カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
戦火に晒され何の罪も無い民間の人々が犠牲になっているウクライナの惨状を世界のマスコミ報道を通じて見聞きするにつけ、本当にM16でもCIAでもゴルゴ13でも、どこかにスーパースナイパーはいないのか!?と真剣に願う程の悲惨な状況です。
ロシアの狂犬大統領の振りかざす“大儀”の、その行き過ぎた狂信性はともかく、今回の背景説明で私が一番納得できたのは、その背景にあるのはロシア正教とカソリックの「宗教戦争」だという説明でした。
そして人道的には当然とはいえ、今回悲惨を極めるウクライナの人々を超法規的に難民(避難民)として受け入れる各国の状況は、他国の侵略を受けて故国ポーランドについぞ戻れなかったショパンを持ち出すまでも無く、歴史的に過去何度も亡国を繰り返し、その度に国家を民族を蹂躙されて来た故に、決して他人ごとではない隣国ポーランドの頭が下がる様な国を挙げての人々の献身的な対応を見るにつけ、今まで難民認定が非常に難しかった日本での今回のウクライナからの避難民受け入れの迅速な対応は、白人でカソリック教徒であるウクライナの人々と、片や白人ではないアジア人、キリスト教徒ではないモスレムのアフガン難民やロヒンギャ難民へのこれまでの我が国の対応と、一体(その受け入れ態度の差は)何が違うのだろう・・・と思わざるを得ません。
雪が舞う中で暖房も食料も無い地下シェルター等での生活を余儀なくされたウクライナの人々を思えば、小麦やガソリンの値上げなど何のことは無い、遠く離れた平和な極東の島国に安穏としている我々も我慢して当然だと思うのですが、その一方でそんな割り切れなさを正直拭い去れずにいます。
そこには、もしかすると明治維新以降、特に敗戦後我々ヤマト民族に染み付いた白人やキリスト教への畏怖や尊敬、翻せばアジア蔑視、日本人も同じアジア人なのに日本人以外の有色人種をどこか見下す気持ちは無いでしょうか?
ウクライナからの難民を人道的に受け入れることに何の疑義はありません。戦火から遠く離れた極東で、また軍事的に何の支援も出来ない日本という国が多少なりとも貢献できることとしてそれは当然のことだと思います。であるならば、否、であればこそ、例えば今までのアフガンやロヒンギャの人たちと今回のウクライナのひとたちと一体どこがどう違うのでしょうか?
斯く言う自分自身も、もしシンガポールに赴任していなければ同じ様にアジア蔑視のままだったと思います。多民族国家であるシンガポールに赴任して、そこでの中国、マレー、インドネシア、インドといった他民族の人たちとの触れ合いの中で、同じアジア人種としての共通性を知り、同じアジアとしての親近感を抱く様になりました。
ウクライナ問題を受け、これを良い契機として、今後そうした世界からの難民受け入れについて(民族や宗教の違いとは関係なく)我が国はどうしていくべきなのか、政府のみならず我々国民も真剣に考えなくてはならないと思います。