カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
週末の早朝ウォーキング。
今回、初めてあがたの森まで歩いてみることにしました。コースは、渚から松本駅経由で、最初に深志神社に寄ってからあがたの森へ。そこから四柱神社経由で松本城。そして、また駅から渚へ戻ります。大体7㎞位のコースでしょうか。ただ沢村の時と比べ、アップダウンがありませんので登山の訓練にはなりませんが・・・。
先ずは天神さんの深志神社に寄ってお参りです。すると、拝殿の鈴に3年振りくらいになるでしょうか、コロナ禍で外されていた鈴緒が三本、昔の様に付けられているではありませんか。コロナ禍の間は、鈴を“鳴らしたつもり”の“エアすず”でお参りをしていましたが、本当に久し振りに鈴を鳴らしてから参拝することが出来ました。長野県でもまだまだ感染者は発生していますが、そうした中で徐々に日常が戻りつつあるようです。
大正8年(1919)にあがたの地に開校した旧制松本高等学校。
「松本にも“ナンバースクール”を!」と、1899年(明治32年)から誘致活動を行ってきました。しかし1899年(明治32年)の第七高等学校誘致の請願も、1910年(明治43年)の第九高等学校誘致の請願も実現せず、漸く松本に高等学校が開校するのは1917年(大正6年)の請願に拠ってでした。
東京の一高から始まり八高の名古屋まで。しかし、それに続く「ナンバースクール」としての第九高等学校の開校は実現しませんでした。1918年(大正7年)の高等学校令以降、新たに開校した高等学校の名称には「ナンバー」ではなく地名が用いられたからです。そうした経過を経て、漸く松本に開校した高等学校が旧制松本高等学校です。
それでも松本の人々の「九高」への思いは強かったようで、旧松本高等学校の校章には「髙」の文字の外側に放射状に9本の線があしらわれていて、“名称は「松本高等学校」だが、実質「第九高等学校」である”という気概の表れとも云われているそうです。
松本高等学校は1918年(大正7年)に設置が決定し、翌年、松本城の二の丸にあった松本中学校東校舎を仮校舎として開校した後、1920年(大正9年)にはこの「あがた」の地に新校舎が落成し、1922年(大正11年)には講堂が完成して全校舎が落成しました。その校舎の一部と講堂が現在も残っていて、戦後は信州大学の文理学部として生まれ変わり、昭和48年(1973)、文理学部が松本50連隊(テニアン島で玉砕。戦前の松本は“軍都”でもあったのです)の跡地だった旭町(50連隊の駐屯にあわせて,軍隊の「旭日旗」に因んで町名を改称したとのこと)に統合移転されるまでずっとそのまま使われていたからです。大正期の古い建物でさぞ不便だったと思いますが、信州大学がタコ足大学故か、1970年代まで現役として使われて来たからこそ、旧制高校校舎が今にまで伝わったのでしょう。
信大キャンパスの移転後は、大正時代の代表的な木造洋風建築物である校舎は、市民や同窓会の運動により保存され、今でも大切に「あがたの森文化会館」として利用され、平成19(2007)年6月18日には「国の重要文化財」に指定されました。明治以降の我が国の近代教育遺産が、国宝と重文として二つも残るというこの街は、或る意味稀有なことなのかもしれません。他にも旧制高校の建物では、金沢の旧四高校舎と熊本の旧五高本館が重文指定を受けていますが、このあがたの森に旧制高校全体の資料を展示した記念館が設けられています。従って、ここは単なる都市公園ではなく、旧制高校の面影を残した校舎とヒマラヤスギで、デカンショで青春時代を謳歌したであろう在りし日の旧制高校の様子を偲ぶことが出来る、全国でも貴重な場所でもあります。
(「われらの青春ここにありき」と刻まれた石碑)
その時代を直接知らない我々は、OBの北杜夫の「どくとるマンボウ青春期」を通して、正に“粗にして野だが卑ではない”という言葉の様な“バンカラ”を知り、そしてその時代に思いを馳せることが出来る場所なのです。
因みに、各地の“ナンバースクール”同様に、旧制松本高等学校も政財界で活躍する多くのOBを輩出していますが、“文化人”としては、旧制松本中学からは唐木順三、臼井吉見、古田晁、熊井敬等が松高OBです。
松本へ観光に来ても、意外と「あがたの森」まで回る人は少ないかもしれませんが、もし松本市美術館に草間弥生作品を見に来ることがあったら、是非もう少し足を延ばして「あがたの森」まで来てみるのも松本観光の“穴場”としてお薦めだと思います。
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