カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
古いターンテーブルが復活し、最近久し振りに聴いた懐かしいLPレコード。
その中でも、特にチューリップのある意味第1期とも言える、デビューしてから5年間の全シングルレ12枚の曲を全て収めた2枚組のLP「チューリップ・ガーデン」(1977年)を、その後も暫く毎日の様に聴いていました。
また、このアルバムを聴いていて、初期のシングル曲の中で異色な感じがするのは「娘が嫁ぐ朝」です。これは76年発売のシングルなのですが、どう考えても財津さんはそんな年齢ではないので、実体験ではない・・・筈。
仮に心象風景だとしても、どうしてこんな詩が書けたのだろうか?。自分も娘二人が既に結婚した経験を持った今だからこそ、それも年老いた今になってから再び聞いたからこそ、余計自身の琴線に響いているのかもしれませんが・・・。でも、結果論であり自分勝手な見方かもしれませんが、チューリップの初期77年までのシングル12枚全24曲の中に収められたこの曲だけが何だか異色であり、その後のソロシンガーや作曲家として楽曲を提供する“メロディーメーカー財津和夫”の萌芽が見て取れると云ったら穿ち過ぎでしょうか。
チューリップは、“昭和歌謡”にも繋がるような日本的でシンプルなメロディアスな歌と、ビートルズ風なアコースティックなサウンド展開が本当に衝撃的だったバンドでした。
今改めて聴いてみると、メロディーメーカーとしての財津さんの曲も勿論なのですが、リードギターとドラムスが当時衝撃を受ける程新鮮に感じられたチューリップサウンドの核だった様に思います。しかし、エレキギターを掻き鳴らすガチャガチャした感じのGSとも違う、音楽的にも洗練されたオシャレなイントロなどの編曲や親しみやすいメロディーラインなどは、それまでの日本のポップス界には無かった感じがしたように思います。
彼等が「すべて君たちのせいさ」と心酔し、その結果として“日本のリバプール”と形容する程だった街、福岡が生んだバンド、チューリップ。
しかし、なぜ福岡にはチューリップだけでなく、他にも数多くのバンドが生まれたのか。
京都や大阪が東京に対抗して、中央に対抗する“反権力的”な音楽を生み出したことは或る意味必然でもあり、“関西フォーク”全盛期の後だったとはいえ、まだそんな雰囲気が残っていた京都で多感な学生時代を実際に過ごした人間としては、些かの感傷も交えてふり返えさせて貰えるのならば、それは十二分に理解出来るのですが、片やどうして福岡にそうしたマグマの様なエネルギー溜まりがあったのか・・・。
それにしても、当時の福岡は本当に凄かったんですね・・・。
大規模な工事が進む、森ビルの「麻布台ヒルズ」。
6月末にメインの森JPタワーの竣工式があり、300mのあべのハルカスを抜いて330mと、暫くは日本一高い高層ビルが完成とのこと(注)。ただ330m丁度にしたのは、何となくすぐ近くの東京タワーに敬意を表して、わざと3m遠慮したのかもしれないなどと勘ぐってしまいますが・・・。
工事は、その後低層階の植栽や敷地内の外装や道路、そしてビル内の内装工事が行われていて、以前来た時と比べると、当時の建設作業員の人たちから現在は内装工事や植栽担当の皆さんへと、朝夕の現場への出勤風景も何となく変わってきました。
森ビルの最近のヒルズに共通する高層ビルの外観はともかく、麻布台ヒルズではむしろ低層階の “未来都市”の様なユニークなデザインが非常に目を引きます。これは、ロンドンオリンピックの聖火台を手掛けた英国のトーマス・ヘザウィック氏の設計なのだとか。
麻布台ヒルズは「立体緑園都市(ヴァーティカル・ガーデンシティ)」をコンセプトとして、街の中心に約6,000㎡の広さを誇る緑豊かな中央広場を配置。その周りに麻布台ヒルズ森JPタワー、2棟の麻布台ヒルズレジデンスといった3棟の超高層タワーを建設。メインタワーの横には約700人の生徒が在籍するという、都心最大規模のインターナショナルスクール「ブリティッシュ・スクール・イン東京」も併設されます。
このブリティッシュスクールの新キャンパスもヘザウィック氏のデザインで、地上7階、地下1階(屋上庭園を含む)からなる建物に、室内プールや体育館、校庭などが設けられているのだそうです
因みに、我が家の娘たちも、長女が2歳、次女は3ヶ月でシンガポールに赴任。当時は日本式の幼稚園が無かったので、ブリティッシュスクールと同じ、英国式のインターナショナルスクールであるドーバーコートに入学し(外国人は公立の幼稚園や学校には入れません)、本人たちも凄く馴染んだため、そのまま帰国するまで日本人学校には通わず(そうした日本人の子供たちのために、在外日本人学校では教科書の無償供与と夏休みなどの長期休暇中の短期通学をしてくれていて子供たちも利用させてもらいました)、そのまま(日本人学校を超える費用は全て自腹でしたが)帰国まで在学していました(娘たちの友達は殆どが外国人で、例えばホームパーティーなどで発音が聞き取りにくいインド人の友達の英語は、子供たちに通訳してもらいました)。そのため、彼女たちは(高校時代の米国へのホームステイも手伝い)英語はネイティブ並みで、その後も社会人になって仕事にも役立ちましたので、彼女たちにとっては結果として良かったかもしれません。
こうした英国式のインターナショナルスクールは世界各国に在って、この「ブリティッシュ・スクール・イン東京」もその一つです。でも、都会では珍しくはないのかもしれませんが、広い校庭も無い(いくらビルの中にプールも体育館や校庭が確保されていても)、緑も無いビルの学校ってどうなのだろうって思ってしまいます(日本ではセレブの子弟が通うのでしょうから、高級マンションが立ち並ぶ都会のど真ん中の方が通学には良いのかもしれませんが・・・)。
また、この麻布台には飯倉交差点からの外苑東通り沿いにロシア大使館があり、街宣車等が来ると飯倉交差点と飯倉片町交差点などが封鎖され、その間通行止めとなって交通が遮断されるため、麻布台ヒルズを囲む国道1号線の桜田通りと外苑東通りの交通の便の悪さが指摘されており、そのため、麻布台ヒルズの建設に合わせ、ヒルズの中を横切って桜田通り(国道1号)と麻布台の外苑東通りの間を結ぶ道路「桜麻通り」(さくらあさどおり)などが作られ、飯倉交差点を通らずに両者の間が結ばれました。その道路が秋の麻布台ヒルズオープンに先行して7月24日に開通し、車が通行出来るようになりました。
その開通日の7月24日。午前11時に開通とのことで、信州からの“お上りさん”たちは、物見遊山宜しく早速行ってみました。
高層ビルやタワーマンションなどは森ビル系のヒルズが他にもあるので別に珍しくはないのかもしれませんが、この麻布台ヒルズの特徴は何と言ってもヘザウィック氏のデザインに依る、「 立体緑園都市(ヴァーティカル・ガーデンシティ)」という約6,000㎡の広さを誇る緑豊かな中央広場でしょう。その曲線が特徴的な低層のABCDの四つのプラザが配置され、数々の木々などの緑に覆われた、まさにガーデンシティーと呼ぶに相応しいエリアが誕生しつつあります。田舎からすれば、イメージ的にはちょっとした街を創る、或いは都市を創ると言った方が良いのかもしれません。
また、この麻布台ヒルズに限らず、“自然豊かな”信州から来て思うのは、むしろ東京の方が街中に緑が多いこと。特に芝公園や日比谷公園など広大な緑のスペースの多いエリアを歩いていると、東京そのものが“公園都市”といった趣で羨ましくなる程です。以前橋下徹氏が何かのTV番組で、「嘗て大阪市長時代に、東京に緑が多いことがとても羨ましくて、大阪も緑を増やすべく街を改造したかったが、反対が多くて実現出来なかった。」と発言されていましたが、東京は本当にそう思います。一番顕著に感じたのは、信州に戻ってからですが、芝公園や日比谷公園の方が遥かにセミの鳴き声が多かったこと。以前住んでいた郊外の沢村と違い、マンションが市街地の中にあるせいかもしれませんが、家の周辺では殆どセミの鳴き声が聞こえない。東京の方が(勿論23区内全部では無いにしても)信州よりも自然が豊かだと錯覚してしまう程でした。
開通した新しい道路を歩きながら、麻布台ヒルズの工事現場の中を飯倉片町の方へ坂を上って行きながら、街路樹を始め植えられたたくさんの木々や草花がやがて緑豊かに生い茂って行くだろう景色を想像しながら、麻布台周辺もやがてそう感じる様になるのかもしれない・・・と、そんな思いにとらわれていました。それにしても凄い!
しかし、昔は“第30何番ビル”といった「ただの四角の黒っぽいビルを幾つも所有する不動産会社」という地味なイメージでしかなかった森ビルが、今ではアークヒルズを始め幾つものヒルズを作り上げているのですが、一体いつからこんなに変わったのだろう・・・?
【注記】
三菱地所が東京駅前に建設する390m のTOKYOトーチタワーが、2027年に完成予定とのこと。
7月11日。久しぶりに新宿末広亭に7月中席の高座を聴きに行ってきました。
田舎の松本でも、地方落語としては歴史のある「松本落語会」の月例会や若手二ツ目が演じる四半期毎の「まつぶん寄席」などで生落語を聴くことは出来るのですが、昔ながらの定席の寄席で聴くのは、作秋の初寄席だった末広亭に続きこれで漸く二度目になります。
今回聴きに行くにあたり、上野や浅草など四つある東京の定席で、各7月中席の昼席での落語の出演者をそれぞれ見比べながら選んだのが、今回も同じこの新宿末広亭の中席(毎月11日~20日までの10日間)でした。
「さっき、昼のニュースで今日の東京は36度の猛暑なので、不要不急の外出は避ける様にって云ってましたが・・・。お客さん方、寄席なんかに来るのは、どう考えてもその不要不急の最たるモノ・・・じゃないですかネ!?」とは、まさに仰る通りなのですが、しかし昔ながらの寄席の雰囲気を今に伝える定席唯一の古い木造二階建ての末広亭ですが、館内は涼むにちょうど良い程に冷房がしっかり効いていて、お陰で快適に寄席を楽しむことが出来ました。
先に、末広通りで軽く昼食を済ませてから新宿末広亭へ。通常木戸銭3千円のところ、有難いことに65歳以上はシルバー割引でシニア料金2700円です。昼席は12時開始の16時過ぎの終演ですが、この日もそうでしたが夜席まで入れ替え無しで聴くことが出来る日の方が多いので、休憩を挟んで夜席終了の20時半まで“たったの”2700円で涼みながら過ごせるなら、こんなコスパの良いエンタメは他には無いのではないでしょうか!?(と思うのですが、平日のためか、それとも猛暑のせいか、この日の昼席は結構空きがありました・・・)
前回初めての寄席もこの末広亭で、せっかくの初寄席でしたので高座だけではなく寄席の雰囲気も楽しみたいと上手の畳の桟敷席で聴いたのですが、いくら座布団で胡坐をかいて座っていても、さすがに5時間近くも畳に座っているのは些か苦痛でしたので、今回はゆったりと椅子席で聴くことにしました。
昼の中席は12時開始ですが、既に開口一番の前座話も含め三組目が終わるところで、桂文雀師匠の出番から聴くことが出来ました。この日が初日となる中席昼の部の演目の中で、この日高座に掛けられた落語のネタのみを記します(クラシックコンサートで終演後にロビーに掲示されるアンコール曲の様に、寄席では掛けられたネタが後で発表されることはありませんので、もし違っていたらスイマセン)。
桂文雀 「真田小僧」
柳家三三 「お血脈」
桃月庵白酒 「笊屋(米揚げ笊)」
金原亭生駒 「替わり目」
柳家喬之助 「お花半七(宮戸川の前半)」
柳家権太楼 「無精床(不精床)」
(仲入り)
桃花楼桃花 「子ほめ」
春風亭正朝 「狸の札」
柳家小ゑん *創作落語(天文愛好家らしく七夕の織姫 彦星のネタ)
金原亭馬生 「尿瓶」
定席の落語では、主任を務めると最後のトリとして本寸法ネタを30分演ずることが出来ますが、それ以外だと当日の流れにより多少前後するものの通常15分が持ち時間となりますので、大ネタを掛けるのは無理。従って、本当に好きな噺家をじっくりと聞きたいのであれば、定席での主任を務める席か、或いは独演会に行く必要があるのですが、なかなかそれだけのために上京するのは難しい(イヤ本当に好きな人は、それだけのためであっても通われるのでしょうが・・・)。
(「新宿末広亭」紹介記事からお借りした高座写真)
今回の新宿末広亭の中席の昼の部に出演される噺家の中では、生で初めて聞く芸達者の柳家三三師匠、前回生で初めて聞いた人気の桃月庵白酒師匠、仲入り前に好きな噺家の一人である柳家権太楼師匠、そして人気の女性噺家桃花楼桃花師匠、ベテランの春風亭正朝師匠、そしてトリが十一代目金原亭馬生師匠という顔ぶれです。
この中席を選んだ決め手は、三三師匠、白酒師匠という脂の乗った実力派真打と、私の大好きな噺家である柳家さん喬師匠と一緒に松本落語へも来演されて生で何度か聴いている重鎮権太楼師匠が登場されるから。
柳家三三師匠は、私メが落語に嵌まるきっかけとなった噺家修行を描いたコミック、尾瀬あきら作「どうらく息子」の落語監修を担当された噺家さんです。人間国宝小三治師匠の弟子で、若手だった当時から正統派の古典落語を演ずる芸達者として評判も高く、ずっと生で聴きたいと思っていた噺家の一人でした。今回初めて生で聴いたのですが、しかも「お血脈」という善光寺も登場する初めて聴く泥棒ネタでしたが、イヤさすがに上手い。短めの枕から客席を沸かせます。そして、前回初めて聴いた桃月庵白酒師匠。今回のネタはこれまた初めて聴いた「笊屋(米揚げ笊)」。この噺家さんは声が大きくて張りがあって、それだけでも聴き応えがしますし実際に上手い。
仲入り前に柳家権太楼師匠の「無精床」。師匠が出て来られるだけで雰囲気があり、 “顔芸”ではありませんが、さすがは“爆笑王”と異名を取る権太楼師匠。顔を見ているだけで何だか笑ってしまいます。いつか同門のさん喬師匠と権太楼師匠お二人のそれぞれの滑稽噺と人情噺を二席ずつ、「二人会」で一度聴いてみたいものです。例えば、さん喬師匠の「棒鱈」と「文七元結」、笑い過ぎて、片やホロリとして、どっちも涙が出て来ます。
因みに、上野鈴本の8月下席での夜の部は、二人会ではありませんが、仲入り後に両師匠が交代でトリを務めるということで、そのネタも例えばお盆前の12日が権太楼師匠が「ちりとてちん」、さん喬師匠がトリで「文七元結」。そして18日も同じ順番で「短命」と「芝浜」と、10日間下席で掛けるネタが事前に特別に発表されています。イイなぁ!東京に居ればそうした機会に恵まれるのになぁ・・・(と、寄席に限りませんが、この時ばかりは地方との文化格差を否が応でも認識させられてしまいます)。
さて、仲入り後の中では春風亭正朝師匠。
春風亭一門の柳朝門下で、一朝、小朝と兄弟弟子の正朝師匠ですが、なかなか味がありました。こういう落語、好きだなぁ。また、落語ではありませんが、ロケット団の漫才も毒舌でのスキャンダルなどの風刺ネタを盛り込んで、大いに客席を沸かせていたことを付け加えておきます。
この日のトリは初めて聴くネタ、「尿瓶(しびん)」という古典落語でした。11代目の馬生師匠を聴くのは初めてでしたが、師匠となる10代目金原亭馬生はご存じ志ん生の長男であり、弟が当代随一の売れっ子だった志ん朝。ともすれば地味と言われた10代目の馬生師匠を、弟子であったこの11代目がその大名跡を継いだ理由が素人ながら何となく分かった気がしました。
端正というか、地味ながらも品があって、例えが相応しいかどうかは分かりませんが、昔の“江戸っ子”に通ずるかの様にピンと一本“筋”が通っている感じがします。確かに同じ江戸っ子でも、それは志ん朝の気風の良さでは無く、師匠10代目馬生の粋に通ず。いずれにせよ、馬生という歴史ある名跡を継ぐに相応しい、江戸落語の継承者といった雰囲気でした。
落語は「“見立て”の芸」と云われますが、この「尿瓶」というネタの中で、江戸詰めを終えて肥後に帰る武士が、江戸の土産にと道具屋で直前に古い花器と勘違いして買い求めてしまった尿瓶を、家に帰り試しに花器としてそこに菊の花を生ける時に、花鋏に見立てた扇子を少し開いてから勢い良く閉じて、パチンと音を立ててハサミで菊の茎を切る場面を演じたのですが、それが実に粋でナルホド!という所作・・・お見事でした。
「うーん、さすが!・・・伊達に11代目じゃないなぁ・・・。」
と(誠に失礼ながら・・・)、予定通り16時15分に閉幕。
前座さんたちの「ありがとうございましたぁー!」の声と共に追い出し太鼓が鳴り、幕が下りた後も暫し客席で独り唸っておりました。
7月2日、松本ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール。略称“音文”)でのマチネで、服部百音のヴァイオリン・リサイタルを聴きに行ってきました。
服部百音嬢は曾祖父が服部良一、祖父が服部克久、お父上は服部隆之、お母様もヴァイオリニストという音楽一家に生まれ、幼少期から数々の国外コンクールでの受賞歴がある天才ヴァイオリニスト。しかし、お父上は彼女の留学費用を工面するために、今の様に売れっ子作曲家となる前はお給料の前借をして彼女を支えたと云います。決して、服部家という音楽一家の七光りだけで恵まれて育ったお嬢さまではありません。
彼女の演奏は、「題名のない音楽会」などで聴いたこともありましたが、本格的に聴いたのはYouTubeでパーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響公演のチャイコンのソリストとして登場したコンサートを聴いたのが初めてでしょうか。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、LPやCDの“音だけ”ならこれまでも名演と云われた色んな演奏を何度も聴いていますが、映像と音で聴いたチャイコンでこれ程までに圧倒された演奏は初めてでした。
彼女の凄まじい迄の気迫と超絶技巧。それがいくら天才少女とはいえ、演奏当時うら若きまだ21歳という、見るからにか弱い女性の細腕から奏でられているというのが、聴いていて(視ていて)信じられない程に圧倒されたのです。
その彼女が松本の音文でリサイタルをすると知り、ハーモニーメイトの先行販売でチケットを購入した次第。
当日のプログラムは、前半に、C. A. de ベリオ「バレエの情景 Op. 100」、C. フランク「ヴァイオリン・ソナタ イ長調 FWV 8」、休憩を挟んで、後半に、M. de ファリャ「歌劇『はかなき人生』第2幕 より スペイン舞曲 第1番」、I. ストラヴィンスキー「バレエ音楽『妖精の口づけ』より ディヴェルティメント」、そして最後にM. ラヴェル「ツィガーヌ」という構成。
どちらかというと、管弦楽中心で、器楽演奏もピアノは小菅優さんやメジューエワさんが好きなので何度か生で聴いていますが、ヴァイオリンは音文でのヒラリー・ハーンとイザベル・ファウストのリサイタルを聴いたことがあるだけ。しかもその時はバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティ―タ」がメインだったので、どちらもピアノ伴奏無し。今回は、これまでも何度も頼んでいるという三又瑛子女史がピアノ伴奏で、フランクの有名なソナタ(と言っても聞いたことがあるのは第4楽章のみですが)と管弦楽作品でもあるラヴェル「ツィガーヌ」以外は全く馴染みのない曲ばかり。
パンフレットに記載された彼女からのメッセージに由ると、
『今回の演目は、レッスンに来てくれた子供たちの年齢的に、“分かり易くて”楽しめるものとも考えましたが・・・(中略)そんな配慮は愚の骨頂と思い、正直に私の思う素晴らしく美しく魅力ある曲たちを演奏することに決めました。』
とのこと。とはいえ、前日、オーディションで選抜された子供たちとのマスタークラスが行われていて、この日の会場にも才能教育の本拠地らしく小さな子供たちがたくさん来ていましたので、そうしたこともこの日のプログラム選曲の背景に(潜在的には)あったのかもしれません。
2021年のN響との定期での共演は、海外からのソリスト入国が難しかったコロナ禍だった3年前で、彼女の21歳の時。24歳になった今も、桐朋学園のディプロマ在学中という謂わばまだ大学院に在学している“女子大生”です。超絶技巧はそのままに、折れそうなくらい華奢な姿からは想像出来ない様な時に激しさもあり、また彼女のメイク故か、妖艶さすら漂わせての演奏は、例えばフランクのヴァイオリンソナタの有名なあの甘く美しいメロディーの第4楽章の旋律など、特別に貸与されているという名器グァルネリもあってか、とりわけ高音の透明感が実に印象的でした。
アンコールは、管弦楽作品としても有名なプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」から行進曲。
カーテンコールも簡単に、この時ばかりは若い女性らしく最後舞台袖から顔だけ出して、お茶目にバイバイをしながら手を振られてこの日のコンサートを終えられました。
6月末に一泊で上京する用事があり、その時に娘たちと行った東京六本木のディナーと二子玉ランチなどのグルメ情報です。
先ずは、行った日の夕食。
長女が「久しぶりに焼き鳥を食べよう!」とのこと。奥さまはあまり気が進まないご様子でしたが、「もし二人が食べたいなら・・・」と渋々同意。
娘が本来我々を連れて行きたかった焼き鳥店は、六本木ヒルズに在る“超”有名店らしく、当日での(しかもこの日は日曜日でしたので)予約はさすがに無理・・・。その後彼女が何軒かに電話をして、漸く別の一軒に予約が出来た由。
夕刻、三人で歩いて向かったのは、麻布台から外苑東通りを進み、六本木の閻魔坂の路地に入った雑居ビルの2階。「えっ、こんな処・・・?」と思う様な場所でした。
というのも、周囲は「閻魔坂」というナントモおどろおどろしい名前の地名と、しかも“谷底”の様な窪地に広い墓地まであるのです。後で調べて分かったのは、昔崇厳寺というお寺があって、そのお寺さんの閻魔堂に因んだ坂の名前らしく、崇厳寺自体は戦災で焼失し復興されなかったため、共同墓地として拡張して現在の「六本木墓地」となっているのだとか。そうした歴史的な地名なのかもしれませんが、“都会”を代表する六本木の歓楽街のど真ん中で、一歩路地に入って薄暗い夕刻にいきなり閻魔坂という名前と広大な墓地に遭遇すると、驚くことは必定・・・。
しかも、周囲はゴミが散らかっていて(コロナ禍明けの最近の日本は、何だか昔に比べて路上にゴミが落ちていて、昔の“ゴミも落ちていない清潔な日本”と外国人観光客が賛美したイメージとはかけ離れてしまった様に感じるのは私だけでしょうか・・・?)、決してお世辞にも好印象な場所ではありません(実際は、入る路地を間違えて墓地沿いにぐるっと一周した感じ。本来なら大通りから入ってすぐ・・・でした)。
ドアを開けて入った中は、シックな黒い色調で内装をまとめた「とりや幸」という焼き鳥店。しかも、2年連続ミシュランガイド掲載という店の六本木店で、その本店の銀座店は昭和30年創業でミシュランのビグブルマンに2年連続選出されているのだとか。
娘が名前を言って通されたのは、カウンター席では無く、壁とカーテンで仕切られて、落ち着いた印象の半個室のテーブル席でした。
メニューから娘が選んでくれたのは、この店のウリである比内地鶏などの焼鳥の基本コースの「おまかせ串コース」3900円(税込)。
他にも比内地鶏の焼き鳥と京鴨の炙り焼きなど、前菜や食事、甘味までついた6500円のコースなどもある様ですが、そこまで食べられるか分からないし、しかも奥さまが寿司の光り物同様に、鳥皮など食べられないモノもあるかもしれないので、もし最後に足りなければ〆など一品で後で注文すればイイからと、基本コースで先ずはトライすることにしました。家内は焼き鳥でのレバーは昔から大好きなのですが、些か“食わず嫌い”が多いのです。光り物なんてホント美味しいのに・・・・。娘たちも、長女は私似で、次女は光り物とかは苦手なので母親似なのかもしれません(でも、焼き鳥は好きで、学生時代に住んでいた神楽坂の美味しい焼き鳥屋さんに連れて行ってくれましたっけ・・・)。
さて、「とりや幸」の「おまかせ串コース」は、先ずは艶野菜5種盛りに始まり、比内地鶏・大山鶏・はかた地鶏などの焼鳥串5本と特製つくねが1本に、旬の野菜串1本という構成。
最初に「艶野菜5種盛り」は“温野菜”と聞き間違えたのですが、生野菜で、特にトウモロコシのゴールドラッシュ(糖度が高く近年人気の品種で、生でも食べられます)が、甘くて美味でした。
焼き鳥は、比内地鶏のムネから。皮がパリパリ、それにしてもキレイに切れるものだと感心します。一緒に、小鉢に入った鬼おろしがウズラの黄身を添えられて、箸休めとのこと。
続いて、鳥取県の銘柄地鶏である大山どりのササミ。ワサビを載せて。しっとり。この二串は塩ですが、絶妙の塩梅。
ここで、名古屋コーチンの厚焼き玉子。うーん、肴としては日本酒が飲みたくなり、10種類くらいあったメニューの中から黒龍と悩みましたが、超辛口という紹介に惹かれ、山形の吟醸ばくれんをチョイスしました。
そして三本目の串が比内鶏のモモをこちらも塩で。弾力がありながらジューシーです。
そして食指を変えて、野菜串がこの日はヤングコーン。「甘いので、是非ヒゲまで食べてください!」とのこと。
次はレバーですが、タレでの豚ではなく鳥レバでした。臭みは全く無いのですが、小ぶりなのが残念。
店で人気というつくねを名古屋コーチンの黄身を絡めていただきます。
最後の串が、はかた地鶏という手羽先。これも塩ですが、皮がパリパリで旨味があり、今回の串の中では大ぶりで食べ応えがあったせいか、一番美味しく感じました。というのも、焼き具合から塩加減から、どれも唸る程でさすがに美味しかったのですが、また基本コースでも十分にお腹は満足しましたが、全体に串が小ぶりだったのが“食べ応え”という意味では、庶民としてはチト残念でした。
でも、奥さま曰く「今までの焼き鳥の概念が変わった!」とのこと。昔、諏訪や松本でも焼き鳥を食べに行ったことがありましたが、そりゃ失礼しました。確かに、連れて行ったのはこういう高級なイメージな焼き鳥屋さんではありませんでしたし、中でも、昔行った諏訪の某焼き鳥屋さんで、焼き鳥のササミがまるで鳥わさの様に生っぽくて気持ちが悪くて食べられないと言ってましたっけ(その店は評判店だったのですが、その後移転拡張した結果目が付き届かなくなったのか、やがて食中毒を発生させてしまいました)。
「焼き鳥って美味しいんだね!」と家内が気に入ったのは良しとしても、確かに唸らざるを得ない程に美味しかったのも事実ですが、個人的には焼き鳥はやっぱり庶民の味、庶民の味方であるべきだと思います。まぁ、確かに昔時の総理がアメリカの大統領を焼き鳥屋さんでもてなしたこともありましたし、仮に希望されても松本には東京の様なこんな高級店はありませんが・・・。でも、東京だって焼き鳥のイメージは個人的には新橋のガード下でイイ様な気がしますが・・・。
翌日、出勤する長女が「一緒に朝食を食べてから行くから」と、我々と一緒に家を出て連れて行ってくれたのが、飯倉片町の外苑東通りに面した「VERVE COFFEE ROASTERS (ヴァーヴ・コーヒー・ロースターズ六本木)」という、カリフォルニア発のオシャレなカフェ。
娘がMBA時代にパロ・アルトで良く行っていた店の日本店なのだとか(「新宿NEWoMAN」にも支店があるそうですが、この六本木店の様な解放感は無く、もっと手狭な店舗だそうです)。
一面ガラス張りの店内は、二階まで吹き抜けで、外にはテラス席もあり、店内を含めワンコOKなのだとか。ヴィーガン向けのフードメニューもちゃんとあるそうです。そして六本木という場所柄か、半分以上は外国人のお客さんで、ノートPCで仕事をしながらの個人客もたくさん。娘もリモートの時は時々利用するそうですが、それにしてもオシャレ(その後、リモートワークで長居をするお客さんが多いためか、原則90分以内でそれ以上になる場合は追加のドリンクオーダーをお願いしますとなった由)。田舎では、というよりも、東京でもここ六本木だからこそ、すっと街並みに馴染んでいる気がします。“お上りさん”は、ただただ溜め息でした。
ここでコーヒー(他の倍以上もある大きなカップで780円)と朝食用に娘がオーダーしてくれたのが、PRESS SAND(各1200円)という名前のオリジナルホットサンド。二人はパストラミアボガド、私メにレッドホットツナ。独特なサクサクのホットサンドに、オニオンスライスとケッパーが挟まれていて、旨!また食べたい!・・・と、値段を気にしなければですが、でも本当に美味しかったです(写真はそれぞれ半分を食べた後の2種類のホットサンドです)。でも大きなカップのコーヒーは、独自ブレンドや厳選されたお薦めのシングルオリジンなど幾つかあって、それらを試飲して自分の好みを選ぶことも出来るので、大いにリーズナブルだと思いました。更にアメリカ発ということもあって、煎茶と玄米茶の日本茶も用意されています。
長女と別れた後、午後までの空いた時間は二子玉川の高島屋まで買い物に来たいという次女と待ち合わせ。娘がゆっくりと買い物が出来る様にと、その買い物中は孫をジジババが面倒を見てあげることになっているとのこと。と言ってもその買い物も子供服で、子供服ブランドのミキハウスやファミリアのある本館5階の子供服売り場での買い物とか。その間、我々ジジババが本館屋上の屋上庭園で孫娘をあやしながら時間を潰します。しかしママッ子の孫は暫くすると飽きてしまい母親を探してぐずり出すので、止む無く子供服売り場の母親の元へ。一目見れば安心するので、今度はフロア内をベビーカーでジジと探検・・・です。
そうこうして娘も気に入った孫用の子供服が買えた様です。思えば、羽田空港時代の外資系航空会社のグランドスタッフのリーダーとして働いていた頃は、仕事のストレス発散は専ら自分の洋服買いだったのが、今は子供服しか買わないというのですから変われば変わるもの。“されど母は強し”なのでしょうか・・・。
私は二子玉に来たのは初めてですが、若い世帯に人気という土地柄なのか、小さい子供連れのファミリー層も確かに多くて、そのためもあってか、高島屋内の各フロアはじめレストランや屋上庭園などは子供連れやベビーカーにも優しいバリアフリー設計で、これなら確かにヤングファミリー層が多く集まるだろうと感心した次第です。日本全国、どこもこんな子育てに優しい街になればイイのになぁ・・・。少子化対策が大事と言うのなら、ただ現金をばら撒くだけではなく、こうした環境整備も少子化への大事な対策の一つだと思うのですが・・・。
買い物も終わりランチへ。ベビーカーでの入店OKで且つお子様メニューもあるレストランの中から娘が候補に挙げたのが、南館6階のシーフードとグリルの洋食レストランとエスニックの中から同じく南館8階の「ニャー・ヴェトナム・プルミエ」というベトナム料理レストラン。
両方見たのですが、洋食は順番待ちでしたので、すぐに座れそうだったベトナムレストランにしました。
この店は、恵比寿、銀座など10店舗ほど展開しているチェーンだそうで、エビスの本店は、元々ベトナム大使館からの要請で始めたとのこと。二子玉のこの支店の店内は細長いフロアでそれ程広くはありませんが、平日の昼時故か行列こそ無かったものの、二子玉マダムの方々で結構混んでいました。
スタッフの方が、ベビーカーを畳んで隅っこに置きやすいテーブル席を選んでくれて、ベビーチェアを持って来てくれました。調理する人もですが、フロアスタッフも皆ベトナムの人たちで、スタッフは勿論日本語が堪能。女性スタッフはアオザイを着ています。
ランチメニューの中から、フォーと生春巻きのセットで、私が蒸し鶏のフォーのセット(1680円)、家内と娘は海老風味の辛口フォーのセット(1850円)をチョイス。
ラーメンでも鶏チャーシューは余り好きではないので、蒸し鶏自体は好みではありませんが、フォーの鶏スープは結構見た目より濃い目の味付けで、出汁が効いていて美味でした。片や、エビ風味は濃厚で辛味もあって美味しいのですが、個人的にはちょっと甘味が強く感じました。でも女性陣は美味しいとのこと。フォーには、薬味でカットレモン、パクチーのみじん切り、生の赤唐辛子の輪切りが付いているので、途中“味変”で、レモン果汁を絞ったり、赤唐辛子を入れてみました(パクチーは然程好きではないので、シンガポールで嵌まり、味噌汁にも刻んで入れていた程の“パクチー好き”の奥さまに差し上げました)。レモンを絞ると爽やかになり、生の唐辛子はただ辛いだけではなく、フルーツの様な甘みもあり、これぞ東南アジアの味!シンガポールを思い出しました。
勿論、松本にもベトナム料理はありますが、久し振りに食べた本場の味でした。シンガポールでは、住んでいたコンドミニアムの近くにあった「サイゴン」というベトナム料理店に、家族連れでも、或いは自腹で接待しないといけない時にも本当に良く食べに行きました。因みに接待の食事では、中華やフレンチなどのコース料理は高いので会社負担の時は良いのですが、自腹の時はお腹いっぱい食べても安い北インド料理かベトナム料理が定番でした。(タイ料理「コカ」のスチームボートも家族は大好きで良く行きましたが、ちょっと接待には不向き)。
ベトナム料理「サイゴン」で必ずオーダーしていたのは、生春巻き、サトウキビ巻いて焼いた魚のすり身、中華ではどのジャンルでも必ず火を通すので食べられない生野菜のサラダ、そして油をあまり使わないので日本のお吸い物の様なスープ。ベトナム料理は、中華では出て来ない生野菜(今ではお寿司などの日本食も人気の様ですが、彼等は加熱しないモノは本来食べません)も食べられますし、主菜の肉や魚料理も含め味付けが中華の様に油をたくさん使わずに味付けも濃くないので、どこか和食にも通ずるような繊細さもあって、アジアの料理の中で一番日本人向きだと思います。
ベトナム料理「ニャー・ヴェトナム・プルミエ」。
日本で今まで食べたフォーの中で一番美味しく感じました。しかも、ベトナム人のスタッフの人たちの応対も丁寧で気持ちがイイ。
小さい子連れのママさんたちに優しい二子玉の印象と相俟って、久々に「イイなァ、都会は・・・」。
(アジサイの写真は玉川高島屋の本館と南館との連絡通路に飾られていた、最近の新品種らしき色鮮やかなハイドランジア「ディープパープル」と「マジカルノブレス」です。花までどこか“都会的”?)
YouTubeに「落語協会」がアップした、寄席での鑑賞マナーを呼び掛ける動画。これ、ハッキリ言って傑作です!
定席の一つである池袋演芸場で撮影したのだそうですが、客席で寄席を鑑賞する際の迷惑行為の数々、例えば席に座るのは口演最中ではなく高座と高座の間だとか、口演中の無駄な私語、携帯電話、写真撮影や録音、口演中に食べる煎餅などの雑音、過度な飲酒(酔っ払い)などを実演して、そうした迷惑行為の禁止や防止を呼び掛ける内容で、客席に座っているお客さんが全員協会所属の噺家の皆さんなのです。しかも、その面子が凄い!
先ず案内人として前振りが古今亭菊之丞(色気もある芸達者で先輩噺家のモノマネは絶品!)、そして迷惑行為の解説するのが柳家喬太郎(この人の「時そば」の枕での“コロッケそば”、そして“歌う”「井戸の茶わん」・・・天才です!でも古典もちゃんと師匠のさん喬譲り)、迷惑を被る隣席の客が春風亭一之輔(ご存知!でも笑点なんか出なくてもイイのになぁ・・・)、そして“主演”の迷惑客を演ずるのが落語協会の大看板柳家さん喬という各師匠の方々で、人気実力共に落語協会のオールスター級。そして脚本や演出など、制作や他の客を演じていたのが協会の若手二ツ目の皆さん。
俳優という意味では皆さん素人ですが、とりわけその迷惑客を演ずるさん喬師匠の演技の上手いことといったら、まさにアカデミー賞モノの演技なのです、これが!
しかも、さん喬師匠が喜んで?本当に楽しそうにやっているのが映像からも分かるんです。いや、笑えるワァ~。
これでもしサングラスを掛けてガラの悪いそうな迷惑客をさん喬師匠と一緒に、一見(いつもの高座の様にニコニコ笑わずに、もし睨みつければ・・・ですが、多分)プロレスラーの“組長” 藤原喜明に似ている(様な気がする)権太楼師匠が演じていたらきっと最高だったな、なんて・・・。
考えてみれば、落語の世界では、ご隠居さんから与太郎の丁稚、そしておばあさんから若い町娘や花魁まで、全て一人芝居で演じ切っているのですから、噺家の皆さんが役者としても芸達者なのはむしろ当然なのかもしれません。
そしてこの動画には更にメイキング映像まであって、撮影している様子や制作側や出演もしている若手の噺家の皆さんの感想なども入っています。因みに、長野県大町市出身の二つ目桂花さんもおられます。
落語好きの皆さん!YouTubeで「落語協会 寄席鑑賞マナー動画」と検索すれば見つかると思います。是非探して視てください。これ必見です!
奥さまが封切りになった映画を見たいというので、イオンシネマへ。
リタイアしてから結構映画を視ています。勿論暇な年金生活者故ということもありますが、シルバー割引があるからというのも大いに助かりますし、しかも空いている平日に視られるというのも誠にありがたい。
途中、前回の朝のウォーキングで寄れなかった天神さま(深志神社)へお参りして行きたいというので、ウォーキングを兼ねて歩いて行くことにしました。多分、家からイオンモールまでは2.5㎞くらいでしょうか。この日事前に予約した上映が初回で終了時刻がちょうど昼時でしたので、イオンモールでランチを食べてから帰ることにしました。
選んだのは私のチョイスですが、珍しく家内がOKしてくれたインド料理の「フルバリ」です。
以前、次女が羽田空港勤務で糀谷に住んでいた時に何度か羽根つき餃子などを食べに蒲田には行ったのですが、JRの蒲田駅の南口から歩いてすぐの所に「フルバリ」の本店があったので、イオンモール松本に出店すると知って、いつか来てみたいと思っていました。
ただ家内が、昔松本に在ったインド料理店(既に閉店)で食べて油が当たったのか具合が悪くなったことがあり、それ以降インド料理には拒否反応だったのですが、松本の「Doon食堂 インド山」で食べてからは、その拒否反応も治まり、また食べられるようになりました。そのためGW前後の東京滞在中も神谷町のインド料理へも行ったのですが、今回も「フルバリ」でのランチにOKとのこと。
イオンモールには食堂街の他にフードコートもあり、そこにあって何度か食べに行ったリンガーハットが閉店。南松本のイオンに入っていた店舗も閉店した由・・・。残念ながら、松本で気軽に長崎ちゃんぽんが食べられる店が無くなってしまいました。
因みに、長野県の中南信を中心に展開している「テンホウ」にも、ちゃんぽん風の「テンホウ麺」があるのですが、クリーミーなスープではあるものの、長崎ちゃんぽんとは似て非なる味。一方で、テンホウの「皿うどん」は結構本場の味に近く、ちゃんとウスターソースも一緒に持って来てくれるので、リンガーハットで無くても皿うどんはテンホウで十分“許せる”のですが、長崎ちゃんぽんはちょっと違うなぁ・・・。但しテンホウ麺は、店側もあくまで“ちゃんぽん風”と説明していますので責めることは出来ませんが・・・。
・・・と、些か前置きが回りくどかったのですが、リンガーハットが無くなって長崎ちゃんぽんが食べられなくなってしまったので、今回はフードコートでは無く「フルバリでもイイよ!」となった次第です。
イオンモール松本が開店して既に5年以上経つ筈ですが、漸く「フルバリ」で食べることが出来ました。
カレーは、家内はバターチキンとサグチキン(ほうれん草とチキンのカレー)、私メはチキンとシーフードを選びました。
ナンは大きくて美味しい。チキンティカは神谷町の「ラージャ」で食べたタンドーリチキンのソースの方が好み。肝心のカレーはどれも砂糖甘い様に感じます。
「うーん、これ甘過ぎる。ちょっと違うなぁ・・・。」
家内ではありませんが、これならスーパーに並んでいるS&Bの「噂の名店」シリーズのレトルトカレーの神田の北インド料理店「マンダラ」のバターチキン、また無印良品のレトルトカレーの中で、「プラウンマサラ」を始めとするインドカレーの幾つかの方がむしろ美味しい気がしました。
ですので、北インドの家庭料理であれば松本には「インド山」がありますが、カレーの種類も限られますし家庭料理にはタンドール釜は無いので、ナンやタンドーリチキンは諦めて、もし松本でインド料理を食べるのであれば、プラウンマサラ、バターチキンや他の種類のカレーや市販のナンも含めて、松本でも買えるレトルトカレーで十分だと感じた次第。
大正期に誕生したとされる東京早稲田とか福井とか、ソースカツ丼発祥には幾つかの説(注)があるそうですが、今では他の地域にもソースカツ丼があって、長野県では伊那谷の駒ケ根がその本場。駒ケ根は「喜楽」という店が昭和3年にソースカツ丼の提供を始めたと云いますから、全国的に見ても相当古い歴史があります。
駒ケ根では平成に入り、“町おこし”的にそれまで提供していた各店が連携して団体を作り、ソースカツ丼を提供する際の統一規定を制定するなどして、“ご当地グルメ”としてソースカツ丼の普及やPRに努めた結果、今の様に地域に定着していったのだとか。
その駒ケ根の有名店の一つ「明治亭」が軽井沢にも出店していて、以前軽井沢で食べたのですが、残念ながら松本では卵とじのカツ丼の方が主流なので本格的なソースカツ丼を出す店が無く(蕎麦チェーンの小木曽や、餃子チェーンのテンホウのメニューにもソースカツ丼がある様ですが)、だったら自分で作ろうかと思った次第・・・。
駒ケ根のソースカツ丼のスタイルは、必ずご飯の上に千切りキャベツを敷いて、その上にトンカツが載っていて、一番の肝となるのがそのソース。単純にトンカツソースやウスターソースを掛けたのではなく、各店秘伝のオリジナルソースが掛けられていて、記憶の中での「明治亭」(他で食べたことが無いので、それ以外を知りません)のソースは、普通のトンカツソースに比べて甘味の中にもフルーティーな酸味があり、色もトンカツソースの黒よりも茶色がかっている感じでした。その明治亭の“秘伝”のソースは瓶詰にされて店でも販売されていたので、それを買ってトンカツと千切りキャベツを用意すれば良いのですが、そう頻繁に(しかも自宅で)食べるメニューではないのでソースの瓶が邪魔になります(他の料理にも使えるかもしれませんが・・・)。
「だったら、自分で作るしか無かっぺ!」
ということで、自分でソースを作ることにしました。
家内が手伝いに娘たちの所に月一恒例で上京して不在。一人での食事なので、もし失敗しても大丈夫。揚げ物は下拵えの衣を付けるのが面倒臭いし自宅だと調理での油跳ねが大変なので、ここはスーパーから総菜のロースのトンカツを一枚買って来て、自宅では千切りキャベツを用意します。因みに他の地域のソースカツ丼は千切りキャベツがありませんが、信州は高原野菜の本場だからということでもないのでしょうが、普通のトンカツにもキャベツは付き物ですから、野菜を食べるというヘルシーな食事のバランスもふまえれば、他の地域のソースカツ丼に比べて駒ケ根のソースカツ丼が必ず千切りキャベツを添えるというのは、健康意識の高まった現代では更に理に適っていると思います。
肝となるソースに関しては、ネットで調べると中にはソースだけではなく醤油も使うものとか、幾つかレシピがあったのですが、その中からイメージ的に「これかな?」と気に入ったレシピで作ってみることにしました。
ポイントは先述の“フルーティーな甘味と茶色”です。味は、イメージ的にはカレーで云えば“リンゴと蜂蜜”風に、多少フルーツ系が加味された様な感じ・・・でしょうか。
その素となるのが、ソースは中濃とウスターソース、そして“フルーツ系”のポイントが多分ケチャップで、更にみりん(或いは料理酒と砂糖)を加え甘味を出します。場合によっては、好みでマーマレードなどを混ぜても良いかもしれませんが、まぁ自分独りなら取り敢えずそこまで拘らなくてもイイか・・・と。
我が家にはウスターソースが無いので、トンカツソースだけでケチャップとみりんと(水っぽくなり過ぎぬよう)砂糖も少し加えて甘味を調整します。そして、ソースとケチャップを混ぜ合わせると、あの茶色に近付きます。一度過熱して混ぜ合わせ(味見をして、うーん、まぁこんなモンかと)、冷まして味を馴染ませて出来上がり。
因みに、個人的にはトンカツはヒレよりもロースの方が好みなので、今回もロースカツです。些かオーブンで焼き過ぎて、焦げて少々固くなった部分があったのは玉に瑕でした。また、ソースはもう少しフルーティーでも良いかもしれませんが、自家製のソースの味付けとしては十分合格ライン。カツも自家製の方が(良い肉を使うので)柔らかくて美味しいのでしょうが、手間暇を考えればスーパーのお惣菜でも十分です。反省点は、ソースをもっと多めに作って、うな丼や天丼の様にご飯にまでタレが少し染みるくらい掛けた方が良かったかなというところでしょうか。
いずれにしても、お手軽に“駒ケ根風”のソースカツ丼を自宅で楽しめて、個人的には十分満足でした。
「ごちそうさまでした!! 」
【注記】
ソースカツ丼文化発祥の地にはいくつかの説があるそうですが、福井県の情報ページに由ると、福井出身の人がドイツの日本人俱楽部で料理を学び、ドイツのシュニッツェルを真似てウスターソースを使用してご飯に載せ、日本へ帰国してから大正2年に東京の料理発表会で披露した後、早稲田に開いた『ヨーロッパ軒』で“ソースカツ丼”として売り出したのが最初とのこと。その後大正12年の関東大震災で店が被災倒壊したため地元福井に戻り、再び「ヨーロッパ軒」を開いたことによるものという説が濃厚だそうです。
ソースカツ丼の発祥説を調べてみると、他にも色々と興味深いことが分かります。
先ず大正初期の年までハッキリしているのですから、上記の東京早稲田と福井の「ヨーロッパ軒」に確定で良さそうに思われるのですが、他にも“我こそは!”と名乗る地もあるらしいのです・・・。
例えば、福島県会津も発祥の地とされる場所の一つで、昭和5年(1930年)に会津のソースカツ丼の元祖とされる「若松食堂」が創業し、洋食屋のコックがウナギのかば焼きからヒントを得て、とんかつを甘辛いソースにくぐらせてご飯に乗せたのが始まりとしているとのこと。
また、本文で紹介した長野県の駒々根も有力な候補地の一つとされるそうですが、こちらは昭和3年に開店した駒ヶ根にある飲食店「喜楽」がソースカツ丼の発祥で、初代の店主が当時の流行だった洋食をベースにして考案した料理がソースカツ丼で、ご飯の上に千切りキャベツを敷き、秘伝のたれにくぐらせたカツを乗せるのが特徴です。
そしてお隣の群馬県桐生もソースカツ丼の発祥地とされる地域で、別名“上州カツ丼”とも呼ばれる程地元では定着している由。元祖は昭和元年(1926年)創業の「志多美屋」という食堂店で、元々は鰻の卸商だったため、食堂として開業するにあたり、鰻丼を参考にして、ご飯の上にソースにくぐらせたカツのみというシンプルなカツ丼を提供したところ、それが人気となり、やがて他のメニューを止めてソースカツ丼の専門店になっていったとのこと。
他にもやや趣を異にして面白いのは、大正10年(1921年)に早稲田高等学院の学生が、下宿近くの軽食店で日々食事をしていて毎日同じメニューに飽きたため、店主に許しを得て自分で調理場に入り、切ったカツを丼ご飯の上にのせ、小麦粉でとろみをつけたウスターソースをかけて食べてみると美味しかったので、店主にかけ合って「カツ丼」という名前で新メニューにしたのが発祥という異説があるとのこと。ただ、この学生が“考案”する8年前に、既に早稲田の地で創業した「ヨーロッパ軒」がソースカツ丼のルーツというのはハッキリしているので、 “学生の街”早稲田として話を面白くするための些か“眉唾モノ”と感じられなくもありません。個人的には一番古い大正2年の発表、或いは翌年のヨーロッパ軒創業を以て、ソースカツ丼の発祥と断定して良いと思うのですが、他の地域はどうしてそこまで“我こそは!”に拘るのかが理解出来ません・・・(別に一番古いからと言って売れるとも限りませんので・・・。ただ煎餅やお餅でも、元祖や本家とか、酷い時には親戚筋で裁判で争ってでも一番を競うアホなケースもたくさんありますから、やはり商売上は何かそれなりの意味があるのかもしれませんが・・・??)。
なおソースカツ丼の発祥とは別に、個人的に面白いと感じたのは、ソースカツ丼のご当地の福井と長野は同じ北信越エリア、そして長野と群馬は隣県同士。更には群馬と福島も僅かとはいえ県境が接していることです。従って、もし岐阜県内にも何らかのご当地ソースカツ丼があれば、福井から福島まで一本で繋がることになり、謂わば“ソースカツ丼ベルト”が誕生することになります。
まぁ、それはともかくとして、日本列島の真ん中付近にソースカツ丼が集中しているのは、そのエリアの県民の味覚、性格、気候や地理など、何か特別な理由があるのかどうか・・・?偶然とはいえ、面白いと感じた次第・・・。