カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
翌朝、次女夫婦は上の子を連れて、近くの幼稚園のプレ入園の面接を受けに朝から出掛けて行きました。今回は未だ本番ではないようですが、都会ではこんな小さな内から否応なく“お受験”の波に孫たちも飲み込まれていくかと思うと、田舎のジジババ的には何だか可哀想な気もしますが、昔長女が外資系コンサルに入社してからでしたが、受験テクニックでは小さな時から何度も揉まれて来た都会の子たちには敵わないと零していたので、果たしてどちらが良いのかは・・・?
無事面接に通ったとのことで、昼頃に娘夫婦と上の孫が帰宅したので、下の孫を預けて今回の目的だった「田中一村展」を見に、家内と上野へ出掛けることにしました。
婿殿や娘は、新横浜から新幹線で行けば早いと勧めてくれましたが、新幹線だと5000円以上掛かりますので、年金生活者の我々としてはそうもいかず、横浜市営地下鉄から東急、東京メトロと乗り継いで1時間ちょっと、700円強で行くことが出来ます。
ただ帰りは、孫たちの松本滞在のお礼にと、私メが好きなので「金沢まいもん寿司」を予約してくれてあり、その時刻までに帰って来ないといけないので、上野での観覧時間は賞味2時間程。そのため少し駆け足での鑑賞となってしまいますが止むを得ません。
と言うのも、この日は火曜日の11月12日で、本当は前日の月曜日の方が時間に余裕があったのですが、美術館や博物館は殆ど月曜日が休館ですので、結局松本へ帰る前日であるこの日になりました。
1908年に栃木に生まれ、幼少期から“神童”と呼ばれた一村は、10代の頃から南画家として活躍。その後せっかく合格した東京美術学校(東京藝大)を僅か2ヶ月で退学し、独学で日本画家として歩み始めた千葉時代。当初の南画家から琳派風へと画風を変化させながら描き続けるも公募展での落選が続き、50歳になってから何故か奄美大島に移り住み、大島紬の染色工として働きながら製作費を貯め、千葉時代とはガラッと画風が変わって、原色と生命力に溢れた南国・奄美の自然を題材にした絵を69歳で死ぬまで描き続けます。
しかし、生前は評価されること無く全くの無名の画家だったのが、死後7年経った1984年にNHKの「日曜美術館」で「黒潮の画譜-異端の画家」と題して特集し紹介されたことで一躍有名となり、それを機に全国巡回展が行われ、その後2001年に一村がその生涯を閉じた奄美島に「田中一村記念美術館」が開館しました。
今回の東京都美術館での展示が「大回顧展」と銘打っているように、一村の作品を所蔵する「田中一村記念美術館」や「千葉市美術館」、そして個人が所蔵する作品など、幼少期から晩年までの250点の作品が展示され、前後期での入れ替えを含めると310点もの作品が図録に記載されていました。
この日は平日ですが、さすがに人気の絵画展なのでシルバー世代を中心にチケット売り場には長い行列が出来ていましたが、平日は入場制限がありません。
因みに日経新聞に拠れば、10月25日に入場者数が10万人、そして我々の観た後の11月20日には20万人を超えた由。
我々は(奥さまに頼んで)日経新聞の購読者向けの特別前売り券をオンライン購入しているので、そのままチケットを読み取ってもらってすぐに入場。
(下は、当日会場で配布されていた「ジュニアガイド」より)
今回の展示は、神童と呼ばれるきっかけとなった7歳で描いたという「菊図」などに始まる、地階の第1章『若き南画家「田中米邨」東京時代』、一階の第2章『千葉時代「一村」誕生』、そして二階に移動して第3章『己の道 奄美へ』という三部構成です。
屏風絵や襖絵の様な大作からスケッチに至る小品や写真、木彫家だった父に習った木魚や根付などの木工彫刻まで、実に100点近い作品や資料がそれぞれの章毎に展示されていて、とても見応えがあります。
公募展に出品しても落選が続き評価されず、やがて中央画壇から離れても描き続けた一村。それは、勿論生活の糧として、“生きるために描いた”部分もあるのでしょうけれど、特に後半の奄美では、むしろ“描くために生きた”とも思える様な強烈な印象を受けました。
確かに奄美に移り住んでからの絵はその南国の原色の自然美に影響されたかの様で、琳派風とも称される如何にも日本画然とした千葉時代とはその画風が大きく変わるのですが、しかしそれまでの千葉時代にも描いている「鶏頭」や頼まれて納得するまで写生を繰り返し書いたという襖絵の「軍鶏」。そこに描かれている真っ赤な鶏頭の花と真っ黒な茎と葉、そして真っ赤な軍鶏の鶏冠(トサカ)と細かく精緻に描かれた黒い羽根の一枚一枚に、何となく奄美時代へ繋がる萌芽を感じたのは私だけでしょうか・・・。
ただ中央画壇でなかなか評価されなかったとはいえ、23歳で描いた「椿図屏風」は華やかで、一輪毎の椿の花も実に見事。全くの素人の個人的印象ですが、山種の重文指定の速水御舟「名樹散椿」」にも決して見劣りしていないと感じましたし、41歳での公募展の入選作、ヤマボウシを描いた「白い花」の対照的な緑の葉と純白の花に見る静謐さも、清涼な空気が画面から漂って来る様に感じられました。
・・・と、一枚一枚じっくり見ていると時間が足りそうもありせん。本当は最前列でじっくり見たいのですが、それでは進みが余りに遅いので、後ろの二列三列目から見ざるを得ません。そこで、小品やスケッチはさっと眺めるだけにして、これはと感じた先述の様な作品は時間を掛けて色んな角度から鑑賞しながら歩を早めました。
そして、遂に第3章の「己の道 奄美へ」。
50歳で奄美大島に渡り、大島紬の染色工として働いて画材費など製作費を溜めては、絵画制作に打ち込む日々。元倉庫だったという粗末な一軒家を借りてそこで絵を描くだけの、まさに文字通り清貧を絵に描いたような、“絵を描くためだけ”の奄美での生活だったと云います。
そんな奄美の田中一村を語るのに相応しい逸話がありますので、それをお借りして本欄での紹介に置き換えさせていただきます。
(以下、NHKで2024年11月に放送されたというドキュメンタリードラマ「ザ・ライフ 無名 田中一村に魅せられた男たち」の記事を参考にさせていただきました)
奄美大島に渡り20年、自宅で夕食の準備中に心不全で田中一村が無名のままでの69歳の生涯を閉じたのは1977年でした。
その翌年の1978年に、鹿児島に拠点を置く南日本新聞の奄美大島の支社へ赴任して来た新聞記者の中野惇夫さん。
その中野さんが取材で訪れた民芸陶器の窯元でホテルの支配人もしていた宮崎鐵太郎さんの店内で、壁に掛かっていた一枚の絵を目にして興味を示したことから、宮崎さんの自宅にある日本画を見ることになったのです。
それが田中一村の代表作「不喰芋と蘇鐵」(クワズイモとソテツ)で、その絵の異様な迫力に圧倒されたのだとか。そして、その絵に魅せられた中野さんは宮崎さんの家に三日三晩通いつめ、彼と交流のあった宮崎さんご夫妻から奄美での田中一村のことを聞き取ったのだそうです。
千葉で個展を開きたいと生前語っていたという一村に、宮崎さんは自分が支配人を務める奄美のホテルで個展を開くことを約束していて、「せめて3回忌に開ければいいのですが・・・」という山崎さんに、中野さんは有志の実行委員会を立ち上げて市民から寄付を募り、そして1979年11月30日、遂に僅か3日間だけで会場も名瀬市中央公民館 というささやかな展覧会を開催し、何と3千人を 越える島の人々が訪れたのだそうです。
中野さんの取材ノートに記されていたという一文。
「泥を食った人間でないと蓮の花の美しさは分からない。現世の泥を食った人間は全て一村と向かい合える。」
そして、南日本新聞に掲載された中野さんの書いた田中一村の特集記事がNHK 鹿児島放送局のディレクターの目にとまり、最初1980年夏に鹿児島枠での15分番組となり、更に九州枠での30分番組も作られ、そして1984年には遂に冒頭のNHK「日曜美術館」で「黒潮の画譜:異端の画家 田中一村」として全国放送で紹介されて大反響を呼び、一躍“田中一村ブーム”となって世の中に広く知られるようになったのです。
第3章の「己の道 奄美へ」の会場の最後に、出口を挟んで左右一対の様に飾られていたのが、今回の展示の中でやはり私も実際に自分の目で見たかった、田中一村の代表作「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」でした。
一村が「閻魔大王えの土産品です。例え百万の値がついても売りません。」と知人への手紙に書いたという二つの代表作「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」(ともに個人蔵)。この2作が並べて飾られるのは久々だそうですので、この機を逃してはならじ、まさに千載一遇のチャンスだったのかもしれません。
それにしても、つくづく感心するのは、良くぞこれだけの数の作品が散り散りに散逸せずに、こうしてまとまって残ったものだ・・・ということです。しかも、奄美の近所のお宅の方を描いた肖像画など、まだまだ新たに作品が発見されているのだとか。
有名画家で高価な作品であればともかく、当時は中央画壇からは忘れられた無名の画家の作品だった筈。島でも「変わった人」として、或る意味、当時の収集家なぞ見向きもしない作品だった筈なのです。
支援者だった川村氏という叔父、パトロンとも言える岡村医師、そして一村のお姉さんと妹さん、更には“変人”一村と交流のあった宮崎夫妻など奄美の人たち。
一村を信じ懸命に支え続けたこれらの人たちのお陰で、今私たちはこうして7歳から晩年に至るまでの田中一村の画業の全てを目の前にすることが出来るのです。
東京美術学校に入学した同期には、東山魁夷や橋本明治といった生前から中央画壇の寵児となった画家もいました。
しかしある時、既に大家となっていた東山魁夷の描いた“浜辺に波が押してくる絵”を一村が評して、「この波の流れは逆さまだ」、「こんなでたらめを画いていいのか」と言ったという逸話が残されているそうです。
もしかすると、東京美術学校入学の同期としての意地や有名画家になった同期への嫉妬もあったのかもしれません。しかし、一村の描いた「アダンの海辺」を見ていると、東山魁夷への厳しい批判も、むしろ一村の指摘の方が正しかったのではないか!?というのも、それだけ「アダンの海辺」に描かれた浜辺の様子は、まるで写真か細密画の様にリアル。ある意味リアル過ぎて、戦慄さえ覚える程なのです。
それは私が一番見たかったこの「アダンの海辺」に限らず、例えば「枇榔樹の森」や「蘇鉄残照図」などの葉の描写に見られる様に、恐らく何時間も何日も枇榔や蘇鉄などの目の前の対象物を観察し続け、納得するまでスケッチを描き続けたのだろうと思えるのです。
そしてそれは絵を描くために生きた奄美だからではなく、千葉時代に軍鶏の世界では全国的に名をしられていた「軍鶏師」が地元にいて、「理想の軍鶏像を襖絵に残す」という注文を一村に出し、一村は毎日軍鶏と対峙して描いたという襖絵が今回の展示の中にあり、その絵を見た軍鶏師の奥さまだったかが「本物の軍鶏がいる」と感嘆したという逸話が作品解説の中で紹介されていましたが、一村の執念にも似たデッサン力は昔からだったのでしょう。
「大回顧展」と称された今回の「田中一村展」。おそらくこれ程までの作品が一堂に会することは、私が生きている間にはもう無いでしょう。
失意か幻滅か、僅か二ヶ月で去った東京藝大の在るこの上の公園で開催された絵画展。その東京美術学校入学から100年経って、今回「魂の絵画」と題された彼の魂が、漸くこの上野の地にまた戻って来たと云えるのかもしれません。
最後にもう一度、“閻魔様への土産”という「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」をじっくりと眺めます。
本来は、奄美の自然の中で眺めるべき絵なのかもしれませんが、こうして自分の目でホンモノに会えた幸せをつくづく感じられた、どうしても一度は見たかった、念願叶った今回の田中一村の大回顧展でした。
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