カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 前話での「むしろ逆効果では?」と思わざるを得ない様なイメージダウン(飽くまで個人的にはですが)のCMに対し、これはイイ!と(これまた個人的に)思えるTVCMも勿論ある中で、個人的にほのぼのとしてイイなぁと思えるTVCM。それは、最近だとアマゾンプライムのCMです。

 内容は、40台と思しき中年の共稼ぎ夫婦の日常を描いたCM。
朝早く夫がまだ眠っている内に出社する妻。夫が夜遅くまで残業し帰宅すると、疲れてリビングでうたた寝をしている妻。
そんなお互いに忙しくてすれ違う生活の中で、恐らく二人で家事を分担していて、或る朝奥さんが先に出掛けた後で、ボードに書かれたその日の買い物リストを旦那さんが見る中で、貼られたたくさんのメモやクーポン券の中からラブラブだった若い頃の「いつでもこの頃に戻れる券」と書かれた手書きのカードを見つけ、奥さんのオフィスの退社時間に待ち伏せをしてそのカードを見せて、「まだ使える?」と問いかけるシーン。驚きながらも頷く奥さん。
そして、若い頃を思い出してお互い照れながら手をつないで、隅田川沿いなのか、リバーサンドを歩きながら暫しその頃に戻る二人。家に帰ると、頼まれた買い物がちゃんとアマゾンから玄関先に届いていて・・・。
忙しい日常の中で自分たちの時間を少しでも生み出せるように、買い物はアマゾンにお任せください!というドラマ仕立てのストーリーなのでしょう。

 ただ最初は、場面の切り替えが早過ぎて、そこまで行き着く(理解する)には何度もCMを見ないと分からなかったのですが・・・。
というのも、最初はお互い仕事を持つために、旦那さんがてっきり単身赴任をしていて、赴任先の旦那さんの所に奥さまが週末家事の手伝いに行っているのかと思いました。でも何度も見るうちに、最終的にきっとこうなんだろうなと理解出来た次第。

 そして、更に驚いたことに、この夫婦を演じているお二人。旦那さん役はドラマでも良く見かける俳優さんなのですが、ナント(私メが単に知らなかっただけかもしれませんが)本当のご夫婦なんだとか。それ故でしょうか、
「自然に見えて、イイ夫婦の味を出してるな!」
というのが、好印象の一番の理由だったのかもしれません。
(実際のこのご夫婦にはお子さんもいらっしゃるのでしょうが・・・)
こうした感想は、自分が年を取って、そうした若い頃を懐かしむ単なるオジンとなった中高年夫婦が、相手の片割れに抱く妄想的感想なのかもしれませんが・・・。とすれば、過ぎ去りし過去を懐かしむ中高年夫婦や、忙し過ぎる共稼ぎの若夫婦向けに、大いに成功と云えるCMだと個人的に感心した次第・・・。

 では、イイなぁ~!と思って、じゃあ自分もと、もし「あの頃に戻れる券」を作って差し出しても、普通は(少なくとも我が家においては、絶対に)「使えない!!」と奥さまに言下に否定されるのがオチなのですが・・・。

 日本人なら誰もがきっと一度は世話になったであろう、永谷園のお茶漬け。特に、受験勉強のお夜食や飲んで遅く帰って来た時の〆など、小腹が空いた時などに、
 「何か無い!?」
 「お茶漬けならあるわよ!」
で、ササっと一杯。簡単ですが、最高の一杯でしょう。
インスタントとはいえ、ふりかけ同様に、改良改善、技術革新で食感や味付けも美味しくなって、今や鮭茶、海苔茶、梅茶などなど・・・居酒屋の〆の一杯に近付く程の進歩を見せていると言っても、決して過言では無いかもしれません。その意味では、簡単に食べられるインスタントのお茶漬けを初めて世に出した(私メが生まれる前の昭和27年とか)、永谷園の功績は大いに称賛されて然るべきだと思います。

 余談ですが、永谷園ですぐ思い浮かぶのが、あの三色のパッケージ(大相撲の永谷園の懸賞幕にも使われています)。黒が海苔、柿色があられ、萌葱色がお茶を表しているのだそうですが、これは歌舞伎の「定式幕」を採用したモノ。定式幕というのは、主に歌舞伎の幕開きと終幕に使われる3色で構成される縦縞の幕。元は江戸の芝居小屋(江戸三座。江戸時代に唯一引幕の使用が江戸幕府より許可されていた芝居小屋)の幕に由来するのだそうです。その三色に代表させているのが「お茶漬け海苔」ですので、「お茶漬け」は永谷園の創業以来の看板商品なのでしょう。

 いつでも簡単にお湯(勿論日本茶でも良いのですが)を注ぐだけで作れるインスタントのお茶漬けを、広く一般家庭に広めた永谷園の功績は大いに評価しますが、今TVCMで流している「目覚まし茶漬け」は果たして如何なモノか???永谷園に依れば、
『朝食にお茶づけを食べる「目覚まし茶づけ」を新習慣として提案いたします。朝食はエネルギー不足になりがちな朝の子どもの「あたま」「からだ」 「おなか」の3つのスイッチを入れることができます。
ご飯からブドウ糖を摂取することで、効率よく脳にエネルギーを補給できる「あたまのスイッチ」。
からだがポカポカし動きやすくなる「からだのスイッチ」。
胃腸を動かすことで、排便のリズムが整う「おなかのスイッチ」。
お茶づけはご飯を使った食事なので、この3つのスイッチを入れる朝食にぴったりです。
そして、お茶づけは子どもの91%が好きな食べ物と回答し、98%がサラサラと食べやすいと回答するなど、子どもに人気の食べ物となっております。
また、お茶碗一つで作ることができ、お碗にお米も張り付きにくいことから後片付けも簡単で、忙しい朝のお母さんにもゆとりを持っていただける朝食です。
忙しい朝でもササっとつくれ、お子さまのスイッチONをサポートする「目覚まし茶づけ」を是非お試しください。』
とのこと。分からないではないですが、如何なモノか???

 確かに、忙しい共稼ぎの子育て家庭で、何も食べさせずに朝食抜きで学校に行かせるくらいなら、何でも食べさせた方が良いというのは分かります。そしてその時に、エネルギー源となるブドウ糖を摂取するためであれば、(炭水化物からなら)オニギリでもパンでも良いし、その名の通りブドウやバナナなどの果物からでも摂取出来ますので、何もお茶漬けでなくても良い筈です。どうしてもお茶漬けの消費拡大(のみ)が目的の“こじつけ”としか思えません。しかも、TVCMで子供たちが喜んで「目覚まし茶漬け」を食べて学校に出掛けたことに「ヨシッ!」と喜ぶお母さん役の女優さんの演技は、大袈裟過ぎて何だかヘドが出るのです。

 そのお母さん役を演じられる方・・・。朝、肘をついて味噌汁椀を持つ子供を行儀が悪いと注意するのなら、インスタントの味噌汁だけでなく、朝からお茶漬けを子供に食べさせるお母さんてどうなんでしょうか?
自社製品である永谷園の創業家ではともかく、或る意味日本的家庭の代表格でもあろう梨園では朝からインスタントの味噌汁とお茶漬けを子供に食べさせておられたのでしょうか?
(そんなに子供のことを思うの)だったら、もう少し早く起きて、(子供が喜ぶ)甘い卵焼きと炊き立てのご飯と味噌汁で食べさせてあげればイイじゃん!
もし(共稼ぎ家庭やシングルマザーで)時間が無いのなら、昨日のご飯をレンジで“チン”して(それこそ、永谷園のふりかけを掛けてあげても良いから)、それと(体に良い発酵食品の)納豆と(インスタントではなく)昨日の余ったお味噌汁を温めるだけで良いから、食べさせてあげればイイじゃん!!

 確かに朝も食べてもらえれば、新たな“お茶漬け需要”を生むことは間違いのでしょうが、果たして会社の思惑通り売り上げ拡大に繋がっているのでしょうか?個人的には、このCMシリーズって却ってイメージダウンになっているんじゃないか、と思えて仕方がないのですが・・・?

 半世紀以上も前ですが、多分国語の教科書だったと思うのですが詩が載っていて、「朝、布団の中で目覚めると、トントントントンという音が台所から聞こえてくる。お母さんが包丁で刻むまな板の音。そして、何か良い匂いがしてくる。味噌汁の匂い・・・。」
という様な内容だったと記憶しています。
朝早く聞こえてくる包丁が叩くまな板の音、そして味噌汁の匂い・・。
古いと云われればそれまでですが、これこそが五感で感じるお母さんであり、母の味なのではないでしょうか?

【追記】
文句を言っては何ですが、朝のお茶漬けはともかく、永谷園の「大人のふりかけ」は我が家の(私メ専用ですが)常備食です。ただ、「すき焼き」と言えば丸美屋なのですが、大人用で「すき焼き」が無いのは些か物足りないのですが・・・(もしかすると丸美屋の特許?)

 9月11日に放送された、NHKの「ブラタモリ」。
タイトルの「松本~国宝・松本城はなぜ愛された?~」は、武田信玄や豊臣方(石川数正)や徳川家(松平直正)の「武将たちに愛された松本城」という趣旨でした。
松本城に関して、松本市民である私メが個人的に感ずるのは、武将ではなく、むしろ「松本市民に愛された松本城」ということ。つまり、松本市民は「お殿様」ではなく、「お城」に愛着がある・・・ということです。

 一般的には、家光の異母弟で高遠ゆかりの会津藩松平家初代藩主保科正之(注1)や『なせば成る 為さねばならぬ何事も・・・』でも知られる米沢藩“中興の祖”上杉鷹山、また時代劇的に云えば“暴れん坊将軍”の8代将軍吉宗や“黄門さま”水戸光圀なども名君の誉れ高く、地元ではきっと“おらがお殿様”として今でも敬愛されているのでしょう。
しかし、松本藩には残念ながらそうしたお殿様はおらず、例えば松江藩の礎を築いたとされる名君松平直正の松本藩主時代は僅か7年で松江に移封してしまいました。
松本藩は譜代だったことも手伝ってか、藩主は石川家から7家(最後の藩主でもある戸田氏は二度)を数えますので、長く同じ家が治めたような、例えば前田家の金沢藩や細川家の熊本藩、信濃で云えば高遠藩の内藤家や高島藩の諏訪家とは松本藩は異なります(上田藩は真田家ではなく、江戸時代はずっと仙石家なのに、上田で真田ばかりがもてはやされるのは、ちとズルイ!というか、仙石氏が可哀想。江戸時代の真田家は本来三代目藩主として信之が上田から移って以降松代藩主)。
しかも松本藩主の中には、浅野家の20年後に同じ“殿中”江戸城松の廊下で刃傷事件を起こした水野忠恒の様なバカ殿(日頃酒に溺れての乱心とされるが、松本藩が譜代故か、外様だった赤穂藩浅野家の様に改易はされず)もいたのです。
 以前あるローカルTVで、お城への正面通りの大名町で商店を経営されているご夫婦が街頭インタビューに答えて、
 「松本はお殿様が何度も交替されているので、お殿様には愛着が無い代わりにお城に愛着があるのでは?」
と答えられていましたが、正にその通りだと思うのです。
その代々の藩主の中で、強いてあげるのであれば、戦国時代に有力大名にはなれなかったのですが、信濃守護でその後もしっかりと生き延びて、最後武芸や礼儀作法に名を遺した名門小笠原家でしょうか?(武田に追放された小笠原長時の三男貞慶が1582年に旧領だったこの地を回復した際に、「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」と述懐し、“待つ本懐”から「松本」と改名したとされます)。
余談ですが、以前小笠原氏史跡群として林城が国史跡に指定された記念講演会にパネラーで来られた、“山城好き”の春風亭昇太師匠が、
 「織田信長を英雄視するがために、その反対の悪役なので評価されてませんが、私の地元が生んだ今川義元は名君です!」(注2)
と胸を張っておられ、
 「松本の皆さんは絶対に武田信玄を嫌いですよね!?松本は小笠原氏ですかね?」
と聞かれ、会場に詰めかけた我々松本市民が頷くと、
 「そうですよね!諏訪は兎も角、松本は信玄に征服されただけですものネ!」
はい、仰る通りでございます!
 以前も書かせていただいたのですが、「松本城ほど市民の生活に溶け込んで愛されているお城はなのではないか」と言われた“城郭研究家”萩原サチコ女史。
個人的にも全く同感なのですが、市民が自然と親近感を感ずるその理由は、以前高校の大先輩である“居酒屋評論家”の大田和彦先生(本職はグラフィックデザイナーで後に大学教授も)曰く、(見上げなければいけない平山城ではなく)「松本城が平城であり、その周囲の公園にいつでも市民が自由に毎日の通勤通学時など立ち入ることが出来るが故に、日常的に市民の視線や目線の中に松本城がある」(第776話参照)からだと云われていたのが、全く以っての至言だと思っています。しかも公園にはいつでも入れますので、昼間だけではなく、夜もライトアップされた松本城の横を通って帰宅したり、飲みに行ったりと、まさに四季を通じて日常の生活の中に常にお城があると言っても過言ではなく、松本市民にとってはお城が身近にあることは当たり前の風景なのです。まさに“殿様の城”ではなく、“おらが城”。
明治政府が近代化を進める中で、明治6年(1873)に廃城令が発せられ、「城の土地建物は陸軍省の財産だったが、今後陸軍が軍事に使用するものは存城処分。 それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡し、売却用の普通財産とする」とされ、松本城を含め全国の殆どの城が廃城の対象となった中で、松本城は行政ではなく市民が“おらが町の宝”として知恵と資金を出して(旧開智学校の建設資金も然り)守ったということも、“おらが城”の背景にあるのでしょう。
全国で取り壊されたどの城も、例えば近くでは“諏訪の浮城”高島城も、もし今残っていれば国宝や少なくとも重文にはなっていた筈。事程左様に日本中に現存12天守以外にも“町の宝”、“おらが城”はあった筈なのです。
 その意味で、ブラタモリで冒頭、タモリさんが松本城の黒門からお堀端を歩きながら、
 「松本城は山城や平山城ではなく、本来防御には不利な筈の平城なんですよね・・・?」
といみじくも仰っていたのが、正に武将たちにではなく、市民に愛される松本城の真の理由なのです!
【注記1】
高遠藩主から大幅に加増されて山形藩主として移封する際には、正之公を慕う高遠藩の家臣ばかりでなく、多くの(一説には3千人とも)農民までもが正之公を慕って高遠から一緒に山形まで移って行ったそうです。更に会津藩に移り幕府の大老をも務めた正之。幕府から松平姓を名乗ることを薦められても。育ててくれた高遠藩への恩義から終生保科姓で通したという(会津松平家となるのは3代目から)。
因みに会津の名物とされる“高遠そば”は、正之が高遠から蕎麦職人を連れて行ったことに由来し、近年途絶えていたその“高遠そば”が会津若松から高遠に“逆輸入”され、新たな高遠名物として“育成中”の由。
保科正之は今でも高遠で慕われていて、会津若松と共同でNHKの大河ドラマ化に向けて運動中とのこと(あくまでNHKの勝手で良いのですが、先に「八重の桜」で会津が一度取り上げられてしまったので、暫くは難しいのでは?とのことですが・・・)
【注記2】
その時に、昇太師匠がご自身の地元の今川義元同様に、大月出身の三遊亭小遊三師匠が「武田勝頼が死んで武田家が滅亡した原因は、勝頼が最後に頼った大月の岩殿城主だった武田家重臣の小山田氏が最後に裏切ったからだ!」と批判されると、「バカヤロウ!先に織田や徳川方に寝返ったり武田から離反したりした家臣が一杯いた中で、勝頼に最後の最後まで付き従ったのが大月の小山田氏じゃねぇか!」と自慢しているという逸話を紹介してくれましたが、常に歴史は勝者によって書かれる以上、これも“見方変われば”で、領民に対し善政を行った吉良上野介や明智光秀が地元では名君として慕われているというのと同じ地元愛だと感じた次第。
【追記】
昨日(9月19日)いつもの様に松本城公園を通っての朝のウォーキング。今シーズン初めて?の秋晴れでいい天気でしたが、松本城の黒門前には8時半の開場を待つ観光客の方々の行列が・・・。前日の土曜日も、密を避けてソーシャルディスタンスを保っての天守閣入場も手伝い、天守閣へは40分待ちだったそうですが、これもNHKのブラタモリ効果とか。ブラタモリ恐るべし・・・。

 9月11日の土曜日。NHKの「ブラタモリ」で、遂に松本が取り上げられました。題して「松本~国宝・松本城はなぜ愛された?~」。

 先ずは、松本城の黒門付近から国宝松本城の紹介に始まり、「なぜ防御に弱そうに見える平城の松本城が、この場所に建てられたのか?」という命題を、松本城の周囲を歩きながらタモリさんが解き明かしていくというストーリー。松本平(盆地)の東側に位置する、女鳥羽川と薄川等で構成された複合扇状地である松本の地形とその扇端に位置することで豊富な湧水群の関係、そして大地溝帯フォッサマグナの東端に位置する糸魚川静岡構造線との関係をふまえながらの街歩きでした。
 ブラタモリは毎回郷土史家や地質学の専門家が登場して、博識(幅広い雑学的な。とりわけ岩石などの地学に関して)のタモリさんがその専門家のヒントを元にその地域の特徴や背景を解き明かしていくのですが、そうした展開は松本編でも同様でした。
松本市民としては当然ですが、或る程度知った内容が殆どで目新しさは然程無かったのですが、ただ余りに武田信玄を評価していたのは松本市民的(?)にはちょっと違う!かな・・・(注)。
確かに、現在の松本城の在る場所を統治の中心地として目を付けたのは武田信玄かもしれませんが、元々は信濃守護であった小笠原氏の支城(本拠は山城の林大城)があった場所。
また武田信玄の信濃侵攻では、善光寺街道(正しくは北国西往還。北国西街道とも)ではなく、むしろ八ヶ岳山麓を巻く様に走る信玄棒道と呼ばれる軍用道路を使って諏訪から進軍し、抵抗する佐久小県の名門村上氏との戦いが信濃攻略の中心であり、その後敗れた村上氏が越後の上杉謙信を頼ったことから五次に亘る川中島の戦いに繋がっていきますし、先述の善光寺街道は戦国時代ではなく江戸時代の慶長10年に開削されたとあることから、武田信玄と善光寺街道や飛騨への野麦街道を殊更結び付けるのは些か(歴史上は)違うのではないかと思います(時系列は兎も角、地理的には、この地がそうした主要街道が交わる交通・物流の要所であったことは間違いありません)。
武田信玄が松本支配にあたって、それまで小笠原氏の拠点だった山城ではなく新たに湿地帯に在った支城を整備し、松本の城下町としての町割りの基礎を築いたことは間違いありませんが、元々松本は東山道の拠点として奈良時代に信濃国府が上田(小県)から筑摩に移され、また古くから“束間の湯”として都にまで聞こえた地として、天武天皇が行宮(あんぐう。行幸時の仮御所)造営まで計画したという古くから栄えた地でもあり(その頃の中心は当然ながら今の市街地とは異なります)、その後信濃守護の小笠原氏の統治の拠点として信濃国の中心であったことは疑いありません(地政学的にも山々に囲まれた信濃国全体を治めるには、真ん中の筑摩、現松本は合理的です)。
従って、現在の松本城の場所を拠点に城下町を整備(外堀として活用すべく女鳥羽川を直角に改修するなど)した信玄の目の付け所の良さは認めつつ、松本城(の場所の選定)を語るには、家康の幼馴染から豊臣方に寝返って最初に壮大な城を築いた数正の石川親子や、信玄より先に最初の砦(支城)を置いた小笠原氏にもスポットが当たっても良かったかな・・・と思いました。
ただ家光の従弟であった松平直正(その後松江に転封されたので、結果現存の国宝五城の二つを居城としたお殿様であり、松本から蕎麦職人を連れて行ったのが出雲そばの起源とされる)が辰巳附櫓と月見櫓を家光のために増築し、複合連結式天守の現在の松本城を完成させたことは事実ですが・・・。
また、タモリさんならきっと気付かれた筈なので(番組の構成上時間無し?)、本丸庭園から眺めた時に、大天守の最上層の5階と4階のバランスが悪い(4階に比べて5階が大き過ぎる)ことを指摘(真冬の厳しい寒さで高欄が霜で傷むために、創建時の望楼型をその後層塔型に改修)して欲しかったなぁと思いました。
 複合扇状地の扇端である松本の市街地を巡り、湧水(平成の水百選「まつもと城下町湧水群」)を巡りながら、湧水を活用したお堀や街中の水路を泳ぐニジマスに驚くタモリさん。
因みに、ニジマスかヤマメなのか(街中を流れる女鳥羽川には地元でアカウオと呼ぶウグイが生息しているそうですが)分かりませんが、私メが源智の井戸で地元の町会の長老の方に教えていただいた話では、源池の水源から流れ出る川(蛇川か榛の木川)の水源近くの料理屋(だったか)のご主人が昔何10匹の稚魚を放して、それが今でも生息しているとのこと。実際、私が水を汲みに行く源智の井戸の脇の水路(榛の木川)にはヤマメ(魚影が黒いので)が泳いでいますし、昔は(誰かが植えたと思われる)ワサビが生えていました(その後、地元のタウンペーパーで高校生の悪ガキ共が何匹か釣り上げてしまったという記事もありましたが、まだ蛇川中心に生き残っているようです)。確かにタモリさんが驚かれたように、コイではなくニジマスかヤマメかの淡水魚(渓流魚)が街中を流れる水路に泳ぐというのは、松本の豊富な湧水のお陰です。
 個人的に、ブラタモリを視て驚いたこと。
タモリさんが早大のジャズ研におられたことは知っていましたが、学生時代に毎年クリスマスに松本のレストラン(松本楼か松本館)でジャズを演奏しておられたとのこと。「懐かしい・・・」とため息をつかれていたのが、一番印象に残りました。
余談ですが、「笑ってイイとも」が終了したので「ブラタモリ」で地方ロケに出られる様になったのでしょうが、出来れば初任地が長野放送局だった桑子アナウンサーが担当していた時代に、是非松本や諏訪(タモリさんが大好きな地学に特化し、黒曜石やフォッサマグナを取り上げておられた由)に来ていただいていたら、お二人のやり取りがさぞ興味深かっただろうとチョッピリ残念でした。
【注記】
勝頼の母でもある湖衣姫(小説上での名称。信玄の側室だった諏訪御寮人)始め、武田家と縁戚関係(同盟)だった諏訪家と違って、ただ信玄に侵略されただけ(城を捨てて逃げた領主小笠原長時も情けないですが)の松本は然程信玄に愛着は感じません。
更に言わせてもらえれば、「長野の松本」や、「長野の諏訪」或いは「長野の上田」じゃ、一体どこのことか分からないじゃないですか!「長野県の・・・」と言わないと・・・。なので信州と云えば一発で理解されるのです!・・・。
昔、県外の方と冬場に仕事で電話をすると、「いやぁ、“長野”は毎日雪で大変ですね!?」と良く挨拶の中で言われたことがあるのですが、都度「それは、日本海側の気候の影響を受ける長野市のことで、北アルプスに遮られる内陸の松本や諏訪では殆ど雪は降らないんです!」と説明するのがホント面倒臭かったのです。だから「長野」じゃなくて「信州」なのです!(というのが、“ケンミンショー”的には如何にも理屈っぽい“信州人”or“長野県人”足る所以なのですが・・・)。

 週末の朝のウォーキングを兼ねて、松本城から四柱神社にお参りに行き、参拝を終えて女鳥羽川沿いに建つ正面の大鳥居でお辞儀をして縄手通りへ。
少し遅めに家を出た時には11時~正午頃になることもあるのですが、幸橋を渡った対岸の「おきな堂」に時々順番待ちの行列が出来ていることがあります。多い時は10人以上も並んでいることも・・・。
そこで、ある時不思議に思い行ってみると、入り口には名前を書く紙と一緒に「ただ今の待ち時間 40分」という張り紙があり、「えっ!?」と絶句。
というのも、全く以て失礼ながら、それ程の行列になるのかが「何故か理解出来なかった」のです。
私が子供の頃、例えば松本の蕎麦では当時「ソバはこばやし、ツユは弁天」と云われた様に、「おきな堂」も確かに昔からの地元の有名店ではありますが、今の様な行列が出来ていたという記憶はありません(どちらかというと、「翁堂」は「開運堂」と並ぶ老舗和菓子店のイメージで、例えば「開運堂」の代表菓子が「老松」や「真味糖」であるのに対し、片や「翁堂」では、くるみ饅頭の銘菓「女鳥羽の月」や如何にも信州らしい氷餅の「初霜」でしょうか)。

 今年の冬頃から、毎週末ウォーキングを兼ねて松本城から更に足を延ばして四柱と天神さんにお参りに来ているのですが、大小(長短?)はあれど、その途中の「おきな堂」では週末に必ずと言って良いくらいに行列が出来ているのです。
 「ナゼなのだろう・・・???」
多分、殆どの方々はガイドブックやマップを持っておられるので、並んで順番待ちをされているのは、多分地元客よりもむしろ皆さん観光客の方々だろうと思われます。
例えば、蕎麦の「野麦」の行列(注1)も観光客の方々ばかりで、地元民は殆ど居ません(これ程並ばなくても食べられるお蕎麦屋さんは、他にも市内にありますから)。もしかすると、それと同じ現象なのでしょうか?
 女鳥羽川沿いに建つ、“時代遅れの洋食屋”「おきな堂」。
明治44年創業の老舗和菓子店「翁堂」が、その後、洋菓子部門、喫茶部門と展開し、昭和8年に洋食部門としてスタートしたのが、女鳥羽川沿いに建つ松本の老舗レストランである「おきな堂」。
戦前には旧制の松高生がたむろしてデカンショを語り、戦時中は“特高”が来て“敵製音楽”のレコード盤を粉々に砕いて行ったという、地方都市の近代史と共に歩んで来た洋食屋さんです。
戦前の松高生たちの胃袋を満たしたであろう、特大のチキンカツが載った「バンカラカレー」が今でもここの名物で、この山国信州の田舎で都会のハイカラな匂いを漂わせながら、時代と共に生き抜いてきた“街の洋食屋さん”です(ここで「バンカラカレー」を食べて、「あがたの森」でマンボウ氏等の“青春記”を偲んでみるのも、松本観光の番外編としてはイイかもしれません)。
メニューにある“ボルガライス”というのは、ハヤシソースが掛けられたオムレツとチキンカツのコンビネーション。他には、分厚いポークソテーや大盛りのナポリタンなどなど。
確かに地元でも老舗の有名店ではあるのですが、しかしながら、私メは子供の頃も含め、何故か(勿論自慢ではなく)今まで一度も入ったことがありません(約60年前の子供の頃、生まれて初めて連れて行ってもらった「洋食屋」さんは、記憶では恐らく「タツミ亭」だった様な気がします)。
というのも、個人的には、松本で“町の洋食屋”であれば、「盛りよし」ですし、パスタ(むしろスパゲッティーか)なら「やまなみ」(閉店)か「どんぐり」でした。そして、もしカレーだったら「たくま」や「デリー」(両店とも閉店)ですし、喫茶だけでの珈琲は「まるも」か「アベ」でしょうか。
従って、洋食系で「今日はコレ食べヨ!」と決め打ちで選ぶ時に、「おきな堂」は今まで選択肢には入っては来ませんでした(注2)。
多分、「何食べよ?」と迷いながら“町の洋食屋さん”に行くという機会も余り無く、また仮にあったとしても、“町の洋食屋さん”というには(特に貧乏学生にとっては)多分「おきな堂」は手が届かぬ高級店だと思っていたのではないでしょうか。
仮に、例えばクラシック音楽が聴きたくて、貧乏学生がコーヒー一杯で何時間も粘る・・・というには「おきな堂」へ行くのは些か気が引けます(でも「まるも」なら許してもらえましたし、確か3000枚だったか、今は亡きマスターが収集されたレコードの中から名曲喫茶の様にリクエストまで受け付けてくれました)。
旧制の松高生はいざ知らず、多分私メの学生の頃の「おきな堂」はそんな印象だった様な気がします(因みに、駅前大通りにも「おきな堂駅前店」がありますが、そちらはスパゲッティーやピラフなどの喫茶が中心のカジュアルな店で、こちらの食堂とはメニューが異なります)。
 何となく(地元民である私メとしては)不思議な「おきな堂」の順番待ちの行列。せめて一度くらいは食べに行ってみないと、何とも理解出来ないかもしれません。いつか分かりませんが、今度子供たちが帰って来た折にでも、松本での観光客気分で食べに行ってみようと思います。
【注記:1】
蕎麦「野麦」について・・・、
昔、仕事で松本のソフト開発の子会社に外出した際に、「有名店じゃないけど、近くに、お婆さんが一人でやってる旨い蕎麦屋がある」と街中にオフィスがあった会社の先輩に教えてもらって行ったのが最初でした。
その先代のお婆さんが一人でソバを打っておられた当時は何度か食べに行ったのですが、狭い店に大概客は自分だけ。メニューはザルしか無く、一輪挿しの置かれたテーブルに座り、切り干し大根だったか素朴な小鉢の後に出てくる細めの蕎麦をいつも一人静かに(店内には他の音もしないので)食べていました。
その後、「野麦」が有名になり過ぎてからは、故杉浦日向子女史が名著「ソバ屋で憩う」(注:ソバ前に始まる、蕎麦屋での本来の嗜み方を教えてくれた本。是非第86話を参照ください)の中で、いみじくも“岩場の崖に咲く一輪の白いヤマユリ”に例えて「知らず背筋が伸びる」とまで「野麦」を評した様な、嘗てのそんな凛とした静謐さが失われてしまった様な気がして、その後は観光客の方々に任せ、自身は二度と行かなくなりました・・・。
【注記:2】
昔の“松本グルメ”に興味があったら、第5話「松本グルメ」を参照ください(2008年掲載)。取り上げていた中で、今も然程変わっていないのは「まるも」と「たけしや」くらいで、他は閉店してしまったり、有名になってすっかり雰囲気が変わってしまったり・・・。
また、「喫茶まるも」については、第777話と第1024話を是非ご覧ください。

 オリンピックに続いて行われた、パラリンピックTOKYO2020。
障害の程度によりクラス分けが異なる様ですが、彼等も確かに“正真正銘”のアスリートだと思いました。
日本チーム金メダル第1号は男子100メートル自由形S4クラスの鈴木孝幸選手でしたが、彼は生まれた時から両足と右手がなく左手の指にも障害があるのですが、その左手一本で肘から先の無い右手を使い、クロールを見事なバランスで泳ぎ切ったのです。その様子を見ながら、彼の必死の頑張りに涙が溢れてたまりませんでした。他にも、殺人球技と呼ばれる車椅子ラグビーでは、試合中に腕がツル選手もいるのだとか。足は兎も角、腕がツルという経験は健常者では普通はあり得ない世界だと思うのです。健常者の様に足が使えないからこそ、唯一使える体の部位である腕をそこまで酷使しているという事実。例えば、両手が無く、口でラケットを加えて強烈なスマッシュを打つ卓球選手、そしてミリ単位での密着度を競うボッチャで、日本勢初の金メダリストとなった杉村選手の相手のボールに乗り上げるという神業・・・etc。
彼等に限らず、出場する選手の皆さんはそれぞれが持つハンディを、最終的には「ハンディではなく個性」と言い切れる程に血が滲む様な努力と鍛錬で克服し、各国内の競争を勝ち抜いて得たパラリンピック出場の晴れ舞台でありましょう。

 以下、批判を承知で敢えて問います。
しかし、それをオリンピックのメダルと同じ様に、例えば「世界記録」というようにマスコミが扱うのは少しおかしいのではないか、との思いを禁じ得ません。というのも、例えば、
『男子走り幅跳びの世界記録は、1991年にアメリカのマイク・パウエルが世界選手権でマークした8m95。以来破られていない記録は、9月1日(水)に行われる東京パラリンピックで更新されるかもしれない。
マルクス・レーム(ドイツ)は、パラ陸上競技で活躍する義足のジャンパーだ。2012年ロンドンパラリンピックに初出場して金メダルを獲得、2016年リオ大会でも2連覇を達成している。パラリンピックでの金メダル数以上に、レームを世界的なトップアスリートとして有名にしているのが、その記録だ。
2021年6月1日、レームは8m62の世界新をマークした。ポーランドで行われたパラ陸上のヨーロッパ選手権での記録だ。2018年8月に同じくヨーロッパ選手権で自身がマークした8m48を14cm更新する、大ジャンプだった。
5年前、リオオリンピックの男子走幅跳で優勝したジェフ・ヘンダーソン(アメリカ)の記録は、8m38。もし、現在のレームがリオオリンピックに出場していれば、金メダルを獲得していたかもしれない。レームの記録は、オリンピックのメダル級なのである』(結果として、9月1日に行われた今回の彼の優勝記録は、幸いそうした議論を巻き起こすことの無い8m18㎝でした)。
この選手は、パラリンピックだけではなくオリンピックへの出場も訴えて認められなかったのですが、それは違うと思うのです。
今回のオリンピックでLGBTの選手が女子重量挙げに(本人と自国のオリンピック委員会は当然その正統性を主張した上で)出場したことが賛否両論として議論を浴びました(結果として試技に失敗して記録無しに終わり、議論はそこで収束した)が、その延長線上で、もしAIが発達した近未来、人造人間が人間と同じ“心”を持ち、「私は人間だ」と訴えれば人間と同じ土俵に上れるのでしょうか。
ドイツオリンピック委員会からの彼の東京オリンピックの出場申し出に対し、IOCは『カーボン製競技用義足の優位性がないことを証明しなければ、オリンピック出場は認められない』として今回の出場を認めなかったそうですが、仮に優位性が無いとしても、やはり健常者と同じ土俵で扱うべきではないと思います。
というのは、補助装置の技術的革新、進歩はやがて人間の肉体を超えてしまうのではないか、その進歩に人間の肉体は果たして追いつけるのか?・・・という疑問。

 従って、批判を承知で敢えて問います。
その記録や努力は、別の土俵で大いに評価し、称賛すれば良い。しかし、土俵が違う以上、数値上の絶対値でその記録を比較し評価すべきではないのではないか!?・・・。

 2年前のドラフト会議。ヤクルトに指名された奥川やロッテ佐々木などがドラフト1位候補の目玉とされた中で、オリックスに1位指名されたのが沖縄興南高校のエースだった宮城大弥投手でした。
彼は172㎝と決して体は大きくないのですが、U-18 の日本代表に選出されて、外国人選手相手に最速149㎞の直球と鋭いスライダーを武器に好投する宮城投手を見て、貴重なサウスフォーでもあり「いいピッチャーだなぁ・・・」と感心し、個人的にはドラフト会議でも注目していました。
指名が重複した星稜の奥川や大船渡の佐々木に対し、宮城は外れの外れでの1位指名でした(従って、2巡目の入札でどの球団も彼を1位指名で獲得出来たのです)。

 その日の夕刻の恒例のTBSのドラフト特番で、宮城投手が取り上げられ、父上が若い頃に遭った交通事故の影響で左手が不自由になり、定職に就くことができなかったために、食費もままならないほど困窮し、家計が苦しくなると毎日のように具のないカレーが食卓に並ぶなど、或る意味、貧乏を通り越して極貧とも言える生活の中で小さい頃から野球を続けて来たことを知りました。ボロボロで継ぎ接ぎだらけのユニフォームや、子供用のグローブを使い続けるなど、チームメイトから馬鹿にされることもしょっちゅうでも、彼はいつもニコニコしていたのだそうです。だからプロ野球選手になってお金を稼ぎ、一日も早く家族に楽をさせたいという一倍強い思いを持っていた宮城投手だったのす。
最後にご両親への感謝の手紙を読む彼に、恒例の“お涙頂戴”のヤラセ企画だとしても、その背景を知りTVの前で貰い泣きをする自分が居ました。
しかも、オリックスからの契約金7000万円の内の2000万円を、出身小中学校や野球チーム、宜野湾市、那覇市、豊見城市などへの寄付にあてたと後で知り、そんな彼のプロ入り後の活躍を期待し応援していました。
どんなに学生時代に活躍しても、プロで大成するとは限りません。ドラフト1位で入って、一軍で全く活躍することも無く消えて行った選手は山ほどいます。そうした中、彼は一年目の秋に高卒同期で真っ先に勝利を挙げ、二年目の今年は山本投手と共にオリックスの二枚看板のエースとして、お互い最多勝争いをしながらリーグ優勝を目指して活躍しています。
そうした活躍で、家族全員にUSJの年間パスポートをプレゼントしたという、先月末二十歳の誕生日を迎えたばかりの今時珍しい純な若者です。

 「本当に良かったなぁ! 野球の神様はチャンと見てるんだなぁ!」

これからも、ケガには気を付けて、ガンバレ!宮城投手。