カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
シンガポール駐在時代。大人数での会食や駐在員家族での懇親会などで、中華のコース料理の時に必ず最後の方(注)で出て来る(注文する)のが、白身魚の蒸し料理でした。当時の記憶に無く(英語が公用語だったシンガポールでは、中華料理店でもメニューも注文も英語表記されていたので)、調べてみると中国語表記では「清蒸鮮魚」(発音は香港でチンジョシェンユイとのことなので、広東語でしょうか)らしいのですが、香港でも一般的なようですので本来は広東料理でしょうか。
余談ですが、 “食の交差点”と云われるシンガポールは、中華料理やシーフード料理に使われる食材も世界各地から集まります。例えば、Drunken Prawnやチリクラブの蟹などそれぞれ生きた食材で、エビはインドネシア(当時開発されたばかりのバタムに行った時は、海辺の養殖場の様な生け簀の中で飼っていたエビを、その場で網ですくって調理していました)やマレーシアなどの地元産ですし、チリクラブ用の蟹(現地ではMud Club)は確かスリランカ産だったと記憶していますが、フカヒレ用の鮫のヒレは気仙沼産、干しアワビも日本産が最高級品とされ、アワビでは豪州産は日本産より落ちるとされていました
シンガポールの中華やシーフード料理で蒸し魚に使う食材は、現地では「ガルーパ」と呼ばれていましたが、英語表記GAROUPER、日本語で言うハタで、九州のアラ(クエ)もハタ科の魚とのこと。
人数にもよりますが、大人数だと40~50㎝サイズがそのまま蒸されて出て来ますので、見た目も大変インパクトがありました。ガルーパは淡白な白身の海水魚でクエ同様にこちらも高級魚。少人数ではなかなか食べられません。蒸したガルーパが甘塩っぱい醤油味で味付けされ、白髪ネギや針生姜に香味油を掛けて香菜を載せて。但し、白身よりも、魚を食べた後で魚のエキスが出ている煮汁をご飯(タイ米です)にかけて食べる、“ネコマンマ”風のぶっかけ飯が何よりのご馳走でした。
(そういう意味では、同じく現地のシーフード料理の定番だったチリクラブで、カニの“身”そのものよりも、カニのエキスがいっぱいのチリソースを揚げパンにつけて食べる方がむしろ美味しかったのと良く似ています)。
中華の高級料理である北京ダックやフカヒレ、上海ガニやチリクラブ、更に飲茶(ディムサム)などなど、お金を出せば東京だと何でも食べられるのかもしれませんが、地方だとガルーパやチリクラブは中華料理店でもなかなかお目にかかりません。
10数年位前から東京にはシーフードやシンガポールチキンライス(海南鶏飯)やホッケンミー、クイティアオなど、シンガポール料理専門の店も増え、懐かしくて上京した折に水道橋や田町、品川などの専門店に時々食べに行ったこともありましたが、さすがにガルーパはメニューで見た記憶がありません。
個人的には、フカヒレや北京ダックなどは別に食べたいとは思わないのですが、ガルーパだけはまた食べたい(特にぶっかけ飯で)と思うのです。
そこで、自宅で挑戦してみることにしました。
というのも、ガルーパの蒸し料理はレシピそのものはそれ程複雑ではありませんが、何より鮮度が重要です。さすがに、クエやハタなど海無し県の信州ではお目にかかることはありませんが、白身魚であれば良いらしく、調べてみると、例えばイシモチ、イサキ、鯛なども使えそうです。
北陸からの「朝採れ直送」をうたい文句にしている「ツルヤ」でも時々尾頭付きでイシモチやイサキが並ぶこともありますが、種類が少ないので、前話での諏訪の「角上」へ行ってみることにした次第です。
2尾で10分(レシピ上は一尾6分の指示)。大皿に載せ、5分毎に裏返して計10分。最後ラップが膨らむ位まで加熱され、素手では持てないくらいです。
お酒と魚から出た蒸汁も捨てずに、そこに砂糖と醤油で下味を付けてフライパンで加熱した上で魚に掛け、更に油(本来はピーナッツオイルの様ですが、無いのでゴマ油)をチンチンに熱して白髪ネギと針生姜を載せた魚にジュっと回し掛けて完成です。
魚は十分に蒸されていて、白身はホクホク。シンガポールでのガルーパには叶いませんが、十分に“それらしく”食べられました。
問題は、味付けが少々塩気が強すぎたこと。どうやら、最初魚を塩で揉んだのですが、その量が些か多過ぎたのかもしれません。そのため、ちゃんとシンガポールを懐かしんでタイ米にしたのですが、肝心の“ぶっかけ飯”は些か塩味が濃い目。但し、奥さまは“ネコマンマ”は賞されなかたので、白身魚のお味は別に塩辛くはなく、味付けも大変美味しかったとの仰せでした。
残念ながら期待以上とは言えませんでしたが、シンガポールの“ガルーパ”を十分に懐かしんで食することが出来ましたので、試行錯誤ではありますが、次回はもう少し改善出来ると思います。絶品の“ネコマンマ”を目指して・・・。
【注記】
もし分からなくても、店のスタッフがオーダーを取る時に、最初に前菜、次はスープといった順番で、何(何のスープ?例えばフカヒレなど)にするか聞いてくれますし、迷っていればその店のお薦めを教えてくれます。
前菜、スープに続いて、主菜(メインの魚や肉、更に野菜炒めなど数種類)、主食(麺類やご飯もの)、最後にデザート(シンガポールだとマンゴプリンやハニーデュー・サゴが一般的でしたが、胡麻団子なども)というコース料理の順番。ただ、別にその通りに頼む必要はありません。本当に食べたいものがあれば、ダブってでも食べたいものを食べれば良い。
庶民的なホーカーセンター(ローカルなフードコート)やシーフードセンターなどと違い、コース料理を頼む様な高級な中華料理レストランなら、料理が大皿で運ばれて来る際にスタッフが小皿に取り分けて円卓を客の順番で回してくれるので、自分の前に来たらその小皿を取れば良い。また人数によって、余った料理や蒸し魚料理ではメインのお頭を人数以上の小皿に取り分けて円卓に置いてあるので、後でホスト役がメインのゲストに勧めるか、また余ったなら(例えば北京ダックなど)更に追加して食べたい人が食べれば良い。
客として招かれた時や、現地の方々と一緒の公式のパーティーならともかく、現地の親しい友人ばかりなら余り神経質にならなくても良いと思います。
例えば、上記のガルーパの蒸し魚料理の時のご飯(日本の茶飲み茶碗くらいのサイズで、せいぜい日本でいうところの小ライスです)は、既にオーダーしてある主食(焼きそばやチャーハンなど。例えば、先述の北京ダックを頼むと、皮以外の肉の部分は最後の主食での焼きそばの具材として提供してくれる場合が多い)とは別に、都度追加で食べたい人だけの数をオーダーしていました。
昔ながらの魚屋スタイルで“日本一の魚屋を目指す”という「角上魚類」。
“魚のアメ横”新潟寺泊を本拠に、関東信越に22店舗を構える鮮魚チェーン店で、長野県では長野と何故か(松本ではなく)諏訪に店舗があります。
諏訪に勤務していた時、「魚だったら角上!」という声を良く聞きましたが、電車通勤だったので、角上は郊外にあるため行ったことはありませんでした。
場所は、良く行った嶋崎のラーメン屋さん「麺屋さくら」(最初は上諏訪駅のすぐ近くに在って、飲んだ後の〆の定番でした)の近く。
これまでも、休日に家内の実家に行った折など、懐かしくて「麺屋さくら」で食べた後に立ち寄ったことがありましたが、キャッチフレーズだけあって並べられた鮮魚の種類の多さは感心するばかりでした。鮮度も港町のそれには叶わぬとも、“海無し県”では文句なし!信州のみならず、埼玉や群馬など同様の“海無し県”を中心に出店し評判が良い理由も理解できます。
今回白身魚の尾頭付きが欲しかったのですが、地場のスーパーで見つからなかったので、諏訪の角上に行ってみることにしました。
久し振りの高速道でしたが、途中諏訪湖SAに立ち寄ってから諏訪ICで降りて、神川沿いの“通勤バイアパス”を経由して城南に在る「角上魚類諏訪店」へ。
(写真は諏訪湖SAから見た諏訪湖と湖南エリア。水田が水鏡になって、湖面が拡がっている様に感じます)
結構広い駐車場は、地元諏訪ナンバーばかりではなく、我々同様の松本ナンバーや隣県の山梨ナンバーの車も結構目立ち、半数近くは地元以外からかもしれません。
松本のパルコが長野や上田方面からも集客していることを考えれば、東北信は角上の長野店がカバーし、一方の店が中南信と山梨までカバーするとなれば、松本よりも諏訪に在った方が確かに集客力は増すのかもしれません。ナルホド!と一人合点をしていると、家内曰く、
「もし角上が松本なんかに在ったら、イオンみたいに混んじゃって大変だから、諏訪でイイんじゃない!?」
「フーム、そうかなぁ・・・?」
確かに、松本のイオンモールは長野や諏訪ナンバーも目立ち、休日は混雑して駐車するのも一苦労なので余り行く気にはならないのですが、因みにイオンは長野須坂IC付近に松本以上の規模のショッピングモールを計画しているらしいので、そうすればいずれ松本のイオンの休日も今よりは混雑が緩和されて駐車し易くなるかもしれません。
鮮魚類は、鯛やカンパチ、アジやイワシ、キハダ、イサキ、イシモチ、サヨリ、太刀魚など、本拠の寺泊などの新潟ばかりでなく、全国の港で水揚げされた魚が並んでいます。
昔ながらの魚屋方式を標榜するだけに、角上では対面方式で客の相談に乗ってくれ、客が選んで依頼すると、後ろの調理場にいる何人ものスタッフが客の要望に沿って三枚に卸したり切り身などに捌いてくれるようです。
中華風に蒸したいので尾頭付きの白身魚が欲しい旨伝えると、ケースに並んでいるイシモチと共に、
「今日は良いイトヨリダイが入ったから、おススメです。裏からケースを持ってきます!」
そこでお薦めに従い、30㎝程のイトヨリダイと20㎝程のイシモチを購入。ワタも取ってもらうことにして、スタッフの若いお兄さんが並んだ中から一番大きそうなのをそれぞれ選んでくれました。
値段は、イトヨリダイが1尾400円、イシモチが1尾200円。安っ!
また、家の冷蔵庫に頂いた生わさびの芋があるので、せっかく諏訪の角上まで来たこともあり、今回はその日の夕飯用にお刺身もホンマグロ、マグロたたき、天然ヒラメ、ノドグロを併せて購入。他にも自家製のシメサバやアジなどの光物や、イカ、タコ、貝類などの刺身も並んでいましたが、1パックの量も結構あって食べきれないので今回は諦めました。
「でもイイなぁ・・・。松本にも角上が在ったらなぁ・・・」
他に諏訪エリアまで買いに来る様な店はないのですが、角上だけは来る価値はあり!羨ましい限り・・・でした。
「でもさぁ、これで往復高速使ったら、高速代を考えると安いかどうか分かんないよネ!?」
との仰せに、ナルホド!然ラバ我ラ年金生活者故ホンジャマと、帰りはゆっくりと久し振りの西街道から塩尻峠超えの“東雲街道”東山々麓線経由で下道を帰ることにしました。
我が家からのウォーキングで行く「アルプス公園」。
市街地からも車で10分ちょっとで来られるので、松本市民にとっての憩いの場ですし、入園料はもとより園内の小動物園や遊具など全て無料(山岳博物館とドリームコースター以外)ですので、とりわけ家族連れには格好の遊び場所です。また、その名の通り北アルプスの眺望が良いので、観光的にも人気の場所。同様に無料で行ける春の全山桜の弘法山や穂高の大王ワサビ(入園料無し)と共に、手軽に信州の高原気分が味わえるアルプス公園は松本への観光ツアーでも(バスツアー会社の時間稼ぎに)目的地の一つとして良く利用されています。
ここは元々長野県の種畜場として、城山々系の尾根沿いに拡がる標高800m近い高原状の丘陵地帯に、牛や馬がのんびりと草を食んでいる広々とした牧場があった場所。半世紀以上前の私メが小学生の頃は、夏休みに蝶などの昆虫採集に行ったり、また当時我が家のあった下岡田の神沢地区からは裏山となる城山々系に遮られて北アルプスは全く見えないので、北アルプスが見える草原に寝転んで雄大な峰々を見たりと、種畜場内を勝手に歩いていても(柵内に入らなければ)何も言われたこともなく、自由に散策することが出来ました(と言って、遊びに来る人なども殆どおらず、一人きりで遊べました)。
しかし、高度経済成長下で地方都市でも宅地化が次第に進んでいく中で、山の上とはいえ市街地に近かったためか、種畜場が塩尻の東山々麓に長野県畜産試験場として移設されて元の場所が松本市に払い下げられ、1974年に市の「アルプス公園」として一般に開放されました。
開園時も30haを超える広大な公園ではあったのですが、2007年に公園が更に北側に拡張整備され、総面積約71haとこれまでの倍以上の広さに拡大。従来の南口に加えて新たに東入口駐車場も整備されました。
「種畜場口」のバス停と同じ様に、松本市内で半世紀以上も前の昔のまま残されている“モノ”があります。それはJRの踏切です。
その場所は(他にもあるかもしれませんが)、松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール、略称「音文」)横の大糸線島内駅脇にある踏切で、その表示は「鐘紡踏切」です。
現在の音文のある場所は、明治から戦前にかけての“シルクオカヤ”や諏訪や松本にあった片倉製糸に代表された“養蚕王国”信州らしく、元々ここも戦前から続いた旧カネボウの紡績工場だったのです。今でも当時からの工場のシンボルツリーであったであろう、何本ものヒマラヤスギの大木が往時を忍ばせています。
こうした事例の様に、バス停や踏切の呼称はその命名の根拠が消滅しても、別に変えなくても良いのですね。
「ナルホド、興味深いなぁ」
・・・と独り悦に入っています。
そこで好奇心で調べてみると、Wikipediaに由れば、
『踏切は、名称または番号は、踏切に記されている事が多い。番号を使う方式の場合、踏切が廃止されても番号は詰められず、欠番のままとなる。また、名前の由来となった事象が消滅した場合(町名変更など)も、基本的に名前の変更は行われない。それぞれの踏切に固有名詞を付ける。例えば「中央通り踏切」「住吉踏切」「鈴木家踏切」など。国鉄とそれを継承したJR各社の約半数に見られる。』
とのことでした。
会社員時代(A社とします)、都内多摩地区にあったB社の工場を製造停止に伴い東京地区の事業所として活用すべく買収した際に、工場前にバス停があり、B社の総務部門からの提案もあって、「B社工場前」だったバス停を「A社〇〇事業所前」と変更してもらった記憶がありますので、民間(私鉄系)のバス会社は要望すれば(理由が正統であれば)名称変更もしてくれるのかもしれませんが、例えば松本でも「徒士町」や「鷹匠町」、「博労町」などといった如何にも城下町の風情を示す様な旧町名が、「開智〇丁目」や「深志〇丁目」などと記号的に変わってしまうのは、地図的には分かり易くても何だか味気ない気もします。そこに暮らす住民の方々にとっては、町名もまた歴史的文化遺産でありましょう。
その意味では、松本はむしろ旧町名を大事にしている街の様な気がしています。
というのも、
『松本市教育委員会では、江戸時代から昭和初期までにあった町名の記憶を残すため、昭和62年から平成18年にかけて「旧町名標識(旧町名碑)」を130本余り製作し、該当する場所に建てました。旧町名標識には、江戸時代末期の旧町名については細長い石柱を、昭和時代初期の旧町名については板状の石材を使用しており、その町名由来も記されています。』
(写真は市内の旧町名碑(標識)の一つ「小池町」で、城下の町人地の一つ。藩主小笠原氏の家来だった軍法・兵法の達人、小池甚之丞という侍の住居があったことに由来)
更に、市のH/Pから旧町名のマップも入手可能です。松本は城下町故に、市内に「天神小路」や「同心小路」といった狭い小路が幾つも有りますし、また湧水も街のあちこちにありますので、“坂の街”東京の“江戸散歩”程ではないにせよ、松本もお城と旧開智学校と“蔵の街”中町だけの観光では無く、マップを片手に歴史を感じて歩いてみるのも良いかもしれません。
コロナ禍対策として、現在唯一の特効薬であろうワクチン接種。
過去サリドマイド児や薬害エイズなどを経験してきた我が国において、命を預かる薬事行政として新薬の認可に慎重にならざるを得ないことは理解出来なくはないのですが、米国CDCが「予想されるリスクを効果が上回ることが期待される」としてワクチンを早期認可したのに対し、スタートは然して変わらなかった筈の国産ワクチン開発が遅々として進まないことに忸怩たる思いを抱く国民は決して少なくないと思います。「巧遅は拙速に如かず」。
昔、医療事業を立ち上げようとした時に、臨床試験などの承認審査の面(承認までの時間が掛かり過ぎる)で日本での治験を諦め、結局欧州でスタートさせたことがありましたが、日本人の持つ国民性としての慎重さは時として重要だとしても、場合によっては障壁となることもあり得ます。
そして、“事程左様に”と思えるのが、コロナワクチンの接種における「公平性」と「平等」についてです。
我々日本人は、能力よりも時に運にも左右される狩猟民族と異なり、普通にやっていればそれ程結果の収穫量に差が出ない農耕民族故の違いか(農耕社会における“運”は、天候不順や台風などで、その時は全員が“平等に”その影響を被る)、若しくは島国故の“村八分”を恐れてか、余りに公平性を重視し過ぎるのではないかと思うのです。
今回の自治体のワクチン接種の予約受付の混乱を見るにつけ(報道等で知るにつけ)、その原因は、受付から接種までの業務を担当する各自治体が(自分たちへの批判、非難を避けるために)余りに公平性だけを考えているためではないか・・・と思えてしようがありません。
例えば、宝くじの様に限られた人しかその恩恵を得られないのであれば、早い者勝ちかクジ運次第の抽選でも良いのですが、早いか遅いかの順番はともかく、結果として(国民全員分のワクチンが順次確保されて)対象者全員が接種可能な中で、今回優先すべきは如何に効率的に接種率を高めるかであり、その結果如何に接種数を増やすかの量とスピードの方が遥かに重要であって、早いか遅いかの順番など合理的に(住民へ)説明出来さえすれば、二の次、三の次で構わない筈。従って、受付対応などに限られた時間と人と金を掛けるべきでは断じて無い!もし年齢別に接種するのであれば、住民台帳に基づいて、誕生日順でもアイウエオ順でも良い。もし指定された日に対象者が不都合でれば、その対応に手間暇など掛けず、自動的に予備日を設けておくか全員終了後に第二次としてまとめれば良い。
更に批判覚悟で言わせてもらえれば、接種する順番は、高齢者からではなく、経済社会での生産者である社会人や労働者、未来を支える子供たちや若者からであるべきであって、高齢で寝たきりの老人から先に接種すべきではない(自治体によっては85歳以上から接種開始)。
我が家では、母も私たち自身も居住する自治体の早期接種対象者(先ず75歳以上、次に65歳以上)に該当するのですが、家にこもりきりで出歩かない母やリタイアした私など後回しで良い。但し、感染率や重症化率が高い高齢者施設でのクラスター発生を避けるために、デイサービスに出掛ける93歳の母を優先接種させるべきなのであれば、それは理解し得るが・・・と思うのです。
以前より高齢化社会における(現役世代による)高齢者の医療費負担が大きな問題となっていますが、それが寝たきり老人の延命ではなく、如何に健康寿命を延ばしPPKで終わらせるかのための予防(戦後まもなく佐久総合病院の故若月先生が馬車で農村を回りながら始めた減塩運動など)であれば理解納得は出来ますが、例えば、先日母の健康診断で、掛かり付けの医院の先生が、最近母が痩せたので癌かどうか腫瘍マーカーでの検査を勧めて受けさせたのだとか。
誤解を恐れずに言わせてもらえれば、最近の母は食事とトイレを除けば殆ど寝ているだけで、デイサービス以外出歩かない93歳の人間です。(国保が適用される)お金を掛けてのその検査にどんな意味があるのでしょうか?検査と薬漬けを助長する医療側(開業医?)にも問題があると言わざるを得ません。
感染拡大防止に向けて、何を、誰を、どこ(地域)を優先させるか?もし災害時などの非常時であれば、トリアージも止むを得ないのではないでしょうか(医療従事者でも無いのに、自身の接種を優先させたどこかの自治体三役や薬局チェーンの会長など言語道断ですが)
そして、その非常事態が収まった後で、そうせざるを得なかった原因をキチンと分析し、それがもし行政側の失政であればその長が自ら責任を取れば良い!
緊急時は、多少拙速であっても良いから、とにかくスピードと効率を第一義として対策を急ぐべし!・・・でしかないと思いのです。
確かに、感染者数に関しては感染爆発の海外に比べて桁違いに抑え込んだ日本。しかし、着々とワクチン接種を進め集団免疫を獲得しつつある欧米諸国を見るにつけ、然るにこの国は一体どうしてこうなのだろう・・・???
誰がどう考えても接種率を高めることの方が重要な筈なのに、自身への非難・批判を回避するがためか、手段の公平性や平等ばかりを考える無能な政治家や公務員しかこの国にはいないのでしょうか?
責任は自分が後で取る!として、多少手段の公平性を犠牲にしても、結果の効率を最優先で突き進める様な有事のリーダーはこの国には生まれ得ないのでしょうか??
全くアホらしくて、可笑しくて、情けなくて、涙さえ出て来ます。
前半は天候不順だった今年のGW。
コロナ禍で遠方への旅行は無理なため、当初は天気の良さそうな5月3日に、シーズン解禁としていつもの三城からの美ヶ原登山を計画していたのですが、4月30日と5月2日に美ヶ原は季節外れの降雪で真っ白だったとのことで、まだまだ山は冬の装いらしいことから今年の初登山は断念。そこで、地元での里山ウォークに変更です。
ルートは、先ず我が家から下岡田へ1㎞程坂を上って、東口駐車場からアルプス公園へ。そしてアルプス公園を南口駐車場まで縦断してから、城山遊歩道で城山公園へ。更に城山公園から市街地へ下り、松本城から四柱、深志神社へという往復9㎞~10㎞程度の私的“松本ウォーク”です。
日本語は「緑」を表す言葉が世界で一番多いと云いますが、確かに萌黄色、若草色、鶯色・・・と、「緑」一言では表せない様々な緑色の共演は新緑のこの時季ならでは。日本という四季の在る国に生まれたことに感謝です。公園内には、新緑のみならず、ソメイヨシノに代わって紅色のレンゲツツジや黄色のヤマブキ、そして桜では黄緑色をしたウコン桜やピンクの八重桜が咲いていました。
遠出が叶わぬ、それこそ今年はGW(がまんウィーク)とあって、広い園内にはたくさんの親子連れやワンコ連れ。北アルプスを一望するピクニック広場の草原では、登山を諦めてか或いは遠路はるばるか、テントを張っておられるグループも。
この日、薄雲が掛かっていましたが、常念はじめ北アルプスの峰々が望めました。美ヶ原同様にこのところの降雪で、残雪の北アルプスがまた少し雪化粧を増した様な・・・。島内から安曇平では代掻きも始まり、あちこちに水鏡が点在していて、安曇野は一年で一番良い季節を迎えています。
南口駐車場で、市役所の公園緑地課のスタッフの方からアンケートの記入を頼まれました。市議会に提案されたキャンプ場設置の予算計上が市(市長?)の独断と判断されて差し戻されたための聞き取り調査なのでしょう。アルプス公園についての幾つかの質問項目の中に、キャンプ場設置についての可否等の質問が入れられていました。その場所は元々県の種畜場時代からの旧「まきば山荘」(ジンギスカンが名物でしたが数年前に閉鎖)の駐車場があった場所で、北アルプスを望む絶好のロケーションだけに、何も活用しない(現在は満杯時の仮設駐車場)のは勿体無いとは思いますが、旧市内だけでも三城や美鈴湖、そしてアルプス公園からすぐ近くの同じ城山々系の芥子坊主山にもキャンプ場がありますので、そんなにキャンプ場を増やすのもどうでしょうか。むしろ個人的には、コンクリートの土台だけを残して展望広場になった旧「まきば山荘」のスペースをワンコ連れが可能なカフェにして、ゆったりと北アルプスの眺望が楽しめたらと常々思っていますので、その旨を要望として記入しておきました。
また、ピクニック広場からの眺望の邪魔をしていた雑木が今年伐採されて、山と安曇平の景色が良く見えるようになったので、2年前に市役所に景観確保のための雑木伐採をお願いした手前(「予算が確保出来たら実施します」との回答を頂いておりました)併せてお礼を申しあげておきました。
アルプス公園から下り、途中から城山遊歩道へ。
1㎞程の下り道を歩くと城山公園です。遊歩道に入ってすぐ、眺望が開けた所に東屋がありますが、そこが鳥居山。この西斜面で、500年近く続くという鳥居火が毎年4月に行われます(コロナ禍のため、今年は規模を縮小して二年振りの実施で、4月30日に行われました)。
そこを過ぎると、ナラやクヌギの林の中を進みます。新緑が眩しい程の緑のトンネルが続き、プチ森林浴気分です。アルプス公園からはずっと楽な下りですが、当然ですが城山公園から来れば逆にずっと上り坂で、1㎞足らずとはいえ結構な急坂が続き、ちょっとした登山気分が味わえます。城山公園が標高673mでアルプス公園の最高地点が標高775mだそうですので、ちょうど100mの標高差(因みに、松本市役所が593m。東京の高尾山599mとほぼ同じ標高)。登山のトレーニングとしても最適なトレッキングコースで、この日もトレイルの練習をされている方が何人かおられました。因みに、先述の同じ城山々系の芥子坊主山は標高891m。岡田地区にある山で、小学校の遠足等で子供時代から慣れ親しんだ地元の里山です。城山公園からアルプス公園を経て、その芥子坊主山まで続いているのが、城山々系の尾根沿いに作られた城山遊歩道です。城山公園から芥子坊主まで片道5㎞、標高差220mというトレッキングコースになります。
さて城山公園は、解説によると『江戸時代の天保十四年(1843)に松本城主であった戸田光庸が、犬甘城址に桜や楓数千本を植え、領民に開放したことがきっかけとなり、明治六年(1873)の太政官布告に基づいて、明治八年(1875)に長野県(当時は筑摩県)で初めて公園に指定されました。』とのこと。城山公園は、昔から松本市民の憩いの場でもあります。
城山公園からは蟻ケ崎高校辺りまでずっと下りで、途中、住宅街の中の道路沿いに塩釜神社(奥州一之宮の分社)がありますが、4月23日にここで天然記念物のカモシカが目撃されて全国ニュースになりました。その後山に帰って行っただろうとのことでしたが、城山々系でしょうか。そういえば城山遊歩道の入り口にいつからか「クマ出没注意」の案内板がありますが、カモシカも出るのだからあながち冗談ではないのかも・・・。
旧開智学校から松本城へ向かいます。松本城の駐車場は県外からの観光客で満車。コロナ禍で東京などに緊急事態宣言も出されている今年のGWですが、松本城での予想以上の人出にビックリ(写真は正面の黒門とは反対側になりますが、お城の北西にある朱色の埋の橋とその近くの藤棚です)。
そこで人波を避けて、いつもの内堀沿いの天守閣寄りではなく、公園の奥の道を歩いて四柱神社へ。お参りを済ませ、併せて天神さんの深志神社へもお参り。途中、“蔵の街”中町も観光客で大層な賑わいでした。我々は、 “花よりだんご”ならぬ“森林浴より草だんご”張りに、帰路の開運堂で今年三度目の草だんごを買って帰りました。
往復約10㎞。松本は、それぞれ岳、学、楽の“三ガク都”とか或いは“北アルプスの見える城下町”とか云われていますが、そんな松本の自然と歴史を楽しみながらの“松本ウォーク”でした。
我が家の庭は、いくつかのブロックに区切られています。雑木林、階段状花壇、そして芝生ガーデンと唯一実用的な一坪程のハーブガーデン。更に玄関の寄せ植えと蘭のシンビジウムです。
4月になると、傾斜地を活かして、隣家の間のコンクリート壁沿いに、芝生ガーデンのウッドチップを敷き詰めた小道との間に作った階段状の花壇で一斉に春の花が咲き出します。家内のリクエストで、一段毎に、黄色、白、赤からピンク、紫から青と色でエリア毎に区分されていて、先ずはビオラ、そしてチューリップなどの球根類。南側のコンクリート壁沿いなので日光が当たらず、我が家の花壇は他のお宅よりも咲く時期が遅くなりますが、一斉に咲き出す頃には、芝生ガーデンに植えた紅白のハナミズキも満開に。
このハナミズキ(アメリカヤマボウシ)は、元々1912年に当時の尾崎行雄東京市長が桜の苗木6040本を米国へ贈った(ワシントンのポトマック河畔の桜並木として有名です)返礼として、タフト米大統領が1915年にハナミズキを日本へ寄贈したのが最初です。その届けられたハナミズキは全部で60本。うち白花の苗木が40本、ピンク花の苗木が20本で、1915年4月に、植物学者スウィングル博士が、米政府代表として来日、40本の白の苗木を東京市(当時)に手渡したのだそうです。それから僅か100年。ワシントンの桜に比べ、そうした由来を我々日本人が余り知らなくても、今や、日本全国で庭木や街路樹として当たり前の様に見られる様になりました。余談ですが、こうした経緯から、日本ではハナミズキの花言葉に「返礼」が加えられたのだとか・・・。
因みに、ハナミズキが米政府から寄贈された理由は、当時の公文書原文に拠れば、『日本国民ハ美術ノ国民ナリ』、『此樹ハ日本国民ガ桜花ヲ愛スルト同ジク 広ク米国国民ニ愛サレ白キ花カ四五月ノ交開クヤ 米国人ハ皆之レヲ各室々ニ飾リ愛観スルモノナリ』なのだそうですが、丈夫で栽培し易さからとしても、ハナミズキが家庭の庭木として普通に植えられているのですから、寄贈理由に架かれている通り、米国における桜よりもハナミズキの方がむしろ浸透したと言えるかもしれません。
街路樹としての管理のし易さもありましょうが、むしろ個人的には、寒い冬が漸く終わり待ちわびた春の桜があっという間に散った後の寂しさを、このハナミズキが埋め合わせてくれるかのように咲いてくれるからこそ、我々日本人の中に広く受け入れられたのだと思います。
そして、その華やかさの後で、まるで対照的な程にひっそりと咲く在来種のヤマボウシの静謐さにまた惹かれるのも、一方でワビサビを解する日本人ならではと云えるのではないでしょうか?・・・。
最後は、こちらも家内が一生懸命世話をしているシンビジウムです。昨年咲いたミルキーウェイは今年花芽が出ませんでしたが、毎年咲く二鉢のシンビジウムは今年もたくさんの花を咲かせてくれました。以前、せっかく咲いた花芽が霜でやられたことがあったので、今年は霜注意報が出る度に家の中に取り込みました。お陰で枯れることも無く、長く花がもってくれそうです。
最近社会的に話題になったのが、『車いすで生活する川崎市のコラムニスト伊是名(いぜな)夏子さん(38)が、無人駅を利用しようとした際、駅員から一時「案内できない」と言われたとブログに書いたところ、「わがまま」という批判も多く寄せられた。』という件(検索すれば事の一部始終が分かりますのでここでは詳細は省きますが、その是非についてはそれを確認してからご判断ください)。
批判を承知で敢えて言わせていただくと、私自身も最初に読んだ時に、今回の伊是名女史のご意見については同じ様に批判的に感じたのです。その一番の理由は、JRの「事前に連絡してもらえれば出来るだけ対応する」という原則に対し、女史は直前に連絡したために対応してもらえなかったことに対して、法律を根拠に一方的に批判しているからです(因みに、帰路は事前に連絡していたのでJRは対応)。
その時感じた印象を私に代わって説明してくれているのが、この件についての『デイリー新潮』のオンライン記事でした。
以下、部分的に抜粋します。
『法律的に見ると、障害者差別解消法にある「合理的配慮の範囲内で」対応すべし、という際の「合理的配慮」の解釈が一つの争点になるようだ。人手の無い駅や、格安航空会社がどのくらい障害者に対応することが「合理的」と言えるか。』
『もちろん、あらゆる場所がバリアフリーになることは素晴らしいことだ。反対する人はいない。しかし、それには当然コストがかかる。そのコストは交通機関の利用者や、社会全体が負担することになる。その負担を社会はどこまで許容するのか。』という課題提起の後、紹介されていたのが、
『この問題について、これまで色々発言されてきたのが車イス芸人のホーキング青山さんだ。著書「考える障害者」には、何度もこの社会的コストについての考察が述べられている。』として、彼の著作から引用されていたのが、
『障害者の社会進出、あるいは障害者が普通に暮らすということを考えた場合、常にこの問題にぶつかってしまう。障害者が働くためには「合理的配慮」が必要になる。』として、更に、
『この20年ほどで一気にバリアフリー化が進み、今は少なくとも「事前に連絡」さえしておけば、乗車拒否されることはなくなっています。
多くの障害者が障害を理由に、本来人が当然の権利として行使できることを侵害あるいは剥奪された経験があること、その悔しさや怒りを抱えて生きてきたという現実があります。それを知ってほしい、わかってほしい……こんな思いをしている障害者が多いことは同じ立場なのでよくわかります。
一方で、“バリアフリー”といっても、あくまで理解があってこそ進むものなわけで、怒りをベースに進めようとしたら、反発を招いてしまって、結局誰も得をしない』という内容でした。
そこで思い出したのが、菅総理大臣が就任した際に、
『自民党総裁選の時から自らの政策理念として「自助・共助・公助」を掲げており、これに対して野党は「まず自助というのは政府の役割を放棄しているに等しい」と批判』したという件でした(注)。
というのも、冒頭の伊是名女史の批判は、上記の野党の批判同様に何でもかんでも「権利」ばかりを主張して文句を言う野党と同じではないか、それでは周囲の支持も理解も得られないのではないかと思ったからです。
個人的には、「権利と義務」また「自由と責任」ついて、例えば「権利を唱える時はすべからく義務を負う」と思っています。
今回でいえば「障害者差別解消法」で認められた「権利」の行使において、その人(障害者)の果たすべき「義務」は何であったかということです。
馬鹿げた野党の様に、先ず「自助」を言うのはケシカランという順番の問題ではなく、「公助、共助にはすべからく自助が伴う」のではないかと思うのです。従って、今回私が感じた違和感の理由は、彼女の批判にはご自身の「義務」や「自助」が(恐らく、キチンとされたのであろうけれども、読む側が感じるのは)全く記載されていない、或いは何も果たしていないと思われてしまったからではないか・・・ということです。
障害者問題について、我々健常者が色々批判をすれば、障害者の方や弱者保護の立場の人たちからは、兎角「お前は何も分かっていない」とか言われるのがオチなのですが、果たしてそうなのかと思うのです。
そこで考えるべきは、障害者問題についても(その順番は別として)やはり「自助・共助・公助」であると思うのです。
以上、今まで述べて来たことに対しての直接の回答になっている訳ではないのですが、障害者問題に関して考える時にいつも思い出すのは、社会人時代に会社に講演に来ていただいたヤマト運輸の中興の祖であり、「宅急便」の生みの親でもある故小倉昌男さんの言葉です。
小倉さんは経営の第一線から退いた後、福祉現場を訪れた際の「月給1万円」にショックを受けて、莫大な私財を投入してヤマト福祉財団を創設し、ベーカリー事業を軸とした障害者の共同作業場を設立運営します。当時の記憶を頼りに氏の言葉を要約すれば、
「障害者福祉は“お涙頂戴”の慈善事業であってはならない。障害者が自立してこそ初めての支援になる」として、経営的視点をベースに「“儲けて”月給10万円を得て、初めてノーマライゼーションが達成出来る」というような内容だったと思います。氏の著作から一部分を借用させていただくと、
『福祉に長年携わっている人は「カネもうけは汚いこと」と思い込んでいることが多い。「福祉的就労」という言葉もあり、低賃金を正当化したい気持ちが込められているが、これはおかしい。障害者も健常者と同様、自分で稼いだカネで自活し、趣味や買い物を楽しむ。それが「自立」であり、「社会参画」ではないか。』
氏は、ある日、作業場「スワンベーカリー」に働く知的障害者の方を親御さんが給料日だった日に迎えに来られた際に、障害者の方が、
「お母さん、今夜はソバでも食べて帰ろうよ。あたいのおごりだよ!」
と誇らしげに話しているのを聞いて涙したと云います。
『自助、共助、公助』。
今回のケースで、駅で助けてもらうことがもし当然の“対価”であるとしたら、その“対価”を得るために為すべき自身の“労働”は果たして何であったのか・・・?
【注記】
「自助、共助、公助」は菅さんご自身が考えられた造語などでもなく、元々は保険などの説明の際に使われていて、そのオリジナルも野党がケシカランと批判する「自助」から始まる順番であり、阪神大震災以降、特に防災の中で住民、地域コミュニティー、行政の役割分担を考える際に使用頻度が高まったそうです。
そして、その言葉の起源については諸説あるそうですが、一説には江戸時代に出羽国米沢藩の藩主になって藩政改革を成し遂げた上杉鷹山が、藩の統治についての考え方として「三助の実践」というものを考えたのがその始まりであると言われています。因みに、上杉鷹山といえば、“灰の中の火種”や『なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり』でも知られる名君です。
(「三助の実践」は、今の「自助・共助・公助」とは少し異なっていて、「自助・互助・扶助」の3つですが、意味は同じ)