カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
離れて暮らす娘たちから(今や海外からでもネット注文が可能なので)、有難いことに母の日や父の日に毎年プレゼントが送られて来ます。
昔はシャツやバッグなどの時もありましたが、引っ越しや終活に向けての断捨離で、着るものは何着も処分して来ましたし、リタイアした後は早々外出する機会も減りましたので、頂いても宝の持ち腐れ。そのため、最近では日頃我々貧乏性夫婦がなかなか買えない(買わない)様な高級食材を送ってくれるようになりました。
海鮮は以前行った「小田原さかなセンター」内のお店「まぐらや」の通販サイトからのオーダーで、ウナギは次女の住む横浜の有名店とか。
「まぐろや」は以前箱根への家族旅行の際に、冷凍の本マグロの赤身と店一番人気の鮪ガーリックタタキを買って帰って夕食に食べたのが美味しかったのですが、オンラインショップもあるので通販でも買えると聞いていました。今回NYの長女が送ってくれたのは、鮪ガーリックたたきと光物好きの私メのために金華鯖のシメサバ、そしてキンメの煮付け。
横浜の名店のウナギは、大きな切れ目の国産ウナギのかば焼きがが二尾分と併せて肝吸いがセットになっています。
それぞれ冷凍モノなので、例えばウナギはすぐに食べずに冷凍保存しておいて、7月末の土用丑の日に頂戴しましたが、フワフワで大変美味。久し振りの極上のウナギを美味しく頂戴しました。
また、鮪のタタキもシメサバも勿論美味しかったのですが、“伊豆の名物”キンメの煮付けが絶品でした。
因みにタタキとシメサバは、奥さまが常備している(飽くまで、信州で定番のスギヨのビタミンちくわとの比較で)高級生ちくわに南高梅のタタキとベランダ栽培している青じそを挟んだ一品も酒の肴として添えて、なかなか外に飲みに行けないので自宅で居酒屋風に。
金目鯛の煮付けの味付けは専門店ならでは。柔らかな身は勿論なのですが、煮汁も美味しいので二回に分け、シンガポールで良く食べた「清蒸鮮魚」(第1643話参照)での好物だった“ネコマンマ風ぶっかけ飯”同様に、煮汁を少し薄めてご飯にその煮汁を掛けて、所謂“ぶっかけ飯”にして完食させていただきました。例えハシタナイと云われようが、こういう食べ方ってやめられません、よね!?
「ふぅ、美味しかった! どうも、ごちそうさまでした!」
空梅雨気味だった梅雨明け後、今度は逆に梅雨の戻りの様な日が続き、なかなか快晴の日が望めない中で、やはり曇りや雨マークばかりの日々の間で、たまたま未明から午前中まで晴れマークが並んだ7月29日の金曜日。この日を逃してはならじと、塩尻と辰野町の間にある霧訪山(1305m)へ登ってみることにしました。
霧が訪れる山と書いて「きりとうやま」。なかなかロマンチックな名前が付けられた山です。里山ですが、数年前の「信州の里山総選挙」なるもので1位を獲得し、また昨年だったかの登山専門の雑誌“ヤマケイ”で絶景の里山として紹介されるなどして最近人気の山で、そのため最近は地元だけではなく県外からも登山客が訪れるのだとか。
まだ人気になる前ですが、何年も前に昔の会社の同僚から「初心者向きだけど、頂上からは360°の展望が効いてイイ山だ」と薦められた記憶がありました。
霧訪山の主な登山ルートは3つあるようですが、ネットで得られた登山コースの地図で一番分かり易かったこともあり、今回の初登山は一番距離の短い北小野地区からの小野コース
後で分かったのは、駐車場までの矢印を始め、唐山道に沿った頂上までの距離を示す100m毎の工程表など、地元の両小野中学の子供たちが手書きで制作したモノで、それ以外にも「霧訪山友会」の方々なのでしょう、きちんと整備された登山道など、霧訪山が地元の大切な里山として地域の皆さんから愛されていることが良く分かりました。
8時過ぎに着いた時には駐車場には既に5台程停められていて、平日でしたがやはり人気の山の様です。
8:30ちょうどに駐車場を出発し、100m歩いて赤松に覆われた登山口に到着。ストック(トレッキングポール)を忘れた人のためか、貸し出し用の木製の杖が20本近く用意されていました。
頂上まで1500mの看板に見送られて登山開始です。登山口から、いきなり257段と書かれた階段の急登が始まります。しかし、硬質ゴム製だと思いますが、よくぞ階段状にステップを埋め込んだものです。登山道を整備された地元の方々に頭が下がります。
階段を登り切って、1100mという看板辺りから赤松の根が張った登山道が階段変わりとなって、急登ですが意外と歩を進め易い気がします(ここまで20分)。御嶽信仰の石碑やその先に送電線の鉄塔が立っていて、そこが「かっとり城跡」とあり、鉄塔の立っている平らな場所が戦国時代の小笠原氏の家臣の山城跡らしいのです。ここ辺りがコースの中間地点で、少し展望が開け、辰野の小野地区が眼下に見渡せます(9:00)。
そこからなだらかな登りが少し続き、青いトタンで覆われた三角屋根の非難小屋(十分風雨が防げます)を過ぎて暫くすると、後半の急登が始まります。
登山道は最初から茸の止め山なので、コース以外へは侵入禁止とのことから、両側にロープが張られていて、中には三ヶ所程鎖の場所もあるなど結構な急登であってもロープや鎖の助けで登ることが出来ます。100m毎に、「山頂まで〇〇m」という手書きの標識に励まされて、コースタイム通りの1時間10分で霧訪山1305mの山頂に到着しました。
山頂の直前までずっと林の中だったので、本当に展望が開けるのかと疑心暗鬼だったのですが、山頂はあまり広くこそありませんが入笠山と同じ様に木々が切り払われていてパッと視界が開け、“一望千里”のキャッチフレーズの通り360°の展望が開けていました。ただ、北と中央アルプスは雲が掛かり、南も僅かに仙丈が望める程度。八ヶ岳も雲の中。残念ながら、やはり夏山は雲が掛かってその姿を拝むことはこの時期はなかなか難しい。
すると、塩尻の下西条と善知鳥峠の分水嶺の別ルートからという二組の方々がそれぞれ登って来られました。少しお話ししましたが、かっとりコースは最短ですが急登なので避ける人も多いのだとか。後で調べたら駐車場からの標高差が430mでしたので、確かにちょっとした登山気分が味わえます。登山口へはJR(飯田線ですが)小野駅からも歩いて行けますので、人気の里山登山で県外から来られるというのも良く分かります。
下りも、それこそロープを頼りに急坂に気を付けながら歩を進め、コースタイム通り50分で無事下山して駐車場へ戻りました。
今まで気になっていた初めての霧訪山。評判に違わぬ楽しめた山行でした。もし今度来る時は、松本からだと小野地区までは車で結構遠かったので、手前の塩尻の下西条からのコースで登ってみようと思います。
帰りに弥彦神社の手水舎の湧水が美味しいと聞いたので、そこで喉を潤してから松本へ戻りました。
後で考えてみれば、毎年登る三城からの百曲がりコースでの美ヶ原(百曲がり園地まで。但し、広小場までの1㎞程は緩やかですが・・・)が標高差500mちょっとで距離3㎞を2時間なのですから、かっとりコースの霧訪山が標高差430mの1.6㎞を1時間10分というのは、小学校の算数的にも距離は(直線として)斜辺で底辺ではないので倍までいかずとも(注)、傾斜角的に急勾配になって当然でした。その意味でも、身近な里山とはいえ、霧訪山の「かっとりコース」が登り応えがあったのもナルホドで、“然もありなん”と納得した次第。
【注記】
小学校で出て来る三角形は底辺と高さだけですが、高さと斜辺が分かっている場合に三角関数で計算すると、
美ヶ原=9°で、霧訪山(かっとりコース)=15°と計算出来ます。
但し、広小場からの本格的な百曲がりは道がつづら折りでジグザグ故に距離があります(1700m)ので計算上は12°となりますが、(直線距離が分からないので)実際の傾斜角的には同じくらいだと思います。
7月24日、朝のウォーキング。山歩きのためにトレーニングを兼ねて城山に登り、その後旧開智学校から松本城、四柱神社を経て深志神社へと歩きます。松本の市街地、お城が標高600m(市役所は592m)で、城山が大体700mですので、100m登るのですが、渚からだと宮渕辺りからいきなり坂になるため、一気に100mの急登という感じで結構トレーニングになりますし、時間があれば城山トレイル(遊歩道)で770mのアルプス公園まで行けば、市街地に居ながらにしての“プチ登山気分が味わえます。
すると、境内には何本もの祭りの幟が建てられ、もう既に朝早くから色鮮やかな舞台が10騎程境内に勢揃いしていました。深志神社の天神祭りです。手水舎にも花が浮かべられていて、祭りの境内に文字通り華を添えています。
コロナ禍は収束してはいませんが、“With コロナ”で三年振りに京都でも祇園祭の山鉾巡行が行われたとか。祇園祭の起源は平安時代に京都で流行した疫病(コレラだった筈)を鎮めるため、矛をつくり疫病の退散を祈願したのが始まりです、そのため今でもその象徴である長刀を飾る長刀鉾が先頭を練って進みます。ですからコロナ禍こそ、京の庶民である町衆の疫病などに負けず疫病退散の気概を示すべく、祇園祭は実施されて然るべきなのです。
その祇園祭とまではいきませんが、7月の24日と25日は、松本の深志神社でも天神祭りが3年振りに行われました。24日が宵宮で、25日が本宮です。京都の山鉾巡行同様に、深志神社もコロナ禍で出来なかった16騎の舞台が、三年振りに各々の町会を距離を短縮した上で曳行されたとか。
深志神社の社史に依れば、
『信濃守護・小笠原貞宗が戦勝に感謝し、暦応2年(1339年)に戦の神でもある諏訪明神を祀って創建し、その後永正元年(1504年)、小笠原氏の家臣が深志城(松本城)を築城すると、当社を城の鎮守・産土神として崇敬。その後武田に占領されて社殿は荒廃したが、豊臣の時代になり、小笠原氏が信濃に復帰して社殿を修造し、深志城の南方の鎌田村に小笠原氏によって勧請され創建されていた天満宮(鎌田天神)の分霊を、宮村宮の北の新宮に奉遷した。そのため、本来は諏訪社の建御名方命の方が主祭神であるが、天満宮の方が有名となり、深志天神・天神様と呼ばれるようになった。
江戸時代も松本藩累代藩主の崇敬を受け、松本城下の南半分の商人町の総氏神ともなった。』
従って、深志神社は松本城下の庶民の氏神として、今でも天神祭りが松本の町を挙げてのお祭りなのです。
そのために、宵宮である24日(日)の朝6時から各氏子町会の舞台を収納している倉庫から引き出されて祭神である深志神社に全舞台16騎の内14騎が奉納され、神様のお祓いを受けてから各町会の場所に向かったのだそうです。
殆どの舞台が江戸末期から明治初期に各氏子の町会毎に製造された舞台で、スサノウノミコトや翁媼の高砂など、それぞれ神話の世界などのお目出度い場面が人形で様々に再現されています。そうした彩鮮やかな舞台だけではなく、手水舎にも色とりどりの花が浮かび、天神祭りの昇りが立てられ、そしてこちらも3年振りなのでしょう。地元だけではなく、こうしたお祭りやイベントを回って県外からも来られたであろうテキ屋さんが屋台の設営中でした。
舞台もですが、屋台って子供の頃を思い出してか、何となく気持ちがうずくというか、ウキウキして来ます。やっぱりイイですね、お祭りって・・・。そして何より、これまでのコロナ禍での中止で、そうしたワクワク感を知らない小さな子供たちが、感受性豊かな小さい内にそうしたワクワクする気持ちを是非体験して欲しいと思いました。
カラマツの林を抜けると石畳の坂道があり、つづら折りの急勾配の藪原側の峠道がいよいよ始まります。
途中、道から少し上部に広場の様な平らな処があり、ここが丸山公園で、昔織田勢(木曽氏)と武田勢の古戦場跡とか。中山道を歩いた松尾芭蕉(「更科紀行」と「野ざらし紀行」の二回)の句碑や石仏が立ち並んでいます。
『 ひばりより 上にやすろう 峠かな 』 芭蕉
(清水横の説明版:英泉画「三十六藪原 鳥居峠硯清水」)
ここで初めて眺望が開け、今登って来た藪原宿を眼下に望むことが出来ました。更に登って行くと、平家討伐の旗揚げをした木曽義仲が、峠の頂上で“霊峰”御嶽へ奉納する戦勝祈願を書かせる為に硯の水に用いたという義仲硯水があり、その先に御嶽神社があります。ここに峠名の由来となった鳥居がありますが、これは木曽義元が松本の小笠原氏と戦う際に御嶽に戦勝祈願をして勝利したお礼に建てたものだそうです。勿論、今の鳥居は往時のモノではなく何代目かの鳥居でしょう。そこを過ぎると平坦な道となり、道沿いに太い栃の木が何本も群生していて、その一本に子宝伝承の「子産みのトチ」の木もありました。
『 木曽の栃 うき世の人の 土産かな 』 芭蕉
そう云えば、滋賀の大津で討ち死にした義仲の墓のある義仲寺に、その義仲を慕った芭蕉の庵と、自身の遺言による芭蕉の墓もありましたが、義仲に縁の木曽路を歩きながら芭蕉も彼を偲んだことでしょう。
ここでトンネル以前に峠を越えていた旧国道などと交わり、そこを過ぎた先に「峰の茶屋」という休憩所がります。さすがに今は無人で茶屋ではありませんが、キレイに磨かれた板張りの立派な小屋で、トイレと水場もあり、さすがに飲むのは控えて手と顔を洗わせてもらいましたが、手が切れる程に冷たくて生き返る様でした。
茶屋で休んだ江戸時代の旅人同様に、我々もここでエネルギー補給に行動食を取りながら暫し休憩。
この辺りが1197mという鳥居峠の中山道の頂上で、ここからが奈良井宿に向けての下り坂になります。
今まで登って来た藪原側と比べると、奈良井側はかなり細く、旧街道が当時のまま保存整備されている訳では無いにしても、これでは参勤交代や皇女和宮の行列が通ったとは思えない程荒れ果てていて、また奈良井側は沢が幾つも有り、昨年の8月豪雨の影響もあってか、沢筋に架かる橋や木道が結構痛んでいて、藪原側の中山道に比べてその整備状態は余り良くありませんでした。
途中、石碑だけでしたが一里塚跡を過ぎて、「中の茶屋」という落書きだらけの荒れ果てた掘っ立て小屋があり、ここは「葬り沢」と呼ばれ、武田勝頼が織田勢の地元木曽義昌のゲリラ戦に敗れた武田家滅亡の始まりとなった戦いで、武田勢の戦死者500人が沢に葬り去られたことから名付けられたという薄暗くて不気味な場所もあり、夜道はさぞ怖くて歩けなかっただろうと思いました。
道も案内板も良く整備されていた藪原宿からの峠道でしたが、その標識一つとっても新しくて見やすかった藪原側に比べ、奈良井側のそれは古ぼけて字も剥げ掛かっていて、所々判読不能な有様。合併せずに単独での存続を選んだ木祖村と、片や平成の合併で塩尻市に合併した旧楢川村(贄川・平沢、奈良井)。隅々まで目が届く(観光資源も藪原宿とスキー場くらいの)木祖村と、大きくなったが故に(奈良井宿そのものは観光的には人気ですが)外れの細かな処に目が届かなくなった自治体との差でしょうか?・・・。峠を挟んでの余りの差を感じて、峠道を下りながらそんなことを考えていました。
コロナ禍前で、まだインバウンドの外国人観光客もたくさん歩いていた同じ中山道“木曽11宿”最後の馬籠から妻籠への馬籠峠(第1439・1440話)に対し、今回の鳥居峠は最初から最後まで我々以外に僅か3人とすれ違っただけ。
奈良井宿が近付くにつれ、漸く道も整備され、昔も行き交う旅人を見送ったであろう石仏や藪原同様に復元した石畳の道も現れ、いよいよ峠道も終盤です。
舗装された車道からまた旧中山道の細い道を通り、宿の外れにある鎮神社近くで鳥居峠の峠道は終わり、奈良井宿へ入ります。
人気の無かった峠道とは打って変わって、人気の奈良井宿は7月の三連休最終日を楽しむ観光客で、“奈良井千軒”と云われた往時の賑わいを取り戻したようでした。
ここまで出発してから2時間10分。奈良井駅がJR東海の駅で最高地点の934mとのことなので、藪原からだと中山道の鳥居峠は標高差240m程だと思いますが、藪原駅から6・4㎞の行程をほぼコースタイム通りの2時間半、宿の途中にある観光案内所で忘れずに藪原宿でお借りした「熊除け鈴」を返却(保証料の2000円を受け取り)してから、奈良井駅近くの朝車を停めた駐車場に到着しました。ちょうど昼時でしたので宿場のお蕎麦屋さんで昼食にしましたが、値段も味も観光客相手で感心しませんでした(昔、馬籠のレストランでで出された乾ソバでのざる蕎麦よりはまだマシか・・・)が、更に酷かったのは、壁に掛かっていた俳画の額。
そこには「そばはまだ 花でもてなす 山家かな ばせを」とありますが、これって本来は、
『 蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 』 芭蕉
の筈。そして、その前書きに「弟子の斗従という人が伊賀上野の山家という地籍にあった芭蕉の住まいに、山路を歩いて訪ねて来た折の句」(新蕎麦にはまだ早いので、せめて山路に咲くソバの花で客人をもてなそうという趣旨)とされていますので、この俳画を描いた人が「山路」を地名の「山家」と勘違いしたのでしょう。しかし、そうと知らずに飾るのも、プロの蕎麦屋としては何とも恥ずかしくまた情けない(これじゃあ、「所詮観光客相手の蕎麦屋か」と思われても仕方が無いか・・・)。
今回の峠歩きは、やはり登山に比べると遥かに楽でした。もし旅行に初めて来て古を偲びながら峠を歩いて宿場を観光するなら良いと思いますが、残念ながら途中の眺望も良くないので、弥次さん喜多さんや水戸黄門さまご一行同様に「中山道屈指の難所を歩いた」という以外は然程満足感や達成感は無く、多分トレッキング気分で再度歩くことは無かろうと思いました。
今年の登山シーズン開幕で登った入笠山と美ヶ原。今回は登山ではないのですが、旧中山道の難所と云われた木曽路の鳥居峠を歩いてみることにしました。
鳥居峠は、中山道六十九次の内の木曽路十一宿と云われた中で、奈良井宿と藪原宿の間にある標高1197mの峠で、分水嶺です。鳥居峠から北に流れる奈良井川は、梓川と合流して犀川となって、その後千曲川と合流し、最後は信濃川と名を変えて日本海へ。一方、南に流れる川は木曽川として太平洋に注ぐ、いずれも県歌「信濃の国」に謳われる“国の固め”でもあります。
お江戸日本橋からだと、奈良井が34番目で藪原が35番目の宿場ですので、京都三条大橋(滋賀の守山で東海道と合流)のほぼ中間辺りになります。
同じ江戸と京都を起点とし、片や弥次喜多道中で知られる東海道五十三次よりも長く、また山道の多い中山道ですが、東海道の様に途中大井川での雨に因る川止めが無いことから、“姫街道”とも呼ばれた程に女子を中心に利用する旅人も多かったとか。幕末になって皇女和宮が江戸への降嫁のために京から江戸へ下った道でもあります。
ただ浅田次郎の時代小説「一路」では、岐阜田名部の名門旗本である蒔坂家の古式に則った中山道を進む参勤交代行で、道中の難所として描かれているのは木曽福島宿手前の与川崩れと雪の和田峠であって、肝心のこの鳥居峠は「木曽の桟も超えた勢いで一気に越えた」と僅か一行で描かれていました(但し、与川超えの結果、福島宿を守る役人たちと一行との感動的な場面が描かれるのは、一気の鳥居峠越えで一行が宿を取った奈良井宿でした)。
因みに、木材は重要な資源であり、木曽は織田の時代から時の政権の直轄地であり、江戸時代は徳川御三家の尾張藩でした。従って木曽福島宿は尾張藩であり、贄川宿が尾張藩と松本藩との境だったそうです。
鳥居峠は(修学旅行の無かった)高校時代にクラスの遠足で歩いて以来、実に45年振り(数える意味もありませんが)です。皆で松本から電車で来て、あの時も藪原から峠を越えるルートで歩き、奈良井宿の資料館が自宅という同級生が居てクラス全員で見学させてもらいました(彼は田舎に戻らず都会で就職したため、妹さんが今でもその資料館を守ってらっしゃいます)。
難所の峠を控えての体力を備えるために江戸からの旅人が泊まったことから、“奈良井千軒”と呼ばれ繁盛したという奈良井宿。今回はその逆で、京から江戸に下る旅人が泊まった藪原宿から峠を越えて奈良井宿へのルートを選択。車は駐車場の広い奈良井に停めてJRで藪原に行き、藪原から奈良井へ峠を越えて戻ることにしました。
旧道の奈良井川に沿ってくねくねとカーブの多かった日出塩と贄川の間をぶち抜いた、1・5㎞の桜沢トンネルが昨秋に開通し、真新しいキレイなトンネルであっという間に通過。ここで時間短縮したことも手伝ってか、8時前に奈良井の無料駐車場へ到着しました。途中コンビニで購入したサンドイッチで朝食を取り、トイレ休憩で身支度を整え、8時40分発(始発駅は松本)の中央西線の中津行に乗車しました。電車は峠の下をトンネルで通過し、僅か6分で藪原に到着です。そこを昔の旅人同様に3時間近く掛かって歩くのです。
木祖村の藪原宿。木曽川の源流の地という意味も込め、村名には木曽の「曽」ではなく「祖」の字を当てています。奈良井と藪原からの峠道を比べると、駅から中山道へは藪原からの道順が少し分かり辛く、事前にマップをプリントアウトして来たのですが、駅に置かれていた「藪原宿案内図」がとても分かり易く、それを頂いて歩くことにしました。
因みに、案内図に使われているのは、渓斎英泉(けいさいえいせん)と歌川広重(うたがわひろしげ)の合作「木曽海道六拾九次之内」(注)の中の、英泉の「三十六藪原 鳥居峠硯清水」と名付けられた藪原宿の浮世絵です。因みに描かれている山は、峠から望む霊峰御嶽山とのこと。
以前馬籠峠を歩いた時(第1349&1350話)に、熊除けの鐘が峠道の途中何ヶ所かに置かれていたので、今回の鳥居峠にも登山用に購入してある「熊除けの鈴」を持って行こうと思って探したのですが、引っ越しで「熊除け鈴」が見つからず、そのため事前に調べると、「塩尻観光協会」のH/Pに木祖村観光協会の「藪原宿にぎわい広場 笑ん館」という多目的交流施設(パンとかも買えます)があり、ここで「熊除け鈴」(桧笠も)無料で借りられるとのことでした。8時半からオープンしていて、そこで手続き(氏名や連絡先等を記入し、デポジットとして保証料2000円で奈良井の観光会館で返却すれば返金される仕組み。桧笠も同様で外国人観光客が喜びそうです。逆ルートでは、奈良井で借りて藪原で返却するのも可)をして、念のために鈴をお借りしました。本当に有難い仕組みだと感謝です(因みに、峠道にも3ヶ所熊除けの鐘がありました)。
心配した道順ですが、起点となる場所には丁寧な案内表示板が設置されていて実に分かり易く、これなら迷うことも無いと感心しました。
江戸時代から続き、今でも高級品である木曽路の名産お六櫛発祥の地である藪原宿に沿って歩きます。宿場の外れに在った “十六代九郎衛門”の「湯川酒造」の前を通り、飛騨街道との追分から坂道を登って水神様を祀る水場(飲めるとの表示が有り、美味しい清水でした。因みに奈良井宿の水場は、全て「念のため一度沸かして飲んでください」との但し書きがあったので、残念ながら諦めました)で一息入れ、いよいよ旧中山道へ。藪原駅から、奈良井駅までの6.4㎞の行程の内、藪原駅からこの石畳分岐までが2.1㎞とのこと。ここから峠の頂上までは1.8㎞です。
【注記】
広重の代表作となった「東海道五拾三次之内」の大ヒットに気を良くした出版元が、 “二匹目のドジョウ”を狙って広重と渓斎英泉の合作で描かせた街道物の浮世絵シリーズの第二作としての中山道です。
(左:藪原宿 右:奈良井宿 どちらも英泉画で、奈良井宿の山は木曽駒です)
ここでは中山道は「木曽街道六拾九次」として、江戸日本橋と京三条大橋を結ぶ中山道の各宿に取材し、出発点としての日本橋と板橋から大津までの69の宿場の全70枚が描かれています。
夕飯は、一度来てみたかった郷土料理の「山びこ」へ。
これまで、飛騨牛のひつまぶしなどがウリの店とか飛騨名物という鶏ちゃんが名物の店などに伺ったのですが、正直それ程の満足感はありませんでした。
今回の「山びこ」は、地産地消の地元の食材を使う郷土料理の店です。
温泉街の真ん中付近を飛騨川へ流れ下る、急流の阿多野谷に架かる橋で林羅山と何故かチャップリンの像がある白鷺橋の近くです。
夕方6時前でしたが、テーブル席は観光客や地元の方か一人で夕食を食べている方などで埋まっていて、我々は小上がりへ。
生ビールを注文し、料理は、大ナスの丸太焼(600円)、清流で知られる地元の飛騨川(益田川)で釣れた天然鮎の塩焼き(大小の大きさに関係なく、一尾1000円とのこと)、アマゴの唐揚げ定食(1550円)をお願いしました。
定食には、唐揚げのアマゴが4尾、山菜の煮付けの小鉢と、お団子が付いています。そして、お昼に飲んで美味しかったので、冷酒で「天領」の小瓶もお願いしました。
更に下流域だと、長野県ではウグイ(注)になり、例えば千曲川では今でも「つけば」漁でウグイや鮎を捕まえていて、この時期は上田の千曲川の河川敷に設けられた「つけば小屋」で食べることが出来るのですが、ご自身でも小さい頃からオヤジさんに連れられて渓流釣りをされるという大将に依れば、ウグイはこの辺りでは猫も除けて通るという意味での“ネコマタギ”と呼ばれ見向きもされないそうです。
「ナルホド、処変われば・・・なんですね。」
唐揚げにされたアマゴは骨ごと食べられる程、身もほくほくと柔らかくて美味しかったです。家内も天然の鮎の塩焼きに満足の様子。
また、種類は分かりませんが、田楽の様な大ナスの丸太焼も素朴ながら熱々で美味でした。
二人共お腹一杯になって、これで〆て酒代含め4千円ちょっと。
フ~ム、昼間の蕎麦で6千円て一体何だったんだろう・・・と、ここでも些か疑問が再燃してきました・・・。
ただ、「天領」は残念ながら美味しくはなく、お昼に頂いた生酛純米でないとダメなようです。日本酒は、個人的には甘い吟醸酒よりもむしろ純米酒の方が好みなのですが、酒米や勿論精米歩合、また仕込み方法や酵母などによって同じ蔵でも全然違うので、例え銘柄であってもなかなか自分好みのお酒を見つけるのは難しい・・・。
【注記】
産卵期にはお腹が赤くなることから、アカウオとも呼ばれます。亡くなった父方の叔母に依れば、父の実家のある島内平瀬地区の拾ヶ堰(平瀬地区にこの拾ヶ堰の奈良井川からの取水口があります)からの用水路には、昔はアカウオが群れになって遡上してきたとのこと。
また、三才山を源流に、松本市内を流れる女鳥羽川にもウグイが生息しているそうですが、市街地の川にウグイがいるのは珍しいそうです。
7月11日から13日まで二泊で二年振りの下呂温泉へ。
今回の旅の目的は、冷凍ストックが切れた飛騨牛の買い出しと、下呂には観光で見に行く処はもう無いので、まだ行ったことの無い郡上八幡観光です。
途中、高山の北にある飛騨古川(新海誠監督「君の名は」の舞台)は前回観光していますし(実際は昔職場旅行でも来ていて、朝ドラの舞台の「和蝋燭」店を見た記憶だけがあり、ここ古川だったことを前回来た時に思い出しました)、高山は職場旅行(しかも違う職場で二度)も含め、家族旅行やバスツアー、更に昨年は事前の飛騨家具のショールーム見学でと何度も来ていますので、今回は“パス”して素通りです。
安房峠を超えてそのまま下呂へ向かい、高山から国道41号線を走って宮峠という小さな峠を越え、やがて昨年の台風で氾濫した飛騨川に沿ってずっと下呂まで走って行きます。
4年前に高山経由で下呂温泉に来た時に初めて知ったのですが、飛騨川に沿って上流から順番に上呂、中呂、下呂という地名が続いています。県外の人間は“日本三名泉”の「下呂温泉」しか知らず、そのゲロという地名に「面白い名前だ」くらいしか思わないのですが、これは元々この地に奈良時代の駅家が置かれ、最初は上中下の順に例えば「下留(しものとまり)」と呼ばれていたのが、その後「ゲル」から「ゲロ」と読み方が変化したという説が有力なのだそうで、最初に上呂、中呂とあるのを見つけて、何だか妙に得心した記憶があります。
今回の下呂滞在は二泊だけなので、唯一終日自由となる中日に郡上八幡行を予定していたのが(梅雨が明けたというのに)生憎終日の雨予報。せっかく郡上八幡に行ったらお城や街歩きもしたいので、雨予報に今回は諦め。そこでワンコたちと宿でノンビリまったりして、一日温泉三昧とすることにしました。前回下呂に来た時に、「合掌村」(白川郷などから移築し再現された、10棟の合掌家屋集落。残念ながら白川郷の様な生活感は無い)も、またその中にある円空仏を集めた「円空館」も、更には近くに在った縄文公園(復元住居と土器などの発掘品の展示館)も全て見学済みですし、温泉街の下呂の街ブラも済ませています(第1324話)。従って、温泉を楽しむ以外、他に観光で行く所は下呂には無さそうです。
でも、せっかくなので、この日の昼食と夕食は、雨の小止みになった頃合いを見計らって外出し、外食にて下呂グルメを楽しむことにしました。
その店は「仲佐」(なかさ)という蕎麦店で、温泉街ではなく、市役所の近く。この日は平日の火曜日で、店に着いた時は11時半の開店時間を少し過ぎていましたが幸い行列は無く、店内に二組の先客がおられ、我々は三組目。テーブル席に案内され、スッタフの女性からメニューのご説明。
スタッフは、一品の小鉢が付いた「蕎麦三昧」(2800円)を必ず客に先ず説明しているので、どうやらそちらが店のお薦めの様ですが、こちらはソバ以外には興味が無いので、一日十食限定という蕎麦掻き(2000円)とざる蕎麦(1400円)で、私メはもう一枚(1200円)を追加。それと家内は蕎麦饅頭(350円)と、私メは蕎麦掻きを“あて”に、蕎麦前として「天領」の生酛純米もオーダー(850円の一合ではなく、430円だったか、半分のお猪口一杯がメニューにありました)。
ざる蕎麦は『厳選した奥飛騨産、信州産の在来種のソバを、石臼でていねいに手挽き製粉した蕎麦粉で打った、風味、食感に優れた蕎麦』で、蕎麦掻きは『石臼で手挽き製粉した粗挽きの蕎麦粉を使った、香り高い蕎麦掻き。一日10食限定』とのこと。
この店のウリは、石臼で挽いた蕎麦粉とのことですが、H/Pの説明に依れば、『製粉からそば打ちに至るまで、手回しの石臼とふるいだけを用いて自家製粉しております。手作業で作るそばですので打つ蕎麦には数に限りがあります。途中で品切れする場合がありますが、ご理解下さいますようお願い申し上げます。』とのこと。
また、その蕎麦自体も、『奥飛騨や長野県の一部で栽培されている小粒のソバの実だけを使って、蕎麦を打っています。一般には流通していない貴重なソバなので、店を開いた当初から、このソバを自分たちの手で栽培してきました。地元の農家の方と力をあわせて、30年以上にわたって、栽培を続けています。』との由。
要するに、信州や飛騨地方の昔ながらの在来種で、自家栽培をして確保している蕎麦だけを用いて、昔ながらの製法で打った蕎麦。
例えば、松本にも「石臼挽き」を謳う店はありますが、石臼を機械で回していて、こちらの様に全て手回しだけというのは店主の拘りと大変さが分かります。その日に人力で用意出来る粉も限られるでしょうから、数量限定というのも止むを得ませんし、その分値段が高くなるのも納得ですが、それにしても、ざる一枚が1400円、追加1200円というのは破格の値段ではないでしょうか。
暫し待つ間、テーブルに置かれた季節の花の投げ入れが、蕎麦に拘るご主人の姿勢の様に飾り気がなく、清楚で風情があります。雰囲気は全く違いますが、昔お婆ちゃんが一人でやってらっしゃった頃(有名になる前)の松本「野麦」の、一輪挿しに代表される(蕎麦好きだった故杉浦日向子女史も「店の空気に思わず背筋が伸びる」と評した)凛とした雰囲気を思い出します。
お茶が蕎麦茶にしては随分香ばしいのでお聞きすると、やはり蕎麦茶ではなくほうじ茶とのこと。そこで料理が運ばれて来ました。
先ずは蕎麦掻きです。擦り卸したワサビと生醤油で戴くのですが、夏の時期なのに蕎麦の香りがして確かに美味しい。下呂の地酒、生酛純米の天領に良く合います。蕎麦粉100%。緩くも無く固くも無くちょうど良い練り具合。(でもお婆ちゃんと娘さんで切り盛りしていた、稲核の「渡辺」なら、値段は1/3で量は倍以上だったかな・・・。10年以上も前ですが、第380話を参照ください)。
ソバも、量はハッキリ言って普通より少な目です。ただ中細麺で平打ちの蕎麦自体は、十割ではなく繋ぎを使っているそうですが、ツヤツヤしていて滑らかな麺で喉越しも良く、木曽の時香忘(こちらはオヤマボクチが繋ぎに使われていますが)の蕎麦に何となく似ています。ソバツユは見た目程濃くはなく、じゃぶじゃぶ浸す信州蕎麦と先っぽに付けるだけの江戸蕎麦の中間くらいでしょうか?薬味は紫色の辛味大根のみで、ある意味飾り気がなくて潔い。
確かに美味しい蕎麦でした。自分で蕎麦を栽培し、更に全ての粉を人力で3時間掛けて石臼で挽くのは本当に大変ですし、それだけで頭が下がります。確かにそこまで拘っている蕎麦屋は(自家栽培は田舎では結構ありますが)聞いたことはありません。
しかし、果たしてその努力の全てを客側に転嫁し得るのでしょうか?しても良いのでしょうか?
蕎麦で7千円近くも払ったのは恐らく生まれて初めてですが、まぁ確かに、それなりに値段なりの(?)満足感はありました。そして、お店のスタッフの気配りと心遣いも良かったと思います。
「ウーン、でもなぁ・・・」
しかし、じゃあ半分の値段で、或いは2/ 3 の値段で満足出来る店は他に無いのか?と問われると、「うーん」と唸るしかないのです・・・。
個人的には、決して嫌味ではなく、この日の料理の中では、地元の蔵元の「天領」の生酛純米が一番美味しくて感動しました。