カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
全国同様、GWには松本にもたくさんの観光客の方々が見えられ、久し振りに松本城や“蔵の街”中町にも人出が戻った感じでした。
大型連休など関係ナシの年金生活者である我々は、あまり人が動かぬ平日に旅行をした方が楽なので、5月末に我々も恒例のワンコ連れ(でしか、且つ車でしか行けませんが)出掛けることにしました。
行った先は、九州・北海道と言いたいところですが、年寄りの我々が長時間の車移動は(ワンコたちも)無理故、そこは必然的にせいぜいMax 5時間ほどのドライブで移動可能な範囲です。今回は色々な意味でのお礼参りで伊勢神宮参拝も兼ねてとのこと故、その伊勢神宮へも行ける前提で選んだ先はドッグヴィラのあった滋賀県の草津。松本から草津へは、ずっと高速道の中央道から名神で凡そ4時間半。ACCのお陰で、昔に比べれば足も疲れず、ハンドルを握ったままでの楽チンなドライブでした。
また翌日の草津から伊勢神宮へは、新名神から亀山経由の伊勢自動車道で1時間半とのこと。実際には2時間掛かったのですが、外宮内宮共に無事お礼参りを済ませることが出来ました。
さて、翌日から滋賀県の観光です。
京都での学生時代に京都や奈良のお寺さんは巡っても、嘗て都(大津京)も置かれ、また石山寺や三井寺などの古刹の在る滋賀県には何故か一度も来たことがありませんでした。滋賀県に来たのは、会社員時代に大津のホテルでの会議に参加した10年前。会議前日の到着後と当日早朝の空き時間に、せっかくなので多少の観目的で琵琶湖畔の散策と木曽義仲と松尾芭蕉のお墓の在る大津の義仲寺(ぎちゅうじ)を拝観したのみ(第529・530話)でした。
今回は名神と新名神双方へのアクセスの良い草津に泊まりますので、草津からだと琵琶の棹の部分にあたる琵琶湖大橋を渡れば先述の大津を経由して湖西にも行けますが、我々夫婦の初めてのとなる今回の二日間の滋賀観光は、湖東の近江八幡と彦根へ行ってみることにしました。伊勢神宮へは車で往復しましたが、滋賀県内の行先へはむしろ電車の方が早くて便利(滋賀県の米原から兵庫県の明石までは京都・大坂・神戸への通勤エリアで乗り換え無しの直通運転の列車が頻繁に走っています)なので、ワンコたちにはヴィラでお留守番をしてもらって、電車で行くことにしました。
最初は“三方良し”の近江商人発祥の地である近江八幡です。
ここは二代目関白豊臣秀次が城下町を築いた所で、その名残は彼が琵琶湖から水を引いて作った運河である八幡堀に今も残していて、この運河が水運を支えたことで、秀次失脚に伴い八幡山城が廃城となった後も、地場の商人たちが水路を利用して全国を行商して財を成し、その後の近江商人へ繋がったとされます。
草津からは、JR西日本の電車は速度が速い(区間により、特急並みの130㎞走行)ので、新快速だと30分ちょっとで近江八幡へ行くことが出来ます。
因みに「近江八幡」と市と駅名に近江が頭に付くのは、福岡県の旧八幡市(但し、「はちまん」ではなく「やわた」ですが)との混同を避けるためだったとか。その後八幡市は合併で北九州市になり市としては消滅しましたが(八幡駅は存続しています)、近江八幡は近江が付いたままで変更はしなかったそうです(逆に、その後京都府に八幡市が誕生しています)。
ラ コリーナ(La Collina)とは、イタリア語で「丘」という意味だそうです。ここは滋賀県(関西で?)ではバウムクーヘンなどで有名な(と言っても40年前京都での学生時代の私メは全く知りませんでしたが)「クラブハリエ」や和菓子店などを展開する「たねや」グループが運営する施設で、パンフレットの言葉を借りれば、
『ラ コリーナ近江八幡は、自然を愛し、自然に学び、人々が集う繋がりの場。
八幡山から連なる丘に、緑深い森を夢み、自ら木を植え、小川を作り、生き物たちが元気に生きづく田畑を耕しています。このような環境の中に、和・洋菓子のメインショップをはじめ、自社農園のキャンディーファーム、本社、飲食店、専門店、パンショップなど、ゆったりとした自然の流れに寄り添いながら、長い年月をかけて手がける壮大な構想(後略)』
とのこと。
初めて来たのに何だか不思議な懐かしさを感じるナントモ不思議な印象のここの建物は、屋根全体が緑の草で覆われているのが特徴なのですが、現地に行って分かったのはそれもその筈で、この建物全体が建築史家、建築家で東大の名誉教授である藤森照信氏の設計だったのです。氏は長野県諏訪市の出身で、代々諏訪大社の大祝を務め原始ミシャクジ信仰を今に伝える守矢家(天皇家を除き、日本で最も古い出雲国造家の次に古い家系である)78代当主の“お姫様”守矢早苗女史と藤森氏が幼馴染みという縁で、茅野市役所が藤森に設計を依頼し、氏の処女作となった「神長官守矢史料館」の設計者で一躍有名になりました。氏の設計したどの建物も、その特徴は自然との一体感で、それが体現されている「ラ コリーナ」も、だからこそ感じた懐かしさなのでしょう。
しかし、それにしても「お菓子屋さんが良くぞ造った!」と圧倒され、唸らざるを得ない程に感心することしきり。
その意味で、そう言っては大変失礼なのですが、ここ「ラ コリーナ」は“たかが菓子屋”としてだけの施設なのに、間違いなく“一見の価値あり!”でした。
そこから、街の様子を体感するために、20分足らずというので歩いて街中へ。
最初に、近江商人の守り神として信仰を集めた平安時代創建という日牟禮八幡宮へ参拝です。境内の先には城跡ある八幡山へのロープウェイもあり、神社はその八幡山の麓に位置しています。近江商人にあやかって、娘たちの“商売繁盛”をお願いし、街のシンボルでもある八幡掘へ向かいます。
安土城の落城後、僅か18歳だった豊臣秀次が叔父秀吉の命で八幡山城を築城し、新たな城下町に安土城下の人々を移住させる際に、城下町である市街地と琵琶湖を連結するために造られた人工の水路がこの八幡堀なのです。
謂わば戦国時代における城下町の都市計画として整備され、城を防御する堀としての軍事的な役割と、当時の物流の要であった琵琶湖の水運を利用する運河としての商業的役割をも兼ね備えており、この八幡堀により船や人の往来が増えたことで商業が発達し、僅か3年間での秀次失脚による廃城後も水運により町は栄え、江戸時代にはその近江商人たちにより、大阪と江戸を結ぶ重要な交易地として近江八幡は大いに発展しました。
戦後、運河としての機能が失われ、一時は行政により埋め立て計画もあったそうですが、水を汚さず水路を掃除するなどして町の人々が懸命に保存に努めた結果、今では江戸情緒を残した街並みと八幡堀が魅力的な観光資源として脚光を浴びています。
近江八幡は決して広い街ではありませんので、散策として歩くことも出来ますが、せっかくなので我々は船で八幡堀巡りをすることにしました。
手漕ぎ船は漕ぎ手の都度の休憩のため1時間に一回の運行だそうですが、8人乗りでエンジン付きの屋形船は、お客が集まれば都度運行するとのこと。どちらも30分で千円。我々が最後の乗客ですぐ出航。
幅15m、全長6㎞という八幡堀をゆっくりと進みます。街並みを歩くよりも、堀を進む屋形船から眺める方がむしろ町の様子が良く分かる気がしました。堀を囲む家々は、木曽の妻籠宿や奈良井宿の様に、今でも町の人たちの日々の生活が営まれているので、例えば太秦の映画村のセットとは違って生活感があり、町そのものが生きている感じがしました。今でも江戸情緒を残す堀端は時代劇のロケに良く使われているそうで、現代と江戸時代が混在しているかの様でした。また、途中、堀から見上げる271.9mの八幡山に築かれた八幡山城の出丸跡の石垣も見えましたが、今度来たら城址にも登ってみたいと思います。
(船から見上げた八幡山城址。円で囲ったのが石垣)
舟を降りてから昼食を済ませ、2㎞位とのことなので、街並みを散策しながら駅まで歩いてみました。
八幡堀近くには、キリスト教伝道を目的に当初英語教師として近江八幡赴任してきたヴォリーズにより創立された「メンタム」で有名な「近江兄弟社」(一時倒産し、その際にロート製薬が「メンソレータム」事業を引き継いだとのこと。その後大幸薬品の後押しにより近江兄弟社が「メンターム」として復活)や、彼の設計した洋風建築、また創立者ゆかりと思われる中高一貫校のヴォリーズ学園もありました。
今回はワンコが待っているので、それらを見学している時間はありませんでしたが、決して大きくはない近江八幡ですが、他にもロープウェイで登る八幡山城址など幾つか観光で回れるスポットが他にもありそうで、また来たいと思わせてくれる魅力的な街でした。
因みに安土城址のある安土も近江八幡から一駅なので(それもその筈で隣町。今でも安土町かと思っていたら、平成の合併で近江八幡市になっていました)、家内は全く興味が無いそうですが、一度行って信長の描こうとした壮大な夢を追い、城址で彼を偲んでみたい気がします。
考えてみれば、政治的には“志半ば”で未完であったとしても、経済的には信長の行った楽市楽座が、秀次の八幡堀を経て、その後の近江商人誕生へと繋がっていくのですから、彼の経済政策の先見性と見ることも出来ましょう。
いずれにしても、近江八幡は今でも色々な歴史が息づいているかの様で、街もコンパクトで、とても魅力的な街でした。