カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 これまでご紹介してきた新居のマンション。狭い、狭いと言っていますが、今までの家が53坪の2階建てであったのに対し、3LDKとはいえ90㎡強で、L字型のベランダを含めると120㎡程になりますのでマンションとしては広い方かもしれませんが、以前の庭とベランダもあった一戸建てに比べれば、感覚的にはほぼ半分というイメージでしょうか。
間取りは、LDKとリモートワークをする時の娘の部屋、そして我々の寝室。そしてこのマンションで常時暮らすのは私たち老夫婦二人(+ワンコ)だけなので、残った日当たりの悪い一部屋を物置として使うことにして、和箪笥や仏壇を入れました。
実際に全体が半分の広さですので、それぞれの部屋もクローゼットやバスルームや洗面所、トイレなども、どれもが何となく今までの家と比べるとハーフサイズといったイメージです。そこで、娘ではありませんが、
 「何となく、小人の国のガリバーみたい・・・」
ですので、今までの家と比べると、受ける印象も実際の感覚でもやはり狭い。しかし実際に全体の広さが半分なのですから、その半分のスペースに同じ様に必要な機能を盛り込んでいけば、確保出来るスペースが半分になるのは当然のことであり、それはどうしようもありません。

ただ、四半世紀もの間暮らしてきた感覚がすぐに抜けるものではなく、それは致し方ないことで、多分それは時間が解決してくれて(同じ25年も必要では、恐らくこの世にはもう居ませんが)これが普通だと思える様にきっと五感が次第に慣れていくのでしょう。
その“慣れ”に関して云うと、保守的な人間様よりも、むしろナナとコユキのワンコたちの方が“住めば都”とばかり、有難いことに我々よりも慣れるのが早かったかもしれませんが・・・。
 しかし、そんな狭い中でもそれなりに工夫は出来ます。
先ず、前の家の広いLDKのリビングには壁がたくさんあったので、あちこち色んなところに飾っていた絵と写真の額。
狭い新居へ全部持って来ることは出来ず、シンガポール赴任中に何度も行ったバリ島で購入したバリ絵画などの民芸品は置いて来ましたが、現地の画家の方に描いていただいた子供たちの肖像画やインターナショナルスクール時代のクラス写真、そして母屋を飾っていた地元画家の方々の水彩画と版画など、持って来た額の数々。
それらは、壁に飾るとどうしてもクロス(壁紙)に穴を開けてしまいますので、それを避けるために事前の新居の内装工事の打ち合わせで注文したピクチャーレールを廊下の壁側の天井に設置してもらい、そこにワイヤーとフックを5本10個購入して、とりあえず7枚の額(他は季節に応じて架け替える予定)を各々段違いにバランス良く、或る意味“ギャラリー風”に展示しました。
リビングからは見えませんが、家に帰って来て、或いはお客様などの来訪時にはそれらを眺めながらリビングへ向かうことになりますので、殺風景だった廊下に彩が生まれました。
 また、一戸建ての家は緑に囲まれてはいたものの、2階建てなので階下の眺望は無く、また沢村という場所柄、美ヶ原や鉢伏といった東山は望めても北アルプスは全く見えません。そのため、余談ですが、学生時代に帰省して来て「あぁ、松本へ帰って来た・・・」と故郷を感じたのは、常念などの西山の峰々よりも、むしろ三才山(正式には戸谷峰ですが)の山容が目に飛び込んで来た時でした。
その点、この新居は松本駅よりも西にあるので、城山々系に遮られることが無く、また新居も南と西のL字型のマンション棟の上階の角部屋で、その南側と西側の両方にベランダありますので、南からの日当たりと西側は乗鞍から白馬方面に至る北アルプスの峰々の贅沢な眺望を楽しむことが出来ます。その意味で、部屋の広さとは異なる階下と北アルプスの眺望による精神的な拡がり、開放感が実際の部屋の面積以上の精神的な広さを与えてくれている様な気がします。
また、そのベランダも、特にこれまで冬の間は日当たりの良い南側に、前にご紹介した(第1685&1686話参照)自分でリフォームしたIKEAのラウンジチェとDIYのコーヒーテーブルを置いてあり、これから春から秋(猛暑の夏は無理かも)の天気の良い日には、ベランダがリビングルームの延長の様に部屋の一部として楽しむことも出来ると思います。
 そんな風に、“狭いながらも快適な”我が家となる様に色々工夫しながら、“終の棲家”となるこれからの新居での生活を“老夫婦二人”でワンコたちと一緒に楽しんでいけたら良いと思っています。

 24年前に家を建てた時に、庭まで資金が回らずに自分で作庭した我が家の庭。15坪のL字型の芝生ガーデンと、そこに植えたシンボルツリーのプンゲンスホプシー、紅白のハナミズキ。そして、傾斜地の段差の上の雑木林ガーデンと樹下の家内が丹精込めたクリスマスローズ・・・。
どんなに愛着があっても、庭の無い新居のマンションへまさか庭を持って来る訳にも行かないので、諦めるしかありません。しかし、庭木はサスガに無理でも、せめて家内が丹精込めて世話をして零れ種で60株程にまで増えたクリスマスローズくらいは、鉢に移植してせめてもの思い出に持って来ることにしました。そこで色や花弁も一重八重と色々種類がある中で、黒と赤紫で一鉢、そして原種に近い白い品種の一鉢。それぞれ一鉢に5~6株ずつ移植しました。

 幸い新居は、L字型で北アルプスの峰々を望む西側と、日当たりの良い南側の二ヶ所にベランダがありますので、その南側のベランダに鉢を置くことにしました。
家の庭は、道路沿いの打ちっ放しのコンクリート塀沿いの雑木林ガーデンの樹下にクリスマスローズを植えてあるので、南側も隣家があり、風は遮られますが日当たりは余り良くありません。
しかし、南側のベランダは随分日当たりが良いので、それまでよりも一ヶ月以上早く咲き揃いました。
地植えの株を鉢に移植したので、ちゃんと根付くかどうか心配しました。移した中には葉が枯れてしまった株もあり不安でしたが、やがて花芽が出て花が咲き、そして葉も芽を出しました。どうやら、全ての株が無事根付いてくれたようです。
60株にも増えた庭のクリスマスローズガーデンと比べると、二鉢に僅か10株足らず。比べるべくもありませんが、庭の無い我々の新居に少しばかりの癒しと潤いを与えてくれています。
【注記】
最初の写真は鉢に移植した11月中旬。2枚目と3枚目が新居のベランダで花が咲き出した2月下旬。4枚目と5枚目が3月中旬。そして最後の2枚が葉が大分出て来た直近の様子です。

 新居への引っ越しにあたり、庭は持っては来られませんが、鉢植えは新居へ持って来ました。それは、家内の実家の義母が喜寿の時に貰ってお裾分けされたシンビジウムです。その後、分結して分けた鉢と義母が世話を出来なくなったミルキーウェイという名前の別品種の3鉢。他の2鉢は毎年花を咲かせてくれますが、ミルキーウェイは隔年か、3年に一度か・・・。昨年は花が咲いたので、今年は無理そうです。

 いつも12月前頃から花芽が出始めます。花芽は寒さにやられてしまうので、氷点下になると玄関先から玄関の中に入れていました。
狭い新居の玄関はそんなスペースも無いので、3鉢とも冬の間はリビングルームへ避難です。従来だと年が明けると徐々に先始め、4月くらいまでの3~4ヶ月間もの長い間楽しませてくれましたが、前の家の玄関より新居の狭いリビングルームの方が遥かに暖かいので、花の期間は短そうです。
 花も、環境が変わると戸惑うことも、またその環境に慣れさせることも必要なのでしょう。そのため、引っ越した今年は今までよりも花芽は少な目。昨年だったか、花芽が多過ぎて株が弱らぬ様にと、家内が減らした程(それでも10本近く咲いた鉢もありましたが)でしたが、環境の変わった今年は、一鉢は花芽が2本。もう一鉢は花芽は5本。ミルキーウェイは、やはり今年は花芽が出て来ませんでした。
 花は少なくとも、また花の咲いている期間は少なくても、暖かいリビングで一斉に咲き揃って、またリビングなら四六時中視界の中に花があるので、積算すれば、鉢が玄関にあった昨年までよりも遥かに長い時間花を愛でられる今年のシンビジウムです。
【追記】
“♪春は名のみの風の寒さや・・・”。春のお彼岸も過ぎたというのに、3月22日、松本は一日雪で4㎝の積雪だったとか。幸い道路はすぐ溶けてしまいましたが、これが“なごり雪”であれば良いのですが・・・。

 前話の時計博物館の帰りに、せっかく(一人)なので久し振りに昼食にラーメンを食べることにしました。我が家の奥さまはラーメンを余りお好みではなく、以前京都に行った時も、老舗の京都ラーメンを食べに行く私と別れ、彼女は京都駅近くでスイーツを食べに行きました。従って、一人の時でないとなかなかラーメンは食べられません。
会社勤めの最後に上田の子会社に出向していた時は、本社などへ会議で外出する時などに途中外食する機会も多かったので、そんな時は地元での有名店でラーメンを食べることが多かったのですが、定年後はその機会も殆ど無くなりました。子供たちは、長女は有名ラーメン店に行くこともたまにあるそうですので、どちらかというと私メのDNAかもしれません。

 さて、この日選んだ先は、松本駅前通りを本町交差点から駅寄りに少し行ったところにある「マルキ商店」。ここは中信エリアで『きまぐれ八兵衛』や『きまはち商店』などを運営する『きまはちグループ』の系列店だそうで、こちらの店は、流行りの家系や二郎系などの豚骨系ではなく、醤油ベースがメインの中華そばと、“富山ブラック”ならぬ“松本ブラック”が売りというラーメン屋さんです。
昔の開店当時は、夕方開店して朝5時まで営業という、どちらかというと飲兵衛の“〆のラーメン”向けの店(早朝の“朝ラー”は可能)で、仕事で松本に外出して来ても昼の営業は無かったので食べられなかった店でした。その後昼も営業するようになり、そこで何年越しかで念願の店の看板メニュー“松本ブラック”なるラーメンを試してみることにした次第です。

 平日の午後1時過ぎ故か、はたまたコロナ禍か、店にはお客さんは3人だけ。一人客はカウンターへ案内されます。水は(おしぼりも)セルフサービス。迷うことなく、「松本ブラックラーメン 750円」をオーダーして、待つこと暫し。
運ばれてきたラーメンは、普通の(家庭用と同じ)サイズのラーメン丼。ラーメン店としてはやや小さめの丼でした。鶏油なのか上に油膜が張った真っ黒なスープに刻んだ青ネギが小山に盛られていて、丼の周りを埋めるように花びら的にチャーシューが5枚並んでいます。
早速、先ずはレンゲで焦がし醤油というスープを一口。鶏と豚から摂ったガラスープをベースに、焦がし醤油の真っ黒な色程に濃くは無く、勿論十分に塩気はありますが、むしろ塩味よりは甘味を感じます。青ネギの下に隠れた麺は細めのストレート麺。箸で持ち上げると醤油が良く絡んで、普通のラーメンと比べると麺もビジュアル的にかなり黒めに感じます。
スープはブラックペッパーがしっかり効いていて、その味は甘さと多少の酸味を感じます。トッピングのネギはメニューに依れば、京野菜の九条ネギとのことですが、そのせいもあるのか、どちらかというとこの“松本ブラック”ラーメンは“富山ブラック”(と言っても“ご当地麺”のカップ麺で食べたことがあるだけなのですが)ではなく、京都駅に近い“京都ラーメン”発祥の店である『新福菜館』(第1407話)のラーメンにむしろ似ている気がしました。
ただ、九条ネギってこんなに“こわ”かったっけ?もっと柔らかじゃなかったっけ?何だか薹が立った古いネギの様な気が・・・?それに、チャーシューが、モモ肉故の歯応えと旨味はあるのですが、ちょっと薄過ぎ・・・。やはり醤油ラーメン向けのチャーシューは、ホロホロととろけるようなバラ肉のチャーシューの方が個人的には好みです。
 私メが今まで食べた県内の醤油ラーメンで云えば、長野市の“夜泣きそば”「ふくや」の黒い醤油スープを思い出しますが、「新福菜館」も「ふくや」もこの松本ブラックよりは(記憶と思い出は、より過去を賛美しがちになるとはいえ)旨味は遥かに上だった気がします。またスープや麺だけではなく、チャーシューも「新福菜館」や「ふくや」の方が美味しかった様な・・・。
(但し、ふくやは最初は違和感があるのですが、何度目かでクセになる味ですので、一度で判断しない方が良いと思います。と言いながら・・・、)
残念ながら“松本ブラック”はもうイイかな・・・。今度来たら、メニューに“定番”と書かれていた「中華そば」を試してみようと思います。

 日本全体でも行われている、前年の発掘成果を展示報告するイベント(第799話&1250話参照)。
その松本版である「発掘された松本2021」速報展が、移動博物館として今年も松本市時計博物館で、2月の11日から27日まで行われましたので、今年も見に行ってきました。

 週末は混むかもと、行ったのは平日火曜日の2月22日。
市立時計博物館は、松本市に寄贈された全国でも有数の古時計コレクションとされる「本田コレクション」を収蔵展示する市立の博物館で、ここの3階で毎年「発掘された松本」の速報展が開催されています。市立の考古博物館は、古墳群や朝廷の勅使牧が置かれていた中山にあるのですが、街中からは少々離れているので、速報展とはいえ街中の時計博物館で開いて貰えるのは考古ファンとしては有難い限りです。

 平日故に仕方が無いのですが、観覧者は私メ含め年寄りが3人だけ。展示を見ていた1時間程の間に、更に来られたのも年寄りのご夫婦一組だけ。せっかくなのに勿体無い。週末はもっと来館者がおられるのかもしれませんが、市民としてもっと地元の歴史に興味を持って貰えたらと願わざるを得ません。
今回の展示内容は、あがたの森に在る弥生時代から平安期の大規模集落の県町遺跡、波田(注1)の縄文時代から中世までの真光寺遺跡、弘法山の第三次発掘調査、そして松本城の三の丸と外堀発掘調査の5件。個人的には、東日本最古級の前方後方墳、弘法山古墳の再調査の結果が一番の関心事でした。
 弘法山古墳は1974年(昭和49年)に石室等の発掘調査が行われ、鉄剣や中国製の銅鏡などが見つかっています。ただその時の発調査は埋葬施設が中心で、墳丘の形状などや周辺の遺構などは調査されていなかったことから、一昨年に第2次、昨年からの第3次調査が行われています。調査は、十文字のトレンチ(溝)を掘り、また東海大考古学研究室の協力を得て電磁波による地中レーダー探査もおこなっているとのことでした。従って、パネル等での経過報告が中心であり、今回は発掘に伴う遺物の展示はありません。
昨年のNHKの「歴史探偵」で、奈良県明日香村の中尾山古墳の発掘調査の結果、角が135°の正八角形の古墳だということが確認されたという報道がありました。八角形は即位の礼での高御座の象徴される様に帝の印とされており、中尾山古墳は宮内庁による天皇陵の指定をされていないが、正八角形の古墳(八角墳)であり、且つ被葬者が火葬されていたことから、時代的に第42代文武天皇の墓ではないか(宮内庁は、近くに在る栗原塚穴古墳を文武天皇陵に指定)という興味深い内容でした。
弘法山古墳も、そうした古墳の形状などから今後新たな発見もあるのかもしれません。
 他の展示では、あがたの森一帯に拡がっている県町遺跡の発掘調査をとても興味深く感じました。県町遺跡は弥生から平安時代に至る大規模集落だそうですが、今回で実に22回目の発掘調査とのこと。そして今回発掘した場所から、これまで全国で数例しかないという黒曜石製の帯飾りが発見されたとのことで、今回の速報展で展示されていました。これは県内では初めての石製の帯飾りで、官人(役人)が着る朝服に付ける腰帯の飾りとのことです。
県町遺跡の近くには惣社という地名がありますが、惣社に在る伊和神社は信濃国の総社とされており、まだ場所の特定がされていない(注2)信濃国府(最初在った小県から筑摩へ移されたとされる。但し国分寺は松本へは移されず、現在もそのまま上田市に在る)の国庁(役所)跡との関連性も伺えるのではないか、と大変興味深く感じました。
【注記1】
波田町は元々波多で、秦、旗、羽田、畑、畠、幡、端、波多、葉多、傍等、全国各地に見られる秦氏に由来する地名や姓の一つである様に、渡来人の技術者集団であった秦氏が、京都の太秦を本拠に全国展開する中で開いた場所でもあり、嘗ては信濃国に多く置かれた勅旨牧の一つである大野牧も置かれており、古代から開けた場所。
【注記2】
駅前通りに「国府町」と信号に書かれた交差点がありますが、その国府町は、松本が嘗て信濃の国府が置かれ、戦国時代に松本が「信府」(長府や駿府同様)と呼ばれたりしたことから、後年名付けられた旧町名であって、平安時代に置かれた信濃の国の国府の場所ではありません。

 狭い新居では、今まで使っていたダイニングテーブルもソファーセットも置けるスペースが無いことから次の方にお譲りすることにしたので、新居用に新たに小さめの家具を購入しなければいけません。
しかし、今度こそ本当に“終の棲家”であろうことから最後の家具でしょうし、どうせなら我々の後も娘たちが使えるような、そんな長く使える“一生モノ”でないと買う意味がありませんので、じっくりと気に入った良いモノを探すことにしました(どちらかというと、私メではなく奥さまの意向ですが・・・)。

 マンションはLDKですが、キッチンはオープンな対面式のカウンターキッチンで、そのカウンターの対面式キッチンには食事が出来るカウンターテーブルが設えられていますので、そこに高めのしっかりした椅子(バースツール)を置いて、ちゃんとしたダイニングテーブルが来るまでその代わりとして使って、夫婦二人での食事が出来る様にしました。
地場の全国チェーンの家具店を含め行ってみたのですが、バースツールは種類も少なく、クルクル回転し上下移動可能なタイプよりは高さが確定できれば固定していた方が使い易いと思うのですが、結局気に入ったモノはありませんでした。
そこで、家内はネット検索をして、それなりの値段でしたが北欧(デンマーク)製のオシャレなバースツールをオーダーしました。

 マンションでの暖房は、当然慣れ親しんだ薪ストーブは使えませんので、都市ガスの床暖房とガスストーブにエアコンの暖房になります。しかし、ソファーが来るまでは、ダイニングテーブル兼用で炬燵もリビングで使うことにしました。
従って、鍋などキッチンカウンターで食べるのが(スペースも無く)不似合いな時は、IHコンロを使って炬燵で煮て食べることにしました。ただワンコたちは、炬燵の方がゴロゴロするのに気持ちが良くて、むしろ気に入った様子でした。ただベストポジションをワンコたちに奪われて、占有権の無いこちらは隅っこに(しかも場合によっては正座で=“信州弁”で「おつくべ」して)座らざるを得ないこともあり、食べていてもなかなかリラックス出来ません。またオーディオ視聴も炬燵だと床面に座っていることになるので、リスニングポジションとしては耳の位置が好ましくはありません。
 このままでは暮らすのに些か不便ですので、本来据え付けるべき家具は、11月末に高山に行って、飛騨家具の販売店とそこで教えてもらった飛騨家具の代表的メーカーである飛騨産業のショールームを見学し、実際に自分の目で見て確かめて、家内はお目当ての商品が定まった模様。
そして、彼女の選んだのは飛騨産業の「森のことば」というシリーズでした。何でも、加工が難しく、見た目が悪いとそれまでは大部分が捨てられていた木の「節」を活かした家具。森のことばが発売された2001年以前は、「節」のある木は端材として捨てられて、家具に使われることは殆ど無かったそうですが、飛騨産業は森林資源の有効活用し、「節」も含めた木そのものの美しさに着目して新しい家具をデザインし、その結果「森のことば」は人気シリーズとなったのだとか。板毎に異なる「節」を活かすため唯一無二、二つとして同じ商品はありません。昔は不良品として捨てられていた「節」が、或る意味一つの“景色”として、彩でもある個性という“生命”を家具に与えてくれます。その「節」をどう活かすかは、デザイナーの腕次第なのでしょう。
オークやウォルナットなどは北米産の輸入材であり、コロナ禍に依るウッドショックで12月21日から商品が値上げとなるため、ギリギリとなる前日の20日に新宿の大塚家具へ行って値上げ前の価格で注文した飛騨家具。
家内の意中である「森のことば」シリーズの中の、ソファーとダイニングセットを無事に購入することが出来ました。

 飛騨家具は一つ一つ全てが受注生産ですので、肘掛けの位置やファブリックの色と種類、大きさなどを都度確認しながら決めていきます。今回の注文内容の確認に1時間半ほど掛かりましたが、お客さん毎に張り付く専任の担当者の方と確認し合いながら最後の発注まで対応いただきました。その結果、今回のウッドショックの渦中ですが、注文した商品は1ヶ月後の1月末には納品可能とのこと。幸い、21日受注分からの値上げ前の価格で無事購入することが出来ました。
高山の飛騨産業から(おそらく安房峠超えの松本経由で)横浜に在るという大塚家具の配送センターを経由してから(再度)松本へ持って来て、我が家で組み立てて納品することになりますので、勿論都内より発送料は高くなりましたが、色々検討してきた家内に依れば、値引き分も含め大塚家具が一番安いとのことでした。そうは言っても、勿論、一番お得な大塚家具でしかも更に購入額によっての割引等もあったとはいえ、お値段の総額は三桁近く、いくら一生モノとは言っても決してお安い買い物ではありませんでした。
 そして、待ちに待った1月27日。数日前の降雪報道もありましたが、配送予定時間前に確認の電話があり、予定通りに無事到着。聞けば、この日は横浜の倉庫からではなく、前日別のオーダーで長野市に配送して宿泊し、この日は長野市から松本への移動だった由。従って、渋滞する圏央道でなく、長野道で1時間足らずですので運送は楽だったとか。
「おかげで、今日は随分楽させて貰いました。」
お二人で、慎重に本体も壁も傷つけぬ様に慎重に運び入れ、室内で組み立てて家内の指定する場所に無事設置完了。室内も見違えた様で、最後に残っていたリビングルームが、漸く我々が想定していた“雰囲気”のある部屋らしくなりました。
 飛騨産業の「節」を活かした「森のことば」シリーズの商品には、二つと同じ製品は無いことから、初めて見る「節」はそれぞれ味わいがあり、選んだ家内も満足の様子でした。
その意味で、“♪~お値段以上”ではありませんが、“一生モノ”でもあり、長い目で見れば間違い無く価格以上の満足度を得られる飛騨産業の家具だと感じた次第です。

 祖国を守るといって銃を手に取るウクライナの人々。家族を避難させ、自身は戦うためにウクライナに留まる男たち。市街を走るロシア軍の車両を停めるべく、危険も顧みず車両に素手で立ち向かう人々。
地下のシェルターで泣く子供たち。着の身着のままで隣国ポーランドに到着し、難民キャンプで用意されていた食べ物と一緒に、きっと荷物に入れられずに置いて来ざるを得なかったであろう自分の人形の代わりに、はにかみながら用意されていた小さなぬいぐるみを嬉しそうに手に取った少女・・・。
反戦デモで何千人もが検挙拘束されているというロシア・・・。過去何度も大国に蹂躙されて来たポーランドだからこそ、侵略される痛みが分かるのでしょう。難民キャンプなどで応対するボランティアの市民の方々に頭が下がります。

 不可侵条約を破り、敗戦が決定的になった日本に攻撃し、北方領土を奪い取って行った国。そんな国が、そんな国の指導者が信じられる訳が無い!。
自身の政敵を暗殺し消し去って来たKGB出身の指導者を信じられる訳が無い・・・。どうしてこんな常軌を逸した狂犬の様な奴に秋田犬を贈ってしまったのか!

 そう思いながら、85年前に関東軍のでっち上げた盧溝橋事件をきっかけに他国を侵略し、その後満州国という傀儡政権を作るなどしていった自国も、当時もしかすると同じことをしていたのかもしれないと思うと、やるせない気持ちで、洗車に素手で立ち向かうウクライナの市井の人々の映像を視ると何とも言えない気持ちで、苦しくて、切なくて、涙が流れてきます。
“大本営発表”という偽りの成果に浮かれ騙されて来た国民と時の政権に与し国民を煽って来た新聞も、SNSで瞬時に事実が世界中に流れていく現代では、同じ様に国民を騙すことは出来ないのかもしれません。
しかし、そうした当時の日本だけではなく、西側諸国の帝国主義に端を発する植民地支配が引き金となった戦争が、結果的にロシアに繋がる旧ソ連、中国、北朝鮮という、当初の理想とはかけ離れた、社会主義、共産主義に名を借りた強権主義の独裁国家を産み育ててしまったことを、彼等を批判するだけではなく、民主主義に安住している我々自身も反省しなければいけないのかもしれません。

 それにしても・・・、くたばれプーチン!!!!!
どこかに、ゴルゴ13はいないのでしょうか!?

 以前ご紹介した様に、狭いマンションへの転居に伴い処分せざるを得なかった私メのオーディオ機器。その中で、僅かながら生き長らえて一緒に持って来られたのが、トリオのスピーカーとデンオンのレコードプレーヤー。そして、新居でのミニ書斎向けのサブシステムとして、それまで2階の書斎で同じようにサブシステムとして使っていたKENWOODのシステムコンポ用のCDレシーバーとKEFのトールボーイスピーカーでした。

 従って、メイン用のプリメインアンプは代わりの機種を買う必要があり、与えられた予算の範囲内で色々候補を上げて検討したのが、マランツのネットワークレシーバーNR1200と同じくマランツのネットワークCDレシーバーM-CR612という機種。
前者は別に新たなCDプレーヤーが必要になりますし、後者はCDプレーヤーは一体型ですが、そのままではレコードプレーヤーが接続出来ないので、レコードプレーヤーを接続するためには別にフォノイコライザーを買う必要があります。

一応お伺いを立てたところ、家内と娘からは前者は大き過ぎると却下。確かに色々検討してみたのですが、リビングで置ける場所は無く、密かに当初考えていた家具(シンガポール購入した頑丈そうなリビングボードの中)は家内に占領されてしまい、オーディオが置けるのは唯一そのリビングボードの上の部分のみ。そこにレコードプレーヤーを置くと、残りのスペースは30㎝四方しかなく、フルサイズのプリメインアンプの同じ大きさのNR1200は無理で、結局必然的にM-CR612になってしまいます。NR1200はTVもAVプレーヤーとして接続可能ですが、その場合スピーカーは狭い新居ではTVの両脇に置くことは出来ず、TV用には使えずに宝の持ち腐れにもなるので、ま、イイかということで結局M-CR612に落ち着きました。
従って、それまでの間はサブシステムのケンウッドのCDレシーバーを代用し、リビングでトリオのスピーカーを鳴らすことにしました。
 引っ越し後の11月末、M-CR612を電気店で注文し、メーカーからの取り寄せ(今殆どの家電量販は在庫を持たっていません)で、納品予定は1月末とのことでした。

 コロナ禍による世界的な人工不足での半導体不足と、更にそれに輪を掛けたのが旭化成の延岡工場の火災によるオーディオ用などのLSI供給遅延で、最初から納品待ちは覚悟の上でした。
世間では、例えば給湯器も半導体不足により半年間もの納品待ちで、それまで故障した給湯器が交換出来ずにいたというような日常生活に直結した影響も報道されていますので、それに比べれば日常生活に影響が出る程深刻な問題ではありません。
ところが、購入した量販店からの連絡で、先ずは1月末の納品予定が2月末に延び、終いには4月末になるかもしれないとのこと。
そのまま待つか、それとも注文をキャンセルするかどうかと聞かれましたが、量販店側の問題ではなく(量販毎の購買力による力関係での差は多少あるかもしれませんが)製造元であるメーカー側の問題なので、もし他の量販に今から予約し直したとしても状況は変わりませんので、止む無くそのまま待つことにしました。
しかし、それにしても半導体メーカーからすればオーディオ用LSIは車載やTV、冷蔵庫などの大型家電よりも位置付けは低いのかもしれませんが、“ウッドショック”に伴う家具もそうでしたが、コロナ禍の影響が色々身近なジャンルに影響していることを実感、認識せざるを得ませんでした。