カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
仙石原に在る「箱根湿生花園」。
箱根町の町立で、日本で初めての湿生植物園だそうです。前回も仙石原に滞在し何度か近くを通ったのですが、これまでは入園したことがありませんでした。場所は仙石原の平地に在り、3万㎡の広さの園内の湿原や草原に、約1700種種の植物が四季折々に花を咲かせているのだそうです。広い園内には木道などがあって、抱っこするかカートに入れればワンコも入園OKとのこと。前回の「強羅公園」の様な急坂の傾斜地を活かした公園ではないので、ここならナナとコユキもカートに入って散策することも出来ます。この日は曇っていて暑く無かったこともあり、ワンコも一緒に行くことにしました。
園内は、広葉樹林、ススキ草原、低層湿原、ヌマガヤ草原と順路に沿って植生が分けられていて、それに相応しい植物が植えられています。中にはコマクサなどの高山植物など、この場所と標高とは無関係なものもありますが、例えば“高山植物の女王”コマクサは、唐松岳で見たコマクサとは生育が異なっていて(何となく茎がだらしなく伸び過ぎていて)その植物はその植物の生育すべき環境で咲かせるのが一番美しいのだろうと素人ながら感じました。そういう意味で、仙石原湿原の植生復元エリアなどはいずれ本来の仙石原の自然の姿がここで見られるようになるかもしれません。
湿原の向こうには(秋の)観光スポットのススキ草原や白い噴気を上げる大涌谷も望めます。こうして見ると、大涌谷は仙石原からすぐ近く。仙石原は大涌谷から引き湯をしているというのもナルホドと頷けます。
“やはり野におけ”と云っても、例えばヒマラヤの青いケシは、普通の人がそこに行くのは無理なので、ここで見られたのは有難い限り。本当に空色に近い神秘的な青色でした。この世に存在しない青いバラもそうですが、これからの季節ですと空色を映したような青いアジサイなど、自然界の花の色として少ないからなのか、人は何となく青い色に殊更惹かれるような気がします。他にも、珍しい植物が色々あって広い園内も見ていて飽きません。
そして同様に、今回訪れた時にちょうど園内で開催されていた「箱根のちいさなあじさい展~ヤマアジサイの魅力~」。
ガクアジサイ(山アジサイ)の鉢がたくさん展示されていて、愛好家でも初めて見るような品種含め200種が展示されていました。
個人的には、華やかなハイドランジアよりも、原種である日本原産の清楚なガクアジサイ(山アジサイ)の方に“ワビサビ”の様な不思議な魅力を感じます。
また同じ青系でも鉢によって様々な色があり、梅雨入りを前にして、見ていて飽きることが無い程にとても魅力的でした。
箱根湿生花園。それなりに来園者がいても、園内は広いので殆ど会うことも無く、また順路も一方通行なので人とすれ違うこともありません。見終わって出ると駐車場には結構な車があって、想像以上にお客さんが来ているのが分かりました。皆さん、密を避けるべく同じ考えで来られたのかもしれません。
同じ箱根でも、例えば色とりどりのバラの咲き、中央に噴水がある西洋式のシンメトリーに設計された強羅公園の様な華やかさは無く、湿生花園はむしろ渋い感じではありますが、箱根の自然の中にひっそりと身を置く様な、結構魅力的な植物園でした。
東海地方までは史上最速で5月中旬に梅雨入りしたのに、その後足踏みして関東甲信越の梅雨入りが遅れていた6月上旬。
5月末で緊急事態宣言が終わる前提で、予約していた6月の箱根旅行。その前の5月に、緊急事態宣言中だったため関西旅行を止む無くキャンセルしていました。6月なら大丈夫と思って予約したのですが、緊急事態宣言が延長され、箱根の神奈川県は対象ではなかったので悩んだ末に、出来るだけ外食などをせず人込みへの外出を避ける前提で、今回は実行することにしました。
勿論今回もワンコが一緒で、出来るだけ外食をしなくても良い様にキッチン付きのドッグヴィラ滞在です。
従って、箱根滞在中は人込みを避けるべく、もしどこか観光に行くにしても戸外や自然の中で過ごすこととし、本当なら今回も行きたかったポーラ美術館(ちょうどレオナール藤田の特別展が開催中でしたし、ヒメシャラの森の遊歩道も素敵です)などの室内は避ける、そしてランチは仮に外食をしても、夜は自炊やテイクアウトで部屋食で済ませる・・・そんな前提での今回の箱根行です。
金時山は富士山の外輪山の最高峰で、標高1212m。前回(第1383話)の3年前の秋は公時(金時)神社からのルートで登りましたが、今回は前回の帰路のコースだった長安寺近くの、仙石原から矢倉沢峠を経てのコースを往復で登ることにしました。
金時山そのものは標高1200m足らずの信州で言ったら里山ですが、登山は頂上の高さよりもむしろスタート地点とゴールの山頂との標高差と登山ルートの距離でその難易度が決まります。今回のルートの標高差は512mとのこと。例えば、山頂の高さは金時山が1212m、美ヶ原の王ヶ頭は2034mとかなり違うのですが、三城から登る美ヶ原は標高差600mですので実際の標高程登る高さは違わないことになります。従って金時山の片道2㎞で500mの標高差を登るコースは、最後にロープを使う急登箇所もあって、標高からの想像以上に登山気分が味わえます。
一昨年初めて箱根に来て登った時は、仙石原から路線バスで公時(金時)神社まで行って、そこからのルートで登り、帰りは仙石原に下りて来たのですが、今回はその時の下山ルートを上り下りします。このルートは矢倉沢峠の明神ヶ岳への分岐から金時山へ向かい、途中金時神社からのルートと合流して山頂へ至るルートで、金時神社からよりは多少距離は短くなりますが、勾配はむしろ急になります。
仙石原の宿から歩いて、8時過ぎに仙石原の登山口から登山開始です。この日は平日だったのですが、途中結構多くの登山客がおられ、首都圏で日帰り登山で登れる山として、金時山の人気のほどが分かります。明神ヶ岳への分岐地点でもある矢倉沢峠のうぐいす茶屋で水休憩。ここから暫く笹原の登山道が続きますが、笹原の道は金時山との縦走路になる反対側の明神ヶ岳への尾根筋まで続いています。更に登って振り返ると、仙石原から白い噴気を上げる大涌谷、神山とその先に芦ノ湖が望める様になります。そして金時神社との分岐点を過ぎると、最後は粘り気のある溶岩がモコっと盛り上がって固まったという通り、山頂までは急坂の登山道です。
シーズン最初の登山でしたので、今回は急がずゆっくりしっかりと歩を確かめながら歩き、途中何度か休憩をしたので、コースタイム通りよりは少し遅い1時間30分で9時半過ぎに山頂へ到着しました。
前回は奇跡的と言っていい程にキレイに見えた富士山でしたが、その方がむしろ珍しいのでしょう。この日は晴れ予報だったのですが、残念ながら富士山だけはすっぽりと雲の中。然程広くは無い山頂にもたくさんの登山客がおられ、皆さん思い思いに休憩しておられたので、富士山も見えないことから我々は行動食を食べてすぐに下山開始。帰路も、登って来られる方々と途中たくさんすれ違いました。登山道は上り優先なので、下る側が広目の場所を見つけて登って来る人とのすれ違いを待ちます。皆さんちゃんとマスクをしておられます。
帰りは1時間5分程で11時過ぎには登山口まで下りて来ました。前回も書きましたが、金時山の標識や案内図にあるコースタイムはかなりの健脚者版で、速過ぎますので無視した方が良いと思います。例えば金時神社分岐店の標識には金時山の山頂まで20分と表示されていますが、実際は30分以上掛かります。
3年振りとなる今回は朝8時頃から登り始めたので、結果的にはほぼ行程通り、3時間の金時山登山でした。
6月5日の土曜日に、四柱神社で「人形供養祭」が行われました。
雛人形や五月人形などを処分するための合同供養祭で、何とか供養して処分したいという声に応え何と32年前に始まったそうで、今年が第32回とのこと。この人形供養祭は、江戸時代から今に続く“人形町”と呼ばれる高砂通り(注)に人形店を構える各店舗が協力し、実行委員会を作って合同で開催しているもの。しかし、そうしたニーズが無ければ、この催しに全く興味関心を寄せることも無いでしょう。
昨年の秋、終活に向けた断捨離として、母屋の片付けをした際、処分に困ったのが家内の実家(節句人形は母方の実家が贈る習わしです)からの七段飾りを含め、親戚(ケース入りの人形を贈る)などから初節句にいただいた娘たちの雛人形でした。ガラスケースなどを除き、人形だけでも大きな段ボール3箱に一杯になりました。人形には魂が宿るとも云いますので、まさかクリーンセンター(ゴミ焼却場)へ持ち込むわけにもいかず(気にせずに可燃ゴミで出せばそれまでですが)、年に一度6月初旬に行われるこの供養祭を待ち望んでいました。
例えば県外では千葉県の勝浦が有名ですが、県内でも須坂や妻籠などで不要になって寄贈された雛人形をたくさん部屋一杯に飾って(因みに須坂は30段に千体とのこと)観光的に雛祭りを開催している地区もあるのですが、ネットで調べてみると既に十分集まったためどこも寄贈は受け付けていないとのこと。本来はそうして第二の人生として、他の人たちの目を楽しませてもらえれば人形たちも本望なのですが、残念ながらそうしたニーズも見つからず・・・。
しかし子供の成長を祝って贈られた雛人形ですので、また母から子や孫へならば兎も角、赤の他人の雛人形を(お下がりとして)譲り受けるという風習はありません。
そこで調べてみると、葬儀場などで不定期開催される不要になった人形の供養祭もある様ですが、定期的に供養を行っているのは事業として供養を代行する県外の民間業者やお寺などで、掛かる料金(結構な金額です)は兎も角として、県外ではその供養に立ち会うことが出来ないので、これまでのお礼を込めてお参りすることが出来ません。そのため松本市内人形町の人形店合同で行われる四柱神社での供養祭が地元で行われる唯一の機会で、(売りっ放しではなく、販売した側の責任として?もしも各人形店共同で実施頂いているのであれば尚更ですが)本当に有難い限りなのです。
従って、この機会を逃してはならじと、段ボール3箱を車に積んで対岸の女鳥羽川沿いの翁堂横の私営の駐車場に車を停めて、受付開始の10時に家内と二人で直接持ち込みました(もし当日都合が悪ければ、当番の人形店で事前受付も可能)。
受付には、箱に入れたり大きな袋に入れたりと、同じ目的の方々が次々に訪れて来ます。受付を済ませ、決して強制ではないのですが、供養いただく側の気持ちとして封筒に寸志を入れてお渡しをして手続きは終了。供養祭まで小一時間あったので、せっかくですので、いつものウォーキングではありませんが四柱と天神さんに参拝し、更に余った時間でお城まで散策に歩くことにしました。
四柱神社に戻り供養祭に参列。境内の焼納殿に祭壇が設けられ、この日受け付けられたたくさんの人形が並べられ、四柱神社の権禰宜お二人によりご祈祷や代表の方々による玉串奉てんなどの神事が行なわれた後、最後に焼納殿の釜に火が入れられ、この日受け付けられた人形のお焚き上げが行われました。
会場には我々も含め50~60人くらいでしょうか、市内は元より松本平各地から来られたであろう方々が祭壇前に集まり神事に参加されました。翌日の地元紙の報道に依れば、集まった人形は全部で1800体だったとのこと。例年の倍近く集まった昨年の第31回を更に300体程上回ったのだそうです。多分に、我々同様に昨年来のコロナ禍での断捨離や片付けで、例年になく寄託される人形も増えたのでしょう。お陰さまで、誕生以来これまで子供たちの成長を見守ってくれた雛人形に感謝しながら、その役目を終えられて空に帰っていただくまで見届けることが出来て、漸く肩に荷が下りてホッとした瞬間でした。こうした人形供養をしていただいた人形店の方々に本当に感謝です。
因みに、家族と一緒に海を渡ってシンガポールまで行ってもらった男雛女雛のお内裏様の木目込み人形のお雛様は、この日ご供養させていただいた全ての雛人形の代表として残してあり、今後も我が家の娘たちをずっと見守っていただく予定です。
【注記】
松本駅からあがたの森に続く駅前通りの一本北側の小路で、本町から源智の井戸、瑞松寺に至る高砂通り。戦災に合わなかった城下町故の狭い通りで、中町同様に西から東への一方通行。江戸時代の頃は「生安寺小路」と呼ばれていたのが、人形店などが多く軒を連ねていることから、目出度い“高砂”を付けた名前で呼ばれる様になったとか。
松本は江戸時代の藩主が奨励したこともあって、武家の子女が内職で作った押絵雛が特産として松本土産に使われていたこともあり、今でも人形店が多く、この人形町通りに昔からの老舗が何軒も店を構えている。
我が家のシンボルツリーであるプンゲンスホプシー。和名はコロラドトウヒ。
Wikipediaに由れば、
『コロラドトウヒ(Picea pungens)は、マツ科目トウヒ属の常緑針葉種。青色を帯びた葉色が特徴的で、別名プンゲンストウヒ、青トウヒ(blue spruce)、緑トウヒ(green spruce)などとも呼ばれる。原産地はアメリカのコロラド州からワイオミング州一帯のロッキー山脈。観賞価値が高く、様々な園芸品種が生み出されている。』
とのこと。
私が最初にそのプンゲンスホプシー知ったのは松本空港でした。昔、出張で松本空港から飛んだ際に、空港のエントランス前の植え込みに植えられていた何本かのプンゲンスホプシーを見て、そのシルバーブルーの葉に魅了されたのがキッカケでした。
最初は1.2m足らずの苗木を植えたのですが、それが25年経って2階の屋根に届く程まで見事に成長し、文字通りシンボルツリーになってくれました。
このプンゲンスホプシーも我が家の雑木林風ガーデンや里山の広葉樹同じ様に、芽吹きの頃と成長後の葉の色は同じシルバーブルーと言っても微妙に異なります。このシルバーブルーの美しい葉は表面の粉状のワックスのためで、その特徴である青い色は、特に春先から初夏に掛けての芽吹きの頃に際立ちます。
“萌えいずる”新緑の5月。プンゲンスホプシーの新芽も、そのシルバーブルーが黄緑がかっていて何とも言えない柔らかな感じがします。この微妙な色合い、柔らかいというか暖かいというか、何とも素敵なこの時期だけの特別なシルバーグリーンです。
ヨガなどをしながら奥さまが“ながら”でつけているTVの朝の情報番組。
その中で唯一楽しみにしているのが、「今朝のワンコ」とか。
一般家庭で飼われていて面白芸を持つワンコが紹介されるコーナーなのですが、最近はコロナ禍でロケの収録が出来ないためか、“レジェンド”と称して、過去の放送分から話題になった色々なワンコの紹介がされています。確かに、中には「おお、凄い!」と感嘆符が思わず付くような、或いは捧腹絶倒なユニークな一芸を持つワンコもいるのですが、時には「ん?」というワンコも・・・。
そんな或る日のワンコは、飼い主に散歩をせがむ際、飼われている庭から必ずリビングのサッシを引っ掻くため、サッシが傷だらけになっている云々・・・という内容。そこで、
「そんなのでイイんだったら、チロルの方が遥かに上ジャン!」
と思わず叫んでいました。
7年前に亡くなった我が家の最初の愛犬チロル。
家を建てた時に、生後1~2ヶ月で我が家の玄関に捨てられていて、そのまま我が家の最初の愛犬になったチロル。娘が、安いけどみんなに愛されているからと、「チロルチョコ」から命名されたチロル。賢い犬で家族にはとても忠実でしたが、他の人には吠えまくるので室内で飼っていました。
夜はケージに入れるのですが、夜が明けても私メが起きて来ないと、ケージの留め具を鼻で上に持ち上げて自分で扉を開けてしまい、二階への階段を上がって私を起こしに来るのです。その際、二階に来ると家内に叱られるため、抜き足差し足で階段を上がって来て、一切吠えずに、私メが気が付いて起きるまで前足で声も出さずにじっと突いているのです。漸く起きると、着替えるのをお座りして静かに待ち、そして先立って静かにまた階段を下りて行き、一階に下りてから初めて早く散歩に行こうとばかり、ジャンプしながら吠えるのです。
家内に気付かれぬ様に、ずっと無言のまま静かに黙って前足で突いている、そんなチロルに、思わず、
「お前、賢いなぁ!」
すると家内が気が付いて、
「こらっ!チロル、2階に上がって来ちゃダメじゃない!」
と、叱られたチロルは慌てて黙ったまま階段を駆け下りて行くのです。
懐かしいなぁ、また夢の中でイイから、チロルに会いたいなぁ・・・。
我が家のドアノブは、下に押し下げて押すと開くタイプ。それを覚えて、立ち上がって前足でノブを押し下げ自分でドアを開けたチロル。人が来たりすると、警戒して玄関に行ったり、私がお風呂に入っているとドアを開けて確認に来たチロル。
そんなチロルの行動は、結構レジェンド並みにTVで紹介出来たかもしれません。問題は家族以外の他人への警戒心が非常に強かったので、誰がそんなチロルを撮影出来たかですが・・・。
手前味噌ではありますが、本当に賢かった我が家のチロル。縁あって我が家に来て、18歳の天寿を全うして“虹の橋”を渡って行きました。
生まれてすぐに捨てられた雑種犬のチロル。他人にはどうでも、私にとっては最高の愛犬でした。本当に夢でイイから、またチロルに会いたいと思います。
【追記】
我が家の現役犬であるナナとコユキ。彼女等の芸は・・・、
ナナは、音の出るワンコ用のおもちゃ(どれでも良いのではなく、或る一種類ですが)の音に合わせて一緒に歌います(遠吠え風ではありますが)。
コユキは、ご飯を食べてオヤツをもらいに来る時に、まるでフィギアスケートのダンスの様にクルクル回転しながらやって来ます。
本ブログ上では無理ですが、いずれどこか?でご紹介出来れば・・・。
まだ花の無い早春の3月頃から咲いて、目を楽しませてくれるクリスマスローズ。そのクリスマスローズの良い所は、花の時期が過ぎても花が枯れたり散ったりせずに長く持つところ。5月の連休ころになると、最初は白や黄色、ピンクだった花が、枯れずにそのまま次第に緑色に代わっていくのです。
緑色と言っても葉の緑とは違って、どちらかというと少し白っぽい感じの緑色で、「白っぽい緑」で調べてみると、和色としてその名も「白緑」(ビャクロク)という色があることが分かりました。イメージ的にはミントグリーン系でしょうか。
そんな花持ちの良いクリスマスローズですが、切り花にすると水を吸い上げず、すぐにグタッと萎れてしまいます。たくさんの株に増えて色とりどりの我が家のクリスマスローズですが、残念ながら室内で楽しむことは出来ません。鉢植えにすることも出来ますが、少なくとも我が家の庭に春の到来を告げてくれる“春告げ花”のクリスマスローズは、あくまで戸外の庭で自然のままを楽しむ花なのかもしれません。
(写真は、緑色に変化した5月のクリスマスローズと、参考までに以前撮った写真ですが、後半は咲いた直後3月頃の本来の花の様子です)
前話の“肌色”で感じた、日本人の無知故の無意識での差別。
我々日本人が、偉そうに“Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)”を持ち出す前に、そもそも我々日本人自身もそうした人種差別をしてきたのではないか?それは、明治維新後欧米列強に追いつき追い越せと国を挙げて“富国強兵”に突き進んだ結果、そのスローガンであった“脱亜入欧”教育が結果として招いた弊害ではないか?・・・と思うのです。
然るにそれは、当時の先進技術を持つ国が優位であり遅れた国は下位であるという経済的地位だけでの判断により、結果として欧米人(白人)が上で、有色人種は下という意識に繋がり、であるからこそ日本人はその下位から脱し一刻も早く上位に追いつかなくてはならないという国を挙げての富国強兵政策が思想教育にまで繋がっていったのです。
しかし、当時の世界情勢からすれば、それは或る意味止むを得ない部分もあり、欧米列強によるアジアアフリカ諸国の植民地化のよる経済搾取をふまえ、日本も植民地化を免れるためには欧米に追い付かねばならないという、国の存続を掛けた危機感の表れでもあったと思います。
しかしその結果、日本が植民地化を免れたとしても、その後の帝国主義の台頭と、「大東亜共栄圏」の美名の下に東南アジア侵略に繋がっていたことは、我々日本人としてキチンと認識しまた反省すべきであることは論を俟ちません。
それはそれとして、その結果が我々日本人の中に戦後も続く白人崇拝意識と“後進国”としてのアジアアフリカ諸国蔑視、同じアジア人でありながら日本人の優越感で彼らを見下した意識がずっと今日まで続いて来ているのではないでしょうか。
そのことは決して批判ではなく、むしろ自分自身にも当て嵌まることでした。しかし海外赴任先として、欧米ではなくシンガポールへ赴任したことでそんな自分自身の意識が変わりました。
最初赴任先が当時の中心市場であった欧米でないことにガッカリし、更にどうせ行くなら欧米の方が語学も上達し(キャリアにも)箔が付くと二重にガッカリした記憶があります(事実、シンガポール赴任で英語は“シングリッシュ”にすっかり染まり、you knowばかりを繰り返すAmerican Englishはいまだに良く分かりません。ネイティブ並みの娘はまるで宇宙人の様にすら感じます)。
赴任した当時、ローカルスタッフの部下たちに最初意見を求めると(給料の高い)マネージャーのお前が判断するのが当然とばかりの態度だった彼等が、やがて日本人的な考え方(任せて経験させることで部下を育てる)を理解してくれる様になり、一生懸命自分で考え工夫し発言する様になっていきました。そんな彼等と仕事だけではなく、休みに遊びに誘われたりしてプライベートでも接してみると、何となく考え方や感じ方など、同じアジア人であるからこそ似ている部分やお互い理解できる部分があることに気付かされたのです。
アジア人と言っても、多民族国家故のシンガポールは、中国人、マレー人、インド人と人種も様々。人材以外の資源を持たない小国故に様々な課題を抱えながらも、当時漸く、たとえ“移民国家”ではあっても、それぞれの人種ではなく、国民としてのシンガポーリアン(Singaporean)という意識が(シンガポールらしく国家主導ではありましたが)醸成されつつある時期でした。
また7年間の赴任中は、シンガポールのみならず、周辺のパキスタンやインド、マレーシアやインドネシア、タイに出張する機会もあり、アジア各国を自分の目で見、そこに住む人や文化に直接触れることも出来ました。そしてやがて、欧米ではなくアジアのシンガポールに赴任したことに感謝し満足している自分がいました。同じ“アジア人”として理解し認識出来たシンガポールへの赴任経験でした。もしこの赴任経験が無ければ、未だにアジア蔑視のままの自分だったのかもしれません。
因みに、当時の部下は皆その後会社を辞めてしまいましたが、そして帰任して25年以上経った今でも季節の挨拶をくれたり、近況を報告してくれたりする当時の部下もいます。
元々、日本列島は原始の時代に世界各地から民族が移動して来て混血を繰り返した寸詰まりの地であって、元々の純血など無かった筈です。従って、そこには血による区別も差別も本来は無かった筈。しかし島国故の閉鎖性と国家として成立し熟成していく過程において、時代時代の為政者に拠って、知らず知らずの内に植え付けられていった区別や結果としての意識なのです。
例えば、昔の日本には黒人に対する差別意識など無かった筈です。というのも、黒人など見たこともなかった筈ですから。
戦国時代に南蛮船の宣教師の護衛として来日した黒人で、謁見した織田信長に気に入られて彼の家臣として召し抱えられた弥助。小姓ではなく、キチンとした侍である士分として仕えていたといいますので、当時は全くそうした差別感情など日本人には無かったのです。
事程左様に、そうした意識に中には島国故の無知もありましょう。また、国の当時の為政者の政策を受けて、無意識の内に染まっていってしまった思想もありましょう。そして、それを拭うには無意識ではなく意識すること、無知であれば直接知ること。受動ではなく、能動的に自らが行動するしかないと思うのです。今や、閉ざされた島国ではなく、瞬時の内に情報が地球上に拡散されるネット社会であるのですから・・・。情報化社会の現代は、島国、村社会を理由とした無知や無意識では決して許されない時代になっていると云えます。
先ずは無知を脱し、意識して知ることからその第一歩が始まります。
米国での白人警官による、一般の黒人市民を死に至らしめた過剰防衛ともいえる残虐行為に端を発した人種差別抗議活動、「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)運動」について、楽天イーグルスのオコエ瑠偉選手が投稿したという内容を最近知りました。
因みに、オコエ瑠偉選手のご両親はナイジェリア人のお父さんと日本人のお母さんです。
『誰も攻める気は無い、文句を言う気も無い。おんなじ境遇の人、またその両親の少しでも励みになればと思い、炎上覚悟で投稿します。
(中略)これも、保育園の時の話。ある日、親の似顔絵を描く時があった。先生は言った。親の顔は肌色で塗りましょう。その時保育園にあった、肌色のクレヨンの色はだいだい色だった。』
彼は泣きながら茶色を選んで、お父さんの顔を塗ったそうです。
それを受けて、彼の妹で女子バスケットボール日本代表として東京五輪出場を目指すオコエ桃仁花さんが投稿したのが「肌色の色鉛筆」の写真。
『肌色の色鉛筆があること、親の顔を描くのが一番つらかったんですよ。(人を)肌色で描いてくださいっていうのが、もう「えっ」ていう感じで。つらかった。なんでこれが「肌色」なんだろう。肌の色はこうあるべきなんだって、自分で思ってしまうんです。』
そして、
『高校3年生の時、ケガをしてウインターカップ(全国高等学校バスケットボール選手権大会)に、チームを連れて行けなかったんです。その年は、テレビやニュースでウインターカップを見るのがすごく嫌だった。そんな時、お父さんからナイジェリアに行ってみないかと提案されたんです。初めてナイジェリアに行って、そこで根本的な考え方が変わった気がします。
ナイジェリアでは、同い年だったり、自分より若い子どもたちが、必死に仕事をして生きていました。自分の悩み事が、逆に幸せじゃないですけど、小さなことだなと思ったんです。誰かに何か言われたぐらいでへこたれてる場合じゃない。ナイジェリアの同い年の子みたいにハングリー精神を持って生きなきゃって思いました。その子たちはお金がなくても、笑顔で生きていた。環境が良いのに幸せじゃないって、本当にもったいないと思う。』
数々の偏見を乗り越えた今、彼女は言います。
『自分はMIXであって、日本のことを誇りに思ってるし、ナイジェリアのことも誇りに思ってる。だから自分の好きなように生きたいと思って、オープンにキャラを出すことにしています。』
因みに、肌色の色鉛筆は今「ペールオレンジ(うすだいだい)」と呼ばれているそうです。業界でも、大手メーカーに依れば、
「お客さまからの要望を受け平成11年からクレヨンなどすべての製品の色名を『ペールオレンジ』に変えています。
海外にも生産拠点があります。国際的な感覚は大事ですし、お客さまが不快に思うものを作るわけにもいかない」(ぺんてる)
「はだ色への風当たりが強くなり、ほかのメーカーと足並みをそろえて平成12年の生産から、『うすだいだい』に変更しています。当時はさまざまな議論があり、とても難しい問題でした」(トンボ鉛筆)
とのこと。
「そうか、10年前からもう『肌色』という色は無いんだ・・・」
世界の狭かった子供時代とはいえ、当たり前に思っていたことが知らず知らずの内に変わっていた・・・。無知とはいえ、知らなければ無意識に今でも「肌色」と言っていたかもしれません。そのことによって、例えそんな意図は自分には全く無くても、もしかすると知らず知らずの内に人種差別をしていることになります。無意識とはいえ、無知の恐ろしさ・・・。今回、オコエ兄妹のお陰でそんな10年来の自分の無知を改めることが出来ました。
ところで、オコエ瑠偉選手。2015年の夏の甲子園で、走る、打つ、投げる、と爆発的なスーパープレーを連発した縦横無尽の活躍で、一気にドラフトの上位指名選手となった経緯からすると、プロ入りしてからは全く物足りない現状ですが、生来の超人的な身体能力を秘めているだけに、是非頑張って欲しいと思います。バスケット女子日本代表としてオリンピックを目指す妹君の桃仁花さんと共に、お二人の活躍を期待しています。