カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
翌日、婿殿と次女が気遣ってくれて、私が孫たちとの時間を過ごせるようにと、皆で中山に在る動物園「ズーラシア」へ行こうとのこと。
でも、婿殿は前日の夜勤明けの休日でしたし、我々も昨日は合わせて5時間半も車で移動して来ましたので、特に私メは隣の助手席で寝てらっしゃる方をしり目にずっと運転をしていましたので、些か疲れてもいます。そのため、この日は休養日にして、皆でまったりと家で過ごすことにしました。
そうは言ったものの、午後になって他にすることも無いので、私メは初めて横浜の都筑区にゆっくりと滞在出来たこともあって、近所を散歩してみることにしました。
というのも、最寄り駅のセンター北に行く途中で、「➡大塚・再勝土遺跡公園」という標識を目にしたこともあり、考古好きの自分としては大いに興味をそそられたこともその理由にありました。
婿殿や娘の話だと、竪穴式か復元住居がある公園があって、その先には市立の「歴史博物館」もあるのだとか。家からも歩いて行ける距離とのことでしたので、午後の“腹ごなし”に少し歩いてみることにしました。
その公園は丘陵地帯に在る様で、20段程の階段を上って行くと「大塚・再勝土遺跡公園」と書かれた標識が立っていて、周りを木々に囲まれた広い芝生の広場が現れました。
先ずこちらの大塚遺跡は、高台に作られた弥生時代中期の環濠集落であることが確認され、一方の歳勝土(さいかちど)遺跡では、大塚遺跡の環濠とその周囲に広がる土塁に近接した一帯から、弥生時代から古墳時代にかけての墓の一形態である方形周溝墓群が発見されて、年代的にも同時代であることが確かめられ、大塚遺跡の環濠集落に住んだ人々の墓地であることが明らかになったのだそうです。
そして、この大塚遺跡と歳勝土遺跡の発掘により両遺跡の全体像が明らかになり、居住域と墓域が一体的に把握出来る貴重な遺跡であるとして、残存部分が1986年に国の史跡に指定された結果、現在、歳勝土遺跡と大塚遺跡の東側3分の1の面積にあたる、約33,000平方メートルが「遺跡公園」として保存されているとのこと。
それにしても、高度経済成長を受けての大規模な多摩丘陵のニュータウン開発計画の中で、こうした遺跡が今も広大な遺跡公園としてきちんと維持保存されていることに少なからずの驚きを禁じえませんでした。開発の名のもとに破壊されてしまった貴重な遺跡も全国には少なくない中で、こうしてキチンと残されている「大塚・再勝土遺跡公園」を見るにつけ、横浜市(当時の市長以下開発に携わった行政マンたち)の民度の高さを感じずにはいられませんでした。
残念ながら、この日が月曜日だったせいか、復元された7棟ある竪穴式復元住居と1棟の高床式倉庫などのエリアには施錠がされていて、中に入ることは出来ませんでしたが、歳勝土遺跡側の方形周溝墓群の跡の窪みはそのすぐ側で見ることが出来ました。その後、キチンと手入れがされている竹林の横の坂を下って「横浜市歴史博物館」へ行って、発掘品が展示されているであろう博物館も見学してみることにしました。
通称「歴博」と呼ばれる博物館は結構大きくて立派な建物で、それ程大量の遺物が大塚再勝土遺跡から発掘されたとかと思いましたが、そうではなく、この博物館は、先史時代から近代の横浜開港までの横浜の変遷を展示している博物館なのだそうです。そしてこの時は、横浜の南区に在って、鎌倉の禅宗とも繋がりの深いという「寳林寺 東輝庵展 横浜の禅-近世禅林のルーツ」展が開催されていたのですが、こちらも残念ながら、月曜日は休館・・・。
そこで止む無く、そこから横浜地下鉄のセンター北駅周辺を歩いて散策してから戻りました。
因みに、この「歳勝土」という聞いたことの無い珍しい地名。調べてみると、関東地方南部でカブトムシのことを「さいかち虫」と呼ぶことに由来するのだそうです。おそらくその「さいかち虫」がこの辺りにはたくさんいたのでしょう。そう思わせてくれる、木々がたくさん残された緑豊かな遺跡公園でした。