カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
まだ花の無い早春の3月頃から咲いて、目を楽しませてくれるクリスマスローズ。そのクリスマスローズの良い所は、花の時期が過ぎても花が枯れたり散ったりせずに長く持つところ。5月の連休ころになると、最初は白や黄色、ピンクだった花が、枯れずにそのまま次第に緑色に代わっていくのです。
緑色と言っても葉の緑とは違って、どちらかというと少し白っぽい感じの緑色で、「白っぽい緑」で調べてみると、和色としてその名も「白緑」(ビャクロク)という色があることが分かりました。イメージ的にはミントグリーン系でしょうか。
そんな花持ちの良いクリスマスローズですが、切り花にすると水を吸い上げず、すぐにグタッと萎れてしまいます。たくさんの株に増えて色とりどりの我が家のクリスマスローズですが、残念ながら室内で楽しむことは出来ません。鉢植えにすることも出来ますが、少なくとも我が家の庭に春の到来を告げてくれる“春告げ花”のクリスマスローズは、あくまで戸外の庭で自然のままを楽しむ花なのかもしれません。
(写真は、緑色に変化した5月のクリスマスローズと、参考までに以前撮った写真ですが、後半は咲いた直後3月頃の本来の花の様子です)
前話の“肌色”で感じた、日本人の無知故の無意識での差別。
我々日本人が、偉そうに“Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)”を持ち出す前に、そもそも我々日本人自身もそうした人種差別をしてきたのではないか?それは、明治維新後欧米列強に追いつき追い越せと国を挙げて“富国強兵”に突き進んだ結果、そのスローガンであった“脱亜入欧”教育が結果として招いた弊害ではないか?・・・と思うのです。
然るにそれは、当時の先進技術を持つ国が優位であり遅れた国は下位であるという経済的地位だけでの判断により、結果として欧米人(白人)が上で、有色人種は下という意識に繋がり、であるからこそ日本人はその下位から脱し一刻も早く上位に追いつかなくてはならないという国を挙げての富国強兵政策が思想教育にまで繋がっていったのです。
しかし、当時の世界情勢からすれば、それは或る意味止むを得ない部分もあり、欧米列強によるアジアアフリカ諸国の植民地化のよる経済搾取をふまえ、日本も植民地化を免れるためには欧米に追い付かねばならないという、国の存続を掛けた危機感の表れでもあったと思います。
しかしその結果、日本が植民地化を免れたとしても、その後の帝国主義の台頭と、「大東亜共栄圏」の美名の下に東南アジア侵略に繋がっていたことは、我々日本人としてキチンと認識しまた反省すべきであることは論を俟ちません。
それはそれとして、その結果が我々日本人の中に戦後も続く白人崇拝意識と“後進国”としてのアジアアフリカ諸国蔑視、同じアジア人でありながら日本人の優越感で彼らを見下した意識がずっと今日まで続いて来ているのではないでしょうか。
そのことは決して批判ではなく、むしろ自分自身にも当て嵌まることでした。しかし海外赴任先として、欧米ではなくシンガポールへ赴任したことでそんな自分自身の意識が変わりました。
最初赴任先が当時の中心市場であった欧米でないことにガッカリし、更にどうせ行くなら欧米の方が語学も上達し(キャリアにも)箔が付くと二重にガッカリした記憶があります(事実、シンガポール赴任で英語は“シングリッシュ”にすっかり染まり、you knowばかりを繰り返すAmerican Englishはいまだに良く分かりません。ネイティブ並みの娘はまるで宇宙人の様にすら感じます)。
赴任した当時、ローカルスタッフの部下たちに最初意見を求めると(給料の高い)マネージャーのお前が判断するのが当然とばかりの態度だった彼等が、やがて日本人的な考え方(任せて経験させることで部下を育てる)を理解してくれる様になり、一生懸命自分で考え工夫し発言する様になっていきました。そんな彼等と仕事だけではなく、休みに遊びに誘われたりしてプライベートでも接してみると、何となく考え方や感じ方など、同じアジア人であるからこそ似ている部分やお互い理解できる部分があることに気付かされたのです。
アジア人と言っても、多民族国家故のシンガポールは、中国人、マレー人、インド人と人種も様々。人材以外の資源を持たない小国故に様々な課題を抱えながらも、当時漸く、たとえ“移民国家”ではあっても、それぞれの人種ではなく、国民としてのシンガポーリアン(Singaporean)という意識が(シンガポールらしく国家主導ではありましたが)醸成されつつある時期でした。
また7年間の赴任中は、シンガポールのみならず、周辺のパキスタンやインド、マレーシアやインドネシア、タイに出張する機会もあり、アジア各国を自分の目で見、そこに住む人や文化に直接触れることも出来ました。そしてやがて、欧米ではなくアジアのシンガポールに赴任したことに感謝し満足している自分がいました。同じ“アジア人”として理解し認識出来たシンガポールへの赴任経験でした。もしこの赴任経験が無ければ、未だにアジア蔑視のままの自分だったのかもしれません。
因みに、当時の部下は皆その後会社を辞めてしまいましたが、そして帰任して25年以上経った今でも季節の挨拶をくれたり、近況を報告してくれたりする当時の部下もいます。
元々、日本列島は原始の時代に世界各地から民族が移動して来て混血を繰り返した寸詰まりの地であって、元々の純血など無かった筈です。従って、そこには血による区別も差別も本来は無かった筈。しかし島国故の閉鎖性と国家として成立し熟成していく過程において、時代時代の為政者に拠って、知らず知らずの内に植え付けられていった区別や結果としての意識なのです。
例えば、昔の日本には黒人に対する差別意識など無かった筈です。というのも、黒人など見たこともなかった筈ですから。
戦国時代に南蛮船の宣教師の護衛として来日した黒人で、謁見した織田信長に気に入られて彼の家臣として召し抱えられた弥助。小姓ではなく、キチンとした侍である士分として仕えていたといいますので、当時は全くそうした差別感情など日本人には無かったのです。
事程左様に、そうした意識に中には島国故の無知もありましょう。また、国の当時の為政者の政策を受けて、無意識の内に染まっていってしまった思想もありましょう。そして、それを拭うには無意識ではなく意識すること、無知であれば直接知ること。受動ではなく、能動的に自らが行動するしかないと思うのです。今や、閉ざされた島国ではなく、瞬時の内に情報が地球上に拡散されるネット社会であるのですから・・・。情報化社会の現代は、島国、村社会を理由とした無知や無意識では決して許されない時代になっていると云えます。
先ずは無知を脱し、意識して知ることからその第一歩が始まります。
米国での白人警官による、一般の黒人市民を死に至らしめた過剰防衛ともいえる残虐行為に端を発した人種差別抗議活動、「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)運動」について、楽天イーグルスのオコエ瑠偉選手が投稿したという内容を最近知りました。
因みに、オコエ瑠偉選手のご両親はナイジェリア人のお父さんと日本人のお母さんです。
『誰も攻める気は無い、文句を言う気も無い。おんなじ境遇の人、またその両親の少しでも励みになればと思い、炎上覚悟で投稿します。
(中略)これも、保育園の時の話。ある日、親の似顔絵を描く時があった。先生は言った。親の顔は肌色で塗りましょう。その時保育園にあった、肌色のクレヨンの色はだいだい色だった。』
彼は泣きながら茶色を選んで、お父さんの顔を塗ったそうです。
それを受けて、彼の妹で女子バスケットボール日本代表として東京五輪出場を目指すオコエ桃仁花さんが投稿したのが「肌色の色鉛筆」の写真。
『肌色の色鉛筆があること、親の顔を描くのが一番つらかったんですよ。(人を)肌色で描いてくださいっていうのが、もう「えっ」ていう感じで。つらかった。なんでこれが「肌色」なんだろう。肌の色はこうあるべきなんだって、自分で思ってしまうんです。』
そして、
『高校3年生の時、ケガをしてウインターカップ(全国高等学校バスケットボール選手権大会)に、チームを連れて行けなかったんです。その年は、テレビやニュースでウインターカップを見るのがすごく嫌だった。そんな時、お父さんからナイジェリアに行ってみないかと提案されたんです。初めてナイジェリアに行って、そこで根本的な考え方が変わった気がします。
ナイジェリアでは、同い年だったり、自分より若い子どもたちが、必死に仕事をして生きていました。自分の悩み事が、逆に幸せじゃないですけど、小さなことだなと思ったんです。誰かに何か言われたぐらいでへこたれてる場合じゃない。ナイジェリアの同い年の子みたいにハングリー精神を持って生きなきゃって思いました。その子たちはお金がなくても、笑顔で生きていた。環境が良いのに幸せじゃないって、本当にもったいないと思う。』
数々の偏見を乗り越えた今、彼女は言います。
『自分はMIXであって、日本のことを誇りに思ってるし、ナイジェリアのことも誇りに思ってる。だから自分の好きなように生きたいと思って、オープンにキャラを出すことにしています。』
因みに、肌色の色鉛筆は今「ペールオレンジ(うすだいだい)」と呼ばれているそうです。業界でも、大手メーカーに依れば、
「お客さまからの要望を受け平成11年からクレヨンなどすべての製品の色名を『ペールオレンジ』に変えています。
海外にも生産拠点があります。国際的な感覚は大事ですし、お客さまが不快に思うものを作るわけにもいかない」(ぺんてる)
「はだ色への風当たりが強くなり、ほかのメーカーと足並みをそろえて平成12年の生産から、『うすだいだい』に変更しています。当時はさまざまな議論があり、とても難しい問題でした」(トンボ鉛筆)
とのこと。
「そうか、10年前からもう『肌色』という色は無いんだ・・・」
世界の狭かった子供時代とはいえ、当たり前に思っていたことが知らず知らずの内に変わっていた・・・。無知とはいえ、知らなければ無意識に今でも「肌色」と言っていたかもしれません。そのことによって、例えそんな意図は自分には全く無くても、もしかすると知らず知らずの内に人種差別をしていることになります。無意識とはいえ、無知の恐ろしさ・・・。今回、オコエ兄妹のお陰でそんな10年来の自分の無知を改めることが出来ました。
ところで、オコエ瑠偉選手。2015年の夏の甲子園で、走る、打つ、投げる、と爆発的なスーパープレーを連発した縦横無尽の活躍で、一気にドラフトの上位指名選手となった経緯からすると、プロ入りしてからは全く物足りない現状ですが、生来の超人的な身体能力を秘めているだけに、是非頑張って欲しいと思います。バスケット女子日本代表としてオリンピックを目指す妹君の桃仁花さんと共に、お二人の活躍を期待しています。