カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 冬の方が安くて混まないからと、2月上旬の四泊五日での京都行。
元々は家内が長女と行く筈(娘は6年前のMBA卒業後、米国で事業支援のコンサルをしていて、その際に顧客である京都創業の大手企業の西海岸でのスタートアップ事業立ち上げ支援のため、その事業内容習得目的で出張帰国して京都に三ヶ月間滞在し、その間に地元の方々に所謂「一見さんお断り」のお店などに連れて行っていただくなど、貧乏学生御用達だった「王将」や喫茶店くらいしか知らぬ私メよりも、“古寺巡礼”はとも角、ことグルメに関しては遥かに“京都通”)が、娘が海外からの急な重要来客があり、滞在中のミーティングやアテンド等のため東京を離れられそうも無いとのこと。そのため急遽代理で、私メがワンコも連れて車で行くことになりました。
滞在先はいつもの岡崎なので、ワンコもOKです。年寄り夫婦故、そうガツガツと観光で歩き回る訳ではありませんが、四泊なら内三日間は落ち着いて京都でゆったりと過ごすことが出来ます。

 そこで翌日、先ず我々が向かったのは東山の知恩院。我が家の菩提寺の浄土宗の総本山である、華頂山知恩院への参拝です。
浄土宗の総本山知恩院は、徳川家康が浄土宗の信徒であったことから将軍家の手厚い庇護を受け、徳川時代になって現在の様な壮大な伽藍が整えられましたが、二条城建築の前の将軍上洛の際の滞在先としての役割もあり、石垣などお城並みの堅固さです。
我が家にとっても総本山故、祖父や父は菩提寺の檀家のツアーで参拝していますが、我々はこれまで何度か私的に参拝をしています。
しかし今回は、来る2024年が浄土宗開宗850年を迎えることもあってか、「京都 冬の特別公開」の一つとして、知恩院も普段は見ることの出来ない「上段の間」や「鶴の間」、「知恩院七不思議」の一つ「抜け雀」の襖絵で有名な「菊の間」など、狩野派が手がけた金碧障壁画で飾られている大方丈(重文)や、水墨障壁画で飾る小方丈(重文)。更に東山々麓の地形を活かした回遊式庭園(名勝)など、今回の冬の特別公開として拝観することが出来、特に「鶴の間」「松の間」などの襖8面は16年ぶりに寄託先の国立博物館から元の大方丈に戻って来たのだそうです。そうしたことから、今回は檀家としてのみならず、京都の冬の特別拝観を併せて、先ずは我が家の総本山でもある知恩院に参拝することにした次第です。
国内最大級とされる三門をくぐり、広大な知恩院境内へ。ちょうど、本堂にあたる御影堂では、朝の法話が始まったところ。やはり浄土宗の信徒の方々なのでしょうか、10人弱ちょっとの皆さんが熱心お説教を聞いておられ、我々もその中に入れてもらいました。そこで知恩院布教師である月番の上人さま(この時は大阪教区の葭間上人の『苦難を乗り越える方法』)のお説教をお聞きし、最後に「南無阿弥陀仏」という浄土宗のお念仏を十回唱えて20分程の法話が終了しました。家内曰く、
「お数珠を持ってくれば良かったね。」
因みに、浄土宗のお数珠は二つの輪が交差して重なる二連の特殊な形です。
そう云えば、幼い頃、毎朝欠かさずに仏壇にお参りをする祖母の横に正座して(信州弁の方言ですが、松本で言う“おつくべ”をして)、木魚を叩きながら唱える祖母の念仏に合わせた口真似で、「ナンマイダー、ナンマイダー」と意味も分からずに一緒にお念仏を唱えていたことを思い出します。
その後、中学生になった頃か歴史の授業の中で、
「何だ、ナンマイダーは、“南無、阿弥陀佛”だったのか・・・」
と得心した記憶もありますが、一方で、法然上人により開宗された浄土宗では、身分に関係なく念仏を毎日唱えれば皆救われるという浄土信仰が、昭和の時代になっても、末端の農民でもあった明治生まれの祖母の日々の営みにもしっかりと反映していたことを知り、ある種感慨深いものがありました。
 法話の後、我々は大方丈に向かいました。
恐らく信心深い知恩院の信徒の方々なのでしょう(学芸員という感じではないので)。大方丈、方丈、それぞれの場所で説明を担当される年配のご婦人がおられ、拝観者が来るとそれぞれの持ち場で襖絵や部屋毎の解説をしてくださいました(室内は撮影禁止です)。
大方丈は狩野派の華麗な彩画によって部屋が間仕切られており、襖絵の題材で名前が付けられています。特に狩野探幽の弟、信政が描いた「菊の間」の襖絵は、紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたのですが、まるで生きているかの様に描かれたので、一羽の雀が生命を受けて飛び去ったと云われる「知恩院七不思議」(他には御影堂を火事から守るためにワザと置いたともされる「左甚五郎の忘れ傘」など)の一つとしても知られています。
一方の小方丈は対照的に狩野派の水墨画で間仕切られていて、下段の間の「山水図 襖12面」を描いたのが久隅守景。この久隅 守景は、狩野探幽の弟子で、最も優秀な後継者と云われ、その後狩野派から独立するのですが、彼の描いた代表作が「夕顔棚納涼図屏風」(単に「納涼図屏風」とも。国宝、東京国立博物館蔵)で、時に「最も国宝らしく無い国宝」と云われることもありますが、棚には瓢箪(ヒョウタン)がぶら下がった軒下で、庶民の親子3人が夕涼みでのんびりと涼む姿を深い愛情をもって詩趣豊かに表現した傑作とされ、東博だったかで実物を見た記憶があります。
小方丈の後、外に出て同じく特別公開されている方丈庭園を見てから、最後に「ゆく年くる年」の除夜の鐘で知られる「大鐘」を見に行きました。高さ約3.3m、直径約2.8m、重さ約70tだそうですが、確かに大きくて圧倒されました。
今回の知恩院は、冬の特別公開の一つでもあったことから、我が家の総本山としてだけではなく京都観光の一つとして楽しむことが出来ました。
 知恩院から岡崎に歩いて戻る途中、奥さまの希望で少し遠回りをして、同じ岡崎にある「岡崎神社」へ。
家内はこれまで娘の子宝祈願や安産祈願で何度もお参りに来ているそうですが、今回は、今年が卯年だということもあり、遅ればせながらとはいえせっかくですので別名「ウサギ神社」とも呼ばれる岡崎神社へ初詣を兼ねてのお参りです。
岡崎神社は、平安京遷都に際し、桓武天皇が都の鎮めとして平安京の四方に建立された社の一つで、都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と呼ばれ、この辺りの東天王町という町名にもなっています。
祭神が子宝に恵まれたことや、創建当時この辺り一帯が野ウサギの生息地で、多産なうさぎは古くから氏神様の神使いと伝えられたこともあって、「ウサギ神社」という愛称でも親しまれていて、子授け、安産、縁結び・厄除けにご利益がある神社なのだそうです。
京都の観光スポットとしてはそれ程有名な神社ではありませんので、家内が今まで来た時は殆ど参拝者がいなかったそうですが、今回は私メ同様に“卯年”だからでしょうか、結構たくさん参拝に来られていました。我々も卯年故のお参りをしてからホテルに戻りました。