カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
仮にブルーボトルコーヒーを新しいカフェの代表格とすれば、片や昔ながらの昭和レトロの喫茶店という意味では、京都には古き良き喫茶店がたくさんあります。
多分それは、伝統をしっかりと守りながら一方では新しもの好きの京都人にとって・・・という意味で、大正ロマンの頃から町衆の旦那さんが近所の“純喫茶”で朝その日の新聞を読みながらコーヒーを飲んだり、戦後はお金の無い大学生が100円玉数個を持って名曲喫茶やジャズ喫茶に入り浸ったり・・・といった喫茶店文化がこの街には良く似合ったからではないでしょうか。
個人的には、40数年前の京都での学生時代、時々行ったのは出町柳に在った名曲喫茶でした。下宿のジャズ好きの先輩からジャズの良さをいくら説かれても(曰く、「クラシックは誰が弾いても同じメロディーだが、ジャズはアドリブが命。即興性こそ、そのミュージシャンのCreativityであり、個性である云々・・・」)、当時はまだジャズが理解出来ずにクラシックばかりを聞いていました。年を取ってからスタンダードから始め、漸くジャズも聞くようになりました。
それ故に、学生時代に名前は知りながら一度も入ったことの無かった河原町の荒神口のジャズ喫茶「シアンクレール」。女性の顔を描いたマッチだけは、何故か記憶に残っています。当時のどの喫茶店もタバコの煙が当たり前で、もしかすると特にジャズ喫茶の店内は紫煙に煙っていたのかもしれません。その京都のジャズ喫茶の代表格が「シアンクレール」であり、高野悦子著「二十歳の原点」にも登場する、或る意味伝説のジャズ喫茶なのですが、前回京都に来て下賀茂神社に参拝した帰りだったか、懐かしくて河原町を丸太町まで歩いた時に、当時ブルマンブレンドのコーヒー豆が格安で買えた「出町輸入食品」はあった(随分店舗が大きくなっていました)のですが、立命館の広小路学舎が既に無いのは当然としても、外観が赤レンガ造りだった記憶のある荒神口の「シアンクレール」もその時は見つけられませんでした。そこで今回もし行けたらと思って調べてみると、残念ながら90年代には既に閉店してしまったとのことでした。(下は偶然日経9月5日文化欄に掲載の「二十歳の原点」に関する記事)
ただ「マドラグ」そのものは古くからの店ではなく、元々は同じ場所で半世紀以上営業していた「喫茶セブン」から、今のオーナー夫妻が建物をそのまま引き継ぎ2011年にオープンした店で、2012年に高齢により止む無く閉店した洋食店「コロナ」の店主が「喫茶セブンの味を受け継いでいる方に是非お願いしたい」と、当時御年98歳だったご主人自ら店を訪ね、玉子サンドの作り方を伝授したのだそうです。
開店時間の11:30前に既に5組ほど並んでいて、予約順に名前を呼ばれ入店。我々が最終組でした。並ばれていた中で、予約の無いお客さんは次に回である1時間後12:30の予約をされて戻って行かれました。
店内は経営を引き継いだ昔の喫茶店の内装を活かした、昭和レトロな雰囲気。お店のスタッフも若くてハキハキしていて親しみ易く、大変気持ちの良い雰囲気です。
皆さんも名物の玉子サンドを事前に予約済みの様で、既に調理された湯気の立った出来立ての玉子サンドが次々と運ばれて行きます。
その名物の玉子サンドは、卵4個と牛乳をたっぷりと使ってふっくら蒸し焼きにしたという、甘くは無い京都らしいだし巻き卵風ですが、驚くべきはその厚さ。この厚さがたった4個の卵で作れるとは信じられません。一人前4切れですが、一切れに4個使ったと云われても信じてしまう程の厚さで、一人では食べきれない程のボリュームです。挟む食パンもしっとりと滑らかで、片側がコクのあるデミグラスソースに、反対側はマスタードソースが塗られていて味の変化が楽しめます。
この厚さを一体どうやって食べるのか?と悩むところですが、各テーブルに食べ方を説明した如何にも昭和レトロな古びたパネルが置いてあり、尖った部分から徐々に食べるか、ナイフで半分に切って食べるのがおススメとか。
ラーメンを諦めての昼食に二人で一人前の玉子サンドだけではと思い、鉄板ナポリタンも追加したのですが、これが(年寄り夫婦にとっては)間違いの元でした。こちらのナポリタンもそのボリュームたるや、普通の店の少なくとも倍以上はあります。しかも、熱い鉄板プレートに卵焼きが敷かれ、その上にアルデンテ気味の細麺がしっかりとケチャップで味付けされていて、間違いなくこれぞナポリタン!という感じ。
これで、玉子サンドが830円、鉄板ナポリタンが940円というのですから、そのコスパもハンパありません。
個人的には、玉子サンドはともかく、自分で頼んだナポリタンは残さぬ様に何とか食べ切ろうと思ったのですが、山になったスパゲッティー(決してパスタではない、これぞ昭和のスパゲッティー!)食べても食べてもなかなか減らず、最後1/3程残したところで遂にギブアップ。若いスタッフに謝ると、持ち帰れるとのことで、同じく残っていた玉子サンドの一切れとナポリタンをそれぞれ容器に入れてもらって持ち帰ることにしました。
名物の玉子サンドを食べきれずか、或いは敢えて記念にか、残して持ち帰るお客さんが多いのか、持ち手の付いた厚紙製の専用の容器が用意されている様で、我々には一切れ用の紙パックに入れてくれました。因みに、ナポリタンはスーパーのお惣菜売り場にある様な、普通のプラ製容器でした。
尚、途中何組かお客さんが来られましたが、玉子サンドの調理に時間が必要なのか1時間毎に予約を入れる様で、12:30が無理な場合は諦めて帰られていきましたので、名物の玉子サンドを食べたい場合は出来るだけ事前予約するのがおススメの様です。もしくは、行って予約した上ですぐ近くの二条城を見学して来るか・・・。
余談ですが、この喫茶「マドラグ」の近くに、金色の鳥居など黄金色に飾られた「御金神社」があるそうで、我が家に一番縁の無いモノなので、せっかくですからお参りしていくことにしました。
「御金神社」は街中のビルの間に佇む様な小さな神社で、金色の鳥居が目印。鈴緒も金色で、周囲の迷惑にならぬ様に鈴は金色の袋で覆われて音は出ない様になっています。
祭神は、金属の神様である金山毘古命(かなやまひこのみこと)をお祀りしていることから、お金の神様として親しまれるようになり、今では金運アップを願って多くの参拝者が訪れるのだそうです。
境内も狭い小さな神社ですが、この日も6人程お参りに来られていました。元々は個人の屋敷内に在った邸内社として建てられ、祀られていたのが、金属にゆかりのある祭神ということで参拝を願う人々が絶えなかっため、明治16年に現在地に移転して現在の社殿が建立されたのだそうです。その後も金運を願う人が参拝に訪れ、本殿裏のご神木であるイチョウ型の絵馬がたくさん奉納されていました。
小さい赤ちゃん連れの次女と、ところどころでリモートでのオンラインミーティングが入る長女。そのため今回の京都滞在中は遠くには行けません。
本当はこの時期、納涼の飾り付けがされているという東福寺と、枯山水の庭が素晴らしいという塔頭の光明院へも行きたかったし、そろそろ見頃を迎えるであろう御所の隣の“萩の寺”梨の木神社へも行きたかったのですが、どちらも果たせず。
その結果、滞在場所が岡崎なので、朝のウォーキングで南禅寺や永観堂、或いは疎水沿いの哲学の道を歩いたり、或いは午後の空き時間に逆方向の粟田神社の横から青蓮院から知恩院を経て、丸山公園から八坂神社まで歩いたり・・・。これまで、そうした東山の岡崎周辺のお寺さんや神様には全て参拝済みです。ただ、途中にある浄土宗の我が家の総本山でもある知恩院へは今回もちゃんとお参りをして、更に京の産土神である八坂神社へも一応ご挨拶がてら参拝させていただきました。
曰く、『アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランドに本社を構えるコーヒー製造販売企業である。サードウェーブコーヒーの代表格とみなされている。ネスレのグループ企業の一つ。注文を受けてから豆をひき、バリスタの手で一杯ずつドリップして提供するのが特徴。創業者が米紙に語るところによれば「日本のコーヒー文化に大きな影響を受けた」という。店舗では日本製のコーヒードリッパーやケトルなども用いられている。また、もともとコーヒーを冷やして飲む習慣がなかった米国で、「京都/Oji」という名のアイスコーヒーをメニューに加えた』とのこと。
個人的には「だったら、京都のイノダでも六曜社でも、日本の喫茶店に行けばイイのに」と思わなくも無いのですが、それはそれ・・・。それに一度行ってみなくては評価も出来ないし・・・。
私メは当日のブレンドを頼んだのですが、苦みとコクはあって、個人的にはもう少し酸味(モカ風の)があっても良いとは思いましたが、普通に美味しいし香りが強い。その意味では、同じアメリカであればシアトル系のスタバのコーヒーよりは(自分とっては)遥かに美味しい。でも美味しい日本の喫茶店のコーヒーとさして変らない・・・という感じでした。
古い町家をリノベートした京都の店舗は、他の東京などに在るブルーボトルコーヒーの店舗と些か雰囲気は異なる様です。確かに、京の街に馴染む様に町家を活かしたこの店内はオシャレ。多少剥がれた土壁や、天井を取り去って、むき出しになった梁。5㎝程の小さなスコーカー9連のスピーカーが天井付近の柱に取り付けられていて、Smooth Jazzか、頭上から静かに音楽のシャワーが降り注いでいたり、また投げ生けされたシンプルなフォルムの花瓶がさり気無くテーブルに置かれていたり・・・とモダンな和洋折衷で、確かに素敵な雰囲気でした。
ただ個人的には、ブルーボトルコーヒーより、同じく長女が連れて行ってくれた、京都市京セラ美術館の地下一階のカフェ「ENFUSE」の方が気に入りました。
この京都市美術館は、裏側の岡崎通りと正面の平安神宮大鳥居側の通りがオープンで入場出来るので、朝この敷地内の庭園で体操をする方や、ワンコの散歩をされている方がたくさんおられ、我々も滞在中は毎朝ワンコの散歩をさせて頂きました。
以前長女が京都に来た時に、家内と一緒にリニューアルした京都市京セラ美術館を見て、上村松園とか京都画壇の絵画に触れて感激してとても良かったとLINEをくれました。
そこで今回、やはり長女が連れて行ってくれました(京都市美術館は学生時代含め初めてです)。今回展示していたのは特別展「幻想の系譜―西洋版画コレクションと近代京都の洋画」で、些か嗜好が違いました。むしろ、その後のカフェがとても良かったのです。
構造的には地下一階なのですが、外もスロープで掘り下げられていて、窓が大きいので地階とは思えぬ明るい店内。窓に沿って外が見える様に席が並べられているのですが、十分にスペースを取って配置されているので、明るく開放感があります。美術館の外観はそのままに、内部は大幅にリニューアルされているらしく、むしろ近代的にすら感じられ、内と外の新旧でのアンマッチな感じが如何にも京都らしくて好印象。広々として、まったりゆったりと時間が過ごせそう。事実、娘は私がコーヒーを飲み終えて帰った後も、そこで暫く仕事をしていました。見方によってはホテルのロビーの様で無味乾燥という指摘もあるかもしれませんが、個人的にはまた来たいと思わせてくれる、そんな雰囲気のある素敵なカフェでした。
9月上旬、長女の帰国に合わせて奥様が予約していた3泊での京都行。
今回はドッグヴィラが確保出来たので、ワンコも一緒に車で京都に行くことにしました(というより、そうでもないとワンコを置いて私メも一緒には行けないし、ワンコと一緒に行くのであれば車でしか行けません)。
ナナが病気になる前は、妹に預かって貰って電車で行けたのですが、ナナはともかくコユキは他人には一切懐かないので預けては行けません。また回復したとはいえ、もう15歳の“高齢犬”のナナに余りの長時間のドライブは可哀想です。そういう自分も、昔なら日帰りで往復700㎞を運転して、家族を成田空港に送って来たこともありましたが、今では絶対に無理。
松本から一緒に行く筈だった長女は、NYからの帰国便での14時間のフライト疲れで、松本には来ずに東京に一泊してそのまま京都へ先行するとのこと。そして次女も一泊では疲れるだけじゃないかと思うのですが、婿殿の病院への当直日に合わせ、孫娘を連れて新幹線で京都へ来たいとのこと。孫娘と一緒に来てくれるのはジジババ的には嬉しい限りとはいえ、まだ歩けぬ子を連れてベビーカーでの移動はさぞや大変だと思うのですが、本人が来たいというのですから、まぁイイか・・・。“されど母は強し”なのでしょうか。
前回、滋賀県に初めて旅行した時(第1738話)に、草津へは意外と楽に車でも来られると分かったので、その草津に隣接する大津から一山超えれば京都(実際は山科ですが・・・)ですから、これなら京都も車で大丈夫と思った次第。おそらく40年振りくらいでの車移動での京都入りです。
9月に入って名神が集中工事中ということでしたが、NAVIは中央道から名神経由での京都東ICを選択。約340㎞、4時間ちょっとの行程です。今の車はACCが使えるので(高速道路の)長時間ドライブは本当に楽!却って、軽自動車で松本から脇道経由で木曽路をドライブするよりも遥かに疲れません。
15時からのチェックインタイムに合わせ、且つワンコたちを途中二度ほど休憩させるために余裕をもって出発しました。中央道から小牧JCTで名神へ合流すると、さすがに交通量が増えてきます。
下り線は工事渋滞も無く、ドッグランのある尾張一宮と大津SA(PA)で休憩。名神は古いせいか、ドッグランを併設したSAは少なく、京都までの間では一ヶ所のみ(中央道は駒ケ岳SAのみ。東京方面には双葉と談合坂の二ヶ所にあります)。そのためか、狭いドッグランですが千“犬”万来で、小型犬を二匹ずつ連れたお客さんが我々含め4組と大賑わいです。そのため、先にワンコたちにオヤツと小用、水を飲ませて、人間のランチは車内で済ませることにしました。
名神を京都東ICで降り、国道1号線を山科から日ノ岡、御陵、蹴上と、昔、国立一期を落ちてから下宿を探しに行ったら洛内はもう埋まっていて、止む無く一年だけ山科に下宿していたのですが、当時一部は路面を走行していたチンチン電車風の京阪電車で京阪三条まで通学していた線路沿いを走ります。当時の電車の窓越しの景色が蘇る様で、
「いやぁ、懐かしいなぁ!」
インクライン沿いに1号線の坂を下りながら、当時都ホテルだった蹴上のウエスティンホテルの横から南禅寺方面に折れ、蹴上発電所跡の横を疎水に沿って岡崎方面へ。40年振りかの車での“入洛”でした。
新居からは松本駅は徒歩10分。実際には早歩き気味だと、7~8分で到着します。駅が近くて(車を使わずに歩いて行けるので)便利です。
さて、この日は奥さまが横浜の次女の所にヘルプに行っていておらず、「たまにはラーメンが食べたいなぁ!」(家内はラーメンが好きではありません)ということで、選んだのは松本駅のアルプス口(旧西口)に在る「谷椿」です。
こちらは昔からやっている良心的な焼肉屋さんで、会社員時代に夜は何度か(肉食系の若い連中を連れて)伺ったことがあって、昼は7年前に外出した際に一度だけ食べたことがありました。
この日は平日の12時半だったのですが、8席のL字型のカウンターと4人掛けのテーブルが2つの店内に、カウンターに私より年配の方とテーブル席に家族連れの若いご夫婦の二組だけでした。
さすがに今回は7年振りなので少し値上げされていましたが、それでもラーメンが450円。大盛りで600円。日替わりランチが600円という、今でも破格の値段(昼は焼肉メニューはありません)。日替わり定食(この日はポークソテーで、これにご飯と味噌汁、煮物と漬物の小鉢が二皿付きます)はワンコインランチとは言えなくなりましたが(当時は定食が500円、ラーメンは400円でした)、今でもラーメンは450円と500円玉でお釣りが来ます。今回は大盛りを注文しました。それとこちらの名物は、まだ食べたことはありませんが、牛めし。ハーフサイズもあるそうです。チェーン店の牛丼とは別物の、焼肉用の牛肉の切れ端を使った分厚い切り落としを煮込んだ肉丼です。
駅ビルの改装(東西自由通路増設)に併せて整備された、松本駅の西口となる現在のアルプス口。諏訪へ電車通勤していた時は、駅裏に自腹で月決めの駐車場を借りていて、いつも西口の改札から入場していました。整備前は小さな木造の西口で、道路を挟んですぐ横に民家や薬局などが立ち並んでいて、「谷椿」もその中の一画。駅舎改装後の西口は、ロータリーと駐車場も整備されたので随分南側に移ってしまいましたので、店舗は駅舎からは少し遠くなりました。そういえば大糸線と上高地線のホーム(6番線&7番線ホーム)には「駅蕎麦」店があり、0番線ホームにある駅蕎麦店よりも美味しいという評判でしたが何年か前に閉店してしまいました。
西口の駅前の様相が随分変わっても、この「谷椿」だけは当時のままで何も変わっていません。そんな昭和レトロな店内同様に、ラーメン(この日オーダーしたのは大盛りです)も昔懐かしい“The 中華そば”風のあっさりした鶏ガラベースの醤油スープに、チャーシューが2枚とシナチクにこれまた昔懐かしいナルトと刻みネギ、細いちぢれ麺という王道派のラーメンです。洒落た“無化調”などとは一切無縁。しかもレンゲが付いて来ないので、スープは丼から直接啜らなくてはいけませんが、これでイイ!と思わず唸りたくなります。お茶と一緒にお新香として自家製の白菜漬けが付いて来ますが、浅漬けかと思ったら少し酸味がする程に良く漬っていて私好みの味。何となく、漬物上手と云われていたお祖母ちゃんを思い出しました。
ラーメンは、進化系とか“ばりこて”とか、煮干しだ鯛だ甘エビだ・・・と、最近は色々目新しさを競い合っているようですが、自分は例え古臭いと言われても、これぞ“支那そば”とか“中華そば”或いは嘗ての“東京ラーメン”と云われた様な、飽くまで鶏ガラベースの醤油ラーメンが好み。
だからこそ、こういう昭和風の店内で“絶滅危惧種”の様な懐かしい醤油ラーメンを食べる、そんな“一杯のかけそば”ならぬ“一杯の醤油ラーメン”の幸せをしきじみと味わっています(ただ、もう少し麺が堅めの方が個人的には好みなので、今度来た時は頼んでみようかと・・・)。なお、写真に写っている古びたアルミの鍋蓋は、夜の焼肉用のガスコンロに被せたものですが、これまた何とも言えないレトロな雰囲気を演出しています。
余談ながら、ご主人はお疲れ気味だったのか、この時はテレビを見ながら奥の部屋で休まれていて、女将さんが調理から片付けとお一人で切り盛りされていましたが、夜の焼肉はご主人が対応されているのかもしれません(ただ、以前夜の焼肉の時は、気さくなご主人が当時はコップ酒片手にお客さんと談笑していましたが・・・?)。どうか、いつまでもお元気で、たとえ時間が掛かっても構わないので、この懐かしい昭和の味を出来るだけ長く続けて欲しいと思いながら店を後にしました。
「どうも、ごちそうさまでした!美味しかったでーす。」
行動制限の無い三年振りの夏休みの旅行や故郷への帰省、またOMFの音楽祭などのイベントもあり、松本市内も夏休みの間、多くの観光客や登山客などの人出がありました。
そうした都会から地方への人の移動で、当然のこと乍ら、東京の感染者数は減って地方が増えるという結果になりました。長野県もお盆休みが過ぎて過去最多の感染者数を更新する日々が続きました。但し、もし重症者数が増えないのであれば、“With コロナ”として従来のインフルエンザと同じ様に考えていかないといけないのかもしれません。ただ、今の様に年中次々と変異を繰り返すのではなく、或る程度季節性が無いと予防する気持ちも維持できない様にも思いますが・・・。
さて、そうした中では、なかなか外食でどこかに食べに行くというのも躊躇せざるを得ず、人が減るまでは自宅での食事が中心とならざるを得ません。嫌いでは無いので、料理を作るのは苦では無いのですが、そうは言っても時には気分転換で外食もしたいもの。そこで助かるのはテイクアウトメニューです。勿論、選択肢の幅も宅配の至便さも都会とは比べるべくもありませんが、全国展開をしている外食チェーンが松本にもありますし、またその地域に特化したローカルフードも無い訳ではありません。それぞれの飲食店が自分の店の出来る範囲の中での工夫をしています。
そんな地元グルメの中でのお薦めは、家内が小さなころから家族で通った諏訪発祥の中華料理チェーンである「テンホウ」(第1481話参照)のギョウザ。謂わば「餃子の王将」の信州版です。
もう一つは、大町が発祥の地の「松本からあげセンター」。
全国からあげグランプリで金賞を何度か受賞しているそうですが、それぞれ出店先の地名を付けていますので、例えば上田駅の駅ビル内店舗は「上田からあげセンター」ですが、県内外に8店舗とか。
松本には3店舗あって、我々は一番近い駅ビル内の店(改札の上階、4階のレストランフロア)から時々テイクアウトで、いつもからあげミックス(1300円)を購入しています。これは、普通のからあげとタレ、それと松本B級グルメであるローカルフードの“山賊焼き”の詰め合わせで、からあげはジューシーなモモ肉とムネ肉(結構しっとりしています)が普通のからあげとタレの両方合わせて5個入っていて、家内と二人では食べきれないくらいのボリュームがありますので、大食いの方でも十分ではないかと思います。注文してから揚げてくれるので(そのため10分程待ちますが)、熱々なのも嬉しい点。
またテイクアウト用のお弁当も色んな種類があり、良く松本を知っている(であろう)“山ガール”の登山者の方が、帰りのあずさ車内での駅弁代わりにお弁当を購入されていました。
ですので、レストラン内での飲食は勿論ですが、我々地元民のテイクアウト向けだけではなく、松本に来られる登山者や観光客の皆さんの駅弁代わりにもお薦めかもしれません。お試しあれ!
昨年11月に北アルプスを望む新居に引っ越して、毎日朝晩常念を始めとする北アの峰々を眺めるのが日課となりました。
空気が澄む冬の白き峰々、残雪から雪形に変わる春山。そして、里の新緑に遅れながらも、少しずつ青から緑に裾の色を変えていく前山。朝、頂まで見えていても、すぐに雲に覆われてしまう夏山・・・。
毎日一度として同じ様子がない山容を眺めては、都度々々新鮮な気持ちを感じられる日々です。
(幻想的な夕方の空:7月4日)
以前通勤の朝に偶然見られた、紅に染まったモルゲンロートの常念岳。そして、学生時代に亡き父と一緒に行った松本城の入り口にあったビヤガーデンで、ビルの屋上から見た,黒き屏風の峰々の背後にオレンジ色に染まった夕映えの空。
決して大袈裟でもなく、涙が流れる程に地元民でも見惚れる程のこうした絶景に、もし毎日眺めていればきっとまた会える筈!・・・と思っていたのですが、なかなか会えない日々・・・。特に、今年の夏が異常なのか、スカッと晴れて、北アの絶景の夏山が姿を現してくれることは稀。殆ど雲が掛かり、北アルプス全体を見られる日が殆どありませんでした。朝、スッキリと姿を見せてくれ、今日こそは!と思っても、昼前には雲に覆われてしまうのです。
(奈良井川や梓川から発生する川霧:7月28日朝5時)
(夕方の西山の空:7月30日)
(朝の常念と乗鞍:7月31日朝5時10分)
ただ、そうして毎日眺めていると、例え北アルプスの絶景が見られなくても、まさに“千変万化”とも言える様な“天空”の変化に目を奪われることも決して少なくは無いことに気が付かされるのです。そして、この時期の変化は太陽と雲が織りなす一瞬の映像美が多い様に感じます。
(朝北アの峰々の上に雲だけが赤く染まった空:8月8日4時51分)
(8月14日モルゲンロートの乗鞍岳と北アの全景:朝5時8分)
初夏からこれまで撮った写真で見ても、実際の景色とは感じ方が違い、写真からではそう感動は感じられないとは思いますが、実際には思わず目の前に拡がる光景に見惚れることも決して珍しくは無いのです。しかも“千変万化”という様に、本当に秒単位で変化していく自然の映像美に目を奪われています。
(夕映えの北アルプス方面:8月23日18時31分)
松本に生まれ育ち、外に出た期間を除いても少なくとも半世紀以上松本には暮らしていたのですが、これまでは北アルプスを常に眺めていられる場所では無かったせいか、日々刻々と変化する北アルプスの峰々の様子はまさに“千変万化”で、見飽きることの無い素晴らし映像作品の様で、“岳都”松本に暮らす人間として初めて実感する幸せを感じています。
“人生六十にして 日々新た也”
(朝の局地的な雨の後に現れた虹:6月27日&9月1日)
コロナ禍のため、昨年はネット配信のみだったセイジ・オザワ松本フェスティバル。今年は観客を入れての開催となり、オーケストラ・コンサートは、昨年同様シャルル・デュトワが客演指揮者として登場。
昨年の「火の鳥」に続き、今年も同じくストラヴィンスキーの「春の祭典」がメイン。今年がSKFから数えて30周年ということで、初年度に演奏されたというSKOの委嘱作である武満徹「セレモニアル」、デュトワ得意のフランス物であるドビュッシーの「管弦楽のための《影像》」、そしてメインが「春の祭典」というオーケストラ・コンサートのプログラム。
面白かったのは、ゲネプロの様に本番さながらに通して演奏するのではなく、同じ個所を何度も繰り返し演奏するなど、如何にもリハーサルと云った感じで練習風景を聴くことが出来た点でしょうか。
特にドビュッシーの「映像」は念入りに何度も同じ個所を繰り返して練習をしていました。しかも英語でのデュトワの指示を受けて練習する毎にうねりが大きくなるなど、色彩感が変化していくのが実に興味深く感じられますし、すぐさま指揮者の指示に応えていくSKOもさすがです。
SKOといえば、プログラム毎のコンサートマスターが、例えば国内のメジャーオーケストラでこれまで、或いは現在コンマスを務められている小森谷巧、矢部達哉、豊嶋泰嗣の各氏に交替するなど何ともメンバー構成が贅沢。また、そのヴァイオリンだけではなく、チェロも若手の実力者である宮田大、遠藤真理が並び、後ろにN響で長らく主席を務められていた重鎮木越洋氏があの髪型で控えるなど、どのパートもそれぞれソロが務まる程の腕利きを集め、いくら年に一度の“七夕オーケストラ”とは云え、さすがは我が国の“スーパーオーケストラ”SKOらしい何とも豪華な顔ぶれです。更に桐朋OBを主体とする弦楽器のみならず、今年もフルートのジャック・ズーン氏を始め、海外の一流オケで活躍する外国人プレーヤーが加わった管楽器群がめちゃくちゃイイ音を奏でています。
その意味では、正に105人という大編成でのメインの「春の祭典」は節度を伴った“美爆音”でしたが、個人的にはドビュッシーが如何にもフランス音楽といった感じで、デュトワらしい色彩感が出ていて、うっとりと幸せな気持ちで聴き惚れていました。
妹のお陰で、三年振りに聴くフルオーケストラの“生音”。
「あぁ、やっぱり生はイイなぁ・・・」
しかもそれが、世界の“マエストロ”シャルル・デュトワ指揮でのSKO。ナントモ贅沢な時間があっという間に過ぎて行きました。
【追記】
余談ですが、会場をロビーで待っている時に、県内の他のコンサートホールの演奏会案胃のチラシやポスターがあり眺めていたら、小菅優さんと共に個人的に好きなピアニストの一人でもあるイリーナ・メジューエワさんの県文長野での演奏会案内があり、おっと思ったら、残念ながらその日は予定がありました。しかし、この時まで彼女の演奏会が県内であることを知りませんでした。
「そうか、コロナ禍でも世間は動いているんだ・・・」
因みに、彼女を初めて知ったのは、通勤途中で聴いた9年前のNHK-FM(第721話)。その時に、作曲者の曲に込めた想いを尊重するために、本番でも暗譜に頼らずに必ず楽譜を見るという彼女の真摯な演奏姿勢に感銘を受け、たまたま翌年の2014年に京都に行った時にリサイタルの日と偶然重なり、京都北山のコンサートホールに聴きに行きました(第914話)。その彼女が長野県で演奏会があるなら(以前、どこかのペンションに招かれて演奏会をしている筈なので、長野県初というのは間違いだと思います)絶対に聴きに行きたかったのですが残念でした。
以前、ハーモニーホールのプロデューサーの方に彼女の招聘を推薦したことがあったのですが、残念ながら採用されませんでした。いつか、松本での演奏を聴ける日が来ることを夢見て・・・。
8月6日。 “歌の早慶戦”と題し、早稲田大学グリークラブと慶應義塾大学ワグネルソサィエティー男声合唱団の合同演奏会として「松本特別公演会」が松本市の中央公民会(通称Mウィング)の6階ホールで、行われ、聴きに行ってきました。
市中にあるMウィング(中央公民館)の6階ホールは、何度か松本落語会で聞きに来ていますが、今回も階段状の席とパイプ椅子が並べられ、席数にして300席くらいでしょうか?
大学の男声合唱団と云えば、ネット検索に依れば『最初1899年には日本で関西学院グリークラブが誕生、続いて同志社大学にもグリークラブが誕生し,1902年に慶応義塾大学ワグネルソサエティが結成され,おもに大学合唱団が中心になっていた』とあるように、東京混声など歴史と伝統あるプロの合唱団もありますが、少なくとも私が学生の頃は、男声合唱では大学のグリークラブがトップ水準を誇っていて、100人近い団員を抱えた大学のグリークラブもあり、例えば当時発売されていた合唱曲の東芝EMIの「現代合唱曲シリーズ」のレコードでは、男声合唱曲は関学やワグネルなどのグリークラブが演奏を担当していました。そうした大学のグリークラブの出身のOBが、例えば早稲田からはボニージャックスが、そして慶應からはダークダックスが活躍するなどしたそんな全盛期も、今ではそうした老舗の大学グリークラブも、例えばこの早稲田もワグネルも団員が僅か20人足らずという現状で、往年の全盛期を知る人間としては見る影もない程の寂しさでした。
当時各パート20人以上もいたのが、今や5人ほど。そうした人数の減少が全体の声量も比例して減ってしまうのは当然のこと。早稲田はベースの低音部が良く、逆にワグネルはテナーの高音部が良かったので、合同ステージで漸く合計40人で各パートのバランスも良くなり、ナントか聞けるレベルでしょうか。それにしても、合同演奏では全員マスクをしながらの歌唱で、聴いている方も何だか息苦しく感じてしまう程。合唱に限りませんが、コロナ禍での音楽の演奏の大変さに同情を禁じ得ません。
両大学の校歌、応援歌に始まり、黒人霊歌や昔懐かしい男声合唱の定番曲である「秋のピエロ」や「柳川」、そして「見上げてごらん夜の星を」や「遥かな友に」(何れも早大グリーの定番アンコール曲)といった愛唱歌まで。
最近はTVの影響もあってか、“ハモネプ”に代表されるようなボイスパーカッションなどを取り入れたアカペラコーラスの方が大学では人気があるのか、ハモネプサークルの方が合唱団よりも団員が多い大学もあるのだとか・・・。グリークラブに限らず、昔ながらの同声合唱や混声合唱は嘗ての様な人気が無いのか団員数も減少の様で、老舗のグリークラブである早稲田も慶應もこの人数では往年の迫力ある分厚いハーモニーを望むべくもありませんが、それでも半世紀前と変わらずに必死に一生懸命に歌う若者の姿に清々しさを感じ、また若者から大いにエネルギーも貰って、何だかほのぼのした気分で会場を後にしました。
「イイなぁ~、若いって・・・。コロナなんかに負けずに、みんなガンバレ!」