カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 今回、私にとっては長かった、初めての次女の家での四日間の“横浜滞在”。前回も引っ越しの手伝いに一週間程は来ていたのですが、アパートと新居で同じ場所ではありませんでしたし、引っ越し作業に追われ“気分的にも”ゆったりとは出来ませんでした。
しかし今回の滞在の目的は、念願だった上野での「田中一村展」を観ることだけでしたので、“気分的には”随分ゆったりと過ごすことが出来ました。
そして、その今回の“横浜滞在”での楽しみだったのが、毎日のお昼の“バーガーキング三昧”だったのです。
前にもご紹介したのですが(第1917話)、その訳は・・・、マックやモスは松本市内だけでも何店舗もあるのに対して、バーガーキングが長野県下には一店舗も無いから・・・ではありません。それは、私にとってのバーガーキングは、昔馴染んだ“懐かしの味”だから・・・なのです。
昔、家族で赴任して7年間暮らしたシンガポールで、家族でテイクアウト(シンガポールではイギリス英語のTake away を使うのが一般的)したのは、専らバーガーキングでした。
シンガポールで住んでいたコンドミニアムの近くには、マックもバーガーキングも、そして赴任中に日本から進出して来て、現地でも行列が出来る程人気になったモスの第一号店もあり、はたまたサブウェイもフレッシュネスバーガーやウェンディーズの店舗もシンガポール島内にはあったのですが、我が家での一番人気はダントツでバーガーキングでした。

 バーガーキングのフランチャイズに依る1993年の日本進出以降、その後の店舗展開には紆余曲折があったようですが、ここ数年で資本形態が変わって、意欲的な商品開発や店舗展開を含め、特に最近になってかなり積極的な拡大戦略を展開しているそうなのです。
そんな中で、前回7月の引っ越し作業で来た時に食べた「グリルド・ビーフバーガー」(790円)は、昔入社して初めての海外出張でのアメリカ西海岸で食べたハンバーガーを思い起こさせてくれた、懐かしくて本格的なハンバーガーでした。
そこで今回の滞在中のランチには、松本では食べられないバーガーキングから毎日持ち帰って食べることにしました。





 残念ながら、前回絶品だった期間限定商品のグリルド・ビーフバーガーは既に販売終了で、この時の期間限定商品は「にんにく・ガーリックバーガー」(690円)でした。
これは、『直火焼きの100%ビーフパティに、ガーリックペースト・フライドガーリック・ガーリックパウダーの3タイプのにんにくをたっぷり使用した「特製ガーリックソース」を合わせたハンバーガー』とのこと。更に、「スパイシーガーリックフレーク」を追加し、辛さと旨さがアップしたという「スパイシーにんにく・ガーリックバーガー」(790円)も期間限定で発売されていました。
そこでどちらも試して食べてみたのですが、個人的にはソースが勝ち過ぎていて、せっかくの直火焼きのパティの味を殺してしまっているという感じがしました。そして「スパイシー・・・」のソースは確かに辛いインドカレーの様な感じで、尚更でした。
因みに、その時の娘のリクエストは、「ビッグベット」(1190円)なる特別商品とのこと。これも期間限定バーガーで、公式H/P曰く「社運をかけて開発した」という商品なのだとか。内容は『ビーフ100%の直火焼きパティ2枚にスライスチェダーチーズ×2、レタスとスライスオニオンを特製オーロラソースでまとめたビッグサイズな一品で、味の決め手となるオーロラソースは、トマトペーストにマスタードや白ワインビネガー、刻んだピクルスをブレンド。濃厚な旨みとコクが特徴で、ビーフパティの美味しさをより引き立てるこだわり仕様』・・・とのこと。英語で”Big Bet”は「大勝負」とでも訳せるでしょうから、“社運をかけて”というのもあながち冗談では無いのでしょうか。
味見をさせてもらった感じは、確かに「ナルホド」と言えなくもないのですが、個人的にはニンニクソース程では無いにしても、オーロラソースでソースの味を効かせるよりも、むしろスモーキーBBQワッパー(450円)の方がシンプルで直火焼きビーフが味わえて好みでした。
また娘のビッグベットもそうですし、ワッパーにも使われている生のスライスオニオンがバーガーキングの特徴で、シャキシャキした食感に辛味や甘味も感じられて実に美味。別に特許でもないでしょうから、マックも入れれば良いのにと思います。
サイドメニューでは、婿殿のリクエストのアメリカン・スモーキーチキン(500円/4個)は、ヒッコリーのチップで燻製にしたというだけあってなかなかの逸品(日頃あまり食べない婿殿ですが、前回の引っ越しの時に私メのリクエストでのバーガーキングで、どうやら“ジャンクフードの禁断の魅力”の一端に触れてしまったようです)。
あとはバーガーキングと云えば・・・で、オニオンリング(350円)は必須。ただ、前回も感じたのですが、シンガポールに比べて揚げ過ぎで、衣が黒っぽくて固くなっている様な気がすのですが、果たして・・・?シンガポールでのそれはもっとシットリしていた様な気がします。
またバーガーキングのフレンチフライ(180円/Sサイズ~)は、マックのそれよりもポテトが太切りなので食べ応えがあります。
一方、バーガーキングのナゲットは粉っぽく感じてしまい、ナゲットはむしろマックの方が肉々しくて、味も含めて美味しい気がしました。
 皆に呆れられながら、ランチで毎日買いに行ったバーガーキング。そこで、一度は朝食でも食べてみました。
選んだのは、シンプルなBBQレタスバーガー(350円)のセットで、このBBQレタスバーガーは朝メニューにしかないメニューなのだそうですが、
BBQソースがかかった直火焼きビーフパティとシャキシャキのレタスが、とてもシンプルでイイ!
もし松本にバーガーキングがあったら、毎日とは言いませんが、週一で食べたい気がします。いつか松本にも出店してくれることを心から期待しています。

 因みに、今回のこのバーガーキングの代金は、次女たちの分も含め、毎回全て私メの自腹・・・でした。
しかし、その分婿殿が(孫たちのニ週間の松本滞在のお礼も兼ねてですが)、
 「じゃあ、代わりにお義父さんの好きなまいもん寿司に食べに行きましょう!」
と、最終日の夜に「金沢まいもん寿司」を予約してくれてあり、お陰さまで思う存分に光り物やノドグロの炙りなど食べさせて貰ったので、まさに“エビで鯛を釣る”結果となってしまい、「誠にオカタジケ」・・・でありました。

【注記】
商品の写真の幾つかは、バーガーキングのH/Pに掲載されたモノを使わせていただきました。

 2016年からJAF(日本自動車連盟)が実施している、『「信号機のない横断歩道」における歩行者優先についての実態調査』の2024年度結果がこの11月に発表されました。
  ・1位  長野県 87.0%
  ・2位  石川県 80.9%
  ・3位  岐阜県 75.2%
      :
      :
      :
  ・45位 福井県 34.7%
  ・46位 北海道 34.1%
  ・47位 富山県 31.6%

 全国平均は毎年上昇傾向にあり、今年は53.0%と初めて50%を超え、少なくとも半分は停まってくれる様になったとのこと。
因みに、長野県は昨年の84.4%から更に+2.6%上昇し、9年連続1位を更新中。その理由を、TVのローカルニュースでは、
『長野県の停止率が高い理由としては、「伝統」となっている、子どものころからの交通安全教育の影響が挙げられます。
歩行者は手を上げて意思表示するのはもちろん、止まってくれた車へのアイコンタクトやお辞儀が奨励されています。』
と報道していました。
でも、1位報道以上に非常に印象的に感じたのは、次のコメントでした。それは、
『しかし、それでも長野県内で13%はまだ一時停止せずに通過しています。
横断歩道での歩行者優先は法律で定められており、県警は今後もプロジェクトを推進して、ドライバーに一時停止を呼びかけたいとしています。』
“クソ”が付くほどマジメと云われる、如何にも“信州人”らしいコメントだなと感じた次第です。
・・・と、今回書きたかったことは、決して地元長野県の“ふるさと自慢”ではないのです。
  (写真は、松本駅アルプス口の近くにある信号機の無い横断歩道です)

 今回、初めて数日間横浜の都筑区にある次女の家に泊めてもらいましたが、その間にとても印象的に感じたことがありました。
それは、次女の家から、ショッピングモールが集結している最寄り駅である横浜市営地下鉄のセンター北駅まで歩いて行くのですが、その間に信号機の無い横断歩道が2~3ヶ所あります。そしてそこの横断歩道では、周辺が住宅街で近くに学校があるということも背景にあるのかもしれませんが、何度歩いても通り掛かった車が必ずと言っていい程横断歩道手前で停まってくれるのです。
停止率が全国トップの長野県でも、松本市内を歩いていても信号機の無い横断歩道で全ての車が停まってくれるわけではありません。最初にご紹介したローカルTVのコメントにもありました様に、「しかし、それでも長野県内で13%は一時停止せずに通過している」のです。
それが、数日間とはいえ、毎日必ず数回はその横断歩道を通ったのですが、車が来るとほぼ100%停まってくれたのです。感動する程驚きました。
もしかすると近くに大学の附属高校があって、センター北駅からの高校生たちの通学路になっているため、朝の通学時には学校の腕章を付けた係員の方が旗を持って安全指導をしていることも、ドライバーを含めここに暮らしている住民の方々の中では習慣として根付いている背景なのかもしれません。
しかしそれにしても、例えば朝の通学時でもない昼間に、この年寄りのジイサンが一人横断歩道に立って来る車が通過するのを待っていると、その来た車も必ず停まってくれたのです。それは、どの時間帯でも、またタクシーの様なプロドライバーだけではなく、且つ老若男女を問わず、「必ず」と言って良い位だったのです。
因みに、神奈川県は2024年度データでは全国19位の58.4%と全国平均の53.0%を僅かに上回っているに過ぎませんし、しかも今年は大きくジャンプアップしていて、昨年度はナント41位の29.1%というワースト10内の数字だったのだそうです。

 次女の家に戻ってそのことを口にすると、7月にここに引っ越して来てからまだ5ヶ月しか経っていませんが、婿殿も娘も、そして毎月手伝いに来ている家内も、
 「そう云われてみれば、殆ど停まってくれるよね・・・」
そして、このセンター北に限らず、以前次女一家はセンター南のアパートに暮らしていて、今夏に引っ越しの手伝いに来た際に、センター南の駅の近くのコンビニへ買い物に行った時も、信号機の無い横断歩道で車が停まってくれてビックリしたことを思い出しました。その時はたまたまだろうと感じたのですが・・・。
勿論、同じ神奈川県内や横浜市内でも地域差はあると思いますし、昨年のワースト10という結果を受けての停止率向上への県や市の指導や活動もあったのかもしれません。
しかし、それにしても数日間で受けた実際の印象は、
 「エーっ、松本よりスゴイじゃん!長野県ももっと頑張らなきゃ!だって、まだ100%じゃないんだから・・・。」
そんな風にさえ感じさせてくれた、横浜市都筑区の“民度の高さ”でした。

 翌朝、次女夫婦は上の子を連れて、近くの幼稚園のプレ入園の面接を受けに朝から出掛けて行きました。今回は未だ本番ではないようですが、都会ではこんな小さな内から否応なく“お受験”の波に孫たちも飲み込まれていくかと思うと、田舎のジジババ的には何だか可哀想な気もしますが、昔長女が外資系コンサルに入社してからでしたが、受験テクニックでは小さな時から何度も揉まれて来た都会の子たちには敵わないと零していたので、果たしてどちらが良いのかは・・・?

 無事面接に通ったとのことで、昼頃に娘夫婦と上の孫が帰宅したので、下の孫を預けて今回の目的だった「田中一村展」を見に、家内と上野へ出掛けることにしました。
婿殿や娘は、新横浜から新幹線で行けば早いと勧めてくれましたが、新幹線だと5000円以上掛かりますので、年金生活者の我々としてはそうもいかず、横浜市営地下鉄から東急、東京メトロと乗り継いで1時間ちょっと、700円強で行くことが出来ます。
ただ帰りは、孫たちの松本滞在のお礼にと、私メが好きなので「金沢まいもん寿司」を予約してくれてあり、その時刻までに帰って来ないといけないので、上野での観覧時間は賞味2時間程。そのため少し駆け足での鑑賞となってしまいますが止むを得ません。
と言うのも、この日は火曜日の11月12日で、本当は前日の月曜日の方が時間に余裕があったのですが、美術館や博物館は殆ど月曜日が休館ですので、結局松本へ帰る前日であるこの日になりました。 

 さて、念願だった、上野の東京都美術館で9月19日から12月1日まで2ヶ月半に亘って開催された「―奄美の光 魂の絵画― 田中一村展」。
1908年に栃木に生まれ、幼少期から“神童”と呼ばれた一村は、10代の頃から南画家として活躍。その後せっかく合格した東京美術学校(東京藝大)を僅か2ヶ月で退学し、独学で日本画家として歩み始めた千葉時代。当初の南画家から琳派風へと画風を変化させながら描き続けるも公募展での落選が続き、50歳になってから何故か奄美大島に移り住み、大島紬の染色工として働きながら製作費を貯め、千葉時代とはガラッと画風が変わって、原色と生命力に溢れた南国・奄美の自然を題材にした絵を69歳で死ぬまで描き続けます。
しかし、生前は評価されること無く全くの無名の画家だったのが、死後7年経った1984年にNHKの「日曜美術館」で「黒潮の画譜-異端の画家」と題して特集し紹介されたことで一躍有名となり、それを機に全国巡回展が行われ、その後2001年に一村がその生涯を閉じた奄美島に「田中一村記念美術館」が開館しました。
今回の東京都美術館での展示が「大回顧展」と銘打っているように、一村の作品を所蔵する「田中一村記念美術館」や「千葉市美術館」、そして個人が所蔵する作品など、幼少期から晩年までの250点の作品が展示され、前後期での入れ替えを含めると310点もの作品が図録に記載されていました。
 この日は平日ですが、さすがに人気の絵画展なのでシルバー世代を中心にチケット売り場には長い行列が出来ていましたが、平日は入場制限がありません。
因みに日経新聞に拠れば、10月25日に入場者数が10万人、そして我々の観た後の11月20日には20万人を超えた由。
我々は(奥さまに頼んで)日経新聞の購読者向けの特別前売り券をオンライン購入しているので、そのままチケットを読み取ってもらってすぐに入場。
     (下は、当日会場で配布されていた「ジュニアガイド」より)
       
今回の展示は、神童と呼ばれるきっかけとなった7歳で描いたという「菊図」などに始まる、地階の第1章『若き南画家「田中米邨」東京時代』、一階の第2章『千葉時代「一村」誕生』、そして二階に移動して第3章『己の道 奄美へ』という三部構成です。
屏風絵や襖絵の様な大作からスケッチに至る小品や写真、木彫家だった父に習った木魚や根付などの木工彫刻まで、実に100点近い作品や資料がそれぞれの章毎に展示されていて、とても見応えがあります。
公募展に出品しても落選が続き評価されず、やがて中央画壇から離れても描き続けた一村。それは、勿論生活の糧として、“生きるために描いた”部分もあるのでしょうけれど、特に後半の奄美では、むしろ“描くために生きた”とも思える様な強烈な印象を受けました。
確かに奄美に移り住んでからの絵はその南国の原色の自然美に影響されたかの様で、琳派風とも称される如何にも日本画然とした千葉時代とはその画風が大きく変わるのですが、しかしそれまでの千葉時代にも描いている「鶏頭」や頼まれて納得するまで写生を繰り返し書いたという襖絵の「軍鶏」。そこに描かれている真っ赤な鶏頭の花と真っ黒な茎と葉、そして真っ赤な軍鶏の鶏冠(トサカ)と細かく精緻に描かれた黒い羽根の一枚一枚に、何となく奄美時代へ繋がる萌芽を感じたのは私だけでしょうか・・・。
ただ中央画壇でなかなか評価されなかったとはいえ、23歳で描いた「椿図屏風」は華やかで、一輪毎の椿の花も実に見事。全くの素人の個人的印象ですが、山種の重文指定の速水御舟「名樹散椿」」にも決して見劣りしていないと感じましたし、41歳での公募展の入選作、ヤマボウシを描いた「白い花」の対照的な緑の葉と純白の花に見る静謐さも、清涼な空気が画面から漂って来る様に感じられました。
・・・と、一枚一枚じっくり見ていると時間が足りそうもありせん。本当は最前列でじっくり見たいのですが、それでは進みが余りに遅いので、後ろの二列三列目から見ざるを得ません。そこで、小品やスケッチはさっと眺めるだけにして、これはと感じた先述の様な作品は時間を掛けて色んな角度から鑑賞しながら歩を早めました。

 そして、遂に第3章の「己の道 奄美へ」。
50歳で奄美大島に渡り、大島紬の染色工として働いて画材費など製作費を溜めては、絵画制作に打ち込む日々。元倉庫だったという粗末な一軒家を借りてそこで絵を描くだけの、まさに文字通り清貧を絵に描いたような、“絵を描くためだけ”の奄美での生活だったと云います。

 そんな奄美の田中一村を語るのに相応しい逸話がありますので、それをお借りして本欄での紹介に置き換えさせていただきます。
(以下、NHKで2024年11月に放送されたというドキュメンタリードラマ「ザ・ライフ 無名 田中一村に魅せられた男たち」の記事を参考にさせていただきました)
奄美大島に渡り20年、自宅で夕食の準備中に心不全で田中一村が無名のままでの69歳の生涯を閉じたのは1977年でした。
その翌年の1978年に、鹿児島に拠点を置く南日本新聞の奄美大島の支社へ赴任して来た新聞記者の中野惇夫さん。
その中野さんが取材で訪れた民芸陶器の窯元でホテルの支配人もしていた宮崎鐵太郎さんの店内で、壁に掛かっていた一枚の絵を目にして興味を示したことから、宮崎さんの自宅にある日本画を見ることになったのです。
それが田中一村の代表作「不喰芋と蘇鐵」(クワズイモとソテツ)で、その絵の異様な迫力に圧倒されたのだとか。そして、その絵に魅せられた中野さんは宮崎さんの家に三日三晩通いつめ、彼と交流のあった宮崎さんご夫妻から奄美での田中一村のことを聞き取ったのだそうです。
千葉で個展を開きたいと生前語っていたという一村に、宮崎さんは自分が支配人を務める奄美のホテルで個展を開くことを約束していて、「せめて3回忌に開ければいいのですが・・・」という山崎さんに、中野さんは有志の実行委員会を立ち上げて市民から寄付を募り、そして1979年11月30日、遂に僅か3日間だけで会場も名瀬市中央公民館 というささやかな展覧会を開催し、何と3千人を 越える島の人々が訪れたのだそうです。
中野さんの取材ノートに記されていたという一文。
 「泥を食った人間でないと蓮の花の美しさは分からない。現世の泥を食った人間は全て一村と向かい合える。」
そして、南日本新聞に掲載された中野さんの書いた田中一村の特集記事がNHK 鹿児島放送局のディレクターの目にとまり、最初1980年夏に鹿児島枠での15分番組となり、更に九州枠での30分番組も作られ、そして1984年には遂に冒頭のNHK「日曜美術館」で「黒潮の画譜:異端の画家 田中一村」として全国放送で紹介されて大反響を呼び、一躍“田中一村ブーム”となって世の中に広く知られるようになったのです。

 第3章の「己の道 奄美へ」の会場の最後に、出口を挟んで左右一対の様に飾られていたのが、今回の展示の中でやはり私も実際に自分の目で見たかった、田中一村の代表作「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」でした。
一村が「閻魔大王えの土産品です。例え百万の値がついても売りません。」と知人への手紙に書いたという二つの代表作「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」(ともに個人蔵)。この2作が並べて飾られるのは久々だそうですので、この機を逃してはならじ、まさに千載一遇のチャンスだったのかもしれません。
それにしても、つくづく感心するのは、良くぞこれだけの数の作品が散り散りに散逸せずに、こうしてまとまって残ったものだ・・・ということです。しかも、奄美の近所のお宅の方を描いた肖像画など、まだまだ新たに作品が発見されているのだとか。
有名画家で高価な作品であればともかく、当時は中央画壇からは忘れられた無名の画家の作品だった筈。島でも「変わった人」として、或る意味、当時の収集家なぞ見向きもしない作品だった筈なのです。
支援者だった川村氏という叔父、パトロンとも言える岡村医師、そして一村のお姉さんと妹さん、更には“変人”一村と交流のあった宮崎夫妻など奄美の人たち。
一村を信じ懸命に支え続けたこれらの人たちのお陰で、今私たちはこうして7歳から晩年に至るまでの田中一村の画業の全てを目の前にすることが出来るのです。
 東京美術学校に入学した同期には、東山魁夷や橋本明治といった生前から中央画壇の寵児となった画家もいました。
しかしある時、既に大家となっていた東山魁夷の描いた“浜辺に波が押してくる絵”を一村が評して、「この波の流れは逆さまだ」、「こんなでたらめを画いていいのか」と言ったという逸話が残されているそうです。
もしかすると、東京美術学校入学の同期としての意地や有名画家になった同期への嫉妬もあったのかもしれません。しかし、一村の描いた「アダンの海辺」を見ていると、東山魁夷への厳しい批判も、むしろ一村の指摘の方が正しかったのではないか!?というのも、それだけ「アダンの海辺」に描かれた浜辺の様子は、まるで写真か細密画の様にリアル。ある意味リアル過ぎて、戦慄さえ覚える程なのです。
それは私が一番見たかったこの「アダンの海辺」に限らず、例えば「枇榔樹の森」や「蘇鉄残照図」などの葉の描写に見られる様に、恐らく何時間も何日も枇榔や蘇鉄などの目の前の対象物を観察し続け、納得するまでスケッチを描き続けたのだろうと思えるのです。
そしてそれは絵を描くために生きた奄美だからではなく、千葉時代に軍鶏の世界では全国的に名をしられていた「軍鶏師」が地元にいて、「理想の軍鶏像を襖絵に残す」という注文を一村に出し、一村は毎日軍鶏と対峙して描いたという襖絵が今回の展示の中にあり、その絵を見た軍鶏師の奥さまだったかが「本物の軍鶏がいる」と感嘆したという逸話が作品解説の中で紹介されていましたが、一村の執念にも似たデッサン力は昔からだったのでしょう。
 「大回顧展」と称された今回の「田中一村展」。おそらくこれ程までの作品が一堂に会することは、私が生きている間にはもう無いでしょう。
失意か幻滅か、僅か二ヶ月で去った東京藝大の在るこの上野公園で開催された絵画展。その東京美術学校入学から100年経って、今回「魂の絵画」と題された彼の魂が、漸くこの上野の地にまた戻って来たと云えるのかもしれません。
最後にもう一度、“閻魔様への土産”という「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」をじっくりと眺めます。
本来は、奄美の自然の中で眺めるべき絵なのかもしれませんが、こうして自分の目でホンモノに会えた幸せをつくづく感じられた、どうしても一度は見たかった、念願叶った今回の田中一村の大回顧展でした。

 翌日、婿殿と次女が気遣ってくれて、私が孫たちとの時間を過ごせるようにと、皆で中山に在る動物園「ズーラシア」へ行こうとのこと。
でも、婿殿は前日の夜勤明けの休日でしたし、我々も昨日は合わせて5時間半も車で移動して来ましたので、特に私メは隣の助手席で寝てらっしゃる方をしり目にずっと運転をしていましたので、些か疲れてもいます。そのため、この日は休養日にして、皆でまったりと家で過ごすことにしました。

 そうは言ったものの、午後になって他にすることも無いので、私メは初めて横浜の都筑区にゆっくりと滞在出来たこともあって、近所を散歩してみることにしました。
というのも、最寄り駅のセンター北に行く途中で、「➡大塚・再勝土遺跡公園」という標識を目にしたこともあり、考古好きの自分としては大いに興味をそそられたこともその理由にありました。
婿殿や娘の話だと、竪穴式か復元住居がある公園があって、その先には市立の「歴史博物館」もあるのだとか。家からも歩いて行ける距離とのことでしたので、午後の“腹ごなし”に少し歩いてみることにしました。

 その公園は丘陵地帯に在る様で、20段程の階段を上って行くと「大塚・再勝土遺跡公園」と書かれた標識が立っていて、周りを木々に囲まれた広い芝生の広場が現れました。

公園にあった説明板に依ると、ここは1972年に港北ニュータウンの大規模開発に伴う事前の発掘調査で、遺跡の存在が明らかとなったのだそうです。
先ずこちらの大塚遺跡は、高台に作られた弥生時代中期の環濠集落であることが確認され、一方の歳勝土(さいかちど)遺跡では、大塚遺跡の環濠とその周囲に広がる土塁に近接した一帯から、弥生時代から古墳時代にかけての墓の一形態である方形周溝墓群が発見されて、年代的にも同時代であることが確かめられ、大塚遺跡の環濠集落に住んだ人々の墓地であることが明らかになったのだそうです。
そして、この大塚遺跡と歳勝土遺跡の発掘により両遺跡の全体像が明らかになり、居住域と墓域が一体的に把握出来る貴重な遺跡であるとして、残存部分が1986年に国の史跡に指定された結果、現在、歳勝土遺跡と大塚遺跡の東側3分の1の面積にあたる、約33,000平方メートルが「遺跡公園」として保存されているとのこと。
それにしても、高度経済成長を受けての大規模な多摩丘陵のニュータウン開発計画の中で、こうした遺跡が今も広大な遺跡公園としてきちんと維持保存されていることに少なからずの驚きを禁じえませんでした。開発の名のもとに破壊されてしまった貴重な遺跡も全国には少なくない中で、こうしてキチンと残されている「大塚・再勝土遺跡公園」を見るにつけ、横浜市(当時の市長以下開発に携わった行政マンたち)の民度の高さを感じずにはいられませんでした。
 残念ながら、この日が月曜日だったせいか、復元された7棟ある竪穴式復元住居と1棟の高床式倉庫などのエリアには施錠がされていて、中に入ることは出来ませんでしたが、歳勝土遺跡側の方形周溝墓群の跡の窪みはそのすぐ側で見ることが出来ました。その後、キチンと手入れがされている竹林の横の坂を下って「横浜市歴史博物館」へ行って、発掘品が展示されているであろう博物館も見学してみることにしました。
通称「歴博」と呼ばれる博物館は結構大きくて立派な建物で、それ程大量の遺物が大塚再勝土遺跡から発掘されたとかと思いましたが、そうではなく、この博物館は、先史時代から近代の横浜開港までの横浜の変遷を展示している博物館なのだそうです。そしてこの時は、横浜の南区に在って、鎌倉の禅宗とも繋がりの深いという「寳林寺 東輝庵展 横浜の禅-近世禅林のルーツ」展が開催されていたのですが、こちらも残念ながら、月曜日は休館・・・。
そこで止む無く、そこから横浜地下鉄のセンター北駅周辺を歩いて散策してから戻りました。
 因みに、この「歳勝土」という聞いたことの無い珍しい地名。調べてみると、関東地方南部でカブトムシのことを「さいかち虫」と呼ぶことに由来するのだそうです。おそらくその「さいかち虫」がこの辺りにはたくさんいたのでしょう。そう思わせてくれる、木々がたくさん残された緑豊かな遺跡公園でした。

 11月10日、コユキを世話していただいた保護犬団体のオフ会として、今年の里親会が今回も埼玉県の狭山市に在るいつものドッグランで開催されました。
そのため、コユキを連れてコユキを世話してくださった西東京のボランティアさんに挨拶を兼ねて、コユキの元気な顔を見せがてら、中央道から圏央道経由で狭山に向かいました。

 今回は、里親会出席が目的ではなく、前回松本に孫たちが二週間滞在した時に置いて行った荷物を車で届けがてら、コユキも一緒に横浜の次女の所に行って、翌日予定されているという上の孫の三歳健診に次女夫婦揃って孫と一緒に出席するため、下の子を家内がその間家で面倒を見ないといけないことから、ついでに私メも一緒に次女の家に3泊させてもらって、その間にどうしても一度は観たくて既に前売り券を購入してある「田中一村大回顧展」に行く予定。
その後、今月の育児サポートで横浜に残る家内を置いて、私とコユキは松本へ車で戻って来る予定です。
 狭山には八王子JCTから圏央道経由で、3時間程で到着しました。そこから、横浜の都筑区には殆ど一般道でしたが2時間半程掛かりました。
無事到着し、顔を出すと「バァバ、ジイジ!」。どうやら、ちゃんと覚えていてくれたようです。今回は3泊ですが、また暫し孫との日々が始まりました。

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