カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
外宮から内宮へ向かう道沿いで、内宮へ右折する交差点に猿田彦神社があります。前回のお伊勢さんに来た時は立ち寄らなかったのですが、今回は内宮参拝をした帰路、猿田彦神社にも寄ってみることにしました。
『天孫である邇邇藝命(ニニギノミコト、)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂峰へ天降(あまくだ)る』際に、『邇邇藝命が天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(アマノコヤネノミコト)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう途中、猿田毘古神(サルタヒコノカミ)が案内をした。』
という“天孫降臨”の案内役を務めた猿田彦を祀る神社で、そのニニギノミコトの先導をしたということから、道拓き・交通安全・方位除けの神社として信仰されています。
実際の猿田彦神社は、その知名度から受けるイメージ程大きな神社ではありませんでしたが、我々も子供たちや我が家の“道拓き”を願ってしっかりとお参りをさせていただきました。
因みに、我が家も新築時には松本の猿田彦神社の宮司さんが来られて地鎮祭をしていただきましたが、これは祀られている神様の猿田彦命というよりも、伊勢神宮の式年遷宮の際に、代々猿田彦神社の宮司が心御柱と御船代(みふなしろ)を造るなどの役割を必ず果たしてきたために建築の神とされてきたことがその理由なのだそうです。
尚、境内には、本殿と向き合う様に、境内社として猿田彦命の奥さまでもある天宇受売命(アメノウズメノミコト)を祀った佐瑠女神社があります。
説明に依ると、
『天孫降臨の際に、天照大御神の命により瓊瓊杵尊と猿田彦大神の間を取り持ったのが天宇受売命(アメノウズメノミコト)であることから、縁結びの神様と言われています。さらには、“天照大神が天の岩戸に籠もられた際に神楽を踊った神様”という事で、芸能の神様としても有名』とのことで、古典芸能や歌舞伎などを始めとする芸能人の方々の奉納されたたくさんの幟がありました。我が家ではお稽古事などの芸事はもう関係無さそうですが、一応こちらにもお参りをしました。
伊勢神宮近くの猿田彦神社に参拝していたので、
「えっ、こっちが猿田彦の“大本宮”??」
湯の山温泉からは、下道を走っても車で20分ちょっととのことから、他に行く所も無い(長島温泉やなばなの里などは遥かに遠い)ので、参拝にはそれほど時間も掛からないであろうことから、行ってみました。
場所は市街地から外れた鈴鹿山系の麓に位置し、背後の山そのものも奥社の様な存在。
全国の神社の頂点に立つ伊勢神宮は別格として、さすがは伊勢国の一之宮というだけあって、500台可能という駐車場に始まり、確かに境内は伊勢市の猿田彦神社とは比べ物にならないくらい広くて大きな神社でした。
そこでWikipediaの「猿田彦神社」の記述に依ると(一方の「椿大神社」は説明が少ないので)、
『全国約2千社の猿田彦大神を祀る神社の総本社「地祗猿田彦大本宮」は鈴鹿市の椿大神社ということになっている(昭和10年内務省神社局調査)。
椿大神社の宮司は山本という名字で、猿田彦神社の宮司は宇治土公(うじつちのきみ、後にうじとこと称)という氏姓である。延暦期成立と見られる「皇太神宮儀式帳」や後三条朝までの編年記事が見える「大神宮諸雑事記」では、宇治土公は大田命の子孫であるとだけ主張しており、「児島系図」では久斯比賀多命三世孫の久斯気主命を祖とし、石部公や狛人部と同族であるとされる。ところが、鎌倉時代成立と見られる「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」で突然「猿田彦大神は宇遅土公氏遠祖の神なり」と記されるようになり、「倭姫命世記」でも「猿田彦神の裔宇治土公氏の祖大田命」と主張するようになり、大田命の祖として猿田彦命が架上されたと見られる。
猿田彦神社が神宮内宮の近くにあることや、猿田彦大神を祀る各地の神社で椿大神社とつながりのある神社は少数しか存在しないことから、猿田彦神社が猿田彦神を祀る神社の総本社と考える者も多い。』
ということから、どうやら論争もあってハッキリとしていない部分もありそうです。
つまり、地鎮祭だけではなく、猿田彦命は我が国の庶民信仰(土着信仰)とも深い係わりを持っており、実に興味深い神様だったのです。
個人的に感じたのは(直観的で、調べた訳ではありませんが)、古代日本の原始宗教であるミシャクジ信仰(上社のご神体はモレヤに繋がる守屋山であり、守矢氏が代々神長官を務めた)と“国譲り”神話で建御名方富命(タケミナカタノミコト)が融合した諏訪大社に代表される関係の様に、何となく道案内をする猿田彦命は、最初に天津神に従った古来日本の土着神の様な気がします。それゆえに土着信仰と融合して各地に根付いているのではないでしょうか。
信者の方々が椿を植えて全山椿が生えているという神楽山。麓に鳥居があり、そこを潜ると参道の階段が現れます。
ところがトンデモハップンで、一体どこまで続くのかと思う程に急な石の階段が延々と続いていて、もうちょっとかと思って登っても全く先が見えないのです。また引き返そうにも、下にも途中にも段数や距離などについての何の案内や説明もありません。ここまで来て引き返すのも癪なので、結局意地で登り切りました。下りの時に段数を数えてみると、凡そ250段。400段以上あった山中湖の石割神社程では無かったにせよ、急な石段で、梅雨時で濡れていたことも手伝い、歩き辛いことこの上無し。せめて、社務所なりパンフレットに、250段の急な石段があることくらいは記載しておいても、神様の罰(どの神様が諫めるかはともかく)は当たらないのではないでしょうか。しかも、登ってみてわかったのは、愛宕社は「火伏せの神として火難除の信仰の厚い神社」とのこと。火の用心も勿論大切ですが、道拓きの猿田彦の神様にお参りに来た上に、更にわざわざここまで登って来て火の用心のお願いせずとも良いのでは・・・?(せっかく来たのでちゃんとお参りしましたが)。失礼ながら、パンフから大いに熱意の感じられた猿田彦神社との対比での椿大神社の権威付けの説明よりも、ここまでわざわざ来た善男善女の参拝者にとって、むしろ余程重要な説明ではないかと感じた次第です。
そして、良く考えてみれば、古典落語「愛宕山」の舞台となった京都の愛宕山の末社だったのかと後で気が付いたのですが、(この椿大神社でわざわざ参拝せずとも良かったという)後の後悔先に立たずでありました。