カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 今回の5泊6日での南紀白浜の旅。そして、その実質最終日となる5月30日。
この日は、二日目となる熊野古道中辺路の内、大門坂から那智大社を目指して歩きます。
個人的には、中辺路の起点となる滝尻王子から熊野本宮大社まで38㎞の中辺路を二日間共歩くつもりでいたのですが、奥さまは大門坂から歩いて那智大社にお詣りして、熊野三山の内二つを参拝しつつ那智の滝も是非見たいとのこと。
そこで調べてみると、南紀白浜から那智大社までは90㎞ちょっと。片側一車線の紀勢自動車道を走るのですが、途中すさみから串本町を過ぎた辺りまではまだ高速が繋がっておらず、海岸線沿いに串本町などを経由しながら国道42号線を走ります。所要時間はほぼ2時間。結構なロングドライブですが、せっかく来た念願の熊野古道ですので、奥さまの希望に沿って那智大社へ行ってみることにしました。

 二時間の所要時間をふまえ、朝7時にホテルを出発です。南紀白浜空港横のスカイロードから紀勢自動車道に入り、一車線とはいえ交通量は少なく順調にすさみまで。ここで自動車道を降りて、今度は国道42号に入ります。
ここからは、殆どは紀伊半島南岸の海沿いを走る道。国道とは言っても狭い片側一車線のカーブが続く曲りくねった道ですが、“山の民信州人”は海が見えるだけで「わぁーっ!」とテンションが上がるので、然程苦にはなりませんでした。途中、串本では名勝「橋杭岩」を通るので、帰りに立ち寄ることにしました。串本を過ぎて暫くすると那智勝浦ICまで再度自動車道に入り、“鯨の町”太地は経由しません。
終点の那智勝浦ICで降りて、那智川に沿って県道を進むと右手に広い駐車場が在り、ここが優に100台近くは停められそうな無料の大門坂駐車場です。
8:50到着。ほぼ2時間掛かりました。
事前に調べていた奥さまに依れば、那智大社周辺にも那智山観光センター駐車場があるそうですが、台数も少なく有料なのでこちらに停めて歩き、この日のゴールの那智の滝からバスで戻るのがベターとのこと。駐車している台数は、平日のせいかそれ程多くありません。
今回歩く、大門坂を通って熊野那智大社・那智の滝へ至るコースは、田辺から本宮大社を経て速玉大社を回り、熊野三山最後の那智大社へ至る中辺路の最後の部分。約2.5kmと距離的にも歩きやすく、那智勝浦からのバスのアクセスも良いこともあり、熊野古道の入門に最適なコースとして人気のコースなのだとか。しかも大門坂からの古道は、中辺路の中でも特に石畳が美しく残されているのだそうです。
観光バスもこの駐車場で団体を降ろし、ここから皆さん歩く様で、無料の竹の杖がたくさん用意されていました。
コース案内によると、距離は那智の滝往復まで2.7㎞で、歩行時間だけなら約1時間、散策時間を含めて2時間半~3時間とのこと。
我々も駐車場でトイレを済ませ、このコースのマップは事前に用意して来なかったことから観光センターで係員の方からマップをもらい、ちょうど9時に出発。200m程歩いて大門坂入口からこの日の熊野古道ウォーク開始です。

 集落の中を歩いて坂を上り、石の鳥居と朱塗りの振ヶ瀬橋を渡ると、そこから先は那智大社の聖域になります。大門坂茶屋を過ぎて、太くて立派な樹齢800年という夫婦杉があり、時間は9:15、ここからいよいよ石畳の大門坂が始まります。
夫婦杉に始まり、その先は周りを樹齢200~300年という見事な杉並木に囲まれた640mの大門坂の石畳が続きます。途中、一町、二町と書かれた古い石の標識があり、一町は109mとのことで、最後の六町まで。
さすがに古道の中でもビジュアル的に有名で、またバスの便も良く何より短くて手軽なこともあってか、途中カップルやグループや、逆に降りて来られるガイドさんの説明付きの団体など、この道はさすがに観光客が多い。でも長さ六町の640mとはいえ、段差がある267段で高低差100mなので、結構キツイ坂で舐めてはいけません。途中多富気王子跡や昔は通行税を徴収した十一文関跡など色々見ながらゆっくりと登り、六町の標識を過ぎると広場に出て、ここまで20分でした。
那智黒石(この地方で産出される真っ黒な粘板岩の一種とか。それを模したのが飴の“那智黒”)の碁石(因みに白の碁石はハマグリの殻)や硯が並ぶ土産物屋さんが並ぶ通りを歩き、参道の標識に沿って那智大社へ。今度は467段という石段を上り、漸く那智大社へ到着。檜皮葺の古式ゆかしい厳かな本宮大社の社殿に比べ、南紀の太陽の様な明るい赤い朱塗りの社が印象的です。
拝殿に参拝し、続いて隣の青岸渡寺へ。こちらは天台宗のお寺で、熊野御幸された花山法皇により、西国三十三所巡礼の第一番札所として定められたのだとか。大社と一体になっているのは、江戸時代までの神仏混合の証なのでしょう。
それにしても、この地の滝の様な自然崇拝から異郷の地から受け入れた仏まで含め、古来八百万の神を受け入れて来た、「神様仏様」と本来は受容性の高いこの国で、“虎の威”を借りての権威付けのためとはいえ、薩長の明治政府の取った天下の愚策、廃仏毀釈を想います。そして、それに松本藩主が踊らされ、国内でも有数と云われる“嵐”の吹き荒れた信州松本の地のことを・・・。
本堂の背後に、那智の滝と必ず一緒に映っている三重塔が現れます。この青岸渡寺の三重塔は1581年に焼失し、1972年に400年ぶりに再建されたという那智山のシンボル。我々も何とか滝と三重塔を自分たちと一緒に映そうと色々試していると、二人連れのアジア系の女性が英語で「写真撮りますよ!」。
有難く撮っていただき、お礼に彼女等も撮影してあげましたが、二人の会話からタイから来られたらしく、彼女たちは逆に滝からこちらに上がって来られたようで、
 「下に降りて行くと、Ground Levelから滝の写真が撮れますよ!」
と教えてくれました。「えーと、タイ語でアリガトウって何だったっけ?テレマカシはマレー語だし・・・」と直ぐには思い出せず、結局英語で返します(コップンカーだっけ・・・?)。
我々も、三重塔の脇から下って、車道に出るとそこが帰りに乗る「滝の前」バス停。その先に那智大社の別宮、飛瀧神社の一の鳥居があり、最後の133段の階段を下ると、飛瀧神社の御神体でもある那智の滝が目の前に現れます。
この石の階段が今までで一番キツかった気がしました。というのも一段一段の段差がかなりあるので、とにかく急なのです。右側通行で、幸い真ん中と両側にも真鍮の手摺があるので、特にご女性は転ばぬように掴まって歩いた方が良いでしょう。
それにしても、この那智の滝への石段は133段あるのだそうですが、那智の滝も高さ133m。メートル法が日本に導入されたのは明治になってからですが、階段は明治期以前から存在していた筈。これは全くの偶然なのか、何か意味があるのか・・・?
階段を下りきって、二の鳥居の先に那智の滝が現れます。高さ133m、落差日本一。一度は見たかった名瀑で、縄文の昔より自然崇拝をしてきた日本らしく、この滝そのものが飛瀧神社の御神体です。
 当然ですが、帰りは133段の石段を今度は上り、滝前のバス停から大門坂駐車場へバスに乗って11時に戻りました。出発してからちょうど2時間。まだランチには早いので、途中か白浜まで戻ってから食べることにして、早速車で出発します。
 途中那智勝浦の海沿いを走ると蜂の巣の様な岩壁があり(「蜂の巣壁」)、「虫喰い」風化と呼ばれ、風化により蜂の巣状に無数の大小の穴をあけた岩面が広がっていて、ジオパーク内には何ヶ所か見られるのだそうです。
串本町に入り、橋杭岩の道の駅に寄って少し観光してみました。
「橋杭岩」(国の名勝で天然記念物)。地下から上昇してきたマグマが堆積岩の中で冷え固まった、大小40もの流紋岩の岩がその名の通り橋の杭の様に並んだ850mにも及ぶ“岩脈”。手前の海食台に転がる岩は津波石(津波の際に運ばれたもの)で、江戸時代の巨大地震だった宝永地震によるものという調査結果が出されたとのこと。
串本といえば、「♪ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ 巡航船」と歌われる串本節が有名ですが、現在は串本と紀伊大島とは「くしもと大橋」で繋がっていて、巡航船は廃止されている由。その大橋と繋がっている串本の半島の先端が“台風銀座”の潮岬ですが、今回は橋杭岩だけでそこには寄らずに直帰しました。
帰路も2時間程で白浜まで戻り、この日の夕食は寿司懐石を予約してあることから、ホテルシーモアのカフェでパンとコーヒーで遅めの昼食です。
 余談ですが、後になって知ったのは、奇しくも我々が南紀白浜に向けて旅立った5月26日。この日の日経日曜版の“The STYLE”は、全くの偶然ながら、“Incredible KUMANO KODO”とキャッチが付けられての、まさに「熊野古道」の特集であり、その記事で中心的に取り上げられていたのが我々も歩いた中辺路だったのです。そして、その特集記事の表紙の写真は、この日歩いた大門坂の杉並木の石畳でした。
松本に帰って来てから旅行中の溜まった新聞を見ながら、何かまるで神様に導かれた様なその偶然に驚いたのでした。
 前回計画しながら断念した熊野古道。
今回、見知らぬ方から背中を押される形で、車で行った南紀白浜。念願の熊野古道の中辺路の中から、ホンの一部ですが、発心門からの熊野本宮と大門坂からの那智大社を歩き、熊野三山の内、本宮大社と那智大社の二社にお詣りすることが出来ました。
今回一部とはいえ熊野古道を歩きながら感じたのは、欧米を中心とした外国人の多さでした。しかも一日目の発心門からの道は、むしろ日本人より遥かに多いくらいでした。
その背景には、日経新聞記事の記載に依れば、本宮町の学校でALTだったカナダ人男性の力が大きいと云います。その赴任中に熊野古道を踏破し、地域の文化歴史をちゃんと理解した上で、この地の魅力を英語で発信し続けたのだそうです。そうした地道な努力が今に繋がっているのだそうです。

 “道”として二番目の世界遺産登録となった熊野古道。一番目はスペインの「サンティアゴ巡礼道」だとか。
熊野古道はそこと交流協定を結んで共通の巡礼手帳を作り、スタンプを押しながら両方を踏破すると、「達成者」としての証明書がもらえ、この3月末時点で6千人が登録されているのだとか。
もしかすると、本宮へ下る「ちょこっと展望台」で道を教えてくれたスペイン人のカップルも、その両方を踏破すべく熊野古道を歩いていたのかもしれない・・・。戻ってから、日経の熊野古道の記事を読みながら、そんな感慨にふけっていました。
熊野出身の作家、中上健次は生前、『近代から取り残され一番遅れた熊野は、本当は一等強いメッセージを世界に向かって発信できる場所だ。』と語っていたそうです。
何かを求め、否、邪心を払いただ無心で大社を目指し古の道を歩いている多くの人々を見ると、もしかすると氏は生前既に今の熊野古道の在り様を看破していたのかもしれません。
古代の“巡礼の道”は、今や人種の違いや洋の東西を問わず、現代人にとっての“浄化の道”なのか・・・。

 南紀白浜は確かに遠かったけれど、車で来られることが分かりました。そして、そんな思いを感じながら半ば諦めていた熊野古道を歩いて、熊野三山の内の二社に参拝することも出来ましたし、想像していた以上に感動した熊野古道でした。今回歩いたのはそのホンの一部。でも、そのホンの一部でも十二分にその素晴らしさに触れることが出来たのです。そして、まだ新宮の速玉大社も残っていますし、中辺路では牛馬童子にも是非会いたい・・・。
またいつか、必ず残りの熊野古道を歩きに訪れたいと思います。
二日間で僅か10㎞。“歩いた”とも言えない様な初めての熊野古道でしたが、何となくその魅力の理由を知ることが出来た、そんな幸せな熊野古道の旅でした。

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