カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
我々、生粋の“松本っ子”や“信州人”が当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。
それは「長野県民に聞くと、自分の住む場所の標高が誰でも言える」とか、「山への愛がハンパ無い」という内容。
云われてみれば、私メも本ブログ中に「松本は標高592mで、597mの東京の高尾山とほぼ同じ」とか、城山が700mでアルプス公園が770mとか、確かに標高に拘っているのが分かります。
また“山への愛”も、松本平に暮らす人間が常念岳であったり、諏訪であれば八ヶ岳、上田なら浅間山であったり・・・という様に、信州人の誰でもが自分が住む場所から仰ぎ見るそれぞれの“故郷の山”、或いは“心の山”を持っています。 ただ、標高についていうと、登山者やトレッキング愛好家は誰でも標高に関心を持っている筈です。登山口と登る山の頂きとの標高差がどのくらいかで登りの程度を知ることが出来ますし、また本格的に山を登る人は地図の標高線がちゃんと読めなくてはいけません。
ただ、そうは言っても「自宅のある場所の標高」となると、いくら登山者でもそこまでは・・・でしょうか。確かに、それは長野県内の小学校には、標高と緯度経度が書かれた標識が校門近くに必ず立っていたこともその一因なのかもしれません。
ただ、1000mを超える高原地帯の小学校の子供たちが、理科の沸点を調べる実験で、現実は91度で沸騰したのと教科書に記載された沸点との違いで、先生が「テストでは100度と書きなさい」と云われ怪訝な顔をしたところで終わっていましたが、実際は自分の住む場所と海抜0メートル地点での沸点の違いについて、ちゃんと先生は説明して子供たちもその理由を確認した筈(長野県の先生もそこまでイイ加減ではない)だと思います。
松本だけではなく、県外や海外、或いは県内でも他の街で暮らした経験を持つ自分も一番感じるのは(それも松本生まれの信州人だからかもしれませんが)、「山を仰ぎ見る視線の違い=山の高さの違い」です。
以前も、ブログに「息苦しい街?松本」(第504話)として同じ内容を書いたので、そちらを参照してください。
(モルゲンロートに染まる初冠雪の常念岳:10月26日撮影)
冒頭「ぶったまゲーション」の導入として、「当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすること」と書いている様に、今回の「秘密のケンミンShow 極み」で放送された「標高」についての指摘で、久し振りに長野県民=信州人の特性についてナルホドなぁと得心した次第です。
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