カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 9月11日に放送された、NHKの「ブラタモリ」。
タイトルの「松本~国宝・松本城はなぜ愛された?~」は、武田信玄や豊臣方(石川数正)や徳川家(松平直正)の「武将たちに愛された松本城」という趣旨でした。
松本城に関して、松本市民である私メが個人的に感ずるのは、武将ではなく、むしろ「松本市民に愛された松本城」ということ。つまり、松本市民は「お殿様」ではなく、「お城」に愛着がある・・・ということです。

 一般的には、家光の異母弟で高遠ゆかりの会津藩松平家初代藩主保科正之(注1)や『なせば成る 為さねばならぬ何事も・・・』でも知られる米沢藩“中興の祖”上杉鷹山、また時代劇的に云えば“暴れん坊将軍”の8代将軍吉宗や“黄門さま”水戸光圀なども名君の誉れ高く、地元ではきっと“おらがお殿様”として今でも敬愛されているのでしょう。
しかし、松本藩には残念ながらそうしたお殿様はおらず、例えば松江藩の礎を築いたとされる名君松平直正の松本藩主時代は僅か7年で松江に移封してしまいました。
松本藩は譜代だったことも手伝ってか、藩主は石川家から7家(最後の藩主でもある戸田氏は二度)を数えますので、長く同じ家が治めたような、例えば前田家の金沢藩や細川家の熊本藩、信濃で云えば高遠藩の内藤家や高島藩の諏訪家とは松本藩は異なります(上田藩は真田家ではなく、江戸時代はずっと仙石家なのに、上田で真田ばかりがもてはやされるのは、ちとズルイ!というか、仙石氏が可哀想。江戸時代の真田家は本来三代目藩主として信之が上田から移って以降松代藩主)。
しかも松本藩主の中には、浅野家の20年後に同じ“殿中”江戸城松の廊下で刃傷事件を起こした水野忠恒の様なバカ殿(日頃酒に溺れての乱心とされるが、松本藩が譜代故か、外様だった赤穂藩浅野家の様に改易はされず)もいたのです。
 以前あるローカルTVで、お城への正面通りの大名町で商店を経営されているご夫婦が街頭インタビューに答えて、
 「松本はお殿様が何度も交替されているので、お殿様には愛着が無い代わりにお城に愛着があるのでは?」
と答えられていましたが、正にその通りだと思うのです。
その代々の藩主の中で、強いてあげるのであれば、戦国時代に有力大名にはなれなかったのですが、信濃守護でその後もしっかりと生き延びて、最後武芸や礼儀作法に名を遺した名門小笠原家でしょうか?(武田に追放された小笠原長時の三男貞慶が1582年に旧領だったこの地を回復した際に、「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」と述懐し、“待つ本懐”から「松本」と改名したとされます)。
余談ですが、以前小笠原氏史跡群として林城が国史跡に指定された記念講演会にパネラーで来られた、“山城好き”の春風亭昇太師匠が、
 「織田信長を英雄視するがために、その反対の悪役なので評価されてませんが、私の地元が生んだ今川義元は名君です!」(注2)
と胸を張っておられ、
 「松本の皆さんは絶対に武田信玄を嫌いですよね!?松本は小笠原氏ですかね?」
と聞かれ、会場に詰めかけた我々松本市民が頷くと、
 「そうですよね!諏訪は兎も角、松本は信玄に征服されただけですものネ!」
はい、仰る通りでございます!
 以前も書かせていただいたのですが、「松本城ほど市民の生活に溶け込んで愛されているお城はなのではないか」と言われた“城郭研究家”萩原サチコ女史。
個人的にも全く同感なのですが、市民が自然と親近感を感ずるその理由は、以前高校の大先輩である“居酒屋評論家”の大田和彦先生(本職はグラフィックデザイナーで後に大学教授も)曰く、(見上げなければいけない平山城ではなく)「松本城が平城であり、その周囲の公園にいつでも市民が自由に毎日の通勤通学時など立ち入ることが出来るが故に、日常的に市民の視線や目線の中に松本城がある」(第776話参照)からだと云われていたのが、全く以っての至言だと思っています。しかも公園にはいつでも入れますので、昼間だけではなく、夜もライトアップされた松本城の横を通って帰宅したり、飲みに行ったりと、まさに四季を通じて日常の生活の中に常にお城があると言っても過言ではなく、松本市民にとってはお城が身近にあることは当たり前の風景なのです。まさに“殿様の城”ではなく、“おらが城”。
明治政府が近代化を進める中で、明治6年(1873)に廃城令が発せられ、「城の土地建物は陸軍省の財産だったが、今後陸軍が軍事に使用するものは存城処分。 それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡し、売却用の普通財産とする」とされ、松本城を含め全国の殆どの城が廃城の対象となった中で、松本城は行政ではなく市民が“おらが町の宝”として知恵と資金を出して(旧開智学校の建設資金も然り)守ったということも、“おらが城”の背景にあるのでしょう。
全国で取り壊されたどの城も、例えば近くでは“諏訪の浮城”高島城も、もし今残っていれば国宝や少なくとも重文にはなっていた筈。事程左様に日本中に現存12天守以外にも“町の宝”、“おらが城”はあった筈なのです。
 その意味で、ブラタモリで冒頭、タモリさんが松本城の黒門からお堀端を歩きながら、
 「松本城は山城や平山城ではなく、本来防御には不利な筈の平城なんですよね・・・?」
といみじくも仰っていたのが、正に武将たちにではなく、市民に愛される松本城の真の理由なのです!
【注記1】
高遠藩主から大幅に加増されて山形藩主として移封する際には、正之公を慕う高遠藩の家臣ばかりでなく、多くの(一説には3千人とも)農民までもが正之公を慕って高遠から一緒に山形まで移って行ったそうです。更に会津藩に移り幕府の大老をも務めた正之。幕府から松平姓を名乗ることを薦められても。育ててくれた高遠藩への恩義から終生保科姓で通したという(会津松平家となるのは3代目から)。
因みに会津の名物とされる“高遠そば”は、正之が高遠から蕎麦職人を連れて行ったことに由来し、近年途絶えていたその“高遠そば”が会津若松から高遠に“逆輸入”され、新たな高遠名物として“育成中”の由。
保科正之は今でも高遠で慕われていて、会津若松と共同でNHKの大河ドラマ化に向けて運動中とのこと(あくまでNHKの勝手で良いのですが、先に「八重の桜」で会津が一度取り上げられてしまったので、暫くは難しいのでは?とのことですが・・・)
【注記2】
その時に、昇太師匠がご自身の地元の今川義元同様に、大月出身の三遊亭小遊三師匠が「武田勝頼が死んで武田家が滅亡した原因は、勝頼が最後に頼った大月の岩殿城主だった武田家重臣の小山田氏が最後に裏切ったからだ!」と批判されると、「バカヤロウ!先に織田や徳川方に寝返ったり武田から離反したりした家臣が一杯いた中で、勝頼に最後の最後まで付き従ったのが大月の小山田氏じゃねぇか!」と自慢しているという逸話を紹介してくれましたが、常に歴史は勝者によって書かれる以上、これも“見方変われば”で、領民に対し善政を行った吉良上野介や明智光秀が地元では名君として慕われているというのと同じ地元愛だと感じた次第。
【追記】
昨日(9月19日)いつもの様に松本城公園を通っての朝のウォーキング。今シーズン初めて?の秋晴れでいい天気でしたが、松本城の黒門前には8時半の開場を待つ観光客の方々の行列が・・・。前日の土曜日も、密を避けてソーシャルディスタンスを保っての天守閣入場も手伝い、天守閣へは40分待ちだったそうですが、これもNHKのブラタモリ効果とか。ブラタモリ恐るべし・・・。