カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
今回の京都滞在で、個人的に印象に残った“京都グルメ”・・・、それは喫茶店のモーニングサービスでした。
「ヒミツのケンミンショー」的に言えば、京都のコーヒーとパンの消費量は全国一位。その背景には、京都が古くから喫茶店に馴染んできたという“喫茶文化”の存在が大きいのではないかといます。
京都では、大正時代の「カフェ」人気を経て、昭和初期に数々の喫茶店が営業を開始。その中には、今も変わらず京都の人々に愛されている「イノダコーヒー」を初めとする老舗の喫茶店も多く残っています。そんな京都の“喫茶文化”を支えてきたのは、商家の旦那衆や伝統文化の職人さん、画家や作家と云った文化人や大学教授らのインテリ層、更に“大学の街”の学生たち・・・でした。
その京都の喫茶店ではモーニングやランチが充実していて、地元の“旦那衆”が朝からカフェでモーニングサービスを食べ、新聞を読みながらコーヒーを飲む・・・以前、イノダコーヒーに行った時に感じたそんな風景が京都では極々“普通”であり、今でもこの街では日常的な光景の様な気がします。
自分は“貧乏学生”でしたので、残念ながらモーニングサービスには学生時代は全く縁が無く、他の店より安かった「出町輸入食品」で豆を買って自分で豆を挽き、ドリップでコーヒーを淹れ、時々は出町柳の名曲喫茶で数時間クラシックを聴くのが、京都での学生時代に“喫茶店”に係わる唯一の贅沢でした。
(50代になるまでJazzを聴かなかったので、今は無き伝説の「シアンクレール」に一度も行かなかったのが心残りではあるのですが)
ですので、イノダコーヒーの本店には学生時代にコーヒーを飲みに行ったことはありましたが、京都でモーニングサービスを食べたのは学生時代ではなく、3年前に「イノダコーヒ本店」(正式社名は“コーヒ”と記載されています)で食べたのが初めて(第1405話)でした。
今回の滞在中に、奥さまのリクエストでモーニングサービスを食べに向かったのは、「進々堂」の三条河原町店。
岡崎から朝のウォーキングがてら、店まで歩いて朝8時過ぎには着いたのですが、既に満席で順番待ち。私たちの後ろのドイツ人と思しきカップルもですし、店内の半分以上のお客様が外国からの観光客の方々。場所柄ということもあるのでしょうが、外国からの観光客の方々の人気店の様でした。
この「進々堂」は京都で一番古いパン屋さんで、1913年の創業とか。H/Pに拠ると、
『進々堂は、大正2年(1913年)京都に創業したベーカリーショップです。創業者の続木斉は学生時代、内村鑑三の門下生として聖書と近代思想を学んだクリスチャンで、「パン造りを通して神と人とに奉仕する」と言って進々堂を開業いたしました。フランス語やフランス文学にも造詣の深かった斉は、本場のフランスパンに憧れ、日本人としてはじめてパリへパン留学したことでも知られています。パリから帰った斉は、ドイツの窯を輸入してフランスパン製造販売を開始、西欧文化の香りを求める当時の京都の人々から絶大な支持を得て、京都を代表するベーカリーショップとしての基盤を築きました。』とのこと。
余談ですが、松本のベーカリーカフェ「開運スヰト」は、地元の老舗和菓子店「開運堂」(1884年、明治17年創業)の創始者の次男である宗七郎氏が、明治39年(1906年)に渡米し、修行の後1913年に現地シアトルで創業。1923年に帰国して地元松本で県内初のベーカリーとなる「開運スヰト」を縄手の地に開店したのだとか(従って企業情報上ではsince 1913と表示しています:第1092話を参照ください)。ですので、言ってみれば一地方都市である松本の「開運スヰト」も大したものだと感心した次第。
すると、最初にコーヒーがサーブされました。
「コーヒーは後でイイのに・・・。先に飲んじゃったら、食後のコーヒーが無くなっちゃう・・・。」
「大丈夫。ここはコーヒー、お代わり自由だよ!」
「えっ、ウソ!?・・・・」
確かにそうだったのです。大変失礼しました(結果的に、私メは3杯いただきました)。
自宅でも、食パンが固くなる最後の方では自分でフレンチトーストにする時があり、良く家内に(信州弁で言うところの“ずく”があると)呆れられるので、家内に、
「フレンチトーストならわざわざここで頼まなくても、自宅で作ってあげるのに・・・」
しかし、これまた大変失礼しました。運ばれて来たフレンチトーストのパンは、厚切りしたフランスパンのバゲットでした。これは自分では無理!さすがです。
モーニングプレートには、ワンポーションのバター、イチゴジャム、そしてスクランブルエッグ用にトマトケチャップのミニパックが小皿に載って付いてきて、どれもたっぷりの量です。
ゆっくりとモーニングサービスを楽しみ、その間、スタッフの方がコーヒーポットを持って定期的に店内を回り、カップの残量を確認しながら追加の確認をしてくれます。結局3杯コーヒーを頂きました。その後も、空になった私メのカップを見て、
「コーヒーのお代わり如何ですが?」
「イヤ、3杯も頂きましたのでもう結構です。ごちそうさまでした!」
コスパの良さも勿論ですが、それ以上にスタッフの皆さんの接客態度に、元“人事屋”としてはお店の従業員教育に大いに感心した次第です。
翌日、永観堂から東山を「哲学の道」を歩き、下賀茂神社にお参りする前に少し遅めの朝食をと、今度は出町柳の喫茶店「COFFEE HOUSE maki」(コーヒーハウス マキ)でモーニングを食べました。
こちらの喫茶店も、事前に家内がネットなどで調べて見つけた店。珈琲専門店とのことですがモーニングも人気で、有難いことに12時までモーニングが食べられるのだそうですが、但し数量限定とか。
既に11時を過ぎていたので(家内は)心配したのですが、この日が平日だったせいか幸いまだ大丈夫とのことで、家内曰く“名物”というモーニングセット(700円)を二人共チョイスしました。
お店は両側から入れるようになっていて、私たちは河原町通りの正面ではなく(裏側の)鴨川側から入ったのですが、入り口付近のテーブルに座ったら、
「あっ、そこは寒いので、中も空いてますからこちらにどうぞ!」
と、奥のテーブルを勧めてくださいました。
二階もありますが、どうやら二階にはマシンがあって自家焙煎をされている様子。「珈琲専門店」という看板通り、自家焙煎した色んな豆も販売されています。
「COFFEE HOUSE maki」のモーニングセットは、中をくり抜いた食パンの四角い耳を器にしてあって、その中に飾り切りのゆで卵、ハム、レタスやポテサラのアイランド系のドレッシングがたっぷりと掛けられたサラダセットが敷き詰められたユニークなスタイル。厚いトーストはしっかりと焼かれていてバターもたっぷり。
パンも厚みがあるだけでなく、サラダもたっぷり入っているので、かなり食べ応えがあります。しかもお箸なので食べ易くてイイ。最後、しっかりと耳も残さずに全部戴きました。ブレンドコーヒーはコロンビア豆かマイルドな味で、個人的にはもう少し酸味があった方が好み・・・かな。
それにしても、このボリュームで700円とは正直信じられませんでした。
ですので、遅めのモーニングというよりもどちらかと云うとブランチで、このボリュームだったらこの日はお昼を抜いても構わない程に、二人共お腹が一杯になりました。
ごちそうさまでした。いやぁ、それにしても京都の“モーニング”はスゴ過ぎる!
京都観光での最終日。この日は清水寺へ向かいます。
清水寺は謂わずと知れた京都観光のメッカ。さすがに、これまでの場所と違い季節は無関係の様で、円山公園を抜けて八坂の塔から清水の二年坂、産寧坂と歩を進めると、外国からの観光客を中心に修学旅行なのか制服を着た学生さんなど、狭い道は人でごった返していました。
しかも多くの女性や若いカップルの皆さんは(日本の)着物を着て、盛んにポーズを作って写真撮影をされています。しかし、着ている着物が今まで良く見た色褪せた浴衣の様に原色がくすんで安っぽくて派手な、“大人の”(≒要するにシニアの)日本人からすると如何にも“チープな着物”でないのは良いとしても、妙に白っぽくて、夏ならともかくこの真冬にスケスケの薄手のレースの様な生地の着物を着ている子たちがたくさんいるのです(特に外国の方は着物の種類など分からないでしょうから、そんな着物を選ばせる貸衣装店の神経を疑います。貸す方も借りる方も、“安かろう悪かろう”でお互いが納得していれば、それはそれで良いのかもしれませんが・・・)。
ただ、レースの様な、夏なら涼しそうな着物を着て得意満面、嬉しそうに四条河原町などを歩く若い女性たちを見ていると何だか可哀想で、この冬空に見ているこちらの方がむしろ寒くないのだろうかと心配してしまいます。
ですので、八坂から四条通を祇園方面に歩いていて、時折その季節に相応しい柄で(見るからに違いが明かな)本当に品の良い着物を召された芸事の稽古に行かれる芸子さんか、或いは商家の女将さんか、 そうした“ホンモノ”の着物を見て何となく「こうでなきゃ・・・」と小さく溜息をつきながら、行き交う人知れずに合点して自然と頷いてしまう自分がいます。
この産寧坂を歩いていると「清水三年坂美術館」という看板が目に入ります。この「清水三年坂美術館」は2000年に開館した私立美術館で、幕末・明治の金工、七宝、蒔絵、薩摩焼を常設展示する日本で初めての美術館。
何度かTVの「鑑定団」でもこの美術館の所蔵する“超絶技巧”の作品が参考として取り上げてられたことがあってその名を知り、いつか一度行ってみたいと思っていました。
この「清水三年坂美術館」は私設の美術館ですが、現在館長を務める村田理如氏(まさゆき。ご尊父は村田製作所創業者の故村田昭 氏)がNY 出張の折に、現地のアンティークショップで見た繊細で美しい作りの日本の「印籠」に目を奪われたことをきっかけに、私費で収集した江戸の幕末から明治期に掛けての我が国の“超絶技巧”の優れた工芸技術の作品のコレクションを日本の人たちに見てもらいたいという熱意で開設した私立美術館なのだそうです。
今回は残念ながら時間が取れませんでしたが、次回は必ず(多分一人だろうなぁ・・・?)見に来たいと思います。
家内は、今回清水寺の境内にある「地主神社」へ娘たちためにお参りをしたかったそうですが、残念ながら改築工事中で神社には参拝出来ず、神社の階段下から遠目にお参りをさせていただきました。
地主神社は清水寺の境内故、清水寺への拝観料払わないと参拝出来ないのですが、だったら受付で「地主神社は改装中で参拝出来ません」と書いておけばイイのに・・・と思わなくも無いのですが・・・。
以前、清水寺も拝観料への課税問題で京都市とケンカした、或る意味本来の宗教とは対極の筈の“俗世の生臭い”事件でしたので、年末の「今年の世相を表す漢字」報道などに惑わされず、飽くまで清水さんは“観光で生きる寺”なんだと思えばイイ・・・個人的にこのお寺さんに対してはどうしてもそんな思いが拭えないのです。
因みに、清水寺の宗派は余り耳慣れない「北法相宗」で、本来は開創以来、平安遷都以前からの古い宗派である奈良仏教の法相宗を宗旨とし、中世・近世において、清水寺は法相宗大本山の奈良興福寺の末寺だったのが、つい最近の1965年に先述の“世相の漢字”で有名だった、時の大西良慶住職が北法相宗を立宗して法相宗から独立し、清水寺は北法相宗の本山になったのだそうです。
その「北法相宗」・・・我が家は浄土宗ですし、然程熱心な仏教徒でも無いので、仏教の歴史経過とその主導権争いや対立などを含め、清水寺の宗派「北法相宗」なるものは良く分かりませんが、このお寺さんに来る度に、どうしても、1985年「目的は寺社などの古都遺産を守るため」として、当時の今川京都市長が創設を試みた「京都市内の寺社へ支払う拝観料に対して課税するという」という「古都税」に対し、『1985(昭和60)年12月5日、京都市の「古都保存協力税」に反対する清水寺など12寺院(当時の新聞記事に拠ると、清水寺、金閣寺、銀閣寺、三千院、曼殊院、青蓮院、泉涌寺、東福寺、随心院、二尊院、広隆寺、蓮華寺とのこと)が、拝観者を締め出す拝観停止に踏み切った』という記憶が、どうしても思い出されてならないのです。
(信長と延暦寺、戦国大名と一向宗の対立を考えれば、いつの世も時の政権と対立する宗教が存在していたのかもしれませんが、“世界平和”のお題目とは程遠い・・・)。
その結果、それ以降も拝観する観光客で賑わう清水寺を見ると(決して清水寺だけでは無いのですが)どうしても本来の仏教精神普及よりも拝観料を払う参拝者が一人でも多ければ良いのかと、例え不謹慎と云われても、生来のひねくれ者故にその疑念がどうしても拭い去れません。
そんな“俗世”の清水寺本体からは早々に引き上げて、今回の目的である「京都 冬の特別公開」の一つである清水寺塔頭「成就院」へ」回ることにしました。
「成就院」は清水寺本堂の北側の奥まった所に本坊でもある「成就院」があり、その庭園が「月の庭」として国の名勝に指定されています。
「成就院」は応仁の乱で焼けた清水寺を再興した願阿上人によって創建され、以降今に至る本願職の住居も兼ねているとのこと。従って「今でも住まわれている現役の住居であるため、今回の冬の特別公開でも、外の庭も含め一切撮影厳禁」の由。
拝観者をグループにまとめ、説明員の方が説明をしてくださいました。
現在の建物は江戸時代寛永年間の再建で、「月の庭」は江戸時代の名人と云われる相阿弥が作庭し小堀遠州が補修したとも、また俳諧の祖と云われる松永貞徳の作とも伝えられているそうです。
室内からはギヤマンのガラス戸越に庭が眺められるのですが、このガラスは現在では制作不能のため、絶対に近付かない様にとの注意。
成就院の説明書きに依れば、
『四季折々の表情をみせる高台寺山を借景とした庭園は別名「月の庭」と呼ばれ、京都を代表する名庭として知られています。夜空を渡る月が池面に映るさまは古くから人々を魅了し、その美しさが語り継がれてきました。
京都には、雪月花の三庭苑と称された妙満寺「雪の庭」、清水寺成就院「月の庭」、北野天満宮「花の庭」がありましたが、2022年1月に北野天満宮で花の庭が約150年ぶりに再興され、3月には妙満寺の雪の庭が大きく改修されました。』
そこで、久々に雪月花の三庭苑が揃ったことを記念して、今回の特別公開となったとのことでした。
因みに、この庭からは昇る月は山に隠れて見えないのだとか。「月の庭」は庭の池に映る天の月を愛でる庭なのだそうです。
しかし、それにしてもせめて外の庭の写真くらい撮らせてくれても良いのにと思います。結局、ひねくれ者故に「これも清水寺故なのか?」と穿った見方をしてしまいそうです。
帰路、清水寺に戻る道の脇に、たくさんの石の仏様たちが並んでいる場所がありました。そこは「千体石仏群」と呼ばれ、地蔵菩薩や観音菩薩、阿弥陀如来、釈迦如来などの石仏が立ち並んでいて、石仏の一部は嘗て京都の各町内に祀られていたお地蔵さまなのだとか。
明治の廃仏毀釈の際に、破壊を避けるために各町内の人々によって清水寺へと運び込まれ、現在も有志の方々が毎年前垂れを掛け替えているのだそうです。
柔和で穏やかな石の仏さまを眺めていると、この清水寺が廃仏毀釈の嵐から京の街の仏さまたちを守ったと知り、ちょっぴり見直して先述の認識を少々改めた次第・・・。
清水から下り昼食を食べてから岡崎への帰路、事前に予約をしてあったホテルの近くにある「無鄰菴」に初めて寄ってみました。H/Pに依ると、
『無鄰菴は、明治27年(1894)~29(1896)年に造営された明治・大正時代の政治家山縣有朋の別荘です。
庭園と母屋・洋館・茶室の3つの建物によって構成されており、庭園は施主山縣有朋の指示に基づいて、七代目小川治兵衛により作庭された近代日本庭園の傑作とされています。それまでの池を海に、岩を島に見立てる象徴主義的な庭園から、里山の風景や小川そのもののような躍動的な流れをもつ自然主義的な新しい庭園観により造営されました。
南禅寺界隈別荘群の中で唯一通年公開されている庭園で、昭和26年(1951年)に国の名勝に指定されています。
洋館の2階には、日露開戦に向けて対ロシア外交方針を決めるために、伊藤博文、小村壽太郎、桂太郎、そして山縣有朋が集まり話し合った「無鄰菴会議」に使われた部屋があり、当日の様子を今に伝えます。』
とのこと。
この無鄰菴は1941年に寄贈されて京都市の所有となり、現在は作庭した小川治兵衛ゆかりの老舗造園会社という、地元京都の「植彌加藤造園」が指定管理者として庭の管理や運営をしているのだそうです。
通常の入園料は600円ですが、最初から無鄰菴で休憩という目的で予約してありましたので、喫茶付き入場券1600円を購入。これは飲み物とスイーツのセットで、且つ希望者への無鄰菴の歴史やエピソードと庭の鑑賞のために作庭のポイントの解説付きです。我々夫婦二人だけでその説明を頂いてから母屋の座敷に移り、庭を眺めながら「カフェ」で飲み物とスイーツを頂きました。
奥さまはお抹茶と無鄰菴オリジナルというどら焼き、私メはスパークリングワインとピスタチオをチョイス。歩いた疲れを癒しながらノンビリと、決して広くはありませんが東山を借景に(元勲と称された時の権力者故に可能であった筈の)琵琶湖疎水から水を引いた小川の流れという、確かに枯山水の“静の庭”とは趣の異なる、維新後の激動の時代を見て来たであろう“動の庭”を暫し眺めていました。
今回の京都旅行は別にウォーキング目的で来た訳では勿論無いのですが、移動日を除いた中三日間、朝のウォーキングも含め毎日10㎞位歩いていました。
中でも、この日は朝一番で永観堂拝観の後、東山に沿って銀閣寺方面へ向かう哲学の道を途中から東大路に戻り、真っすぐ上がって百万遍から西へ出町柳まで行って、遅めの朝食後にまた少し戻り、今度は平安京遷都以前の古代からの原生林である糺の森を抜けて下賀茂神社へ参拝です。
途中、百万遍の手前の小山が吉田山と知り、
「あぁ、ここか~!節分で有名な吉田神社は・・・」
「あっ、やっぱり学生時代はこの辺避けてたんでしょ!?」
ま、それはともかく、京都市内では将軍塚と並び、ミニ・トレッキングコースの様なので、今度来たら登ってみようかな、と・・・。
境内に植えられている松「媛小松」は、祭神の玉依媛命に因んで付けられたのだそうで、説明に依れば、
『ちはやぶる 賀茂のやしろの ひめ小松 よろづ世ふとも 色はかはらじ』(『古今和歌集』)と、藤原敏行が詠んだとのこと。
また、境内にある湧水の御手洗池では葵祭の神事が行われ、そこから糺の森に御手洗川が流れていくのですが、その名に由来してここが「みたらし団子」発祥の地なのだとか。その“パワー”もあってか、参拝後に出町柳の和菓子店「ふたば」に家内は吸い寄せられたのかもしれません。
出町柳付近で賀茂川と高野川が合流し、そこから先は鴨川と名称が変わります。同じ京都でも、嵐山で保津川から急に桂川と名前が変わる(正確には、嵐山の渡月橋からそのすぐ先の下流に「堰堤」が設けられた辺りまでを大堰川と呼び、そこから先が桂川)よりは紛らわしくはないかもしれませんが・・・。
幾つかある鴨川の飛び石の中で一番有名なのが、この合流地点の鴨川デルタの先端にある飛び石で、京都を舞台にしたミステリードラマなどの中に良く登場しています。
出町柳商店街で買い物をした後、鴨川縁を二条まで歩き、二条から幾つかの関心のあったお店の位置を確認しながら岡崎へ戻るというルートを歩きますが、鴨川は下流に向かって西側の右岸と東側の左岸を比べると、どちらも良く整備されていてワンコとの散歩やランニング、或いは自転車で通行するなど京都市民にとっては憩いの場ですが、二条から下流辺りで夏に川床が設えられる右岸の方が河岸の幅は倍以上あります。途中、府立医大病院やホテルオークラなどの大規模な建物が目立ちますが、ホテルオークラは旧京都ホテルで、ここから見た雪の降る大晦日の川端通の風景が東山魁夷の傑作「年暮る」です。
残念ながらそのホテルから眺めたことはありませんが、半世紀以上前に東山魁夷が川端康成から「京都は、今描いていただかないとなくなります。」と云われて描いたのが「京洛四季」。
京の冬を描いた「年暮る」はその中の代表作であり、山種美術館所蔵の原画の前に佇むと、東山彼方の知恩院の大鐘を撞く、大晦日の除夜の鐘の音がその絵の中から遠く聞こえてくる気がします。
絵の中にあるお寺は、東山魁夷がホテルから東山三条方面を眺め、仁王門通りと三条通の間にある日蓮宗本山「要法寺」本堂の大屋根だと云われています。
二条大橋で鴨川を渡り、川端通へ。そこからは、疎水沿いに家内が場所を確認したいという店を探しながら、岡崎のホテルに戻ります。一つは(既にお友達と来て食べたことがあるそうですが)タルトタタンの「LAVOITURE」(ラヴァチュール)と、もう一つは「ホーフベッカライエーデガー・タックス」。こちらは、オーストリア皇帝ハプスブルク家のホーフベッカライ(王室御用達ベーカリー)の日本店とのこと。奥さま曰く、パンは既にドイツパン専門店『ベッカライ・ペルケオ・アルト・ハイデルベルク 』で購入済みのため、今回は食べる機会が作れなかったので次回の参考のためにとのことでした。
岡崎からスタートし、永観堂から哲学の道と東大路から下賀茂神社へ。そして出町柳から鴨川縁を歩き、二条大橋から疎水沿いに岡崎へ戻りました。後で家内がGoogle Watch で確認したところ、この日は往復14㎞歩いたのだとか。いやはや、今日はさすがに疲れました。
しかし後で考えてみると、今回の4泊5日の京都滞在で、車での移動日を除いた中三日間、驚いたことにその間一度も市バスも地下鉄も、ましてや京阪や近鉄、嵐電などの私鉄やJRにも、京都市内を移動するための交通手段で“自分の足”以外の交通機関を一度も使わなかったのです。
京都に観光で来て、市バスに一度も乗らなかったのは生まれて初めてでした。(京都に着いた初日、松本から京都まで330㎞、車の運転に疲れてもうどこも回る気がしなかったので、ホテルのチェックインを済ませてから、四条河原町の高島屋にその日の夕食用にお弁当の買い出しに行ったのですが、その時も「疲れた、疲れた」と云いながら、結局往復岡崎から歩きました)
ま、滞在中のお寺巡りが知恩院や永観堂、清水寺は全部東山区ですし、下賀茂神社や出町柳は左京区。後は、食事や買い物で行った三条や四条河原町は中京区や下京区ですので、今回は岡崎からは遠い北区や右京区、ましてや高野や大原まで足を延ばす予定は元々ありませんでしたが、それにしても、
「ようけ、歩きはりましたなぁ・・・」。
秋の時期になると、京都は紅葉を楽しむ観光客でごった返しますが、 “もみじの永観堂”で知られる東山の禅林寺も紅葉の名所の一つで、昼間も勿論ですが夜のライトアップも含め長蛇の列で紅葉を楽しむどころではありません。
以前も紹介させていただきましたが、永観堂の阿弥陀如来像は「みかえり阿弥陀」として知られ、数多くの仏像の中で私が一番好きな仏さまです。
45年前の京都での学生時代、当時は今ほど混んでいなかったこともあり、一回生で京都のお寺参りをする中で一番気に入った永観堂の「みかえり阿弥陀」の前に、何か悩み事があると正座して二時間近くお参りしながら、ある種多感な青春時代の想いを聴いて頂いたことが何度もありました。
この仏さまを眺めていると不思議に心が落ち着いて穏やかになるのです。ですので、私にとっては本当にすがるべき神様の様な(というのも仏さまに対しては変な例えですが)有難い存在でした。しかも、宗派の違う仏様にすがるのではなく、幸いにも永観堂(禅林寺)が我が家と同じ浄土宗(但し禅林寺は西山派)だというのも、気兼ねせずに何だか安心してお参りが出来る気がした理由なのかもしれません。
海外からの観光客も含め、だいぶ賑わいの戻りつつある京都ですが、“爆買いの国”がまだビザ発給を完全に認められていないので、コロナ禍前程ではありません。それに外国からの観光にはあまり季節は関係無いのかもしれませんが、国内旅行的には春の桜や秋の紅葉の時期に比べればシーズンオフの寒い冬の2月ということもあります。
そこで、せっかくの岡崎滞在なので、久し振りに永観堂へ行って「みかえり阿弥陀」さまにお会いすることにしました。
阿弥陀さまにお会いする前に、順路に沿って拝観します。永観堂は一番上の多宝塔まで東山の傾斜を活かして建てられていて、境内には“もみじの永観堂”と呼ばれる通り、3000本の楓が植えられているそうです。多少規模は小さくとも、永観堂にも知恩院同様に「七不思議」があり、葉先が普通の日本では無く確かに三本に分かれている「三鈷の松」なども観ながら阿弥陀堂まで上って行きます。途中の釈迦堂の等伯一門という襖絵や、龍になぞらえた岩肌を這う螺旋階段の「臥龍廊」(階段を上がる所に水琴窟があり、置かれた柄杓で水を掛けると透き通った音がしました)、そして応仁の乱の際この像だけが残ったという“火除けの阿弥陀”と呼ばれる「瑞紫殿」のご本尊、そして永観堂禅林寺のご本尊「みかえり阿弥陀如来」の「阿弥陀堂」へ。
ところが、この日の阿弥陀堂は静かに佇むという感じではなく、ちょうど檀家さんなのか、何かのお参りの法要がされていました。
後で調べてみると、この日2月8日は京都市内にある阿弥陀如来像を祀る6つのお寺を毎月毎の功徳日に巡る「六阿弥陀めぐり」の日で、これを三年三月続けると無病息災・家運隆盛・祈願成就のご利益があるとも言われているのだとか。永観堂の「みかえり阿弥陀」さまもその一つで、因みに六阿弥陀とは真如堂(1番)・永観堂(2番)・清水寺阿弥陀堂(3番)・安祥院(4番)・安養寺(5番)・誓願寺(6番)だそうです。
ですので、久し振りの「みかえり阿弥陀」さまをしっかりと拝むことは出来ましたが、残念ながらその前で静かにじっと佇むという雰囲気ではありませんでした。
この「みかえり阿弥陀」については、2009年に自分の一番好きな仏様として紹介したブログ記事が一番良く書けていたので、今回もそれを紹介してこの永観堂の回を終わることにしたいと思います。
『(前略)さて、寺社仏閣観光としては「仏像を見るなら奈良へ、庭園を見るなら京都へ」と一般的には言われている筈ですが、学生時代を京都に暮らした私にとって、奈良を含めて一番のお気に入りの仏像(仏さま)は、京都東山の永観堂のご本尊である阿弥陀如来、通称「みかえり(顧)阿弥陀」でした。
高さ77cmとありますが、実際拝観するともっとずっと小さく感じます。一緒に「行」をされようと姿を現され、驚いて立ち止まった律師に「永観、遅し」と言われて左後方を振り向いた御姿と言われますが、何とも言えぬ優しく慈愛に満ちたお顔をされています。それこそ、国宝だらけの京都・奈良にあって、重要文化財指定とは言え、例えば国宝指定第一号と言われる広隆寺の弥勒菩薩(半跏思惟像)のようなメジャー級の仏像ではありませんし、永観堂そのものが、例えば清水寺や金閣・銀閣、更には竜安寺や広隆寺と言った修学旅行などの京都観光の定番コースでもなく、また嵯峨野や大原と言った女性受けするコースでもありません。
でも、入学してからの(進学で京都へ来た学生は大概一年間でお寺巡りは卒業し、その後はせっかく京都に居ても殆どお寺には行かなくなってしまいます。今にして思えば勿体無い)お寺巡りの中で見つけた、個人的には京都で一番好きな「お寺さん」でした。そして、4年間何か「煩悩」などがあると、お寺巡りではなく「阿弥陀さま」に会うために訪ねたお寺でもありました(我家の総本山である知恩院にも行かずに)。
平日(恐らく)授業をサボって?(今となっては理由不明)一人「みかえり阿弥陀如来」の前で拝んで(佇んで)いても、2~3時間誰も参拝客が来なかったことさえありました。私自身は決して信心深い訳でもありませんが、拝んでいると何かに包まれているような安心感で不思議と落ちついてくる(それが言うなれば御仏の慈悲ということなのでしょうが、決して天上から見下ろされている感じではなくて、隣で励ましてくれるかのような)、そんな親しみやすく人間的な?仏さまでした。(後略)』
【改めての追記】
20年近くも行っていないため、「みかえり阿弥陀如来」の写真が無く、永観堂のH/Pからお借りしようと永観堂に直接メールでお願いし、快くご了承いただけましたので、ここに掲載させていただきます。ありがとうございました。 合掌(2009年7月11日追記)
*もし興味ある方はブログ内「検索」欄で「みかえり阿弥陀」で検索いただき、該当する第97話と同7月11日掲載の「付録」記事を参照ください。