カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 お堀端の桜も散って、葉桜となっていた4月17日。開運堂の季節限定商品である桜餅に代わって、今度は草だんごが販売開始になりました。
ちょうど18日に、定例のお参りを兼ねたウォーキングで市街地に下ったことから、早速帰りに開運堂の松風庵に寄って、草だんごを買って来ました。
開運堂では、草餅ではなく草だんご。因みに、米粉を捏ねて丸めるのが団子で、もち米をつぶしてついたのが餅ですので、開運堂ではうるち米ともち米の粉を捏ね、ヨモギの若草を混ぜて団子にしているということになります。

 不思議に感じたのは、草色の包装紙に印刷された和歌。

 『いわそそぐ たるみのうえ早蕨の もえいずる春になりにけるかな』

とあり、教科書で習った
 『石はしる 垂水の上の早蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも』
とは少し違っています。
 学校で習ったのは「万葉集」に収められた有名な和歌なのですが、この包装紙にあるのは万葉集ではなく新古今和歌集に収められた和歌で、しかも「石はしる」ではなく「岩そそぐ」、更に「なりにけるかも」は「なりにけるかな」と読み方が変えられて収録されているのだそうです。
包装紙の筆字は藤原行成の書とありますが、『藤原行成(972~1027)は平安時代中期の貴族で、能書(のうしょ)として知られ、小野道風、藤原佐理とともに「三跡」と称されています』とのこと。
従って、包装紙の藤原行成の書になる和歌は、万葉集の元歌ではなく藤原定家等に寄って纏められた「新古今和歌集」に掲載された和歌ということになります。
何だか“石はしる”と詠った万葉集の勢い良く流れる雪解け水が、平安の世らしく優雅ではありますが、チョロチョロと優しく流れるせせらぎに代わってしまった様な気がします。尚、包装紙にはもう一首、行成の筆で書かれていました。
 さて、季節限定の開運堂の草だんご。縦横20㎝×10㎝位の箱に8個入っていて、税込み897円とのこと。生モノですので、3日間しか日持ちがしません。ふたを開けると、びっしりと北海道産の小豆のつぶ餡が敷き詰められていて、団子の姿は全く見えません。そのため、8つの円が書かれた透明なフィルムが張ってあり団子の在り処を示していて、団子をすくうためにプラスチックのヘラが箱に入っています。
一本100円ちょっとの普通の串団子に比べれば、一粒100円以上の値段からして当然かもしれませんが、ヨモギの量も多いのでしょう。春らしい若草の香りがします。また団子としては良く捏ねられたモチモチとした食感で、一般の草団子よりむしろ草餅に近い感じがします。ただ、昔祖母の作ってくれた草団子の方が遥かにヨモギの香りは強かった記憶がありますが、市販されている他の草団子や草餅よりは多分良心的だろうと思います。
いずれにしても、開運堂の草団子、“若草萌ゆる”春の息吹が感じられる、この時期お薦めの逸品であることは間違いありません。因みに、販売期間は6月中旬までとのこと。何回楽しめるでしょうか・・・?
 余談ですが、開運堂では柏餅は5月の4日・5日二日間限定の由。柏餅は旧暦では無いのですね。ただ信州らしく(?)、一般的なこし餡と昔から松本では定番だった味噌餡の二種類です。

 「コロナ禍での“すごもり”向き」と、以前にも紹介させていただいた落語。
地方ではただでさえ少ない生で聴く機会がコロナ禍で余計少なくなってしまいましたが、ネットで検索するとYou Tubeの動画や昔の音源なども残されていて、私メの一番好きな噺家である柳家さん喬師匠を始め、現在過去の色々な噺家さんの落語を居ながらにして聞くことが出来ます。
 そうした中で、最近聞いて感服したのが古今亭菊之丞師匠の演じた『法事の茶』という演目でした。
古今亭菊之丞という噺家は名門古今亭の今や金看板。名前からして歌舞伎役者染みて艶っぽい江戸落語の噺家であることは以前から知ってはいましたが、奥様がNHKの藤井彩子アナ(女性アナとして初の甲子園実況)というくらいの知識で、何となくわざとらしくも感じられる話し振りで、正直、然程好きな噺家ではありませんでした。

 コロナ禍で生落語が聴けないので、柳家さん喬師匠を始め、柳家喬太郎、春風亭一之輔、柳家権太楼、柳亭市場、古今亭志ん朝、立川志の輔といった各師匠のネット上で聴けるネタはもう殆ど全部聴いてしまい、そのため他に無いかとたまたまネット検索していた中にあったのが、菊之丞師匠の演じた「法事の茶」だったのです。しかも今まで一度も聞いたことの無いネタだったので、興味もあり聞いてみました。
「法事の茶」というのは幇間の登場する「幇間噺」の一つでした。幇間は所謂太鼓持ちのことで、幇間噺には、他にも「愛宕山」(古今亭志ん朝師匠の名人芸が動画で見られます)、「鰻の幇間」、「幇間腹」などがあり、特に最初の内容が似ているので若旦那が針を打つ「幇間腹」(このネタを初めて知ったのは、やはり落語家修行を描いた尾瀬あきら氏の傑作「どうらく息子」でした)かと思ったのですがそうではなく、幇間が持っている特別なお茶を焙じて願うと、その場にその会いたい人が現れるという噺。芸達者な噺家ではないと演ずるのが無理そうなネタでした。
因みに、古今亭菊之丞師匠の「法事の茶」で検索すると、音声だけのものと、コロナ禍で無観客での寄席から中継された「デジタル独演会」のYou Tube動画の二つのバージョンが見つかると思いますが、特に有名噺家を演ずる時は、既に鬼籍に入られた名人が多く、その師匠それぞれの出囃子の中を舞台袖から歩き方を含めて真似をされて高座に上り口真似をするので、動画でないと、音声だけではその面白さは半減してしまいます。つまり、声帯模写だけではなく“形態模写”も演じられているのです。
伝説の“黒門町”(八代目文楽)など見たことも無いので何ともコメント出来ませんが、例えば、圓生(5代目円楽の師匠)、正蔵(彦六、大喜利で弟子だった木久扇師匠が良くモノマネをしますが、菊之丞師匠も負けてません)、談志(見た目もそっくり!)、そして現役のさん喬師匠とどれもこれも特徴を見事に捉えた芸達者ぶりに感心するばかりで、思わず画面に向かって「イヨッ、上手い!」と掛け声と共に拍手をしていました。
菊之丞師匠は子供の頃からの落語好きで、中学生の頃には一人で鈴本に通い学校の落語クラブで「芝浜」を演じたというだけあって、さすがでした。
なお、お囃子も現役の噺家だけではなく、昔の師匠方の出囃子を知っていないといけないので、そんなベテランのお囃子さんが舞台袖に控えている時でないと出来ない噺かもしれませんが・・・。それにしても実に上手い。噺自体で沸かせるネタではないとしても、イヤハヤ名人芸でありました。

 同じ様に芸達者でないと演ずるのが難しそうな演目は、幇間噺ではありませんが、年末の借金取りのとのやり取りを描いた古典落語「掛け取り」です。
個人的には柳家さん喬師匠(5代目柳家小さんの弟子。日本舞踊藤間流の名取)の演ずる「掛け取り」が、噺の中で演ずる義太夫や歌舞伎、三河万歳などの古典芸能も実に芸達者で好きなのですが、他には現在落語協会々長を務める柳亭市馬師匠(同じく小さんの弟子で、若い頃剣道を習っていたため、時に小さんには落語ではなく剣道の稽古相手をさせられた由)は歌手としてCDも出す程の美声で、「掛け取り」では本来の歌舞伎や喧嘩などを演じる他に、三橋美智也の歌を何曲か歌うのが定番となっています。
「掛け取り」で演じられるのは市馬師匠を別とすれば本来古典芸能ですが、「法事の茶」は同じ芸達者という意味では声色や物真似が上手くないといけない。落語の中で所謂「音曲噺」というジャンルになりますが、いずれにしても誰でも演じられるというネタではないかもしれません。その意味で、古今亭菊之丞師匠の演ずる「法事の茶」は、今や800人もいるという東西の噺家の中で、師匠しか演じられない唯一無二の演目なのかもしれません。
【注記】
写真は、落語協会及び師匠の公式サイトからお借りしました。

 観測史上最速という3月26日に開花した、今年の松本の桜。
いつもだったら200m近い標高差のある市街地とアルプス公園では2週間近くもズレて咲くこともあるのですが、今年は3月末に5月下旬並みという暖かさの日があったことから、松本の桜はどこもかしこも一気にそして一斉に咲き揃ってしまいました。

 松本城の夜桜のライトアップも本丸庭園無料開放も終わった4月11日。朝のウォーキングを兼ねて、もしかしたらまだ・・・という期待も込めてアルプス公園へ行ってみました。
いつもの様に急坂を上り、旧道からアルプス公園へ。途中、桃の花が満開でした。やはり信州では旧暦でないと雛祭りが“桃の節句”にはなりません。 

 蟻ヶ崎台を抜けて旧道に入ると、以外にも桜並木の桜が勿論散り始めてはいますが、花が残っていました。
5月下旬並みの24℃という日もあって、一斉に咲いた今年の松本の桜でしたが、このところ朝晩は霜が降りる日もあったためか、特に市街地より200m程も標高の高いアルプス公園は意外と花持ちが良かったのかもしれません。ただ、リンゴは未だ開花していませんが、リンゴより早いナシなどの果樹に西山エリアでは霜害が出ているとの報道がありましたので、風流に花の長さを喜んでばかりはいられません。
 県の種畜場時代からの古木が続く旧道の桜並木の急坂を上っていくと、1週間前の3日には満開だった辛夷の花は既に盛りを過ぎて茶色くなっていました。ただ、この日は快晴でしたので、残雪の北アルプスと名残の桜の競演を文字通り“アルプス公園”で見ることが出来ました。
更に嬉しかったのは、「アルプス展望広場」の下の雑木がここ数年は“展望”の名称が恥ずかしい程に木々に遮られていたのですが、かなり枝を払ったり伐採したりされていて、漸く名前負けしない北アルプスの景観が見られるようになっていました。
アルプス公園にはソメイヨシノだけではなく、オオヤマザクラや八重桜など色々な桜が植えられているのだそうですが、広場横の桜並木の片側の八重桜(多分、だった筈)はまだ蕾でしたので、ソメイヨシノが散った後も見頃は続くのかもしれません。
 翌12日は、市街地へウォーキングを兼ねて四柱と天神へお参りにいきました。途中、松本城はお堀の桜は殆ど散って、こちらも見栄えの頃は過ぎてはいたものの僅かに名残の花筏をお堀で見ることが出来ました。今年の桜はこれでお終いです。
日本列島は二年連続で寂しい桜でしたが、来年は心から楽しんでの桜になりますように・・・。

 4月中旬、ナナとこゆきがそれぞれの誕生日を迎えました。
先住犬のナナが14歳。保護犬だったコユキ(正しくは「こゆき」ですが、読み易い様にカタカナ表記にしています)が10歳。彼(女)等の“犬生”での誕生日には、それぞれナナもコユキも“無事に”という修飾語が付きます。
(これまでも何度かご紹介させていただいておりますが、改めての経緯経過でご容赦ください)

 先ず、マルチーズのこゆきが12日に10歳(但し推定です)になりました。
ブリーダーから不要犬として捨てられ、埼玉県内の保健所に保護されたのが2年前の4月12日。そこで埼玉の保護団体に助け出され、ボランティアさんに預けられて初めて人間の愛情に触れた後に、縁あって2週間のトライアルを経て我が家のワンコになったのが7月末。当時推定8歳とのことでしたので、保護された日の8年前をコユキの誕生日として、名前もボランティアさんが付けてくれた仮の名が如何にも相応しかったので、そのまま市役所に登録しました。
トライアル期間中、ブリーダーから切られた声帯が腫れて息道を圧迫していたために、トライアル中の散歩時に過呼吸で呼吸困難になって掛かり付けの動物病院に入院して酸素室に入ったり、その結果手術をしていただいたりと色々ありましたが、すっかり慣れてナナの後を追いかけたり家の中を飛び回ったりして、無事10歳の誕生日を迎えました。
 一方の先住犬、シーズーのナナは16日に無事14歳を迎えました。
2年前の5月に心臓の増幅弁閉鎖不全症で肺水腫となり、ナナも酸素室に入り入院。その後、薬は勿論エサも殆ど食べなくなり、色々試したのですが痩せるばかり・・・。掛かり付けの獣医の先生からは「覚悟した方が良いかもしれない」とも言われ、「どうせダメならば・・・」と、食べられるドッグフードや大好きだったおやつに戻した結果、次第に食欲が戻り、少しずつですが食べる(おやつに隠した薬も一緒に)量が増えていきました。
先代の先住犬チロルが18歳の天寿を全うし“虹の橋”を渡った時に、いくら長生きだったとはいえ彼女を看取った時はとても辛かったのですが、ペットロスの程度を些かなりとも和らげてくれたのはナナが居てくれたからでした。そのため、「最悪を覚悟する様に」と獣医の先生に告げられた時に、家内がペットロスを恐れ、探してたまたま出会ったのが保護犬のコユキでした。
すると、そのコユキにも良い意味で触発されたのか、ナナの動きも食欲も次第に増えていきました。その結果、先生も「こんなこともあるんだなぁ!」と驚く程に回復(先生曰く、普段の生活が出来るように、病気に体を順応させた)し、コユキが来る前とでは見違えるようにナナも元気になってくれたのです。
病気になった時は、誕生日どころか、その年の年越しさえも危ぶんだことが今では信じられない程で、その後は毎日の投薬と3ヶ月毎の定期検査は欠かせませんが、ここで無事14歳の誕生日を迎えてくれました。
 犬にはお互いの相性があると云います。従って、多頭飼いをする場合は注意が必要です。合わないと、特にそれまで愛情を独占出来ていた先住犬が他の犬が来たことでストレスを感じ、中には鬱になってしまうこともあるそうです。その意味で、ナナとコユキは相性が良かったのか、最初から何の問題も無く過ごしています。どちらかというと、チャンピオン犬の孫だったナナの方は(狩猟犬の様な職業犬ではなく、宮廷の門外不出の愛玩犬だったシーズーという犬種故か)唯我独尊で我関せず。一方のコユキはナナの後をついて回り、寝る時もくっ付いて“犬団子”状態になって良く一緒に寝ています。くっ付かれても、後追いされても気にしないナナの(我関せずの)性格が良かったのかもしれません。しかし我関せずと云いながら、ナナの食欲が戻って見違える様に元気になったのはコユキが来て意識したお陰です。
一方、今まで愛情を注がれずに声帯まで切られ、単なる金儲けのブリーディング用のモノ扱いをされて来たがために、見知らぬ人間(ブリーダーが男だったのか、特に男性)を警戒する余り極度に怖がって臆病なコユキも、ナナが居たからこそ安心して一早く我が家に慣れてくれたのかもしれません。その意味で、ナナとコユキは運命的な“偶然という必然”があってお互いに求め合い、そして呼び合った結果なのかもしれません(そう言えば、手術するにあたって事前に検査データをやり取りしていただいた我が家の掛かり付けの動物病院の院長先生と、手術をしていただいた埼玉の保護団体の主治医である協力病院の院長先生が獣医学部の同級生だったというのも偶然とはいえ運命的でした)。
 一日でも長く、一年でも長く、お互いの年を重ねて長生きをして欲しいと願っています。今年も無事に、ナナは14歳、コユキが10歳の春を迎えました。

 我々、生粋の“松本っ子”が当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。

 個人的にそれ程好きでも無かったので、初めて県外に出た学生時代にも言われたことも無く、それまで全く知らずに特に意識もしていなかったのですが、長野県内では一般的な「牛乳パン」は実は長野県限定。
このことを私メが初めて知ったのは、娘たちが大学進学で上京してからでした。
 「あのさ、牛乳パンって長野県だけなんだよ!」
 「えっ、そうなの!?全国どこにでもあるんじゃないんだ・・・」
松本では普通のパン屋さんは元より地場のスーパーのパン売り場など、どこでも必ず牛乳パンが普通に並んでいて、地元では珍しくも何ともないのですが、娘は話題作り?のためか、丸正(既に閉店してしまいました)の牛乳パンを友人へのお土産に買って帰って行ったこともありました。

 このところ毎週末のウォーキングで、松本城の内堀から大手門を抜け、大名町を通って縄手通りに入って四柱神社にお参りし、帰りはまた縄手通りから緑町を通って松本城の太鼓門から二の丸を経て帰って来るのですが、途中緑町に「小松パン」があります。
日曜日は定休日の様ですが、コロナ禍での蜜をさけるためか、店の前に張り紙で「牛乳パンは予約制」とのこと。そこで奥さまが珍しく、
 「小松の牛乳パン・・・、一度食べてみようかな・・・」

 「小松パン」は大正11年創業という松本の老舗のパン屋さんです。個人的には、市内の同じ老舗のパン屋さんでは、駐車場のあったお城横の丸正(閉店)や、縄手通りのスヰトや本町のマルナカにもイートインコーナーがあるのでモーニングがてら入ったことはありますがが、「小松パン」のある緑町は狭い路地で買い辛いので、記憶では恐らく入ったことはありませんでした。
翌週の日曜日が雨予報だったこともあり、「小松パン」の定休日でもある日曜日を避けて前日の土曜日にウォーキングをすることにして、早速家内が電話で牛乳パンを予約しました。

 土曜日当日、我々の牛乳パンの受け取りが午後1時以降の指定とのことから、それに合わせて少し遅めのウォーキングです。四柱、天神と巡ると、家からは大体7㎞位の往復距離でしょうか。しかも“往きはヨイヨイ”で、帰りはお城辺りから我が家までずっと上り坂が続くので、結構歩き応えがあります。
さて、四柱神社から辰巳の庭を抜けて緑町に入り、喫茶山雅の先にあるのが「パンセ小松」という看板の「小松パン」。何人か買い物客がおられ、店内に並んだ総菜パンを物色されていました。中には、牛乳パンを目当てに来られた観光客の方もおられたような・・・。我々も、総菜パンを幾つか選んで、予約した旨を伝え、牛乳パンを2個併せて購入。
 「えっ、2個も買ったの?1個で十分じゃん」
 「だって、予約するのに1個だけじゃ何だか申し訳なくて・・・」
 「この大きさだヨ!他のパンも買うのなら1個でもイイのに・・・」
小松の牛乳パンは他店に比べて大きいのです。値段も一つ310円ですが、大きさも倍近くあるかも・・・。小松のそれを食べるのは家内は初めてなので、ま、足りないよりも食べ応え十分過ぎるくらいでイイのかもしれませんが・・・。
 家に帰って少し遅めのランチです。
実際に袋から出すと・・・、
「デカッ・・・!!」
優にB5版サイズはありそうです。しかも、他店に比べ、ミルククリームの量が半端無い!唖然とする程です。意を決して、家内と二人で半分ずつ・・・。

ただ牛乳パンに使われているのは生クリームでは無くて、昔のクリスマスケーキに良くあったバタークリームなので、さすがにこの量は、若い人たちには良いかもしれませんが、“まったりもったり”し過ぎていて年寄りには些か多過ぎます。
 「これ、もうイイよね・・・」
 「ウン、もうイイ・・・」
お互い途中でモタレてしまい、一度では食べ切ることが出来ませんでした。
ま、モノは試しで、 “秘密のケンミンショー”的な話題になった時に、松本に暮らす人間として“牛乳パン”の話題に付いては行ける良い機会になったのは確かです。
 そういう意味では、もし“秘密のケンミンショー”的に信州らしいと言うなら(諏訪出身の家内も同様でしたので、少なくとも中南信=長野県の中南部は共通の様です)、むしろ「味噌パン」の方が良いかもしれません。
私たちが小学生の頃の運動会や何かの学校行事には、お祝いや記念品として必ず配られたのが「味噌パン」でした。ボソボソした食感の甘い味噌味のパン。イヤ、実に懐かしい!今もあるのかなぁ??・・・記憶では、子供の頃良く食べていたのは、今は無き(閉店した)「丸正」の味噌パンだった様な気がするのですが??・・・

 4月最初の週末、4月3日土曜日。
史上最速で3月26日にお城のお堀端の桜が開花した松本。29、30日と5月下旬並みの暖かさで一気に満開とか。翌4日の日曜日は雨予報で、下手をすると“花散らしの雨”になるやも知れず、そこで3日の土曜日に、ウォーキングを兼ねて桜を愛でての私的“桜ウォーク”と洒落込むことにしました。

 本来なら一週間程度は遅れる筈のアルプス公園も今年は一緒に咲いているかもしれないので、コースは先ず我が家からは急坂を上ってアルプス公園へ。そこから遊歩道を歩いて城山公園へ向かいます。そして市街地に下って松本城へ。更に女鳥羽川の桜も見ながらのついでに、いつも通りに四柱神社から天神さまにお参り。ゆっくり歩いて大体8㎞、3時間コースでしょうか。標高差200m、結構アップダウンがありますので、初夏からの山歩きに向けての足慣らしにもなります。

 ワンコたちはお留守番で、朝8時半に出発。
先ずは通称“向山(むこうやま)”の登山並みの急坂を一気に上り、蟻ヶ崎台から、県の種畜場時代の古木の桜並木の続く旧道を上ってアルプス公園へ。標高800m、70haを超える広大な公園に、ソメイヨシノだけではなくオオヤマザクラなど含め1300本の桜が植えられているそうです。中には5分咲き程度の桜木もありましたが、殆どは8分から9分咲きでしょうか。桜だけではなく、アルプス公園に何本かある辛夷も真っ白な花が満開で、長野県出身の井出はく氏の「北国の春」ではありませんが、市街地から程近い都市公園とも思えぬ様な信州の高原の風情を漂わせています。ただこの日は翌日の雨予報もあり、北アルプスは既に雲の中。残念ながら、残雪の峰々と桜の競演は見られませんでした。
アルプス公園の良い所は、都市公園には珍しくBBQなどでの火気使用が認められていること。そのため花見でのお弁当などの準備をされて来たであろう家族連れは何組もおられましたが、いつもなら場所取りのブルーシートで朝早くから埋まる公園も、昨年来のコロナ禍で今年もさすがに会社や仲間での花見の宴席を控えてか、ブルーシートは全く見当たりませんでした。
 アルプス公園から少し下って、途中から城山遊歩道へ入ります。アルプス公園からはほぼ下り道で、城山々系の尾根沿いを1㎞歩いて標高660mの城山公園へ
。遊歩道では途中、同様にトレッキングやトレイルを楽しむ何組かの方々とすれ違いました。
園内に500本という城山公園の桜は満開でした。城山公園は天保年間にお殿様が庶民に開放したという古い公園で、松本市民の憩いの場です。
今年は二年振りにお花見用のボンボリが張られ、4軒程ではありましたが、おでんやイカ焼きなどの屋台も出店していました。ただ、城山もアルプス公園同様に例年に比べれば人は疎らでしょうか。
 城山から市街地へ更に下ります。高台の城山からは市街地越しに4000本の全山桜という弘法山が白く浮かび上がっていました。途中下りの桜並木は既に散り始めています。やはり3月末の5月並みの陽気で、松本の今年の桜の期間は短そうです。
北国の春は全てが一気に一斉に咲き揃うとはいえ、もうちょっとゆっくりでも良いのに・・・と愚痴めいてさえしてしまいます。
 この時期は桜にばかり目が行ってしまいますが、アルプス公園の見事な辛夷の花や、城山遊歩道で見つけた、芭蕉の「山路来て なにやらゆかし」の如きスミレ草、また道端でひっそりと咲く真っ赤なボケの花などなど・・・。気が付けば、それぞれが思い思いに信州の春を彩ってくれていました。
 お堀端も含め、城内に320本という松本城の桜も満開でした。松本城には結構な数の観光客が来られていて、密を避けての対応もあってか、本丸入り口の黒門には天守閣への入場は50分待ちとの張り紙がされていました。
「松本城夜桜会」での本丸庭園の無料開放は10日までとのことですが、この分だと10日まで花は持たないかもしれませんね。せめてお堀が花筏で埋まっていればまだ救われますが、果たして・・・?

 開花宣言があった翌日27日、朝のウォーキングの帰り。
松本城のお堀の桜を見たせいもあるのでしょうか。
 「桜餅、買って帰ろうか?」
という話になり、開智に在る「開運堂 松風庵」(日本茶と和菓子の喫茶室もあり)に寄って買って帰ることにしました。開運堂では、普通の桜餅と道明寺の二種類が販売されています。
松本は食文化も含めて関東風の文化圏ですので、昔は関東風の桜餅しか見かけなかったと思うのですが、何故か、桜餅に関しては関西の道明寺も販売されているのが不思議に感じます。開運堂のH/Pの説明に由れば、
『和菓子の桜餅には、「道明寺」と「長命寺」の2種類があります。桜餅と言われて思い浮かべるものは、お住まいの地域によって違うようです。
 「長命寺」は、関東風・江戸風の桜餅
 「道明寺」は、関西風・上方風の桜餅
という違いがあります。
関東風と言われている「長命寺」。皮の材料には小麦粉が使われており、小麦粉に水を混ぜて薄く焼いた皮で餡をくるんでおります。「長命寺」と呼ばれているのか由来は諸説ありますが、その一つをご紹介します。
江戸時代に、東京の隅田川沿いにある長命寺では、川沿いの桜の木から落ちる葉の掃除に日々頭を悩ませていました。そこで桜の葉を塩漬けにし、それにお餅を包んだのが始まりと言われております。「長命寺」というお寺で初めて作られたことから、この名前がついたそうです。
一方の関西風の桜餅が道明寺と呼ばれている理由は「道明寺粉」という材料を使用している事に由来しております。道明寺粉とは、もち米を一度蒸して、乾燥させて粗く砕いた物です。これを蒸して色付けしたもので餡を包んで作ります。お米の食感が残るぶつぶつとした食感が特徴です。
道明寺粉の歴史は古く、戦国時代に大阪の道明寺というお寺で作っていた保存食「干飯(ほしいい)」が元になっているそうです。長期間保存ができることから、武士の携帯食として用いられ、水やお湯でふやかすなどして食べられていたそうです。次第に干飯を挽いて粉にしたものを、「道明寺粉」と呼ぶようになり、それを使った餅が道明寺と呼ばれるようになったそうです。
また、京都の物産をあつめた『京之華』(1926)によると、嵯峨町の奥村又兵衛が「嵯峨名物桜餅」として売り出したのがはじめだったと記されております。桜の名所である嵯峨に桜に因んだ名物を、という思いだったのでしょう。
ちなみに、桜の葉で餅を包む工夫は江戸時代に発案されたと言われております。道明寺・長命寺に共通しているのが、餅を包んでいる「塩漬けの桜の葉」の存在。桜の葉で包むことで、香り付けだけではなく、お餅の乾燥を防ぐ目的もあることで伝わっております。葉は食べる人と食べない人で意見が分かれるようですが、正式な食べ方は決まっておりませんので、食べる・食べないはお好みによって。香りだけ楽しんで、葉は剥がして中の餅部分だけを食べても構いません。正解はなく、お好みでお楽しみいただくのが一番です。』とのこと。
 開運堂が道明寺を始めたのは20年前だそうです。以降、この関西風の桜餅が松本でも評判になり、他の和菓子店も作る様になって、松本地方では道明寺の桜餅も定着してきた由。ただ開運堂では、関東風の桜餅に比べて道明寺は量(かさ)が小さく目方はあっても見栄えがしないので、開運堂では桜の葉を2枚使っているのだとか。個人的には、学生時代関西にいたせいでもありませんが、何となく道明寺の方が好みです。
そして、もう一つ開運堂の桜餅で気になったこと。それは、桜餅の包装紙。他の和菓子とは包装紙が異なり、桜餅だけに使われている様な気がします。そして、その包装紙には何やら意味有り気に筆時で書かれています。
H/Pにその紹介がありました。
『開運堂で桜餅専用にご用意している掛け紙には、独特な風合いで桜餅が描かれ、高浜虚子の俳句が添えられているのをご存じですか。
 「灯火の下に 土産や さくらもち」
桜餅は春の季語として他にも多くの俳人が句を詠んでいます。
この掛け紙に引用された掛け軸がこの時期にだけ開運堂本店店内に飾られています。桜餅を購入がてら是非一度、足を運んで観るのも楽しみのひとつですね。』
俳人虚子は大変な甘党でもあったとか。
因みに、関東風とされる長命寺の桜餅は古典落語の「花見小僧」にも登場していて、落語の中でも日本橋の大店の旦那さんが丁稚の定吉に説明する形でその由来が紹介されています。
 他の桜餅に比べ、開運堂の桜餅の塩漬けの桜の葉は塩味が少し強い気がします。しかも一回り大きくて、更に道明寺は二枚使われていますので十二分に食べた気がします。家内は長命寺の方が好みだそうですが、私メは餡を包む皮が食べ応えのある道明寺の方が好みかな・・・。
今年は松本も桜の開花が史上最速で早かったのですが、松風庵に依れば、開運堂では例年2月の立春の日から桜餅の販売が開始されていて、松本城の桜が満開になる4月の中旬まで販売。以降は草団子に切り替わるとか。従って、ここ信州松本では、桜の花が咲くより先に“花より団子”ならぬ桜餅で春を感ずる次第・・・です。
因みに、個人的には桜餅の後に出て来る開運堂の草団子(こちらは草餅ではなく団子だそうです)の方が好きで、むしろ春を感じます。
草餅は、昔祖母が毎年作ってくれた懐かしい“お祖母ちゃんの味”だということもありますし、塩漬けの葉よりも摘んだばかりの新鮮で柔らかなヨモギの若葉の香りの方が、何となく春の訪れをより実感する気がします。いつでも使える塩漬けの葉よりも、その時期だけしか摘むことが出来ない季節限定のヨモギの若葉の方が貴重で、季節感をより強く感じるからだと思います。

 石川啄木の『一握の砂』に収められている、
『 やわらかに 柳あをめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 』

 漸く春が訪れたであろう、故郷盛岡を流れる北上川を懐かしんで詠んだ句ですが、都会に出た啄木が帰れぬ故郷の岸辺を瞼に想い浮かべて涙したであろう哀歌も、個人的には何故か、その柔らかな柳の芽吹きにウキウキするような春の訪れを感じてしまうのです。
とりわけ、啄木の故郷である東北同様に、春の遅い信州では、3月に入ると日ごと柔らかな若緑色の濃さを少しずつ増していく柳が、早春に咲く梅やマンサクよりも、むしろ本当に春の使者の様に感じられるのです。

          (3月7日)
          (3月14日) 
 2月下旬から毎週末、先にワンコたちの散歩を済ませ、人間様のウォーキングで家内と松本城方面に行っているのですが、松本城公園で白い北アルプスをバックにした天守閣を見ると、お堀端の柳が日ごとではなく週ごとであるからこそ余計、一週間前との緑の濃さの対比で、その柔らかな緑の濃さを増しているのがハッキリと分かります。
          (3月20日)
          (3月27日)
          (3月27日)
 そんな松本も、26日に観測史上最速で松本城のお堀端の桜の開花が発表されました。春の主役は一気に桜・・・です。
桜のライトアップ“光の回廊”は29日から4月5日までですが、通常開花から三日後に始まる松本城本丸庭園夜桜会の無料開放は、コロナ禍というよりもオリンピックの聖火リレーが4月2日に松本で行われるため、それが終わってからということで、3日から10日まで開催(17:30~21:00)されるそうです。残念ながらコロナの影響は今年も続いていますが、今年は静かに桜を楽しみたいと思います。
蜜を避けつつも、春の桜だけはしょうがないのでしょうね。西行法師ではありませんが、桜のせいにしてしまいつつも・・・。

 『花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける』
 (西行法師)
【注記】
松本城の柳の写真は、3月7日、14日、20日、27日とほぼ1週間毎です。
お堀端の桜は、開花宣言翌日の27日です。ただ29日、30日と松本は24℃と5月下旬並みの気温で桜が一気に咲き揃ったので、期間中の10日まで持つかどうか・・・?お堀の花筏も風情はありますが・・・。