カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
週末の朝のウォーキングを兼ねて、松本城から四柱神社にお参りに行き、参拝を終えて女鳥羽川沿いに建つ正面の大鳥居でお辞儀をして縄手通りへ。
少し遅めに家を出た時には11時~正午頃になることもあるのですが、幸橋を渡った対岸の「おきな堂」に時々順番待ちの行列が出来ていることがあります。多い時は10人以上も並んでいることも・・・。
そこで、ある時不思議に思い行ってみると、入り口には名前を書く紙と一緒に「ただ今の待ち時間 40分」という張り紙があり、「えっ!?」と絶句。
というのも、全く以て失礼ながら、それ程の行列になるのかが「何故か理解出来なかった」のです。
私が子供の頃、例えば松本の蕎麦では当時「ソバはこばやし、ツユは弁天」と云われた様に、「おきな堂」も確かに昔からの地元の有名店ではありますが、今の様な行列が出来ていたという記憶はありません(どちらかというと、「翁堂」は「開運堂」と並ぶ老舗和菓子店のイメージで、例えば「開運堂」の代表菓子が「老松」や「真味糖」であるのに対し、片や「翁堂」では、くるみ饅頭の銘菓「女鳥羽の月」や如何にも信州らしい氷餅の「初霜」でしょうか)。
「ナゼなのだろう・・・???」
多分、殆どの方々はガイドブックやマップを持っておられるので、並んで順番待ちをされているのは、多分地元客よりもむしろ皆さん観光客の方々だろうと思われます。
例えば、蕎麦の「野麦」の行列(注1)も観光客の方々ばかりで、地元民は殆ど居ません(これ程並ばなくても食べられるお蕎麦屋さんは、他にも市内にありますから)。もしかすると、それと同じ現象なのでしょうか?
女鳥羽川沿いに建つ、“時代遅れの洋食屋”「おきな堂」。
明治44年創業の老舗和菓子店「翁堂」が、その後、洋菓子部門、喫茶部門と展開し、昭和8年に洋食部門としてスタートしたのが、女鳥羽川沿いに建つ松本の老舗レストランである「おきな堂」。
戦前には旧制の松高生がたむろしてデカンショを語り、戦時中は“特高”が来て“敵製音楽”のレコード盤を粉々に砕いて行ったという、地方都市の近代史と共に歩んで来た洋食屋さんです。
戦前の松高生たちの胃袋を満たしたであろう、特大のチキンカツが載った「バンカラカレー」が今でもここの名物で、この山国信州の田舎で都会のハイカラな匂いを漂わせながら、時代と共に生き抜いてきた“街の洋食屋さん”です(ここで「バンカラカレー」を食べて、「あがたの森」でマンボウ氏等の“青春記”を偲んでみるのも、松本観光の番外編としてはイイかもしれません)。
メニューにある“ボルガライス”というのは、ハヤシソースが掛けられたオムレツとチキンカツのコンビネーション。他には、分厚いポークソテーや大盛りのナポリタンなどなど。
確かに地元でも老舗の有名店ではあるのですが、しかしながら、私メは子供の頃も含め、何故か(勿論自慢ではなく)今まで一度も入ったことがありません(約60年前の子供の頃、生まれて初めて連れて行ってもらった「洋食屋」さんは、記憶では恐らく「タツミ亭」だった様な気がします)。
というのも、個人的には、松本で“町の洋食屋”であれば、「盛りよし」ですし、パスタ(むしろスパゲッティーか)なら「やまなみ」(閉店)か「どんぐり」でした。そして、もしカレーだったら「たくま」や「デリー」(両店とも閉店)ですし、喫茶だけでの珈琲は「まるも」か「アベ」でしょうか。
従って、洋食系で「今日はコレ食べヨ!」と決め打ちで選ぶ時に、「おきな堂」は今まで選択肢には入っては来ませんでした(注2)。
多分、「何食べよ?」と迷いながら“町の洋食屋さん”に行くという機会も余り無く、また仮にあったとしても、“町の洋食屋さん”というには(特に貧乏学生にとっては)多分「おきな堂」は手が届かぬ高級店だと思っていたのではないでしょうか。
仮に、例えばクラシック音楽が聴きたくて、貧乏学生がコーヒー一杯で何時間も粘る・・・というには「おきな堂」へ行くのは些か気が引けます(でも「まるも」なら許してもらえましたし、確か3000枚だったか、今は亡きマスターが収集されたレコードの中から名曲喫茶の様にリクエストまで受け付けてくれました)。
旧制の松高生はいざ知らず、多分私メの学生の頃の「おきな堂」はそんな印象だった様な気がします(因みに、駅前大通りにも「おきな堂駅前店」がありますが、そちらはスパゲッティーやピラフなどの喫茶が中心のカジュアルな店で、こちらの食堂とはメニューが異なります)。
何となく(地元民である私メとしては)不思議な「おきな堂」の順番待ちの行列。せめて一度くらいは食べに行ってみないと、何とも理解出来ないかもしれません。いつか分かりませんが、今度子供たちが帰って来た折にでも、松本での観光客気分で食べに行ってみようと思います。
【注記:1】
蕎麦「野麦」について・・・、
昔、仕事で松本のソフト開発の子会社に外出した際に、「有名店じゃないけど、近くに、お婆さんが一人でやってる旨い蕎麦屋がある」と街中にオフィスがあった会社の先輩に教えてもらって行ったのが最初でした。
その先代のお婆さんが一人でソバを打っておられた当時は何度か食べに行ったのですが、狭い店に大概客は自分だけ。メニューはザルしか無く、一輪挿しの置かれたテーブルに座り、切り干し大根だったか素朴な小鉢の後に出てくる細めの蕎麦をいつも一人静かに(店内には他の音もしないので)食べていました。
その後、「野麦」が有名になり過ぎてからは、故杉浦日向子女史が名著「ソバ屋で憩う」(注:ソバ前に始まる、蕎麦屋での本来の嗜み方を教えてくれた本。是非第86話を参照ください)の中で、いみじくも“岩場の崖に咲く一輪の白いヤマユリ”に例えて「知らず背筋が伸びる」とまで「野麦」を評した様な、嘗てのそんな凛とした静謐さが失われてしまった様な気がして、その後は観光客の方々に任せ、自身は二度と行かなくなりました・・・。
【注記:2】
昔の“松本グルメ”に興味があったら、第5話「松本グルメ」を参照ください(2008年掲載)。取り上げていた中で、今も然程変わっていないのは「まるも」と「たけしや」くらいで、他は閉店してしまったり、有名になってすっかり雰囲気が変わってしまったり・・・。
また、「喫茶まるも」については、第777話と第1024話を是非ご覧ください。