カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 10月3日の日曜日。いつもの早朝ウォーキングです。
朝7時半頃自宅を出て、旧開智学校から松本城公園を通って、四柱神社から天神の深志神社まで。駅周辺でモーニングを食べて少し英気を養って帰りの登り坂へと、往復8~9㎞のコースです。

 朝8時。お城の開門までは30分あるので、まだ松本城の観光客は疎ら。緊急事態宣言が解除され、週末は松本にもかなりの観光客が来られていますが、まだ街中も静かです。
いつも通りに大名町から女鳥羽川沿いの縄手通りへ。正面鳥居から境内に入って先ずは四柱神社へお参りです。
すると、まだ閉まってはいましたが露店が幾つも並んでいて、境内には提灯と大きな幟も飾られていました。
 「あっ、そうか・・・。神道祭りだ!」
曜日に関係なく、毎年10月の1日から3日まで行われる、松本四柱神社の例大祭である神道祭り。正しくは神道祭(しんとうさい)ですが、子供の頃から「神道祭り(しんとまつり)」と呼んでいましたし、四柱神社のことも「神道神社(しんとじんじゃ)」と呼んでいたかもしれません。

 神社庁の四柱神社のH/Pに依れば、
『明治天皇御親政に当り、惟神の大道を中外に宣布し給う思召しを以て、筑摩県庁の所在地である松本に、明治7年2月神道中教院(宮村町長松院跡、後神道事務分局)が設立され、院内に天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神の四柱の大神が奉斎されてきたが、明治12年10月、新たに一社を興し、四柱神社として、現在地に厳かに鎮斎され、隣接して神道事務分局も新築せられたのである。その経費は、中南信全域(旧筑摩県)の神職、県庁その他諸官衙、一般篤志家の浄財と奔走によった。翌十三年六月、当地方に初めて行幸があり同月四日、新築新装なったばかりの神道事務分局を行在所を定められ、松本に陛下をお迎えできたのであった。この由緒ある社殿及び事務局の建物の一切が明治二十一年一月四日の松本大火に類焼、以来仮殿に奉斎されて来たが、大正十三年に至りようやく御鎮座当初と同じく中南信全域の奉賛を得て、現在の社殿が再建された。ちなみに、前述の縁由によって、当地方では四柱神社と申し上げず「しんとう」(神道)の呼び名で広く一般市民に親しまれている。加えて当神社例祭も"神道祭″と呼ばれ、松本平を代表する盛大秋祭として斎行されている。』
とのこと。
要するに、明治になって国家神道として神道を国教化するにあたって、松本でも天照大神を始め四祭神を奉る四柱神社が明治12年の10月に建てられ、翌13年には明治天皇の行幸時に四柱神社が行在所になったということで、四柱神社そのものも新しいのですが、10月の創建を記念した例大祭が神道祭ということです。
明治になっての最初の藩知事となった最後の松本藩主戸田光則の主導により、松本は、新政府の王政復古に伴う国家神道化に関連した廃仏毀釈運動が全国でも最も激しく行われた地の一つと云われ、その吹き荒れた廃仏毀釈の凄まじい嵐の中で、180あった松本藩内の寺の内8割にも及ぶ140の寺が廃寺になったと云われますが、その反動で神道がもてはやされた証が、この四柱神社創建とその例大祭の盛り上がりだったとも言えるのかもしれません。

 堅い話はさておき、幼少時代、農家の子供が親に手を引かれ、松本の“町に行く”ことが出来たのは唯一この神道祭りの時だけでした(もしかすると違うのかもしれませんが、幼少期の自分の記憶では。例えば、初詣も昔は必ず地元の産土神でした)。
子供の目には“大都会”の様にさえ思えた、人出の多い賑やかな“町”を歩き、露店の並ぶ縄手通りから四柱神社へお参りし(この頃はまだ施しを求める傷痍軍人の方々が街頭におられました)、せいぜいラーメン(支那そば)か信州蕎麦だったと思いますが、年に一度の“外食”で“ご馳走”を食べるのが唯一の楽しみだったと記憶しています。そういう意味で、子供心にはお正月よりむしろ神道祭りの方が楽しみだったと思います。
今では色んなイベントがあり、我が家の子供たちは(彼女等の幼少時代はシンガポールだったこともありますが)神道祭りには一度も行ったことは無かったかもしれません。少なくとも、年に一度の神道祭りを楽しみに“町へ行く”という様な昔のワクワクした感覚は、今の時代は全くありません。従って、我が家同様に、神道祭りの市中の熱気も昔ほどでは無いのでしょうが、それでも神道祭りと聞くと、少なくとも私メは昔を思い出して何となく高揚感を多少は感じる気がします。
 昔ほどでは無いにしても、露店が並び、提灯や幟が飾られて、いつもの境内とは違って華やいだ雰囲気。朝早く、まだお祭り前の準備で、禰宜さんたちや巫女さんたちが境内を掃き清めたり、神事の準備をしたりと忙しそうに動き回っておられました。
参拝のためにいつもの様に手水舎で清めていると、どこからか「因幡の白兎」のメロディーが聞こえてきました。四柱という四祭神の中に天照大神はいても、国を譲った大国主命はおられなかった筈・・・。
 「えっ、何で大国主?」
すると、昔の神道祭りでの記憶には無かったのですが、境内に人形の舞台が作られていて、その舞台が「因幡の白兎」の場面だったのです。ウサギを助ける大黒様とワニに皮をむかれて真っ赤になったウサギなどの人形と共に、その縁起と歌詞も掲示されていて、正しくは唱歌「大黒様」がその題名と知りました。
 『♪大きな袋を肩にかけ 大黒様が来かかると ここに因幡の白うさぎ 皮をむかれて 赤裸』
という懐かしい歌詞。
因みに、剥いだ皮を口にくわえたワニはちゃんと鮫でした。余談ですが、中国地方では今でも鮫の切り身がワニと呼ばれてスーパーなどで販売されているそうですが、子供の頃、この昔ばなしを初めて聞いた時に、どうしてこの日本に熱帯のワニがいるのかと訝しんだ(ウソだと思った)記憶があります。

 お参りした後で、そんな賑やかに飾られた境内を歩いていると、何となく昔の子供時代にタイムスリップした様な、子供の頃の“神道祭り”のワクワクした気持ちが少し湧いてくる様な自分がそこに居て、懐かしく感じて暫し境内に佇んでいました。