カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 先日の1月15日の小正月。朝用事があって徒歩で外出した帰り道、田川に架かる渚橋を渡って行くと、田川も市街地を流れるためこの辺りは護岸整備がされて狭いスペースしかありませんが、川の西側の河原に三九郎が一本建っていました。
  「へぇ~、まだちゃんと15日の夜に三九郎を燃やす所もあるんだ・・・」
何だか無性に懐かしくて、暫し眺めながら携帯で三九郎を撮影しました。
因みに渚橋の上流すぐ近くには上高地線の田川橋梁があり、2021年の8月豪雨で橋脚が傾いてしまったため、1年半程松本駅と渚駅の間が不通になっていたのも記憶に新しいところです。

 小正月に行われる伝統行事の“どんど焼き”。松本地方だけは、これを「三九郎」と呼んでいます。
最近では、小正月と云うよりも、成人の日が連休を増やすべく1月15日から1月の第二月曜日に移動したことに伴い、準備と片付けの都合上、土曜日に松集めをして、早い地区はその日の夕刻、或いは日曜日に焚いてしまい、その翌日に片付けをするという風に殆どの地区が変わってしまいました。子供の行事である以上、学校が休みの日で子供たちやPTAの保護者たちも参加し易い週末に設定せざるを得ないのは、ある意味止むを得ないことだと思います。
また各家庭でも、昔の様に大きな柳の枝を切って来て、各枝の先に五穀豊穣を願って、繭玉(信州では養蚕が盛んだった頃の名残でしょうか)や縁起物の一富士二鷹三茄の形でしかも食紅などで色付けした団子を、それこそ花(地域によっては団子ではなく餅を飾ることから餅花と呼ぶ所もある様ですが)の様に飾るといった風習も廃れてしまったでしょう。今では、スーパーの食品売り場やホームセンターで打っている小さな柳の枝を買って来て、これまた売られている繭玉の団子を枝先に付けて、どんど焼きに持って行って焼いて食べるというのがせいぜいでしょうか。まだ、そうして子供たちの行事として、そうした風習がせめて残っているだけでもまだ良いのかもしれません。

 全国で行われている“どんど焼き”。何故かこの松本地方だけが「三九郎」と呼んでいますが、その理由は、昔この道祖神のお祭りを司った神主の名前に由来する等、諸説ある様ですが正確なところは不明とのこと。
このブログを始めた頃の2009年にも、自身の子供の頃の三九郎について記載していました(第30話)ので、その部分のみ抜粋します。
『松の内が終わる7日、松飾を子ども達が地区毎に集めに回り、それを心棒の回りにツリーのように積み上げるのが、三九郎(どんど焼き)。竹を心棒に使うところもあるようですが、岡田では赤松。これを、小正月の繭玉を持って集まり、14日の夜燃やしてその火で焼いて食べると健康になるというもの。燃え残った赤松は20cmほどに切って、翌日道祖神のお札と一緒に各家に配りながら、お駄賃をいただてそれで文房具を買って子ども達全員で分配します。各家では、その心棒を使い一年の健康を祈って、ご飯を炊くとかお風呂を沸かすという慣わしでした。当時は、地区の子ども会(小学生)最大のイベントでしたが、今ではどこまで残っているのでしょうか。』
 当時は、夕刻になると子供たちが「♪三九郎、さんくぅろう、爺さん、婆さん、孫連れて、お団子焼きに来ておくれぇ~」と節を付けて歌いながら、地区の集落を練り歩き、これから三九郎を燃やすことを知らせましたが、今では聞かれなくなりました。昔は、家だけでなく、土蔵などにも松を飾りましたので、集落で十分な御松(おまつ)を集めることが出来ましたが、今は御松の代わりに正月飾りだけを玄関に飾る家もあり、松が少なくなったので代わりに竹の葉や、引っ越す前に住んでいた沢村ではヨシをたくさん刈って来て三九郎の芯に使っていました。また岡田地区の様な財産区の無い住宅地では、赤松ではなく竹を心棒に使っていました。私たちの子供の頃は、その心棒となる赤松を地区の財産区の山に取りに行くのと、その年の当番になったお宅の田んぼに心棒を建てるのだけは大人が手伝ってくれましたが、それ以外は全て6年生がリーダーとなって子供たちだけで大小二基の三九郎を作りました。しかし、最近では少子化で子供たちの数が減ったこともあって、前の町会では殆ど大人が中心となって三九郎を作っていました。止むを得ない面もありますが、昔を知る者としてはチョッピリ寂しい気もします。

 小正月の夕刻。松本平では市内を流れる川の河原や、郊外の田んぼに建てられた三九郎に火が着けられ、たくさんの煙があちらこちらから上がっているのが見られました。昔は暗くなってから火を着けましたが、今では暗くなる前に実施され、万が一の防火に備えて地区の消防団も警戒に当たります。
今年は三連休の11日と12日が三九郎のピークで、松本広域消防署へ届けられたその数は、全部合わせると松本平で650箇所とか・・・。

 NYに暮らす長女からLINEで問い合わせがありました。
 「ドヴォルザークの7番とブルックナーの5番、聴きに行こうかと思うんだけど、どっちがおススメ?」
そこで、個人的な印象で二つの交響曲のことを説明し返信したのですが、聴きに行くのはきっとニューヨーク・フィルなのでしょう。
 「イイなぁ~、ニューヨーク・フィルがいつでも聴けるなんて・・・。」
と羨ましくて溜め息が出ました。
もし東京に居れば、別に来日する海外の有名オケに高いチケットを買って行かずとも、安いB席やC席のチケットでも良いので、読響やN響、都響といった国内のメジャーオーケストラを、聴きたい曲目や指揮者、独奏者で選んでいつでも聴きに行くことが出来ます。
しかし都会と地方との“文化格差”は大きく、“楽都”とも云われ田舎の地方都市としては比較的恵まれている松本であっても、なかなか「これは!」という演奏会はそうそうあるものではありません。

・・・という状況の中で聴きたかった演奏会が、12月7日に松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール。地元での通称“音文”)で開催された東京混声合唱団の松本公演でした。
因みに今回の松本公演の指揮者が、当初予定されていた沖澤のどか女史が出産直後ということもあってキャンセルになり、東混のConductor in residenceの水戸博之氏に代わってしまったのが松本市民としてはちょっぴり残念ではありましたが、オメデタ直後では致し方ありません。むしろ出産を控えた中で、良くぞ8月のOMFでSKOを、しかも予定された指揮者の急な降板のためのブラ1&2の代役も含めて振ったと感心するばかりです(どうぞ、お大事に!)
 東京混声合唱団(The Philharmonic Chorus of Tokyo)、略称東混は、1956年に田中信昭氏をはじめとする東京藝術大学声楽科の卒業生20数名によって結成された、日本有数のプロ合唱団です。
今年の9月に96歳で死去された桂冠指揮者の田中信昭氏は、亡くなる直前の8月まで東混の指揮台に立たれ、またこれまで多くのアマチュア合唱団の指導もするなど、我が国の合唱指揮の第一人者であり続けた、まさに合唱界の重鎮でした。
そして、東混といえば既に250曲を超えるという委嘱曲が有名で、その中には合唱曲の定番レパートリーとして、私も高校や大学の学生時代に合唱団で歌った混声合唱組曲で、佐藤眞作曲「蔵王」や「旅」、「大地讃頌」が終曲のカンタータ「土の歌」、そして高田三郎「わたしの願い」や中田喜直「海の構図」など、今でもアマチュア合唱団に歌い継がれる多くの合唱曲もその中に含まれています。
因みに、日本を代表する合唱団として海外公演も何度もしている東混の英語表記がMixed Chorusではなく、ベルリンフィルやNYフィルなどオーケストラに使われるPhilharmonicが用いられているのが少々気になったのですが、Philharmonicには「音楽愛好家」という意味もあるのだそうで、“音楽を専門とする人たちによる合唱団”ということで、結成当時(1956年は私メの産まれた年!)はまだ珍しかったであろうプロの合唱団としての、云わば“設立趣意書”であろうと勝手に理解し納得した次第。
 当日のプログラムは、第一部「オルガンとともに」と題して、最初にパイプオルガンのあるこの音文ホールに相応しくということで、音文のホールオルガニストを務める山田由希子さんがクリスマスに相応しいクロード=ベニーニュ・バルバトルの4つのノエル変奏曲第2番「偉大なる神、汝の慈しみ」という壮麗なオルガン曲で幕開けです。
この日のステージの進行は、東混の事務局長の秋島さんが手慣れた感じで曲目紹介を含め担当されました。因みに、東混の松本への来演を知ったのを切っ掛けに時々見る様になった、YouTubeの「東混日記」。その撮影編集を担当されている村上さんのお姿が見えませんので、残念ながら東混のYouTubeでは今回の公演は取り上げて貰えないかもしれません・・・。
さて、続いて東混の団員がステージに現れての合唱は、クリスマスに相応しい曲をとのことで、そのままオルガン伴奏で、お馴染みの「主よ、人の望みの喜びよ」と「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。そして、ピアノ伴奏も加わって、マスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」から「復活祭の合唱」。
今回の演奏会を「松本公演」と銘打ってある通り、この日の東混は全部で26名とほぼフルメンバーでの来演(コンマスのソプラノ松崎さんは所用か、姿が見えませんでした)。さすがは全員が藝大声楽科を始めとする音大出のメンバーで、オペラのソリストも務められる様なプロの声楽家の皆さんですので、26名の声量はその人数の倍、否三倍以上のアマチュア合唱団のそれに匹敵します。しかし何と言っても一番の魅力は、その声量の豊かさではなく、むしろ最弱音のppp(ピアニッシシモ)です。響きの良いこの音文ホールの天井から、まさにハーモニーが静かに降り注いで来るかの如き美しさ。そして絶対音感をお持ちの筈のプロの方々ですのでむしろ当たり前なのですが、学生時代に合唱をやっていた身からすると、途中からピアノが入って来ても全くピッチがずれていないのに何度も感動してしまいました。

 続いての第二部が「東京混声合唱団が送るシアターピース」として、東混の1973年の委嘱作である柴田南雄の「追分節考」。まさに東混の十八番とも言って良い難曲で、一人一人がプロの声楽家である東混だからこそ歌える曲であり、殆どのアマチュア合唱団では演奏困難です(決して自分たちだけの自己満足ではなく、聴衆にチケット代金を払って聴いて貰える水準として演奏するのは)。
この曲は指揮者がその場で考えて掲げる和声や旋律、歌い手などを示す数字や文字に合わせて即興的に組み合わされていくのですが、男性は馬子としてステージではなく、ホールの中を歩きながら歌いながら歩いて行きます。そしてそこに尺八も馬子と一緒に演奏に加わります。この日もいつも東混の「追分節考」で海外公演含め共演されている尺八演奏家(関一郎氏)だそうです。
その意味では700席という音文はホール全体を響かせられるので、「追分節考」演奏には相応しいホールなのかもしれません。しかも大元の「信濃追分」の舞台である、この信州の地で演奏することに意義があるとのことでした。YouTubeで鑑賞出来る「東混オールスターズ」コンサートでは、ロンドンから音楽監督である“ヤマカズ”こと山田和樹氏がPC経由で指揮をしていましたが、今回初めて生での演奏を聴くことが出来ました。会場の通路を馬子に扮した男性陣が練り歩くかの様に歌うので、恐らく聴衆一人一人の席で聴く歌声の強弱が違うであろうこの曲の、会場で聴く生演奏の面白さと共にプロの合唱団の凄さを改めて実感した次第。
 休憩を挟んで、第三部が「クリスマスから春へ 東京混声合唱団が送る、この時期に聴きたい名曲集」として、讃美歌が二曲、そしてお馴染みのクリスマスソングが二曲、そして「雪のふるまちを」などの愛唱曲に続いて、これも東混の2022年の委嘱作という土田英介「混声合唱、ピアノのための3つの小品」。初演の定演に続いて今回が二度目の演奏ということもあって、客席には作曲者ご本人も来られていました。
また、讃美歌でソロを歌われたのが、山形村生まれで松本蟻ケ崎高校出身というアルトの小林裕美さん。司会の秋島事務局長曰く、彼女にとって子供の頃から慣れ親しんだこの音文での、故郷松本への待ち焦がれた凱旋公演がこの日漸く叶ったとのこと。客席から一際大きな拍手が小林さんのソロに送られました。
安曇野縁の「早春賦」と武満徹編曲で日本古謡の「さくら」。そして、アンコールは武満徹の曲から東混ではお馴染みの「小さな空」と、初めて聴いた谷川俊太郎が作詞したという「MI・YO・TA」という小品。
「小さな空」は東混のYouTubeでも聴くことが出来ますが、アンコールの2曲目で「これが本当に最後です」と言って歌われたこの曲は初めて聴く曲でした。
その「ミヨタ」という“不思議な”題名に惹かれてネットで調べてみました。すると、ミヨタとは信州の軽井沢の隣の御代田町のことだったのです。そこに武満徹氏の山荘があって、そこで氏が何曲も作曲したのだと知りました。
そして更に調べてみると、御代田町のサイトの中に、次の様な記事を見つけました。少し長くなりますが、以下抜粋にて引用させていただきます。
『その曲は武満氏が、作曲家「黛 敏郎」氏のアシスタントをつとめていた時の作品で、悲恋のメロドラマのワンシーンで使用するためのBGMとして書き上げたそうです。
武満氏の生前にこの楽曲が世に出ることはありませんでしたが、彼の葬儀の折、黛氏がその曲について「余りに素晴らしいので映画に使うのが勿体なくて、ひそかに私が使わずにとっておいたものです。私はあらゆる音楽を通じてこれほど哀しい曲を知りません。いうならば哀しみの表現の極致といえるでしょう。」と弔辞で語り、二人しか知らないこのメロディを何度も口ずさみ霊前に捧げました。
そしてのちに、この9小節からなる旋律に谷川俊太郎氏が詞をつけ「MI・YO・TA」を誕生させます。
「MI・YO・TA」は武満氏が20代で作曲をした大人の憂いを感じさせる作品ですが、今、御代田町内で少年少女合唱団が歌い継いでいます。』
知りませんでした。初めて聴いて「イイ曲だなぁ・・・」と感動し、このブログを書くにあたって後日ネットで調べた結果、この日の選曲がわざわざ「松本公演」と掲げたことをふまえたであろう、なかなかの深慮遠謀なるプログラム構成で、「追分節考」や「早春賦」だけではなく、当日のアンコールに選ばれた二曲とも信州に縁があったことを知りました(YouTubeで沼尻竜典介指揮で東混の歌う「MI・YO・TA」を聴くことが出来ます)。

 2曲のアンコールが終わっても鳴り止まない暖かな拍手に、団員の皆さんは手を振りながら袖に下がって行かれました。
 「プロの合唱団て、凄いなぁ・・・。」
そんな感動とアンコールの素敵な曲の余韻とで、とても暖かな気持ちでホールを出ると外は雪で真っ白。松本にしては少し早い雪ですが、クリスマスに因んだこの日の演奏会をまるで歓迎するかの様で、雪さえもこの日は少し暖かく感じました。

 新年 明けましておめでとうございます。
2025年、信州松本より謹んで新春のお慶びを申し上げます。

松本では、穏やかな年の瀬から正月三が日を迎えました。
今年最初に掲載した写真は、年の暮れ12月28日の朝、薄っすらと雪を被った松本の銘水「源智の井戸」の祠横の縁起の良い南天。そして2025年元旦の朝、モルゲンロートに染まった北アルプスの常念岳です。
今年も先ずは、マンションのベランダから鉢伏山に登る初日の出に今年一年の平穏無事を祈りました。      山に囲まれた盆地の松本市の標高は、市役所で592m。599mの高尾山の山頂とほぼ同じ。以前住んでいた高台の沢村からは美ヶ原と鉢伏の間の谷あいである入山辺の辺りから7時20分過ぎに初日の出の太陽が上ったのですが、沢村よりも下って山が近付く渚の辺りからは、少し南側の鉢伏山の右肩の尾根筋から7時35分過ぎに初日の出が顔を出します。同じ松本でも、3㎞離れただけで随分違います。

 新年の2025年は巳年です。
脱皮を繰り返す蛇は、再生復活の象徴ともされます。能登も、ウクライナやガザも、そして日本も、どうかそれぞれの再生復活や復興の道筋がはっきりと見える年になりますように。
(写真は、今年元旦に届いた年賀状の巳年のデザインの中で、“出色”に感じた我がイチオシのレストラン「食蔵バサラ」の年賀状から拝借しましたが、創作料理の店に相応しく、干支の巳に見立てたインゲンと目に使ったのはゴマ?或いはもっと小さな紫蘇の種でしょうか・・・?)
そして、今年一年の皆さまのご多幸を、ここ信州松本より謹んでお祈り申し上げます。コロナ禍が今年こそ収束し、どうか穏やかな“普通の”日常が戻って、依然と変わらない“普通の年”になりますように。

 本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

                      カネヤマ果樹園一同+コユキ&クルミ💛

 今回孫たちが娘の実家である松本へ来るにあたって、とても印象的だった出来事がありました。 

 日本社会では少子化が将来へ向けての大きな問題となっていますが、そのためには如何に出生率を上げるかが、日本政府ばかりではなく、各地方自治体にとっても重要課題になっています。
政府や各自治体が知恵を絞り行う、その一つ一つの政策・施策がその課題解決に繋がって行くのですが、でも決してそれだけで解決できる訳ではありません。そのためには、“子供の産み易さ”、“子育てのし易さ“という、我々の社会全体が持つ環境や“雰囲気”がそれを側面からしっかりと支えて行かなければならないだろうことは言を俟ちません。
前回も書いた様に、日頃ワンコを連れて出掛けたり、また次女の子育て中の電車や買い物での体験談を聞いたり、実際に今回の様に二週間我が家に孫たちが滞在中に出歩いたりすると、とかく“Dog Friendly”や“子育てに優しい”社会について感じたり思うことが少なくありません。

 マタニティーの若い女性の方だったり、若いママさんが小さな子を連れたり赤ちゃんを抱いたりして電車で立っていても、知らん顔して座っている人たちが大勢います。
また、実際に今二人の孫の子育て真っ最中の次女もそうだそうですが、ベビーカーに子供たちを乗せて電車で移動したり、スーパーやショッピングモールで買い物をする際、少しでも子供たちが泣いたり騒いだりすると、本当に申し訳なさそうに「スイマセン!」と周囲に謝ったり恐縮している若いお母さんを見掛けます。
そんな時、子育て経験のある中高年のご婦人や初老のおバアさまから、「大丈夫ですよ!」とかと優しい言葉を掛けて貰ったり、泣いている子供をあやして貰ったりすると、本当に涙が出る程嬉しいのだそうです。
ですので、子供たちの遊ぶ声が騒音だというクレームに、まるで“元から切るのではなく、臭いモノには手っ取り早くフタをする”かの如く、その公園を閉鎖してしまったどこかの自治体の様に、総論では少子化対策の重要性を叫びながら、目先の課題には逆の対応をするという様な呆れた施策をするのではなく、こうした各論の小さなことから社会全体が取り組んでいかないと、「少子化対策」や「子育てに優しい社会」実現への課題解決へ向けては、“言うは易し・・・”だけで、“されど・・・”この社会は何も変わらないのではないか・・・と思ってしまうのです。

 前置きが長くなりました。
今回娘は家内と一緒に、孫二人をベビーカーに乗せて横浜線で八王子まで来て、八王子から新宿12時発のあずさ21号に乗り換えて松本まで来ました。
そして、その八王子から特急あずさに乗り換えてから間もなく、3歳の上の子が電車酔いか、何度か吐いてしまったのだそうです。
その時、たまたま通りかかった車内販売の売り子さんの女性スタッフの方が気が付いて、持っておられたおしぼりを何本か下さり、それからどうやら車掌さんに取り次いでいただいたらしく、すぐに若い車掌さんが掛け付けてくださって、グリーン車に併設された「多目的室」を開けて下さって、
 「具合が良くなるまで、こちらでお子さんを寝かせて休んでください」
と仰っていただいたのだそうです。
 孫が吐いてしまった時に、車内では後ろの席に座っていた中年のおばさまグループからは露骨にイヤな顔をされ、聞こえよがしに「いやぁネェ・・・」という嫌味も聞こえて来ていたそうなので、家内も次女もそうしたJREのスタッフの皆さんの親切な対応に本当に涙が出る程有難かったそうです。
お陰さまで、上の孫はそれこそ松本駅に到着する前、降りる準備をするまで娘が付き添って多目的室で休ませていただいたそうです。
因みに、汚してしまったシートは、その旨連絡が行っていたのでしょう、松本駅到着後清掃係のスタッフがすぐに駆け付けて、上りの折り返し運転のために丁寧に拭き掃除などをされていたそうです。
あずさに乗車されていたスタッフの皆さん、そして松本駅の清掃係の皆さんや取り次いでいただいた駅スタッフの皆さん、JREのスタッフの方々の連携プレーに本当に感謝、感謝でした。
 事前に家内から松本到着前にLINEで連絡があり、入場券を買って松本駅のホームに行って、孫たちが乗っている車両が停止する場所まで出迎えに行っていました。
ほぼ定刻であずさが到着し、他の乗客の方々が降りられてから、ベビーカーを降ろしてホームで組み立て、ベビーカーに孫たちを乗せてホーム内のエレベーターで改札口フロアに向かいました。その時、同じあずさに乗車されていたベテラン風の車内販売の女性の方もおられ、「大丈夫でしたか?」と声を掛けてくださり、娘と家内が丁重にお礼を述べていました。
その時は、車内販売の女性スタッフの方とのそうした経緯経過を私は未だ知らなかったのですが、後で娘と家内から聞いて本当に感謝した次第です。
もしかすると、それは日頃のJR東日本の接客訓練やマニュアル通りの対応だったのかもしれませんが、当たり前の様に迅速に対応いただいた、10月23日新宿発あずさ21号のスタッフの皆さん、そして松本駅のスタッフの皆さん、
 「本当にありがとうございました!」

【注記】掲載した特急あずさの写真は、6年前E353系の新型あずさがデビューした時のブログ記事に掲載した写真を今回も使用しました。

 松本平では、奈川地区のそば祭りを皮切りに、松本城での「松本そば祭り」が終わると市中の蕎麦屋でも幟が立てられて、その年の秋の新そばの提供が始まります。
ちょうど次女と孫たちが松本滞在中に新そばの時期を迎えたので、二泊だけの婿殿は間に合いませんでしたが、孫たちを連れて新そばを食べに行くことしました。

 義弟の営むそば処「丸周」へも、他のお客さんの迷惑になるので事前に連絡して、昼の営業が終わる2時頃を見計らって挨拶を兼ねて店に伺ったのですが、お互いのスケジュールの都合で週末になってしまったのがいけなかったのか、行った時はまだ満席で、我々の後にも昼閉店間際の観光客の方々が何組か来られる盛況ぶりなのは何よりだったのですが、我々はその後に来られた方々へのサーブが全て終わった一番最後に回してもらいましたが、我々は小っちゃい子連れなので、他のお客さんに迷惑だろうことを気にしながら、他のお客さんが食べ終わって出て行かれるまで皆で小さくなっていました。
我々がいくら親戚であっても、居合わせたお客さんにとってはそれは全く関係ないことですし、まして親戚でもない無関係のお店なら尚更で、店側が子連れ客を敬遠したくなるのは或る意味止むを得ないのかもしれません。
実際に松本市内でも蕎麦屋の中には“堂々”と子供連れお断りという(或る意味“不遜”な)有名店もある様に、小さな子供がいると他のお客さんに露骨にイヤな顔をされることもあるので、別に蕎麦屋に限らないのでしょうが、次女夫婦がいくら蕎麦好きであっても、松本に帰省した際に他の蕎麦屋さんにはなかなか子供連れで食べに行くことは出来ません。
因みに、蕎麦屋ではありませんが、松本市内のイオンモールの近くの日ノ出町に在る「ご飯カフェ 和み」には個室もあって、小さな子供連れのママさんたちに大人気のレストランなのだそうで、次女から松本滞在中に行きたいからと事前に聞いていて、一度事前チェックに行ったのですが、残念ながらちょうど11月中旬まで改装工事でお休みとのことで、次女たちが滞在中は間に合いませんでした。
(ですので、小さな子連れの人たちは、勢い、イオンモールの広くて色んな選択肢のあるフードコートの様な所に集まってしまうのかもしれません)

 そんな中で、松本市に隣接する山形村に在るそば処「木鶏」には和室の個室が一部屋あり、カウンター席と4卓あるメインの客席とは閉め切られて遮断されるので、子供連れでも気兼ね無く蕎麦を食べることが出来ます。
そして開店同時入店が前提ですが、3組だけは予約が可能なので、その個室利用をお願いすることが出来ます。
しかもこの部屋には木鶏のお子さんたちが昔使われたおもちゃや絵本が置かれていて、蕎麦を待つ間や、大人が食べている時に子供が飽きてしまったら、自由にそのおもちゃで遊ぶことが出来ますし、他は椅子のテーブル席とカウンター席ですが、仕切られた個室は板張りの上にカーペットを敷いての座布団なので、子供たちが座卓の周りを這ったり歩き(走り?)回ったりしても大丈夫。小っちゃい子供連れには本当に有難い個室なのです。しかも、部屋には店主直筆での暖かなメッセージが置かれていました。
おかげ様で、次女もしっかりと新そばを堪能することが出来ました。会計時にそのお礼をすると、
 「ウチにも、もう小学生ですが子供が小っちゃかった時がありましたから、親御さんたちの大変さが良く分かりますので、少しでもお役に立てて、それで蕎麦をゆっくっり楽しんで食べて頂けるのなら本望です。」
  (写真下は、村名産の長芋の千切りをトッピングする「やまっちそば」)
 日頃ワンコを連れて出掛けたり、また次女の子育て中の電車や買い物での体験談を聞いたり、実際に今回の様に二週間我が家に孫たちが滞在中に出歩いたりすると、とかく“Dog Friendly”や“子育てに優しい”社会について感じたり思うことが少なくありません。
子供たちの遊ぶ声が騒音だというクレームに、まるで“元から切るのではなく、臭いモノには手っ取り早くフタをする”かの如く公園を閉鎖してしまったどこかの自治体の様に、少子化対策の重要性を叫びながら目先の課題には逆の対応をするという様な呆れた施策をするのではなく、こうした小さなことから社会全体が取り組んでいかないと、“言うは易し・・・”だけで社会は何も変わらないのではないか・・・と感じた次第です。

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