カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
翌朝、次女夫婦は上の子を連れて、近くの幼稚園のプレ入園の面接を受けに朝から出掛けて行きました。今回は未だ本番ではないようですが、都会ではこんな小さな内から否応なく“お受験”の波に孫たちも飲み込まれていくかと思うと、田舎のジジババ的には何だか可哀想な気もしますが、昔長女が外資系コンサルに入社してからでしたが、受験テクニックでは小さな時から何度も揉まれて来た都会の子たちには敵わないと零していたので、果たしてどちらが良いのかは・・・?
無事面接に通ったとのことで、昼頃に娘夫婦と上の孫が帰宅したので、下の孫を預けて今回の目的だった「田中一村展」を見に、家内と上野へ出掛けることにしました。
婿殿や娘は、新横浜から新幹線で行けば早いと勧めてくれましたが、新幹線だと5000円以上掛かりますので、年金生活者の我々としてはそうもいかず、横浜市営地下鉄から東急、東京メトロと乗り継いで1時間ちょっと、700円強で行くことが出来ます。
ただ帰りは、孫たちの松本滞在のお礼にと、私メが好きなので「金沢まいもん寿司」を予約してくれてあり、その時刻までに帰って来ないといけないので、上野での観覧時間は賞味2時間程。そのため少し駆け足での鑑賞となってしまいますが止むを得ません。
と言うのも、この日は火曜日の11月12日で、本当は前日の月曜日の方が時間に余裕があったのですが、美術館や博物館は殆ど月曜日が休館ですので、結局松本へ帰る前日であるこの日になりました。
1908年に栃木に生まれ、幼少期から“神童”と呼ばれた一村は、10代の頃から南画家として活躍。その後せっかく合格した東京美術学校(東京藝大)を僅か2ヶ月で退学し、独学で日本画家として歩み始めた千葉時代。当初の南画家から琳派風へと画風を変化させながら描き続けるも公募展での落選が続き、50歳になってから何故か奄美大島に移り住み、大島紬の染色工として働きながら製作費を貯め、千葉時代とはガラッと画風が変わって、原色と生命力に溢れた南国・奄美の自然を題材にした絵を69歳で死ぬまで描き続けます。
しかし、生前は評価されること無く全くの無名の画家だったのが、死後7年経った1984年にNHKの「日曜美術館」で「黒潮の画譜-異端の画家」と題して特集し紹介されたことで一躍有名となり、それを機に全国巡回展が行われ、その後2001年に一村がその生涯を閉じた奄美島に「田中一村記念美術館」が開館しました。
今回の東京都美術館での展示が「大回顧展」と銘打っているように、一村の作品を所蔵する「田中一村記念美術館」や「千葉市美術館」、そして個人が所蔵する作品など、幼少期から晩年までの250点の作品が展示され、前後期での入れ替えを含めると310点もの作品が図録に記載されていました。
この日は平日ですが、さすがに人気の絵画展なのでシルバー世代を中心にチケット売り場には長い行列が出来ていましたが、平日は入場制限がありません。
因みに日経新聞に拠れば、10月25日に入場者数が10万人、そして我々の観た後の11月20日には20万人を超えた由。
我々は(奥さまに頼んで)日経新聞の購読者向けの特別前売り券をオンライン購入しているので、そのままチケットを読み取ってもらってすぐに入場。
(下は、当日会場で配布されていた「ジュニアガイド」より)
今回の展示は、神童と呼ばれるきっかけとなった7歳で描いたという「菊図」などに始まる、地階の第1章『若き南画家「田中米邨」東京時代』、一階の第2章『千葉時代「一村」誕生』、そして二階に移動して第3章『己の道 奄美へ』という三部構成です。
屏風絵や襖絵の様な大作からスケッチに至る小品や写真、木彫家だった父に習った木魚や根付などの木工彫刻まで、実に100点近い作品や資料がそれぞれの章毎に展示されていて、とても見応えがあります。
公募展に出品しても落選が続き評価されず、やがて中央画壇から離れても描き続けた一村。それは、勿論生活の糧として、“生きるために描いた”部分もあるのでしょうけれど、特に後半の奄美では、むしろ“描くために生きた”とも思える様な強烈な印象を受けました。
確かに奄美に移り住んでからの絵はその南国の原色の自然美に影響されたかの様で、琳派風とも称される如何にも日本画然とした千葉時代とはその画風が大きく変わるのですが、しかしそれまでの千葉時代にも描いている「鶏頭」や頼まれて納得するまで写生を繰り返し書いたという襖絵の「軍鶏」。そこに描かれている真っ赤な鶏頭の花と真っ黒な茎と葉、そして真っ赤な軍鶏の鶏冠(トサカ)と細かく精緻に描かれた黒い羽根の一枚一枚に、何となく奄美時代へ繋がる萌芽を感じたのは私だけでしょうか・・・。
ただ中央画壇でなかなか評価されなかったとはいえ、23歳で描いた「椿図屏風」は華やかで、一輪毎の椿の花も実に見事。全くの素人の個人的印象ですが、山種の重文指定の速水御舟「名樹散椿」」にも決して見劣りしていないと感じましたし、41歳での公募展の入選作、ヤマボウシを描いた「白い花」の対照的な緑の葉と純白の花に見る静謐さも、清涼な空気が画面から漂って来る様に感じられました。
・・・と、一枚一枚じっくり見ていると時間が足りそうもありせん。本当は最前列でじっくり見たいのですが、それでは進みが余りに遅いので、後ろの二列三列目から見ざるを得ません。そこで、小品やスケッチはさっと眺めるだけにして、これはと感じた先述の様な作品は時間を掛けて色んな角度から鑑賞しながら歩を早めました。
そして、遂に第3章の「己の道 奄美へ」。
50歳で奄美大島に渡り、大島紬の染色工として働いて画材費など製作費を溜めては、絵画制作に打ち込む日々。元倉庫だったという粗末な一軒家を借りてそこで絵を描くだけの、まさに文字通り清貧を絵に描いたような、“絵を描くためだけ”の奄美での生活だったと云います。
そんな奄美の田中一村を語るのに相応しい逸話がありますので、それをお借りして本欄での紹介に置き換えさせていただきます。
(以下、NHKで2024年11月に放送されたというドキュメンタリードラマ「ザ・ライフ 無名 田中一村に魅せられた男たち」の記事を参考にさせていただきました)
奄美大島に渡り20年、自宅で夕食の準備中に心不全で田中一村が無名のままでの69歳の生涯を閉じたのは1977年でした。
その翌年の1978年に、鹿児島に拠点を置く南日本新聞の奄美大島の支社へ赴任して来た新聞記者の中野惇夫さん。
その中野さんが取材で訪れた民芸陶器の窯元でホテルの支配人もしていた宮崎鐵太郎さんの店内で、壁に掛かっていた一枚の絵を目にして興味を示したことから、宮崎さんの自宅にある日本画を見ることになったのです。
それが田中一村の代表作「不喰芋と蘇鐵」(クワズイモとソテツ)で、その絵の異様な迫力に圧倒されたのだとか。そして、その絵に魅せられた中野さんは宮崎さんの家に三日三晩通いつめ、彼と交流のあった宮崎さんご夫妻から奄美での田中一村のことを聞き取ったのだそうです。
千葉で個展を開きたいと生前語っていたという一村に、宮崎さんは自分が支配人を務める奄美のホテルで個展を開くことを約束していて、「せめて3回忌に開ければいいのですが・・・」という山崎さんに、中野さんは有志の実行委員会を立ち上げて市民から寄付を募り、そして1979年11月30日、遂に僅か3日間だけで会場も名瀬市中央公民館 というささやかな展覧会を開催し、何と3千人を 越える島の人々が訪れたのだそうです。
中野さんの取材ノートに記されていたという一文。
「泥を食った人間でないと蓮の花の美しさは分からない。現世の泥を食った人間は全て一村と向かい合える。」
そして、南日本新聞に掲載された中野さんの書いた田中一村の特集記事がNHK 鹿児島放送局のディレクターの目にとまり、最初1980年夏に鹿児島枠での15分番組となり、更に九州枠での30分番組も作られ、そして1984年には遂に冒頭のNHK「日曜美術館」で「黒潮の画譜:異端の画家 田中一村」として全国放送で紹介されて大反響を呼び、一躍“田中一村ブーム”となって世の中に広く知られるようになったのです。
第3章の「己の道 奄美へ」の会場の最後に、出口を挟んで左右一対の様に飾られていたのが、今回の展示の中でやはり私も実際に自分の目で見たかった、田中一村の代表作「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」でした。
一村が「閻魔大王えの土産品です。例え百万の値がついても売りません。」と知人への手紙に書いたという二つの代表作「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」(ともに個人蔵)。この2作が並べて飾られるのは久々だそうですので、この機を逃してはならじ、まさに千載一遇のチャンスだったのかもしれません。
それにしても、つくづく感心するのは、良くぞこれだけの数の作品が散り散りに散逸せずに、こうしてまとまって残ったものだ・・・ということです。しかも、奄美の近所のお宅の方を描いた肖像画など、まだまだ新たに作品が発見されているのだとか。
有名画家で高価な作品であればともかく、当時は中央画壇からは忘れられた無名の画家の作品だった筈。島でも「変わった人」として、或る意味、当時の収集家なぞ見向きもしない作品だった筈なのです。
支援者だった川村氏という叔父、パトロンとも言える岡村医師、そして一村のお姉さんと妹さん、更には“変人”一村と交流のあった宮崎夫妻など奄美の人たち。
一村を信じ懸命に支え続けたこれらの人たちのお陰で、今私たちはこうして7歳から晩年に至るまでの田中一村の画業の全てを目の前にすることが出来るのです。
東京美術学校に入学した同期には、東山魁夷や橋本明治といった生前から中央画壇の寵児となった画家もいました。
しかしある時、既に大家となっていた東山魁夷の描いた“浜辺に波が押してくる絵”を一村が評して、「この波の流れは逆さまだ」、「こんなでたらめを画いていいのか」と言ったという逸話が残されているそうです。
もしかすると、東京美術学校入学の同期としての意地や有名画家になった同期への嫉妬もあったのかもしれません。しかし、一村の描いた「アダンの海辺」を見ていると、東山魁夷への厳しい批判も、むしろ一村の指摘の方が正しかったのではないか!?というのも、それだけ「アダンの海辺」に描かれた浜辺の様子は、まるで写真か細密画の様にリアル。ある意味リアル過ぎて、戦慄さえ覚える程なのです。
それは私が一番見たかったこの「アダンの海辺」に限らず、例えば「枇榔樹の森」や「蘇鉄残照図」などの葉の描写に見られる様に、恐らく何時間も何日も枇榔や蘇鉄などの目の前の対象物を観察し続け、納得するまでスケッチを描き続けたのだろうと思えるのです。
そしてそれは絵を描くために生きた奄美だからではなく、千葉時代に軍鶏の世界では全国的に名をしられていた「軍鶏師」が地元にいて、「理想の軍鶏像を襖絵に残す」という注文を一村に出し、一村は毎日軍鶏と対峙して描いたという襖絵が今回の展示の中にあり、その絵を見た軍鶏師の奥さまだったかが「本物の軍鶏がいる」と感嘆したという逸話が作品解説の中で紹介されていましたが、一村の執念にも似たデッサン力は昔からだったのでしょう。
「大回顧展」と称された今回の「田中一村展」。おそらくこれ程までの作品が一堂に会することは、私が生きている間にはもう無いでしょう。
失意か幻滅か、僅か二ヶ月で去った東京藝大の在るこの上の公園で開催された絵画展。その東京美術学校入学から100年経って、今回「魂の絵画」と題された彼の魂が、漸くこの上野の地にまた戻って来たと云えるのかもしれません。
最後にもう一度、“閻魔様への土産”という「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」をじっくりと眺めます。
本来は、奄美の自然の中で眺めるべき絵なのかもしれませんが、こうして自分の目でホンモノに会えた幸せをつくづく感じられた、どうしても一度は見たかった、念願叶った今回の田中一村の大回顧展でした。
翌日、婿殿と次女が気遣ってくれて、私が孫たちとの時間を過ごせるようにと、皆で中山に在る動物園「ズーラシア」へ行こうとのこと。
でも、婿殿は前日の夜勤明けの休日でしたし、我々も昨日は合わせて5時間半も車で移動して来ましたので、特に私メは隣の助手席で寝てらっしゃる方をしり目にずっと運転をしていましたので、些か疲れてもいます。そのため、この日は休養日にして、皆でまったりと家で過ごすことにしました。
そうは言ったものの、午後になって他にすることも無いので、私メは初めて横浜の都筑区にゆっくりと滞在出来たこともあって、近所を散歩してみることにしました。
というのも、最寄り駅のセンター北に行く途中で、「➡大塚・再勝土遺跡公園」という標識を目にしたこともあり、考古好きの自分としては大いに興味をそそられたこともその理由にありました。
婿殿や娘の話だと、竪穴式か復元住居がある公園があって、その先には市立の「歴史博物館」もあるのだとか。家からも歩いて行ける距離とのことでしたので、午後の“腹ごなし”に少し歩いてみることにしました。
その公園は丘陵地帯に在る様で、20段程の階段を上って行くと「大塚・再勝土遺跡公園」と書かれた標識が立っていて、周りを木々に囲まれた広い芝生の広場が現れました。
先ずこちらの大塚遺跡は、高台に作られた弥生時代中期の環濠集落であることが確認され、一方の歳勝土(さいかちど)遺跡では、大塚遺跡の環濠とその周囲に広がる土塁に近接した一帯から、弥生時代から古墳時代にかけての墓の一形態である方形周溝墓群が発見されて、年代的にも同時代であることが確かめられ、大塚遺跡の環濠集落に住んだ人々の墓地であることが明らかになったのだそうです。
そして、この大塚遺跡と歳勝土遺跡の発掘により両遺跡の全体像が明らかになり、居住域と墓域が一体的に把握出来る貴重な遺跡であるとして、残存部分が1986年に国の史跡に指定された結果、現在、歳勝土遺跡と大塚遺跡の東側3分の1の面積にあたる、約33,000平方メートルが「遺跡公園」として保存されているとのこと。
それにしても、高度経済成長を受けての大規模な多摩丘陵のニュータウン開発計画の中で、こうした遺跡が今も広大な遺跡公園としてきちんと維持保存されていることに少なからずの驚きを禁じえませんでした。開発の名のもとに破壊されてしまった貴重な遺跡も全国には少なくない中で、こうしてキチンと残されている「大塚・再勝土遺跡公園」を見るにつけ、横浜市(当時の市長以下開発に携わった行政マンたち)の民度の高さを感じずにはいられませんでした。
残念ながら、この日が月曜日だったせいか、復元された7棟ある竪穴式復元住居と1棟の高床式倉庫などのエリアには施錠がされていて、中に入ることは出来ませんでしたが、歳勝土遺跡側の方形周溝墓群の跡の窪みはそのすぐ側で見ることが出来ました。その後、キチンと手入れがされている竹林の横の坂を下って「横浜市歴史博物館」へ行って、発掘品が展示されているであろう博物館も見学してみることにしました。
通称「歴博」と呼ばれる博物館は結構大きくて立派な建物で、それ程大量の遺物が大塚再勝土遺跡から発掘されたとかと思いましたが、そうではなく、この博物館は、先史時代から近代の横浜開港までの横浜の変遷を展示している博物館なのだそうです。そしてこの時は、横浜の南区に在って、鎌倉の禅宗とも繋がりの深いという「寳林寺 東輝庵展 横浜の禅-近世禅林のルーツ」展が開催されていたのですが、こちらも残念ながら、月曜日は休館・・・。
そこで止む無く、そこから横浜地下鉄のセンター北駅周辺を歩いて散策してから戻りました。
因みに、この「歳勝土」という聞いたことの無い珍しい地名。調べてみると、関東地方南部でカブトムシのことを「さいかち虫」と呼ぶことに由来するのだそうです。おそらくその「さいかち虫」がこの辺りにはたくさんいたのでしょう。そう思わせてくれる、木々がたくさん残された緑豊かな遺跡公園でした。
今回孫たちが娘の実家である松本へ来るにあたって、とても印象的だった出来事がありました。
日本社会では少子化が将来へ向けての大きな問題となっていますが、そのためには如何に出生率を上げるかが、日本政府ばかりではなく、各地方自治体にとっても重要課題になっています。
政府や各自治体が知恵を絞り行う、その一つ一つの政策・施策がその課題解決に繋がって行くのですが、でも決してそれだけで解決できる訳ではありません。そのためには、“子供の産み易さ”、“子育てのし易さ“という、我々の社会全体が持つ環境や“雰囲気”がそれを側面からしっかりと支えて行かなければならないだろうことは言を俟ちません。
前回も書いた様に、日頃ワンコを連れて出掛けたり、また次女の子育て中の電車や買い物での体験談を聞いたり、実際に今回の様に二週間我が家に孫たちが滞在中に出歩いたりすると、とかく“Dog Friendly”や“子育てに優しい”社会について感じたり思うことが少なくありません。
マタニティーの若い女性の方だったり、若いママさんが小さな子を連れたり赤ちゃんを抱いたりして電車で立っていても、知らん顔して座っている人たちが大勢います。
また、実際に今二人の孫の子育て真っ最中の次女もそうだそうですが、ベビーカーに子供たちを乗せて電車で移動したり、スーパーやショッピングモールで買い物をする際、少しでも子供たちが泣いたり騒いだりすると、本当に申し訳なさそうに「スイマセン!」と周囲に謝ったり恐縮している若いお母さんを見掛けます。
そんな時、子育て経験のある中高年のご婦人や初老のおバアさまから、「大丈夫ですよ!」とかと優しい言葉を掛けて貰ったり、泣いている子供をあやして貰ったりすると、本当に涙が出る程嬉しいのだそうです。
ですので、子供たちの遊ぶ声が騒音だというクレームに、まるで“元から切るのではなく、臭いモノには手っ取り早くフタをする”かの如く、その公園を閉鎖してしまったどこかの自治体の様に、総論では少子化対策の重要性を叫びながら、目先の課題には逆の対応をするという様な呆れた施策をするのではなく、こうした各論の小さなことから社会全体が取り組んでいかないと、「少子化対策」や「子育てに優しい社会」実現への課題解決へ向けては、“言うは易し・・・”だけで、“されど・・・”この社会は何も変わらないのではないか・・・と思ってしまうのです。
今回娘は家内と一緒に、孫二人をベビーカーに乗せて横浜線で八王子まで来て、八王子から新宿12時発のあずさ21号に乗り換えて松本まで来ました。
そして、その八王子から特急あずさに乗り換えてから間もなく、3歳の上の子が電車酔いか、何度か吐いてしまったのだそうです。
その時、たまたま通りかかった車内販売の売り子さんの女性スタッフの方が気が付いて、持っておられたおしぼりを何本か下さり、それからどうやら車掌さんに取り次いでいただいたらしく、すぐに若い車掌さんが掛け付けてくださって、グリーン車に併設された「多目的室」を開けて下さって、
「具合が良くなるまで、こちらでお子さんを寝かせて休んでください」
と仰っていただいたのだそうです。
孫が吐いてしまった時に、車内では後ろの席に座っていた中年のおばさまグループからは露骨にイヤな顔をされ、聞こえよがしに「いやぁネェ・・・」という嫌味も聞こえて来ていたそうなので、家内も次女もそうしたJREのスタッフの皆さんの親切な対応に本当に涙が出る程有難かったそうです。
お陰さまで、上の孫はそれこそ松本駅に到着する前、降りる準備をするまで娘が付き添って多目的室で休ませていただいたそうです。
因みに、汚してしまったシートは、その旨連絡が行っていたのでしょう、松本駅到着後清掃係のスタッフがすぐに駆け付けて、上りの折り返し運転のために丁寧に拭き掃除などをされていたそうです。
あずさに乗車されていたスタッフの皆さん、そして松本駅の清掃係の皆さんや取り次いでいただいた駅スタッフの皆さん、JREのスタッフの方々の連携プレーに本当に感謝、感謝でした。
事前に家内から松本到着前にLINEで連絡があり、入場券を買って松本駅のホームに行って、孫たちが乗っている車両が停止する場所まで出迎えに行っていました。
ほぼ定刻であずさが到着し、他の乗客の方々が降りられてから、ベビーカーを降ろしてホームで組み立て、ベビーカーに孫たちを乗せてホーム内のエレベーターで改札口フロアに向かいました。その時、同じあずさに乗車されていたベテラン風の車内販売の女性の方もおられ、「大丈夫でしたか?」と声を掛けてくださり、娘と家内が丁重にお礼を述べていました。
その時は、車内販売の女性スタッフの方とのそうした経緯経過を私は未だ知らなかったのですが、後で娘と家内から聞いて本当に感謝した次第です。
もしかすると、それは日頃のJR東日本の接客訓練やマニュアル通りの対応だったのかもしれませんが、当たり前の様に迅速に対応いただいた、10月23日新宿発あずさ21号のスタッフの皆さん、そして松本駅のスタッフの皆さん、
「本当にありがとうございました!」
【注記】掲載した特急あずさの写真は、6年前E353系の新型あずさがデビューした時のブログ記事に掲載した写真を今回も使用しました。
繰り返しになりますが、婿殿が気を使ってくれて、次女の日頃の育児の骨休めも兼ねて、法事をきっかけに初めて実現した孫たちの二週間に亘った“里帰り”。
通常なら実家へ戻っての出産も、総合病院の方が安心だからと、婿殿が勤務する病院での出産となったので、次女の場合は一度も“里帰り出産”はありませんでした。代わって、二人目の出産以降、育児や家事の手助けで、次女たちのリクエストもあって、毎月二週間くらいずつ家内が横浜に行って次女のサポートをしています。
ですので、これ程長期に松本に孫たちが居るのは初めてのケースでした。
毎月世話をしている家内には当然のことながら適うべくもありませんが、物心がついてから最初横浜で会った時に「一体、コイツは誰だ!?」風に睨んでいた下の孫娘も、さすがにこれだけ一緒にいると、睨むことなく、ニコニコと笑ってくれるようになりました(機嫌の悪い時は何をしてもダメですが)。
視たいTV番組が視られません。TVは上の孫のYouTubeで「おかあさんと一緒」などに占領されます(お陰で、懐かしいじゃじゃまるやぴっころに会えましたが・・・。それにしても、海外から配信されている子供向けのYouTube番組があると知りました。しかも結構人気だとか。スゴイ!・・・)。
新聞も見られません。見ていると、下の孫にメチャクチャにされてしまいます・・・(お陰で二週間分の新聞が山積みになりました)。
毎日の食べるモノも孫たちが優先。食べたいモノが食べられませんし、ゆっくりと時間を掛けて食べる暇もありません(でも、お陰で一人の時に比べ、随分バラエティーに富んだ豊かな食卓になりましたが・・・)
自分の寝室から追い出されます。家内と娘が間に孫たちを挟んで寝るため、ジジは一人別の部屋に寝具を運んで寝るハメになりました(でも、お陰でその時間はプロジェクターを天井に照射してTVerをゆっくり視ることができましたが・・・。でも、一人の時は一緒に寝てくれていたコユキが家内の方に逃げて行きました・・・ムム、薄情モノめ!)
一人で“男の隠れ家”に居ると、すぐに「ちょっとぉ、ジジは何やってるの!?」と家内と娘に怒られて、孫たちのお相手をさせられるので(娘曰く、「精神年齢が合っているので、遊び相手にちょうどイイ」とのこと・・・)、孫たちが昼寝とかしてくれている間にしか自分の時間が取れません。
(でも、お陰で娘たちが小さかった頃以来、30数年振りに下の孫と一緒にお風呂に入ることが出来ました。お風呂では洗っている間、ずっと“ギャン泣き”通しでしたが・・・)
そんな日々も孫たちが横浜に帰り、そして暫くして家内がまた横浜に手伝いに行くと、またコユキと“独居老人”だけの静かな日常が戻りました。
ですので・・・、
また、いつでも好きな時に、視たい番組がTVやTVerで視られます。
また、いつでも思う存分、好きな音楽を聴くことが出来ます。
また、いつでも好きなだけ、“男の隠れ家”に邪魔されず籠ることが出来ます。
また、いつでも好きなだけ、その日の新聞を読むことが出来ます。
また、いつでも自分が好きなモノを、一人ゆっくりと味わいながら食べられます。
でも・・・、
「今度、いつまた松本に孫たちが来てくれるのかなぁ・・・?」
松本平では、奈川地区のそば祭りを皮切りに、松本城での「松本そば祭り」が終わると市中の蕎麦屋でも幟が立てられて、その年の秋の新そばの提供が始まります。
ちょうど次女と孫たちが松本滞在中に新そばの時期を迎えたので、二泊だけの婿殿は間に合いませんでしたが、孫たちを連れて新そばを食べに行くことしました。
義弟の営むそば処「丸周」へも、他のお客さんの迷惑になるので事前に連絡して、昼の営業が終わる2時頃を見計らって挨拶を兼ねて店に伺ったのですが、お互いのスケジュールの都合で週末になってしまったのがいけなかったのか、行った時はまだ満席で、我々の後にも昼閉店間際の観光客の方々が何組か来られる盛況ぶりなのは何よりだったのですが、我々はその後に来られた方々へのサーブが全て終わった一番最後に回してもらいましたが、我々は小っちゃい子連れなので、他のお客さんに迷惑だろうことを気にしながら、他のお客さんが食べ終わって出て行かれるまで皆で小さくなっていました。
我々がいくら親戚であっても、居合わせたお客さんにとってはそれは全く関係ないことですし、まして親戚でもない無関係のお店なら尚更で、店側が子連れ客を敬遠したくなるのは或る意味止むを得ないのかもしれません。
実際に松本市内でも蕎麦屋の中には“堂々”と子供連れお断りという(或る意味“不遜”な)有名店もある様に、小さな子供がいると他のお客さんに露骨にイヤな顔をされることもあるので、別に蕎麦屋に限らないのでしょうが、次女夫婦がいくら蕎麦好きであっても、松本に帰省した際に他の蕎麦屋さんにはなかなか子供連れで食べに行くことは出来ません。
因みに、蕎麦屋ではありませんが、松本市内のイオンモールの近くの日ノ出町に在る「ご飯カフェ 和み」には個室もあって、小さな子供連れのママさんたちに大人気のレストランなのだそうで、次女から松本滞在中に行きたいからと事前に聞いていて、一度事前チェックに行ったのですが、残念ながらちょうど11月中旬まで改装工事でお休みとのことで、次女たちが滞在中は間に合いませんでした。
(ですので、小さな子連れの人たちは、勢い、イオンモールの広くて色んな選択肢のあるフードコートの様な所に集まってしまうのかもしれません)
そして開店同時入店が前提ですが、3組だけは予約が可能なので、その個室利用をお願いすることが出来ます。
しかもこの部屋には木鶏のお子さんたちが昔使われたおもちゃや絵本が置かれていて、蕎麦を待つ間や、大人が食べている時に子供が飽きてしまったら、自由にそのおもちゃで遊ぶことが出来ますし、他は椅子のテーブル席とカウンター席ですが、仕切られた個室は板張りの上にカーペットを敷いての座布団なので、子供たちが座卓の周りを這ったり歩き(走り?)回ったりしても大丈夫。小っちゃい子供連れには本当に有難い個室なのです。しかも、部屋には店主直筆での暖かなメッセージが置かれていました。
おかげ様で、次女もしっかりと新そばを堪能することが出来ました。会計時にそのお礼をすると、
「ウチにも、もう小学生ですが子供が小っちゃかった時がありましたから、親御さんたちの大変さが良く分かりますので、少しでもお役に立てて、それで蕎麦をゆっくっり楽しんで食べて頂けるのなら本望です。」
(写真下は、村名産の長芋の千切りをトッピングする「やまっちそば」)
日頃ワンコを連れて出掛けたり、また次女の子育て中の電車や買い物での体験談を聞いたり、実際に今回の様に二週間我が家に孫たちが滞在中に出歩いたりすると、とかく“Dog Friendly”や“子育てに優しい”社会について感じたり思うことが少なくありません。
子供たちの遊ぶ声が騒音だというクレームに、まるで“元から切るのではなく、臭いモノには手っ取り早くフタをする”かの如く公園を閉鎖してしまったどこかの自治体の様に、少子化対策の重要性を叫びながら目先の課題には逆の対応をするという様な呆れた施策をするのではなく、こうした小さなことから社会全体が取り組んでいかないと、“言うは易し・・・”だけで社会は何も変わらないのではないか・・・と感じた次第です。