カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 過日、地場のスーパー「ツルヤ」のチラシに尾頭付きのメバルが載っていたので早速買って、前回に続いて中華風の蒸魚料理「清蒸鮮魚」(チンジョンシェンユイ)の二度目のチャレンジです。
ツルヤも全品ではありませんが、“北陸からの朝採れ鮮魚”を謳い文句にしていて、その昔「魚は食べる気がしない」と言っていた九州出身者の後輩が、ツルヤが10数年前に松本に進出してからは「ツルヤの魚介類なら食べられます」と褒めていたのを思い出します。

 メバル、その名の通り目が大きくて張っている様に見えることから名付けられた魚で、スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属とか。日本では北海道南部から九州にかけての沿岸部で採れると云いますから、ほぼ日本全国で採れるお馴染みの魚と云えます。今回のメバルは石川県で水揚げされたモノでした。
 イトヨリダイとイシモチで前回(第1643話参照)初めて作った「清蒸鮮魚」は、魚自体は美味しかったのですが(奥さまからも高評価)、擦り込んだ塩が多過ぎたのかスープが塩辛くて、私メのお目当てだった“ぶっかけ飯”は失敗でした。
そこで、今回のメバルは擦り込む塩の量を少なめにしたのが逆効果・・・。奥さま曰く、
 「魚に味が無い・・・」。
結果スープも薄味で、ぶっかけ飯もイマイチ・・・。
 「ウーン、なかなか難しい・・・」
 更にその後、たまたま一週間分の買い出しに「ツルヤ」に行ったら、鮮魚コーナーに立派な「アラ」の尾頭付きが並んでいました。
2年前の12月に伊豆高原に行った時に、寄せ鍋に入れる地魚を買いに行った地元の鮮魚店で「美味しい白身魚で、良い出汁が出るから」と薦めてくれたのがこの「アラ」で、確かに「アラ」の粗(あら)からの出汁は出色の旨さでした。
伊豆ではやや小ぶりのアラが一尾200円でしたが、ツルヤでは30㎝以上もあるかなり大き目の尾頭付きで900円。(運んで来た)山国でこの大きさなら、こんなモノでしょうか。
ご自分の冷凍車で伊豆の漁港から直接仕入れられているという伊豆高原の鮮魚店のご主人に薦められ、知らない私メが思わず聞いたのが、
 「アラってクエのことですか?」
だったのですが(第1502話参照)、Wikipediaに拠れば、
『アラ(「𩺊」、魚偏に荒、学名 Niphon spinosus)は、スズキ目ハタ科の海水魚である。なお、アラと同じハタ科には同じく美味な高級魚とされるクエがおり、このクエの九州地方での地方名が「アラ」であり、姿もそっくりであるため混同されやすいが、別の魚である。最大で体長1メートルに達し、背は褐色(灰色)で腹は白色である。スズキに体形が似ているが、スズキより頭や眼が大きく、鱗が小さい。鰓蓋に2本のトゲがあり背びれが2つに分かれている点で、同じハタ科のクエと見分けることができる。』
従って、この「アラ」は、九州でいう「クエ」ではありませんが、同じスズキ目ハタ科の魚なので、シンガポールではガルーパと呼ばれるハタ科のクエを用いる「清蒸鮮魚」には持ってこい!「これぞ(ほぼ)ガルーパ!」・・・です(注)。
因みに、英語でGrouperと呼ばれるクエは、スズキ目ハタ科でマハタ属(種がクエ)に対し、アラは同じスズキ目ハタ科ですがアラ属(種がアラ)になり、確かに口が多きなクエよりもどちらかというと見た目スズキに良く似ています。
この「アラ」は『日本各地沿岸(北海道以南の太平洋沿岸および青森県以南の日本海)から東シナ海・スールー海にかけて分布』しているとはいえ、まさか山国信州で伊豆高原以来の「アラ」の尾頭付きに出会えるとは・・・。大袈裟ながら“感動モノ”でした。因みに今回のアラは新潟からです。
そこで、当初のメニュー予定には無かった「清蒸鮮魚」ですが、せっかくの「アラ」が手に入ったので、三度目の正直でまた作ってみることにしました。
 今回も、参考にしたレシピに沿い、青ネギと生姜を添えて料理酒をまぶしてラップで二重で(酒や汁が零れ出ない様に)しっかり包みます。レンチンで途中ひっくり返して合計10分程度蒸します。途中、酒と滲み出た汁でブクブクと煮立って湯気がレンジ内に籠るくらいまでしっかりと蒸します。
その間に、針生姜、白髪ネギ、そして今回はレシピにはありませんが、彩りを良くするためにハーブガーデンから摘んできたチャービルを刻んでおきます。そして、鍋で中華スープの素、料理酒(本来は紹興酒)、醤油やオイスターソースで(好みで砂糖やみりん)で事前に味を付けておきます。
取り出す時に火傷しない様に気を付けて、レンジから出した魚を大皿に盛って、そこに取り出した魚から滲み出た汁を鍋に加えて沸騰させた汁を注いで、魚の上に生姜とネギを載せて、煙が立つ程に熱く熱した油(本来はピーナッツオイルとか)をジュッと音がする程に注ぎかけ、最後にチャービルを散らして完成です。
 食べてみると、アラの身が美味しいし、そして何よりアラから出た脂と出汁が本当にイイ味!家内からも「美味しい!」と今回は合格点。
事前に味見をして塩梅を調整した上で、アラから出た出汁が加わって、スープが実に旨!ちゃんとシンガポール風に用意したタイ米に掛けての“ぶっかけ飯”も、三度目にして漸く満足の味。
 「あぁ、旨いなぁ~!」
シンガポールのガルーパでの「清蒸鮮魚」を懐かしんで、トライすること3度。一度目は、イシモチとイトヨリダイ。二度目はメバル。そして今回の三度目がアラ。
同じハタ科の魚だったせいか、それともこれまでの反省を踏まえた味付けの調整故か、三度目の正直で満足の出来栄え!漸く、念願の懐かしき“我が人生最高のぶっかけ飯”、絶品の“ネコマンマ”(第1643話を参照ください)を堪能することが出来ました。ヤッタネ!!
 余談ですが、三度目で慣れたから美味しく出来たのか、或いは(誰が作っても)素材自体が良いのか?・・・。初回はイシモチとトヨリダイ、2回目がメバルで3度目の今回がアラ。
白身の魚なら「清蒸鮮魚」には使えるそうですが、思うに、やはり今回はシンガポールのGrouperと同じハタ科の魚であるアラそのものだったのが良かったのではないかと思います。アラは白身も脂がのって美味しいし、何より出汁が良い。アラとクエの区別さえ知らなかった山国の人間に薦めてくれた、伊豆高原の鮮魚店のご主人の云われた通りだと思います。クエなど信州でお目に掛ることは余り無いでしょうが、もしまた運良くアラが入手出来たら、「清蒸鮮魚」も勿論ですが、良い出汁が出るのでシンプルに寄せ鍋にしても良いだろうと思います。
因みに、自分で調理する場合は、今回切り込みを入れようと思ったのですが、皮がかなり固いのと、先述の解説にある「鰓蓋の2本のトゲ」が針に様に鋭く尖っていて、今回指に刺さって出血しましたので注意が必要です。事前に知識も無く、今回ワタを取ってもらっただけですが、切り身の場合は勿論ですが、尾頭付きでも鰓(エラ)は購入時に出来ればワタと一緒にトゲも取ってもらった方が良いでしょう。
【注記】
シンガポールの国語はマレー語(例えば国歌 Majulah Singapura「進めシンガポール」はマレー語)ですが、ビジネス上は英語が公用語なので、中華料理店でも必ず英語でもメニューが表記されており、香港の様に「清蒸鮮魚」と呼ぶよりも、少なくとも我々日本人赴任者の間では単純に「ガルーパ」で通っていたと思います。従って、前回のブログ記事(第1643話)を書くにあたって、ネット検索をして初めて漢字表記と広東語での読み方を知った次第。

 7月21日、城北公民会主催の自然観察講座に夫婦二人で参加して来ました。
行先は白馬五竜高山植物園。参加費用は一人 3,000 円(ゴンドラリフト乗車料、昼食代)で、 20人(先着順)とのこと。
松本市の公民会主催のイベントには、市保有のマイクロバスが使われますが、今回はそれに加え、白馬五竜植物園のマイクロバスも来てくれて2台。コロナ対策で席と席の間隔を空け、一台に10名ずつの乗車。参加者は平日ということもあるかもしれませんが(以前の上高地ツアーの時は、週末だったせいか、小学生の家族連れも多かったのですが)、今回は我々が一番下くらいで70代以上の高齢者の皆さんが殆どでした。
 途中松川村の道の駅でトイレ休憩し、大町の仁科三湖を過ぎて佐野坂を下って白馬村に入ると、すぐに白馬五竜スキー場への入り口です。国道から分かれて少し坂を上り、ビジターセンターやレストランなどが入る総合施設「エスカルプラザ」で下車。そのすぐ近くの五竜テレキャビンの麓駅からゴンドラリフトで、一気に高低差700m、長さ2㎞を登って8分間で山頂駅に到着します(運が良ければ、テレキャビンからカモシカを見られることもあるそうです)。そこから高山植物園の周遊コースがスタートし、片道上り下り各30分とのこと。最初にスタッフの方から植物園についての説明を受け、昼食での集合時間を確認し、自由時間で思い思いに散策を開始です。

 白馬五竜高山植物園は、Hakuba47を構成する白馬五竜スキー場の標高1515mの斜面を利用して、300種200万株という高山植物に特化した植物園。
本来、標高2,500m以上の高山帯でしか見られない高山植物から亜高山帯の植物、山野草まで様々な植物を植栽していて、園内ではヒマラヤの青いケシが一番人気の様ですが、高山植物の女王とも呼ばれる「コマクサ」が園内に12万株も群生しているとのことで、本来2500m以上の高山帯へ本格的な登山をしないと見られない正に“高嶺の花”であるコマクサの群落を登山しなくても間近に見られるのが、個人的にはこの植物園の一番の見どころの様に思います。

この日は晴れ予報で途中爺ヶ岳位まではクッキリと姿を望めたのですが、残念ながら鹿島槍から北側の白馬方面は雲の中。
植物園と並行して植物園上部への展望リフトもあり(坂を上るのが苦手なお年寄りはリフトに乗って上から坂を下りて来ることも可能です)、そこから先には小遠見山まで続くトレッキングコースもあるのですが、今回は自由時間が少ないので、途中の標高1676mの地蔵の頭と呼ばれる遠見尾根の突端に建つ地蔵ケルンまで行ってみることにしました。
 3年前に登った唐松岳(2696m)は、ゴンドラリフトを使えば初心者でも八方尾根からの日帰り登山も可能でしたが、唐松岳から五竜岳(2814m)への縦走ルートには、唐松から白馬岳への不帰ノ嶮(不帰キレット)に負けず、途中牛首から大国岳などの岩場や鎖場などの難所が連続し、更に猫耳の様な双耳峰の鹿島槍へは同じく北アルプス三大キレットの一つ八峰キレットを超えて至るという縦走ルートで、後立山連峰を代表する稜線とも云われています。時々雲が切れると、唐松岳のすぐ左肩にチョコンと鍵先の様に飛び出している岩塊の牛首と、左側の谷合に三角形に突き出た大国岳が望め、その瞬間も誰かが挑んでいるだろう険しい稜線に思いを馳せて登山者の無事を祈ります。
 高山植物園は、木道や階段などの散策路が園内のエリア毎に植生が湧けられた群落を巡る様に歩き易く整備されています。人気のヒマラヤの青いケシの群落は、株分けをしたら今年の花付きが思いの外悪かったとのこと。それでも数株はあの印象的な青い花が咲いていました。残念ながらウルップソウは既に花の時季が終わっていましたが、コマクサは満開。唐松岳でも群落がありましたが、こちらの方が(野生ではないとしても)見事な大群落です(奥さまは、登山教室で登った白馬岳のコマクサの群落の方が良かったとの仰せでしたが・・・?)。しかも2500m超の高山帯の様なザレ場(砂礫地)が1500mの斜面にちゃんと再現されていて、そこにコマクサの株が植えられていて群落を形成しています。
また初めて見る、珍しい白いコマクサ(シロバナコマクサ)も咲いていました。五竜岳への登山ルートでもある植物園最上部から遠見尾根突端の地蔵ケルンまでのトレッキングコースでは登山道の脇に野生のニッコウキスゲなども咲いていて、中には縦走を終えられてか、下山して来るリュックを背負った登山者の方々と途中で何組もすれ違いました。
時刻を確認しながら、集合時間に遅れぬようにテレキャビン山頂駅まで下ります。途中、園内を流れる沢の雪解け水を溜めた沼の様な小さな池もあり、イワナの幼魚がたくさん泳いでいて、自由に(無料で)エサをあげられる様でした。
 植物園というとどうしても人工的な感じが拭えないのですが、この白馬五竜の高山植物園はスタート地点の1515mから高低差100m以上も上る斜面を利用して、北アルプスの自然に近い感じになるように手入れがされていて(その日も園内の雑草取りか、10数名のスタッフの方々が一生懸命作業をされていました)、コマクサなどの高山植物を楽しむことが出来ます。更に最後1676mの地蔵ケルンまで行けば(時間があれば、そこから登り2時間、下り1時間半で小遠見山までのトレッキング可能とのこと)プチ登山気分も味わえますので、小さなお子さんの夏休みに家族連れでの北アルプス散策にはお薦めかもしれません。一見の価値ありで、正直、予想以上に満足出来た、“北アルプスの天空の花園”「白馬五竜高山植物園」でした。

 各地の大雨被害が伝えられた、今年のお盆の日本列島。
そのためコロナ禍に加えて雨天順延が続き、夏の甲子園も大会日程が大幅にずれ込んでいます。
そんな中で行われて、雨天コールドとなった大阪桐蔭と東海大菅生の強豪校同士の一回戦。まるで田んぼの中での泥んこ野球の様な状態で試合をさせた意味がどこにあったのか??
結果として、二試合目から順延にするなら(天気予報で雨天は事前に予測出来た筈)、たった一試合多く順延とすることは出来なかったのか???
今夏は異常な程の雨天続きとはいえ、主催者側(高野連と夏は朝日新聞社。因みに春のセンバツは毎日新聞)の、その後の日程確保のために一試合減らした懸命な努力を“称賛”します(“笑惨”とでも書きたいくらいですが)。

 普段なら平凡な内野ゴロでアウトの筈が、あり得ない様な泥んこのグラウンドでボールが止まってもヒットはヒット(内野安打)で、塁上に走者が居れば攻める側はチャンスだったと期待してしまうという無情(普段ならアウトでしょ!と言われても、感情的には納得出来ないという非情)。
こんなヒドイ試合をさせられた両チームの高校生たちこそが被害者でしょう。勝っても素直に喜べず、負けても感情的には納得できない。この状況下で選手たちに試合をさせざるを得なかった両校の指導者も、さぞ無念だったと思います。しかし、こんな田んぼの様なグラウンドも、高野連からすればきっと“心頭滅却すれば”的“精神野球”の修行の場なのでありましょうか???
高校スポーツの中で、野球だけが特別視されて高体連に属さずに別組織である高野連として、故“佐伯天皇”が確立させた“精神野球”。その大いなる精神的“教育効果”を前提とした、主催者側のさぞ“賢明”な判断だったのでありましょう。
(甲子園球場が高野連の持ち物ではないにしても、グラウンド整備等に物理的に時間や人や資金が必要だとしても、コロナ禍でのオリンピック開催には反対しても甲子園大会は開催する主催者の朝日新聞や中継するNHKやTV朝日などのスポンサーもいるでしょうから、必要な追加資金を確保して、明るくなる朝5時から“神業”阪神園芸に頑張ってもらってグラウンド整備を行い、6時に試合開始すればイイ!もし大会が延びて夏休みが足りなくなったら、大会後の土日を使ってでも選手たちに学校を挙げて補習授業を実施してあげればイイ!スイマセンが阪神タイガースにはその間の主催ゲームを他球場で実施してもらって・・・京都にも西京極とかあるし)

 また、チーム内のコロナ感染で戦うことなく辞退した宮崎商業と東北学院。
宮崎商業は13名、東北学院は“たった”1名の陽性者です(濃厚接触者は4名とか)。
その選手をベンチ入りさせずに交代させることで、その個人が特定されてしまうというリスクを懸念して、個人が特定されぬ様にチームとして辞退させるという高校側の判断との報道でした。
代表インタビューで、東北学院のキャプテンが、戦えずしての辞退をチーム内では悔しがっていた選手もいるとしながらも、陽性となり辞退の原因となった一名の選手を「我々が絶対に守ります!」と語っていた報道には救われた気がしました。

 しかし、本当にそれで良かったのでしょうか?????
原因となったその本人は、「自分のせいで・・・」と将来ずっとチームメイトに対して(エラーで負けた選手以上に)負い目を感じて生きることにならないのでしょうか?卒業後も胸を張ってOB会に出られるのでしょうか?
学校に戻ってチームメイトや野球関係者は懸命に口を噤んでも、陽性者は2週間の隔離が必要であり、その個人を“犯人捜し”で特定しようとする輩や、色々な噂や誹謗中傷がそれこそSNSなどを通じ、面白半分にまた興味本位で拡散されるようなことは起こらないのでしょうか?
(コロナ禍の初期の頃、松本市内で最初の感染者が某地区の会社経営者で北海道に行っていたことから、北海道に業務出張していたために感染者とされ、それにより契約キャンセルなど業務にまで影響が出た地元のハウスメーカーの社長は、その噂を否定する意見広告を自費で新聞に掲載しました。実際は、その地域のコンビニ経営者が感染拡大していた北海道に夫婦で行った旅行中に感染したとのことでした)。
政府と東京都などの各自治体の無為無策で、今や全国で2万人の感染者であり、気を付けていても誰でもが感染するリスクを抱えている中で、感染した本人にそこまでの負い目を負わせることが果たして“教育上”正しい判断なのでしょうか。
少なくとも、たった一名の感染で辞退させるべきでも辞退するべきでもない。感染拡大対策(事前のPCR検査や濃厚接触者の隔離、経過観察など)をキチンとした上で、チーム構成が可能であれば(もし足りなくなったら、ベンチ入りメンバーを今回選ばれなかった部員から特別に補充させてでも)ちゃんと試合をさせるべきではないか!

 個人的には、そんな疑問と怒りを禁じえない(自身は判断せずに、感染対策ガイドライン上、学校側に自主的に辞退せざるを得なくさせたであろう)今回の高野連の“教育的”指導でありました。

 コロナ禍により一年延期されるなど紆余曲折、すったもんだの末に開催された2020東京オリンピック。
自分たちの主張を世論と言い切って開催反対を叫んで来た野党とマスコミが、メダル獲得可能と勝手に煽って結果もし取れなければ掌返しで貶してきた過去のオリンピック以上に、もしメダルが取れればコロナ禍での地元開催であるがために、これまで以上に掌返しで褒め称えるであろうことは十分予想されたのですが、それにしても・・・(唯一、共産党だけがメダルラッシュへのコメントを求められ、小池書記局長は「党として開催を反対してきた以上、コメントは差し控えさせていただく」と主張が一貫していました。但し、特措法の執行側の権限拡大や新型ワクチンの早期認可に反対したのを忘れたかのように掌返しで批判しているのも同党と立憲民主党です-第1553話を参照ください)。
そうしたマスコミの“掌返し”の報道がイヤで、過去のオリンピックは殆ど見なかった大会もありましたが(定年前で働いていたこともありますが)、今回は事前の報道で開催反対が多かっただけに、今までになかった程TV中継を見てTV桟敷の観客席から一生懸命声援を送るなど、むしろどっぷりと嵌ったオリンピックでした。
それに、今回のメダル作成に向けた「都市鉱山からつくる!みんなのメダルプロジェクト」に、それまで初期化が面倒で処分出来ずにいた携帯やタブレット併せて30数個をNTT経由で寄付していたこともあり、誰かのメダルに使われているだろう(パラリンピック用かもしれませんが)という勝手な親近感もありました。

 結果として、史上最高となった日本の選手たちのメダルラッシュ。
地元開催の地の利があることは否定しませんが、無観客では声援が選手を後押しして、時としての“火事場の馬鹿力”的爆発力が期待出来るということも無くなり、そのメリットも半減(唯一、競技によって開催国枠で予選が免除されて出場が可能になったくらいが、結果としての地元開催のメリットだったでしょうか)。
 さて、先ずは開会式。聖火リレーでクイーンの「手を取り合って」が使われたのには驚きつつも感激。聖火台点火者は大阪なおみ。多様性には相応しくとも、結果試合には影響があったのではないでしょうか?3月には内定していたとのことで、それから半年近くも内緒にしていなければならなかった訳で、大変なプレッシャーでは無かったでしょうか!?・・・。本人がそれを誇りに感じてくれたのが救いでしたが、競技に出場する現役アスリートを点火者に選ぶべきではないと個人的には思いました。日本が発祥というピクトグラムは驚きのパフォーマンスでした。

 今回の大会で印象的だったのは、嘗てスノーボードの代表選手が腰パンで物議を醸しその後大麻で逮捕された事件がありましたが、新種目として採用されたスケボーやサーフィンなどで活躍した若い日本選手たちが、驚く程真面目でしっかりしていて全くチャラチャラしていなかったこと。単純にその競技が好きで好きで堪らないだけの純な若者たち。競技の先駆者であった解説者が、スケボーの金メダル獲得で「これで、不良の遊びと言われなくてすみます」と語っていたのが実に印象的でした。

 メダルを確実視された選手が敗退するなどした、競泳陣やバドミントンの不振。陸上も若い三浦選手や田中・弘中選手の歴史的な入賞の一方で、“史上最速”の選手層で目標金メダルだった筈の男子400mリレーの失格。そして期待された女子サッカーと女子バレーの敗退・・・。
こうした予想外の敗退で気になったのは、敗退後のOB・OG連からの「だからダメなんだ。結果は戦う前から分かっていた」と断じるが如き、戦術や育成、強化策に対する様々な批判でした。だったら、戦う前(建設的)に(身内内で大いに)言う(議論する)べきでは無かったのか?後出しジャンケンの事後批判のみっともなさと惨めさ。敗因の元凶であろう競技団体の問題点(主流と反主流の権力争いや現行指導体制への不満などなど)を自ら浮き彫りにしているかのようでした。
そうした状況は、復活した女子ソフトや女子バスケなどではOGが一体となって、まるで一緒に戦っている様な感じで応援していたのとは全く対照的でした。それはマイナースポーツ(またオリンピック種目から外されてしまう)故に、或いはW杯優勝で一躍脚光を浴びたナデシコの様に女子バスケをメダル獲得で何とか人気競技にしたいという、競技に係わる人たちの熱意(危機感)の違いか?
例えば、女子ソフトで解説席にいる宇津木前監督がまるで自身が戦っている様に(聴こえずとも)グランドの選手たちに声掛けし鼓舞し続け、試合が終わって開設者席にいる宇津木さんに勝利を報告するかの様にグランドから手を振る選手たちの仕草にも表れていました。
 個人的に一番感動したのは、女子バスケットの日本チームの銀メダルでした。バレーもバスケも身長差がモノをいう競技です(厳密にいえばバレーだと最高到達点ですが)。しかも、ネットでコートが遮られるバレー(少なくとも自陣では邪魔をされない)と違い、常にコート内で相対するバスケでは身長差の有利不利は尚更です。それが、早さと3ポイント(昔は無かったなぁ・・・)でそのハンディを補っていた日本チームは、それこそ「バスケ界の常識を変えた!」と言っても過言ではないと感激しました。
それにしても、柔道、ソフト、野球、レスリング、女子バスケ。結果を残せた競技と下馬評は高かったのにそうでは無かった競技、一体何が違ったのでしょうか?・・・。それは、確かな計画性と、戦術、技術に裏打ちされた指導者と選手たちとの信頼と一体感(チームワーク)でしょうか??
例えば、「多少間違っていても通訳を介するより、自分で直接話した方が熱意は伝わる」と日本語で指揮していたT・ホーバスHCが印象的でした。
そうした指揮官の熱い思いと冷静な戦略。個人的には、女子バレーの中田久美監督にもそうした熱意はあったと思ったのですが、一体何が違ったのだろう・・・???

 そして、個人的に疑問に思ったこと。
それはメダリストとなった選手たちに代表される様に、試合後の選手へのインタビューでの冒頭で、コロナ禍の中でのオリンピックに反対や批判の声があることをふまえ誰もが開催されたことに感謝していたのが実に痛ましく感じられました。
というのは、アスリートである彼らに、そこまで大会開催の責任と世論の重圧を果たして負わせるべきなのかという疑問。
彼らが必死に頑張ることで、コロナに立ち向かう我々国民に勇気と希望を与えてくれれば(例え競技への補助金等が結果として国民の税金がその財源となっているとしても)それで十分であり、それが彼らアスリートとしてのオリンピックにおける唯一の役割で良いのではないか・・・。
開催を前に、その是非を我がこととして捉え、時に精神的に走れなくなってしまった新谷仁美選手に代表される様に、彼らにそこまでのプレッシャーを与えて良かったのか?彼らが矢面に立ってそんな謝罪をする必要など全く無く、その“べき”はIOCと組織委員会や政府の筈なのに・・・。

 最後に、余談ながら一番印象的だった競技は、初めて見た空手の型でした。目にもとまらぬ程早く鮮やかな演武から発せられる、“シュッ”という様な空気を引き裂く音。清水選手も喜友名選手を始め、各選手の静と動が組み合わされた美しい演武にホレボレと魅入っていました。
【注記】
写真は、TOKYO2020を記念して松本中央図書館ロビーに展示されていた、1964東京オリンピックの記念グッズです(2枚目は、有名なポスターの図案が印刷された風呂敷)。
【追記】
以下、シニカルな言い方をさせてもらえれば・・・、
オリンピックの大会期間中も感染拡大が止まらなかった東京都と日本各地。
“バブル方式”で無観客開催としたことで、皮肉なことに、海外からの日本入国でのコロナ感染拡大を危惧し大会を中止すべきとしたマスコミや一部の世論に対し、むしろ彼等を選手村内などに隔離し競技会場を無観客にしたことで出場する選手や大会関係者の中でのコロナ感染を防ぎ、結果的に感染拡大している市中から彼らを守り通して、競技途中で中止せずに最後まで継続し大会を終了させた組織委員会、主催都市の東京都、そして日本国政府・・・。その意味で、IOCから各責任者に感謝のIOCメダルが贈られたことは或る意味当然だったのかもしれません・・・。

 三重県菰野町の湯の山温泉へ行く入り口付近、新名神高速道の高架下近くにある「アクアイグニス」。
パンフレットの説明をそのまま借りれば、『“癒し”と“食”をテーマにした複合温泉リゾート施設「アクアイグニス」。敷地面積約49,000㎡(14,848坪)に、辻口博啓のスイーツと石窯パン・奥田政行のイタリアン・笠原将弘の和食・源泉100%掛け流しの片岡温泉・宿泊棟・離れ宿・いちごハウス等が集結し、日帰りでもご宿泊でも存分にお楽しみいただけます。』とのこと。
広い敷地を活かして、平屋風の近代的な建物が並んでいます。今回そのなかにある和食料理店「笠庵」に行ってみました。

こちらはTV等でも人気の和食料理人、『賛否両論』の笠原将弘氏が手掛ける店だそうです。
奥さまは「笠庵御膳」の中から鶏すきやき膳(2900円)、私メは鰺フライ(1000円)と鯛茶漬け(1600円)をチョイスしました。
二枚の大振りの鰺フライ。タルタルソースでいただきます。鯛茶漬けは先に鰺フライを食べ終わってからサーブしてもらいました。一緒に添えられていたメモ「お召し上がり方」に従って、先ずは一膳目として砕いたカシューナッツ入りの特性ゴマダレに鯛の切り身を絡めてご飯に載せて、二膳目からは好みで海苔を入れ鯛の出汁を掛けてお茶漬けとして。最後、ご飯がなくなった後の残った出汁はお吸い物替わりにとのことで、茶碗に注いでいただきました。
菰野町は鈴鹿山系の麓ですが、隣接する四日市は海に面しているので魚介類は新鮮でしたが、個人的には小田原漁港の「やまや」の海鮮どど丼とアジフライのセット(第1653話)の方に軍配を挙げます。
奥さまの「笠庵御膳」の鶏すきやきというと、笠庵の賛否両論と比較しては失礼かもしれませんが、上田の塩田平の某松茸小屋の松茸のすきやきが鶏肉で噛み切れない程に硬かった記憶がありますが、家内曰く、驚く程柔らかくて美味しかったとのこと。また、味付けは勿論ですが、先付に始まり、造里(二種)・蒸物・鍋・水物と量もたっぷりでお腹一杯の由。全体的に、「笠庵」のコスパの良さを感じました。ごちそうさまでした。
 アクアイグニアウには、他にもイタリアンやベーカリー、スイーツの店などもあったのですが、奥さまの願掛けの“甘断ち”故、「目の毒」と今回は立ち寄りもせず、「またのお楽しみ」とのこと・・・でした。

 伊勢神宮(内宮)参拝の後、今回もランチを食べに五十鈴川沿いの「おはらい横丁」へ向かいました。
三重県は「まん延防止措置」対象県では無いのですが、この日は平日だったことも手伝い前回来た時程ではないにしても、修学旅行か高校生の団体客も含め今回のおはらい横丁は結構たくさんの人出で混雑していました。

 初めて伊勢にツアーで来た時も、団体向けの大きな土産物屋さんの二階の食堂で伊勢うどんを食べましたが、前回奥さまと来た時も、その前に娘と来た時に食べたというおはらい町通の「岡田屋」で伊勢うどんを食べ、この横丁整備の推進役となった「赤福本店」で名物の赤福を頂きました(第1587話)。
今回は、「もう伊勢うどんはイイよね」ということで(その日は「岡田屋」は臨時休業日でした)、違う店へ。
また奥さまがダイエットついでの願掛けでの“甘断ち”で、今回は赤福には行かないとの強い意志(私メだけが食べ、本人がほうじ茶だけを飲んでいるのも許さぬとの理不尽な仰せ)故、デザート無しの食事のみ。そこで、伊勢名物の松坂牛ではないですが、牛丼の店を推薦すると意外にもOKとのことで、その店を目指します。
 その店は、おはらい横丁からT字に交わる路地の「おかげ横丁」の外れに在る「豚捨」という、何やら曰く有り気な店。店舗案内からそのままお借りすると、
『名産伊勢肉 豚捨(ぶたすて)は、明治42年創業の和牛の専門店です。
創業以来、厳選された上質の伊勢肉だけを販売しております。
「松阪肉は知ってるけど、伊勢肉なんて知らない」といわれる方も多いと思いますが、もともと三重県には伊勢牛と伊賀牛しかありませんでした。
当時、明治10年頃、伊勢市田丸町(現在の玉城町)から東方へと行われた牛追い道中の勇壮な商いにより、伊勢肉の名は全国に知れ渡りました。
その後昭和10年頃から松阪牛が登場し、昭和35年頃から各地の食肉店で“松阪肉” を看板にあげる店が増えてきました。当店では創業以来、この伊勢肉を守り続けています。』
とのこと。ナルホドでありました。また映画監督で脚本家の故松山善三氏(夫人は女優の故高峰秀子)が著した、食に関するエッセイで紹介されたという一文も載っていましたが、
『“豚捨”、なんてふてぶてしい屋号だろうか。
その昔、豚を飼っていた捨吉という男が食肉店をはじめた。人呼んで「豚捨…ぶたすて」。それがいつの間にか屋号になった。
ところがおかしな伝説も生まれた。この店の牛肉があまりにもうまいから「豚なんか捨てちまえ!」と客が豚肉を投げ捨てた。というのが豚捨のはじまりだという。』
店の由緒書き的には、捨吉さんよりも豚を捨てて伊勢牛を選んだという、こちらのエピソードの方が遥かにインパクトがあります。かくいう私メも、この店名に惹かれ選んだ口です。「豚捨」は、現在でも和牛専門の精肉店と飲食店を営んでおられるようです。
 牛丼だけではなく、牛挽肉を使ったコロッケも名物とのことで、食べ歩きのみならずコロッケを店頭で買って席に持ち込み、牛丼と一緒に食べることも出来るのだとか。我々も食べようかと思ったのですが、揚げ物は良くない!との仰せに諦め・・・。他人が食べるのを見ると如何にも(実際の味以上に?)美味しそうに見えるのですが、そこは我慢、我慢・・・。
 メニューには、牛鍋やすき焼き、またあみ焼きなどもありましたが、ここは名物の牛丼を選択。奥さまは、炭水化物はヤメておくと、煮込んだ牛肉を載せたミートサラダ(1000円だったか?)をチョイスとのことで、だったら牛丼も「上」じゃなくて「並」(1100円)でイイや・・・(大盛りも可能)。
運ばれて来た牛丼。全国チェーンの牛丼と違って、かなり濃い目の味付けですが、これが実に美味しい。色んな部位の端肉を使っているとのことで、チェーン店などの他の牛丼と違って、豚捨ての牛丼は煮るのではなく肉を一度焼いてから甘辛いタレで絡めている感じです。このタレが絶品でした。ナルホド、これなら豚を捨ててまでも牛に専念して正解だったのかもしれません。ごちそうさまでした。
また、年配の女性中心のスタッフの皆さんの応対も感じが良く、味だけではなくとても雰囲気も良い店でした。

 外宮から内宮へ向かう道沿いで、内宮へ右折する交差点に猿田彦神社があります。前回のお伊勢さんに来た時は立ち寄らなかったのですが、今回は内宮参拝をした帰路、猿田彦神社にも寄ってみることにしました。

 古事記の神話で、
『天孫である邇邇藝命(ニニギノミコト、)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂峰へ天降(あまくだ)る』際に、『邇邇藝命が天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(アマノコヤネノミコト)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう途中、猿田毘古神(サルタヒコノカミ)が案内をした。』
という“天孫降臨”の案内役を務めた猿田彦を祀る神社で、そのニニギノミコトの先導をしたということから、道拓き・交通安全・方位除けの神社として信仰されています。
実際の猿田彦神社は、その知名度から受けるイメージ程大きな神社ではありませんでしたが、我々も子供たちや我が家の“道拓き”を願ってしっかりとお参りをさせていただきました。
因みに、我が家も新築時には松本の猿田彦神社の宮司さんが来られて地鎮祭をしていただきましたが、これは祀られている神様の猿田彦命というよりも、伊勢神宮の式年遷宮の際に、代々猿田彦神社の宮司が心御柱と御船代(みふなしろ)を造るなどの役割を必ず果たしてきたために建築の神とされてきたことがその理由なのだそうです。
尚、境内には、本殿と向き合う様に、境内社として猿田彦命の奥さまでもある天宇受売命(アメノウズメノミコト)を祀った佐瑠女神社があります。
説明に依ると、
『天孫降臨の際に、天照大御神の命により瓊瓊杵尊と猿田彦大神の間を取り持ったのが天宇受売命(アメノウズメノミコト)であることから、縁結びの神様と言われています。さらには、“天照大神が天の岩戸に籠もられた際に神楽を踊った神様”という事で、芸能の神様としても有名』とのことで、古典芸能や歌舞伎などを始めとする芸能人の方々の奉納されたたくさんの幟がありました。我が家ではお稽古事などの芸事はもう関係無さそうですが、一応こちらにもお参りをしました。
 今回の宿泊先は菰野町の湯の山温泉だったのですが、観光的に近くには観光スポットはありません(唯一の御在所岳は、ロープウェイが点検のため残念ながら運休中でした)。ただ近くの鈴鹿に「椿大神社」(ツバキオオカミヤシロ)があって、こちらは伊勢国一之宮で猿田彦大本営とのこと。
伊勢神宮近くの猿田彦神社に参拝していたので、
 「えっ、こっちが猿田彦の“大本宮”??」
湯の山温泉からは、下道を走っても車で20分ちょっととのことから、他に行く所も無い(長島温泉やなばなの里などは遥かに遠い)ので、参拝にはそれほど時間も掛からないであろうことから、行ってみました。
場所は市街地から外れた鈴鹿山系の麓に位置し、背後の山そのものも奥社の様な存在。
全国の神社の頂点に立つ伊勢神宮は別格として、さすがは伊勢国の一之宮というだけあって、500台可能という駐車場に始まり、確かに境内は伊勢市の猿田彦神社とは比べ物にならないくらい広くて大きな神社でした。
 頂いたパンフレットには、『日本最古の神社』であり、代々宮司を務める『猿田彦大神の神裔(直系子孫)である山本神主家』などなど、如何にもその権威を強調するような文言が並んでいて、失礼ながら何となく他の神社以上に自大的な感じさえ受けました。不思議に思い後日調べてみると・・・どうやら先述の猿田彦神社と椿大神社との間で“権威争い”があったらしいことが推測出来ました。
そこでWikipediaの「猿田彦神社」の記述に依ると(一方の「椿大神社」は説明が少ないので)、
『全国約2千社の猿田彦大神を祀る神社の総本社「地祗猿田彦大本宮」は鈴鹿市の椿大神社ということになっている(昭和10年内務省神社局調査)。
椿大神社の宮司は山本という名字で、猿田彦神社の宮司は宇治土公(うじつちのきみ、後にうじとこと称)という氏姓である。延暦期成立と見られる「皇太神宮儀式帳」や後三条朝までの編年記事が見える「大神宮諸雑事記」では、宇治土公は大田命の子孫であるとだけ主張しており、「児島系図」では久斯比賀多命三世孫の久斯気主命を祖とし、石部公や狛人部と同族であるとされる。ところが、鎌倉時代成立と見られる「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」で突然「猿田彦大神は宇遅土公氏遠祖の神なり」と記されるようになり、「倭姫命世記」でも「猿田彦神の裔宇治土公氏の祖大田命」と主張するようになり、大田命の祖として猿田彦命が架上されたと見られる。
猿田彦神社が神宮内宮の近くにあることや、猿田彦大神を祀る各地の神社で椿大神社とつながりのある神社は少数しか存在しないことから、猿田彦神社が猿田彦神を祀る神社の総本社と考える者も多い。』
ということから、どうやら論争もあってハッキリとしていない部分もありそうです。
 部外者にとっては、お願い事をかなえてさえ頂ければ、どちらが“本家”かどうかは正直どうでも良いことです。むしろ興味深かったのは、猿田彦命はその風貌から天狗のモデルとも謂われ、更に猿から庚申との関連や、また道拓きの神である猿田彦命と天宇受売命(アメノウズメノミコト)が仲睦まじいご夫婦だったことから、日本各地に在る道祖神のモデルにもなっているのだとか。
つまり、地鎮祭だけではなく、猿田彦命は我が国の庶民信仰(土着信仰)とも深い係わりを持っており、実に興味深い神様だったのです。
個人的に感じたのは(直観的で、調べた訳ではありませんが)、古代日本の原始宗教であるミシャクジ信仰(上社のご神体はモレヤに繋がる守屋山であり、守矢氏が代々神長官を務めた)と“国譲り”神話で建御名方富命(タケミナカタノミコト)が融合した諏訪大社に代表される関係の様に、何となく道案内をする猿田彦命は、最初に天津神に従った古来日本の土着神の様な気がします。それゆえに土着信仰と融合して各地に根付いているのではないでしょうか。
 椿大神社の奥に鈴鹿山系の入道ヶ嶽の山頂に鎮座する奥宮と、その麓の小高い神楽山の頂には愛宕社が在るのですが、頂いたパンフレット等には何の説明もなく、そこで社務所の巫女さんにお聞きしたところ、奥宮へは2時間半程掛かり、ちゃんと登山準備をして行かないと無理とのこと(嘗て山岳遭難事故もあったとか)。一方の愛宕社へはここから15分程で行けるとのことで、せっかく来たので愛宕社へ行ってみることにしました。
信者の方々が椿を植えて全山椿が生えているという神楽山。麓に鳥居があり、そこを潜ると参道の階段が現れます。
ところがトンデモハップンで、一体どこまで続くのかと思う程に急な石の階段が延々と続いていて、もうちょっとかと思って登っても全く先が見えないのです。また引き返そうにも、下にも途中にも段数や距離などについての何の案内や説明もありません。ここまで来て引き返すのも癪なので、結局意地で登り切りました。下りの時に段数を数えてみると、凡そ250段。400段以上あった山中湖の石割神社程では無かったにせよ、急な石段で、梅雨時で濡れていたことも手伝い、歩き辛いことこの上無し。せめて、社務所なりパンフレットに、250段の急な石段があることくらいは記載しておいても、神様の罰(どの神様が諫めるかはともかく)は当たらないのではないでしょうか。しかも、登ってみてわかったのは、愛宕社は「火伏せの神として火難除の信仰の厚い神社」とのこと。火の用心も勿論大切ですが、道拓きの猿田彦の神様にお参りに来た上に、更にわざわざここまで登って来て火の用心のお願いせずとも良いのでは・・・?(せっかく来たのでちゃんとお参りしましたが)。失礼ながら、パンフから大いに熱意の感じられた猿田彦神社との対比での椿大神社の権威付けの説明よりも、ここまでわざわざ来た善男善女の参拝者にとって、むしろ余程重要な説明ではないかと感じた次第です。
そして、良く考えてみれば、古典落語「愛宕山」の舞台となった京都の愛宕山の末社だったのかと後で気が付いたのですが、(この椿大神社でわざわざ参拝せずとも良かったという)後の後悔先に立たずでありました。
 猿田彦神社と、今までTV等でも視たことも無く、自身全く知らなかった椿大神社。いずれにしても、伊勢の国の大変興味深い猿田彦命を祀る二つの神社でした。

 娘たちのことを昨年秋にお参りして色々お願してきた伊勢神宮へ、奥さまの要望で7月上旬にお礼参りに行ってきました。
まだ全てが完全に成就し終わった訳ではありませんが、これまでの成果への御礼と、それと併せて、これまでの途中経過での成果をふまえ、この先の更なる成就へのお願いをするためでもあります。
親バカと言われればそれまでですが、子供たちがそれぞれ成長して親元から巣立った今は、例え欲張りであっても親には見守り祈ってあげることしか出来ません。

 伊勢神宮への初めての参拝は、6年前に出雲大社と併せて参拝したクラブツーリズムのツアーでした(第956話)。そして、前回となる二度目の参拝(第1587話)は昨年秋でした(それ以前に奥さまは長女とお参りしていますので、今回彼女は三度目ですが)。前回は自分たちだけでの伊勢志摩は初めてだったので、せっかくならと賢島に宿泊して志摩半島も回ったのですが、信州からの伊勢神宮までは高速道路で実に快適でしたが、そこから賢島までがまるで信州に戻ったかのようなくねくねした峠道で、とにかく遠かった(第1586話参照)し、志摩半島観光も(あくまで我々にとっては)期待した程でもなかったので、今回は賢島ではなく伊勢神宮へのお礼参りが目的ですので(お伊勢さんよりもずっと手前ですが)四日市近郊の湯の山温泉に泊まることにしました。
湯の山温泉の在る菰野町(こものちょう)。菰という漢字はなかなか読めませんが、この菰は『水辺に生えるイネ科の多年草マコモの古名で、それを粗く編んでつくったむしろをいう』とのこと。マコモダケは最近食材としても時々耳にします。また菰野町は、三重県立菰野高校の在る町で、現阪神の西勇輝投手を始め何人ものプロ野球選手を輩出しています。

 無事到着した翌日、早速朝から伊勢神宮へ向かいます。湯の山温泉からは高速道路で1時間半程度。コロナ禍とはいえ、混雑する前にお参りできるように朝早く出掛けました。
豊受大神宮(外宮)に9時半に到着。駐車場にはまだ数台程。外宮は内宮に比べ参拝客も少なく、太古の林に囲まれた境内はひっそりとしていて音を立てるのも憚られる程で、余計神秘的に感じます。衣食住を司る豊受大神宮の神様に日頃の感謝を奉げつつ、参拝を済ませます。その後皇大神宮(内宮)へ。
 内宮はさすがに参拝者も結構たくさんおられましたが、それでも平日朝早めに来たこともあり、一番宇治橋に近い第一駐車場に停めることが出来ました。
遷宮の時の神社の柱などをリサイクルして架け替えられる、五十鈴川に架かる宇治橋。外宮とは逆の右側通行で宇治橋を渡り、内宮の境内である神域に入ります。
手水舎はありますが、古来の作法に習い五十鈴川の手洗い場で手を清めてから先ずは内宮へ向かいます。この辺りから参道は太古より守られて来た天然林(原始林)であり、荘厳な雰囲気が漂っていて、幾つかの別宮のみならず、樹齢千年を遥かに超えるであろう参道脇の大杉にも神が宿っている気さえ自然としてきます。正宮から各別宮とお参りを済ませ、参集殿の奥に在る子社で木花咲耶姫を祀る子安神社に、今回の目的だったお礼参りと更なるご加護のお参りをして、今回の私たちの“お伊勢詣で”は無事終了しました。