した次第です。

 我々、生粋の“松本っ子”が当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。

 個人的にそれ程好きでも無かったので、初めて県外に出た学生時代にも言われたことも無く、それまで全く知らずに特に意識もしていなかったのですが、長野県内では一般的な「牛乳パン」は実は長野県限定。
このことを私メが初めて知ったのは、娘たちが大学進学で上京してからでした。
 「あのさ、牛乳パンって長野県だけなんだよ!」
 「えっ、そうなの!?全国どこにでもあるんじゃないんだ・・・」
松本では普通のパン屋さんは元より地場のスーパーのパン売り場など、どこでも必ず牛乳パンが普通に並んでいて、地元では珍しくも何ともないのですが、娘は話題作り?のためか、丸正(既に閉店してしまいました)の牛乳パンを友人へのお土産に買って帰って行ったこともありました。

 このところ毎週末のウォーキングで、松本城の内堀から大手門を抜け、大名町を通って縄手通りに入って四柱神社にお参りし、帰りはまた縄手通りから緑町を通って松本城の太鼓門から二の丸を経て帰って来るのですが、途中緑町に「小松パン」があります。
日曜日は定休日の様ですが、コロナ禍での蜜をさけるためか、店の前に張り紙で「牛乳パンは予約制」とのこと。そこで奥さまが珍しく、
 「小松の牛乳パン・・・、一度食べてみようかな・・・」

 「小松パン」は大正11年創業という松本の老舗のパン屋さんです。個人的には、市内の同じ老舗のパン屋さんでは、駐車場のあったお城横の丸正(閉店)や、縄手通りのスヰトや本町のマルナカにもイートインコーナーがあるのでモーニングがてら入ったことはありますがが、「小松パン」のある緑町は狭い路地で買い辛いので、記憶では恐らく入ったことはありませんでした。
翌週の日曜日が雨予報だったこともあり、「小松パン」の定休日でもある日曜日を避けて前日の土曜日にウォーキングをすることにして、早速家内が電話で牛乳パンを予約しました。

 土曜日当日、我々の牛乳パンの受け取りが午後1時以降の指定とのことから、それに合わせて少し遅めのウォーキングです。四柱、天神と巡ると、家からは大体7㎞位の往復距離でしょうか。しかも“往きはヨイヨイ”で、帰りはお城辺りから我が家までずっと上り坂が続くので、結構歩き応えがあります。
さて、四柱神社から辰巳の庭を抜けて緑町に入り、喫茶山雅の先にあるのが「パンセ小松」という看板の「小松パン」。何人か買い物客がおられ、店内に並んだ総菜パンを物色されていました。中には、牛乳パンを目当てに来られた観光客の方もおられたような・・・。我々も、総菜パンを幾つか選んで、予約した旨を伝え、牛乳パンを2個併せて購入。
 「えっ、2個も買ったの?1個で十分じゃん」
 「だって、予約するのに1個だけじゃ何だか申し訳なくて・・・」
 「この大きさだヨ!他のパンも買うのなら1個でもイイのに・・・」
小松の牛乳パンは他店に比べて大きいのです。値段も一つ310円ですが、大きさも倍近くあるかも・・・。小松のそれを食べるのは家内は初めてなので、ま、足りないよりも食べ応え十分過ぎるくらいでイイのかもしれませんが・・・。
 家に帰って少し遅めのランチです。
実際に袋から出すと・・・、
「デカッ・・・!!」
優にB5版サイズはありそうです。しかも、他店に比べ、ミルククリームの量が半端無い!唖然とする程です。意を決して、家内と二人で半分ずつ・・・。

ただ牛乳パンに使われているのは生クリームでは無くて、昔のクリスマスケーキに良くあったバタークリームなので、さすがにこの量は、若い人たちには良いかもしれませんが、“まったりもったり”し過ぎていて年寄りには些か多過ぎます。
 「これ、もうイイよね・・・」
 「ウン、もうイイ・・・」
お互い途中でモタレてしまい、一度では食べ切ることが出来ませんでした。
ま、モノは試しで、 “秘密のケンミンショー”的な話題になった時に、松本に暮らす人間として“牛乳パン”の話題に付いては行ける良い機会になったのは確かです。
 そういう意味では、もし“秘密のケンミンショー”的に信州らしいと言うなら(諏訪出身の家内も同様でしたので、少なくとも中南信=長野県の中南部は共通の様です)、むしろ「味噌パン」の方が良いかもしれません。
私たちが小学生の頃の運動会や何かの学校行事には、お祝いや記念品として必ず配られたのが「味噌パン」でした。ボソボソした食感の甘い味噌味のパン。イヤ、実に懐かしい!今もあるのかなぁ??・・・記憶では、子供の頃良く食べていたのは、今は無き(閉店した)「丸正」の味噌パンだった様な気がするのですが??・・・

 我々、生粋の“松本っ子”が当たり前と思っていても、県外から来られると、驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。

 昔からスーパーマーケットの練りモノ売り場に普通に並んでいる「スギヨのビタミンちくわ」。昔から「ちくわ」といえば「スギヨのビタミンちくわ」が定番で、全国ブランドとばかり思っていました。
前回の「辛子いなり」同様に、この「ビタミンちくわ」も「秘密のケンミンSHOW」で紹介されたそうですが、視聴しておらず、長野県独特とも思っておらず、スギヨも紀文と同じ“練りモノ”の大手メーカーだとばかり思っていました。

 株式会社スギヨは、能登半島の石川県七尾市に本社を置く水産加工の会社。しかも、「ビタミンちくわ」だけではなく、あの“カニカマ”を初めて開発したメーカーなのだそうです。
スギヨのH/Pからそのまま引用させていただくと、
『「ビタミンちくわ」は、昭和27年(1952年)に誕生しました。ビタミンを豊富に含む油ザメの肝油を配合したアイデア商品として、戦後の栄養不足に悩んでいた消費者から圧倒的な支持を受けました。以来、発売から66年のロングセラー商品として長くご愛顧いただいています。ビタミンちくわの売上の7割を占めるのが長野県。なぜスギヨ本社がある石川県ではなく長野県なのか。その理由は、大正時代にさかのぼります。古来、能登のブリは、越中(現・富山県)のブリ街道を通って、飛騨、信州へ送られていました。その歴史にヒントを得て、杉與商店(現・スギヨ)が大正時代、ちくわの穴に食塩を詰めて長野県へ発送したところ、海のない同県にとって、貴重なタンパク源と食塩がセットになった商品として飛ぶように売れ、「ちくわと言えば杉與(すぎよ)」と長野県に広く定着したのです。』
とのこと。この冬も、鍋物やおでんの時に、この「ビタミンちくわ」には大変お世話になりました。

 今では流通や輸送技術も改善され、長野県でも新鮮な魚が食べられるようになりましたが、そう云えば塩イカも腐らない様に塩漬けされたイカで、これも海無し県の信州向けの商品だったとか。方言もそうですが、県外に出て或いは県外の方から指摘されて初めて気付くことも多くあるものですね。

 我々、生粋の“松本っ子”が当たり前と思っていても、県外から来られると、驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。

 スーパーマーケットの総菜売り場に普通に並んでいる「辛子イナリ」。通常、助六などに入っている稲荷寿司。昔から運動会などのお弁当の定番でした。
袋状に開いた油揚げを甘じょっぱく煮付けて寿司飯を詰めたもので、名古屋の豊川稲荷が発祥とされていますが、単純な酢飯だけではなく、混ぜご飯だったり、ソバだったりと、地方によって色々なバリエーションがあるようです。そうした中で、長野県でも松本地方だけで食べられているのが冒頭の「辛子いなり」なのだとか。
以前「秘密のケンミンSHOW」でも紹介されたそうですが、視聴しておらず、「山賊焼き」がB級グルメ的な町興しで塩尻・松本特有というのは知られていますが、辛子いなりもそうだとは最近まで全く知らず、県外に出た学生時代や海外赴任でも別に(男子が)稲荷寿司の種類を考えて購入したりすることもありませんので、全国的に稲荷寿司の種類の一つとして“普通に”存在しているものだとばかり思っていました。

 調べて見ると、ABN長野朝日放送のローカル番組で調査して放送された内容が多分H/Pで紹介されていたようで、その内容の一部を掲載させていただくと、
『(松本の)筑摩(つかま)神社の林邦匡宮司に話を伺うと、神社では毎年1月14日に“篝火(かがりび)神事”が行われ、その際、油揚げと和からしがセットになった“からしあげ”を売るのだそう。どうやら油揚げとからしの関係性はこの神社が始まりのようです。しかし、なぜ油揚げが“裏返し”なのでしょうか。何か風習のようなものがあったのでしょうか。それを探るべく、近所のお寺に聞き込みに。曹洞宗・全久院の倉科利行(りぎょう)住職いわく、死はとても怖いことだから“逆さまにすること”は、その恐怖から解き放つ意味があるとのこと。法事の席で出されていたものが美味しいとなれば日常でも食べたくなるでしょうと。ありがたいお話を頂戴します。』
由来については、他には「松本地方特有の郷土食」程度の紹介のみで、このABN以上の記載は無かったのですが、昔から松本地方のお葬式後の「精進落とし」や「忌中払い」などの法事の席には、こんにゃく、油揚げ、ひじきの白和え、おざざ(と呼ぶ、冷麦の様な細いうどん)が定番(仕出しが無かった昔の田舎では、自宅に集まった同じ町内会や近しい同姓のご婦人方が総出で調理した)で、この甘じょっぱく煮た油あげに必ず辛子が添えられていますので、「油揚げに辛子」はこの地方では「刺身にワサビ」同様に必ずセットで出される風習の様な気がします。
 スーパーの総菜売り場に並ぶ「辛子いなり」は、その表記だけではなく、通常の稲荷と違い必ず油揚げが裏返しになっています。これは購入時の区別(二種類入っているパックも存在)の目的だけでは無く、間違って子供が食べてしまわぬように区別するためだそうです。私はてっきりザラザラした裏側の方が辛子が塗り易いためかと思っていましたがそうではなく、辛子そのものは内側に塗られて(入れられて)います。試しに2個だけ買って食べてみましたが、惣菜店毎に差はあるにせよ、思った程は辛くはありませんでした。もし、松本に来られる機会がったら旅先での話題作りに是非試してみてください。

 我々、生粋の“松本っ子”が当たり前と思っていても、県外から来られると、驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。

 駅前大通の国府町(「こくぶちょう」と言っても、奈良時代の国府の置かれた場所ではなく、明治になって松本駅開業に伴い新設された町名)交差点の角という、松本の市街でも駅前大通りの一等地にある車場ビルの1階。「コタケ」と描いた看板があります。
ここは、“おばちゃんの原宿”とも形容される東京巣鴨商店街と同様に、オバチャン御用達の洋品店。規模は巣鴨とは比べるべくはなくとも、謂わば“松本の巣鴨”とでも言っても良い(聞いたことはありませんが)店でもある「コタケ洋品店」です。勿論、母も昔からその愛用者の一人だったでしょう。

 女鳥羽川沿いにも「コタケ本店」が、この国府町支店の以前からあって、そちらは男性物も確か扱っていて、子供の頃、学生服などはそこで買ったような気がします。当時何度か連れて行かれた記憶ありますが、こちらの駅前通りの店は全て中高年向けのみの婦人モノ。
松本でも、店じまいをする洋品店やブティック(そう言えば、本町にあるヤマダドレスもここで閉店とか)などもある中で、一等地で何十年と続いてきた不思議な洋品店でした。
 2年ほど前だったか、家内が母の衣料品を買いたいけど、どこへ行けば良いか聞くので、
「そりゃあ、松本だったらコタケしかないでしょ!」
そこで家内を案内して、その時に初めて店内に入店しました。
いやぁ、凄かったですね・・・。中年の“オバチャン”や、お年寄り向けの衣料品が店の外のハンガー含め、店内にも所狭しと並べられていて、数人おられたお客さんは勿論そうした年代層の方々ばかりで、50才以下や、ましてや若い女性のお客さんなどは皆無。店員の方もそうした年齢層の方がお二人。ここまで徹底されると、ある意味壮観でもありました。
80台半ばのご婦人向けにどんなモノが良いか分らぬ奥様に、店員の方が「じゃあ、これとこれは?」と言って全てお任せで選んでいただきました。

 その“オバチャン御用達”の店が、年内一杯で閉店し、1月から女鳥羽川沿いにある本店へ移転するとか。
当時も、ごった返す程ではなくとも、絶えずお客さん(オバチャンたち)が店内にはおられたと思いましたが、先述の通りの駅前の一等地で、ビルは自社物件(駐車場ビル)でしょうから、テナント料収入前提で、貸せた方が経営的には良いのでしょう。今風のレストランでも入るのでしょうか?
オバチャンたちなら、別に駅前でなくとも、女鳥羽川沿いの本店に行けば良いのでしょうから。

 我々(男性)には関係ありませんが、また老舗の(名物)店が一つ消えていきます。