カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
松本から軽井沢へ行くに時は、特にアウトレットでの買い物目的での日帰りでは「時は金なり」で、更埴JCT経由の高速道で行くことの方が多かったのですが、リタイア後は上田経由で下道(一般道)を行くことが多くなりました。
松本からですと、実際高速道なら早ければ(多少とばせば)1時間半で行くことが出来ます。三才山峠越えで上田経由だと2時間程度。以前上田出身の同僚から、大して時間も変わらないのに高速道経由なんてあり得ないと憤慨されましたが、毎日が日曜日の年金生活者となれば、仰る通りで30分差など然して気になりません。しかも昨秋から三才山トンネルが無料化されていますので余計国道254号線で三才山経由の方がお得になりました。
今回は少し寄り道で、久し振りに塩田平の生島足島神社にお参りをして(平井寺トンネルも三才山トンネルと同時に無料化されています)から、丸子を経由して東部湯の丸IC付近から浅間サンライン経由で向かいました。
平日で道路も空いてもいましたのでスムーズに到着。そのためチェックイン時刻までにはまだ少し時間があり、途中目に付くレストランも無くて我々もランチがまだでしたので、フロントでワンコOKのレストランを伺うと、そこはさすがのドッグフレンドリーな軽井沢。すぐに室内OKやテラスのみOKと色別に区分けされたレストランが掲載された軽井沢のマップを渡してくださり、近くの店を幾つか教えてくれました。ただ、コロナ禍で休業している店舗も多いので、事前に電話で確認してから行った方が良かろうとのこと。
そこで、付近の追分エリアでワンコも室内OKというレストランがカフェを含めて3つ程あったのですが、どこも休業中(電話に出ていただいた店も翌週から営業開始とのこと)。
結局ワンコOKで営業中の店は一軒も見つからず、やむなく付近のコンビニでお弁当を買って食べることにしました。
軽井沢滞在中、昼間は外出していたのでランチはレストランで食べましたが、ドッグヴィラはキッチン付きなので夕食は食材を現地調達して部屋で調理したりテイクアウトをしたり、外食ではなくワンコたちと一緒にホテルステイで部屋食にしました。
軽井沢のアウトレットのワンコOKのレストランも室内ではなくテラス席のみという店が多く、3月とはいえ未だ冬の軽井沢は寒くて外で食べる気にはなりません。そこで室内もワンコOKのカフェにも入って休んだりもしたのですが、極々普通のコーヒーが一杯650円。
やむなくワンコたちは車で待っていてもらい、ランチはアウトレットに隣接する食堂街で中華にしました。我々はすぐに座れましたが、食べている間には順番待ちの行列も出来る人気店の様でした。軽井沢店とあったので、都会にある有名?中華料理店の支店だろうと思うのですが、私メはニラレバ炒めのセットで、奥さまは海鮮固焼きそばのランチセット。併せて蒸し点心3種セットも。先ず、ニラレバ炒め(因みに、メニューではレバニラ炒めでしたが、中国語表記だと「韮菜炒猪肝」なので、ニラレバ炒めが正しい筈)は、味付けは良かったし、レバーがたくさんだったのも良かったのですが、野菜が少な過ぎでニラなど殆ど入っておらずチト惜しい。一方、家内の海鮮餡かけ焼きそばは、具材は豊富でしたが味付けが薄過ぎ。セットに付いてきた卵スープも味付けが薄かったので、黒酢を足して調整しました。また蒸し餃子などの点心も全然美味しくない。結局二人とも、「もうイイや」と焼きそば含め残してしまいました。
決して自慢ではなく、赴任したシンガポールで、ローカルの屋台から著名な高級店まで色々な中華料理を食べて、中華料理に対する“舌が肥えて”しまったのでしょうか。帰任後に家族で軽井沢に滞在した時には、当時“宇宙人”と云われた政治家も御贔屓という有名中華料理店に予約して夜行ったのですが、味にガッカリした記憶があります。
中華(シンガポールでは“中華料理”という一括りではなく、広東、四川、北京、台湾料理、そしてシンガポールらしく福建料理や潮州料理、更にはマレー半島で独自に発展した海鮮料理やフィッシュボールなどの中華由来のローカルフードという、それぞれのジャンルに区分されていました)に限らず、北インド料理、ベトナム料理、タイ料理も、“アジアの食の交差点”シンガポールで食べた味の記憶を日本で上回ったことは残念ながら一度もありません(とりわけインド料理は・・・)。
勿論年金生活者故、今回の軽井沢滞在中もミシュランガイドに載る様な超有名店や高級店に入った訳でもありませんが、どんなに口コミ評価が高くても全然美味しくないし値段も高い。軽井沢グルメは味も軽井沢価格なのでしょうか?
浅野屋は軽井沢以外に東京を中心に首都圏でも店舗を展開する老舗のべーカリーで、旧軽の本店を含め軽井沢エリアに何店舗も展開する有名店ですが、千住博美術館に隣接したお洒落な建物(何となくロッキードのステルス戦闘機を彷彿)の中にギフトショップと共に併設されていて、イートインスペースが設けられています。奥さまはドリンクと好きなパンを幾つかチョイス。私メは、パンは選べませんがその日のデリプレート。ワンプレートにドリンクやスープ、総菜が3種付いて1200円ちょっとだったでしょうか。
他の浅野屋はどこも混んでいましたが、ここは空いていてイートインは我々含めせいぜい二三組。テイクアウトで来られる方も何組かおられましたが、他の浅野屋に行くなら、スペース的に他店より狭いので品揃えは少ないかもしれませんが、ここはテイクアウトも穴場かもしれません。
千住博美術館を出て、18号線の軽井沢バイパスを中軽井沢方面へ戻ってすぐの所にツルヤの軽井沢店がありました。
上田に通っていた頃、地元のメンバーから、軽井沢のツルヤは“別荘族御用達”なので、他のツルヤとは品揃えが違うと聞いていました。
「そうか、ここが噂の軽井沢のツルヤか・・・」
結局夕食は部屋食にしたので、ここで滞在中の食材を調達することにしました。野菜や肉、魚介類など、量の大小は別として、品揃えや金額は松本のツルヤと変わりませんでしたが、チーズやパン類の売り場面積はほぼ倍。松本では見掛けない様な輸入チーズなどがズラッと並んでいて、「ナルホド、これが別荘族向けなのか!」と感心した次第。
そして、買い物を終えて外に出ると浅間山が目の前にドーンと聳えていて、「ナルホド、これぞ軽井沢!」と納得した次第です。
コロナ禍故に遠出も出来ず、結果選んだ県内への小旅行。従って、密な人込みを避けるべく、人出の多そうな場所へはわざわざ行く必要も無いのですが、それにしても、前話で「どこも行く所が無い」と書いた冬の軽井沢。
滞在中は、ワンコと一緒に結局ワンパターンでアウトレットへ行ったのと、朝のワンコとの散歩は別として、ドッグヴィラ周辺のウォーキング。
そして、唯一の観光は千住博美術館でした。結論的には、これが予想以上?(期待値以上?)に良かったのです。
千住博。滝の絵で知られる日本画家で、京都大徳寺の襖絵などを描かれています。そして作曲家の千住明は弟君、バイオリニストの千住真理子は妹君という芸術一家でも知られています。千住真理子嬢のストラディバリ購入では、兄弟で8億円の購入費用を捻出したと聞いたことがあります。
その千住博氏の作品を展示する個人美術館がこの軽井沢に2011年にオープンしています。建物も近代建築として話題になりました。
観光案内のパンフレット的に紹介すると、
『ヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門で、東洋人として初の名誉賞を受賞した日本を代表する美術作家、千住博(1958年、東京生まれ)の新旧の主要作品を展示する美術館。軽井沢の自然に溶け込む美しい建築は、西沢立衛氏の設計によるもので、元の地形を活かして床を緩やかに傾斜させるなど、森の中を散策しているかのような感覚で千住作品を鑑賞できる。四季折々の彩りが楽しめるカラーリーフガーデンや、軽井沢の老舗「ブランジェ浅野屋」によるベーカリー・カフェ、各種企画展を開催するギャラリーなど、併設施設も充実。』とのこと。
因みに、この美術館を設計した西沢立衛氏は金沢21世紀美術館の共同設計者とか。開館10周年を迎え、今月から『10年の軌跡展 日本の四季彩』がちょうど開催されていました(~12月25日)。
軽井沢らしく、色々な樹木に囲まれた開放的な美術館。総ガラス張りの壁に囲まれた館内は採光も十分で明るく、しかも形の異なる“ガラスの柱”が4本程あって、そこにも木々が植えられていて、まるで光溢れる林の中を散策しながら壁に掛けられた作品を見て行くという感じ。時期は早春の林ですが、夏は夏の、冬は冬の、いつ来ても四季折々の林を楽しみながら鑑賞できることでしょう。
しかも、UVカットのガラスウォールで紫外線が遮られているからと、作品は一切ガラスなどで遮られておらず、また自由に観賞するためと順路も決められていません。しかし、傾斜に沿って下って行くと、最後に代表作の「ウォーターフォール」を収めた部屋に自然に行き着く趣向でしょうか。
印象的だったのは、いくらUVカットのガラスウォールとはいえ、恐らくその日の天候と時間と共に移動する太陽に合わせて、係員の人が都度々々遮光カーテンを開け閉めして、展示されているそれぞれの作品への日光の照射量を調整(確認した訳ではありませんが、多分)していることでした。展示されている絵画は当然ですが、この建物そのものもこの美術館の展示作品です。
観賞中、コロナ禍でしかも平日故か、せいぜい我々も含め4組ほどしかおらず、皆静かに思い思いに思索しながらゆっくりと観賞していました。静かで落ち着いた、実に贅沢な時間でした。その意味で、個人美術館での入館料1500円/人は少々お高い気もしましたが、どの季節に来ても十分にそれに見合った価値ある時間が過ごせると思います。
鑑賞を終わって感じたこと。
ここ軽井沢千住博美術館は、訪れた季節の光と風、そして空気の色と匂いを体一杯に五感で感じる美術館・・・ということでした。
今回はこの千住博美術館だけでしたが、軽井沢に来て良かったと十分満足出来ました。
久し振りに、ワンコたちと小旅行。行先も、久し振りの軽井沢です。
ドッグフレンドリーを推進する軽井沢。実際に色々な観光地に行ったり、また行こうと思って調べてみたりして、ワンコ連れにとって確かに軽井沢はトップクラスな気がします。やはりそれは、常日頃ワンコ連れの別荘族の皆さんを応対してきた経験値の積み重ねなのでしょう。
行ってみて感じるのは、軽井沢同様に、別荘地はある程度ドッグフレンドリーな場所が多い様に思いました。例えば、那須や伊豆高原、そして山中湖も然り。別荘地なのに例外は、残念ながら軽井沢以外の長野県内で、その代表格は蓼科でしょうか。またみそら野などの別荘地を抱える白馬も、以前は探しても一軒(看板犬の居たキッチン・シェフ)しか店内OKのレストランが見つからなかったのですが、インバウンドのスキー客で国際化して以降、果たして少しは変わったのでしょうか?
余談ですが、インバウンドはともかく、これからの観光地は、少子高齢化の中で(我々の様な)ワンコ連れの年寄りを如何に受け入れるかが、集客の大きな要素になり得ると思いのですが・・・如何。
閑話休題。
ただ今回は、3月とはいえ、まだ殆ど冬支度でオフシーズンの軽井沢です。滞在はいつも通りで、キッチン付きのドッグヴィラ。夜は出来るだけ買って来た食材を調理して、ワンコと一緒に過ごせる様に部屋食です。しかし、昼間、観光でどこに行こう?
まぁ、アウトレットは、例え買わずとも(奥さま一応お目当てがお有りの様ですが)、広い芝生スペースやワンコOKの施設も多く、場合によっては時間で預かってもらえるペットショップもあるので行くとしても、他には・・・?
軽井沢にはこれまで何度も(観光でも)来ています。従って、三笠ホテルや白糸の滝、紅葉の雲場池は勿論、旧軽やハルニレテラス、昔ですが鬼押し出しにも行っていますし、大賀ホールもコンサートで来ています。また追分宿も旧中山道を歩きながら堀辰雄記念館なども見学しています。つまり、観光的には殆ど来ていることになります。しかも緑のまぶしい夏ならともかく、どこも茶色の冬は(雪景色の日ならまた別かもしれませんが)景色も今一つ。唯一冬の楽しみは、空気の澄んだ日に臨む浅間山くらいでしょうか・・・。
『軽井沢タリアセンは軽井沢町の南に位置する塩沢湖を中心として、美術館や遊戯施設、レストラン、ショップなどが集まった総合的リゾート施設です。
軽井沢高原文庫では、この地にゆかりのある作家・詩人の資料を見ることができます。また、柔らかなタッチで寄り添う恋人たちを描いたレイモン・ペイネの作品を収蔵するペイネ美術館や、深沢紅子による繊細で可憐な野の花の絵が楽しめる深沢紅子野の花美術館があり、静かな森の雰囲気ともあいまって、心穏やかな時間が流れます。敷地内はレジャー設備も充実。ゴーカートやモノレールでさわやかな風を切るひとときは、家族みんなの素敵な思い出となるはず。
「タリアセン」(Taliesin)は、直訳すればウェールズ語で「輝ける額」という意味です。もともの語源はケルト神話に由来し「知恵者」であり芸術をつかさどる妖精「タリエシン」から、といわれています。』
私設ですので、入園料が掛かります。全部に入れる券は1500円/人とのこと。
しかしネットで調べてみたのですが、コロナ禍の影響か、タリアセンは休業中。行った週の週末から営業再開とか。
仮にコロナ禍の無いシーズンであっても、冬だと屋外でのレジャーを楽しむのは難しいかもしれません。せいぜい高原文庫やペイネが好きなら美術館も良いかもしれませんが、ワンコ連れだと無理。やはり、夏や紅葉シーズンの方が良いのでしょうね、きっと。
発地市場も、産直市場的には高原野菜などやはり夏。しかも、行こうとした水曜日は(冬どんな野菜が並んでいるか分かりませんが)定休日でした。
ということで、行く所が無い!冬の軽井沢はなかなか観光的には(特にワンコと一緒に)訪れる場所や施設を探すのは至難の業。ウィンタースポーツも出来ない訳ではありませんが、本場はこの辺りなら菅平や志賀高原。むしろ何もせずに、ノンビリと(それこそ別荘で)読書や音楽を楽しんだり温泉に浸かったりしているのが、冬の軽井沢では多分ベストなのかもしれませんね。
3月7日の日曜日。朝のウォーキングを兼ねて、松本城公園を経由して四柱神社と天神さまにお参りに。途中、旧開智学校から松本城を経由して行くのですが、“文武両宝”と旨いPRがされている二つの国宝を見ながらのコース。考えてみれば、ナントモ贅沢なウォーキングコースです。
帰路、旧開智学校の脇を通って中央図書館へ行くと、まだ3月上旬なのにロトウザクラが咲いていました。ロトウザクラ、漢字で書くと魯桃桜。
彼岸桜よりも早く、真っ先に咲くサクラです。同じバラ科でもサクラより桃に近い品種だそうですが、サクラと名が付くだけで、何となく「開花」と聞くと嬉しくなります。
これまでは、大体春のお彼岸前後に咲いていた筈なので、今年は10日から2週間程も早いのではないでしょうか。この分だと、ソメイヨシノの開花も早いのかもしれません。
それは、長野県の林業総合センターの紹介記事でした。それに拠ると、
『昭和34年に発行された「県立長野図書館三十年史」によると、「シベリア原産で、埼玉県の安行で栽培されたものである。」と書かれています。その後、平成6年に発行された「魯桃桜と図書館(県立長野図書館発行)」によると、ロトウザクラは佐久市桜井尋常高等小学校に植えられたもので、埼玉県安行では接ぎ木を行っただけとのことがわかりました。
そこで、佐久に植えられていたロトウザクラについて調べてみたところ、日露戦争の凱旋記念に苗木を持ってきたとの逸話が残されているだけで、原産地も不明とのことでした。しかし、ロトウザクラの名はこの逸話からロシアの「ロ」(ロシアのロには露と魯の二通りがある)を当てて名付けられ
たもののようです。
ノモモやハヤザキモモの原産地は旧満州で、北緯45度を超えるようなシベリアには存在しないことが問題になりました。それでもと日露戦争について調べてみると、日本側が主に戦場としたのはシベリアではなくて中国東北部から北満州だったようです。こうなると、この地域から持ち込まれて佐久に植えられたとの推測も出てきました。このほか、ノモモが「魯の国」とされている中国中央部に多いことから、ここから来たのでは?という説も残されており、原産地が定かでなく、結局明確な答えは出ていません。
昭和8年に長野市の県立長野図書館に植えられて以来、春真っ先に花を咲かせる「サクラ」として長野市民を始め県下に広く定着するまでになり、昭和30年代からは、接ぎ木や実生で苗木の増殖が積極的に行われるようになりました。1994年に県立長野図書館が調べたところ、県立長野図書館を起源として接ぎ木・実生により育てられた苗木は、県内の各地に100本程度は植えられていることがわかりました。』
ロトウザクラ。
河津桜の様に全国的に知られた種ではありませんが、何やら、歴史的、もしかすると悲劇的な由来や謂れがあるのかもしれません。どちらかというと、長野県内だけで大事にされてきた種なのかもしれませんが、春の遅い信州で、いち早く春の訪れを知らせてくれる貴重な種でもあります。
ロトウザクラの花を見ながら、シベリアか満州か、国内最大の開拓団を送り出した長野県から、血の滲む様な苦難の末に何とか祖国にたどり着いた満蒙開拓団の引揚者同様に、戦火の海を越えて来たであろう彼らの数奇な歴史、大陸のどこからかここ信州まで辿り着いたロトウザクラ。そして、或る意味平時の象徴の様な県内各地の図書館脇に植えられたというロトウザクラ。彼らの生まれ故郷とその由来のいきさつ経過を問いたい想いで、暫し物言わぬピンクの花を眺めていました。
【追記】
翌週の14日にもほぼ同じコースを歩きましたが、ロトウザクラは満開でした。
今回掲載した4枚の内、前半が3月7日で後半2枚が14日です。
3.11から10年が経ちました。
あの日、東北地方を襲った津波。上空から確認していた自衛隊機だったかNHKのヘリだったか、パイロットが凄まじい津波の状況を報告しながら、何もかも飲み込んでまるでモンスターの様に仙台平野を駆け上って行く真っ黒な波に対して、
「チクショウ、来るな!止まれ!」
と何も出来ず悔しそうに叫んでいた姿が昨日のことの様に瞼に浮かんで来ます。
そして3.11とそれ以降に報道された中で、当時のブログ記事からピックアップした印象に残ったエピソードの数々・・・。
亡くなった母親のために、三陸海岸で鎮魂のメロディー(ザードの「負けないで」)をトランペットで吹いていたジャージ姿の少女の写真(その後、記事を見た東フィルから招かれて演奏会で共演します)。
南三陸町で最後まで有線放送で住民へ避難を呼びかけ、自身は津波に飲み込まれて亡くなった町役場の女性職員。
そして、“暴力装置”と時の政権から罵られたにも拘らず、懸命に復旧作業や不明者捜索を続けてきた自衛隊員を始め、警察官や消防隊員たち。
支援が安定した避難所から移動する彼らを、感謝を込めて覚えたての敬礼で姿が見えなくなるまで見送っていた女子学生。
「余り無理しないで」と復旧活動で疲労困ぱいの夫をメールで気遣う妻に、「自衛隊を舐めるなよ。今無理しないでいつ無理するんだ!」と気丈に返信したという自衛隊員。
コロナ禍同様に、あの時も命がけで対応していた医療従事者の皆さん。
第一波の津波の後で、「もうこれ以上の犠牲者は出さない」と、万が一の時は自分たちの身許確認がされ易いようにと各自腕に名前をマジックで書いた上で、動けない入院患者を真っ暗な階段を使って一人ずつ屋上まで避難させ続けたという三陸海岸近くの病院の医師と看護師たち。
先遣隊で避難所の状況把握に派遣され、寝る間もなく孤軍奮闘する医師を見かねて、任務終了後自主的に避難所に残って医師のサポートを続けたという看護師。
そして、 “自分は何が出来るのか、何をすべきなのか”・・・自主的に自分の守備範囲で懸命に活動した人々。
震災で物流が寸断された被災地で、連絡の取れない本社からの承認を待たず、自分たちの方が地理に詳しいからと、自衛隊に代わり救援物資の避難所への配送を自主的に申し出たという宅急便ヤマト運輸の被災地のドライバーたち(後で知った本社は、直ちに彼らの支援にトラックとガソリンを東北各地に送りました)。
地震で店舗がメチャクチャになり本部から商品も届かない中で、「ただの塩むすびでスイマセンが」と、奥さんが自分の家の米を炊き握った自前のオニギリを店の外で無くなるまで販売し続けたというコンビニ店主。
津波後に報道された、三陸地方の様々な映像が思い出されます。
あれから、早10年、イヤまだ10年・・・。忘れることなど絶対にあり得ない地元の被災された方々ではなく、むしろ直接的な被害の無かった我々こそがこうした事実を決して忘れてはいけない・・・のです。
先日、ゴールデンタイムに放送された『関ジャム完全燃SHOW』。
深夜に放送されるレギュラー番組も、音楽のプロたちの解説と即興的なセッションなどが興味深く、ナルホドと感心しながら時々視聴していました。
今回はその特別版「関ジャム J-POP20年史 2000~2020プロが選んだ最強の名曲ベスト30」として、過去20年間に発表された楽曲の中から、音楽のプロたちが選んだ30曲がランキング形式で放送されたのですが、そのベスト30の中の第6位にランクされたのが、サザンオールスターズの「TSUNAMI」でした。
あの3.11以来、被災地や被災者の方々に配慮して、サザンが歌わなくなってしまった名曲です。その経緯について、Wikipediaに拠れば、
『2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で、甚大な津波被害が発生したことで世情や被災者の感情に最大限配慮する必要があったため、一時期テレビ・ラジオ等による放送を当面自粛せざるをえない状況となっていた。
これについて、コラムニストで、サザンのファンでもある勝谷誠彦は「タイトルはTSUNAMIだが曲自体に罪はない」と前置きをし、震災から半年となるニッポン放送『勝谷誠彦のこれがニュースだ!』2011年9月12日放送分のオープニングで敢えてオンエアに踏み切った。なお、公式サイトによると番組に寄せられた意見のうち99%が「よくかけてくれた」「改めていい曲であることがわかった」といった肯定的な意見だったという。
ジャーナリストの上杉隆は、TOKYO FM『TIME LINE』2012年1月4日放送分において本作品を取り上げ、「どうしても伝えたい思い」として、「歌詞をじっくり聴きなおし、かけるべきだ」として「日本社会において、本作に触れることがいけないようなムードになっていた」と前置きし、「歌詞を見ると、これこそ3.11被災について最も必要な曲ではないか?」と考え、「犠牲になった、苦しんでいる方へのメッセージ、命を落とした人々からの2012年を迎えた私たちに対する、『忘れないでくれ』というメッセージがこもっているのではないか?」と彼なりの解釈を加え敢えてオンエアに踏み切った。
リスナー投稿において上杉の件を知らされた桑田は震災から1年が経過した2012年3月10日放送のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』の中で、上杉に深い感謝の意を伝えると共に「空気を読んだわけではないが、被災された方や遺族の中にはファンもいたからこの曲を歌うモチベーションにはつながらなかった」「いつか(東日本大震災の)悲しみの記憶が薄れてこの曲を歌ってくれという声があれば、復興の象徴として歌える日がきたらいいと思っている」と述べている。』
その久し振りのTSUNAMIのメロディーを聴いて、
「あぁ、やっぱり名曲だなぁ・・・。TSUNAMIの曲自身に罪がある訳では無し、題名だけで歌わないのは勿体無いなぁ・・・。10年経ったのだから、もう“許して”あげてもイイんじゃないのかなぁ・・・」
桑田さん自身も言っている様に、むしろ3.11を忘れないために、その記憶を語り継ぐためにも、そしてまだ完全に「復興した」とは言えませんが、いつか来たるべき時の「復興の象徴」として、このTSUNAMIを歌い続けていって欲しいと切に願います。
会社員時代、最後の4年間上田の子会社への朝の通勤時間帯。7時15分から8時15分の一時間。
この時間帯の楽しみは、三才山峠の峠道の季節の移ろいを愛でながら、BGMで流れるNHK-FMのクラシックを聴くことでした。
そんな毎日の通勤で一番気に入っていたのは、月曜日朝の{きらくにクラシック}の再放送でした。MCはふかわりょうと有名チェリストの遠藤真理のお二人。本ブログでも何度も触れさせていただきました。
その中で、最初にご紹介した第645話から抜粋します。
『 そんな朝のFM放送でのお気に入りは、月曜日の朝のNHK‐FM『気楽にクラシック(略称きらクラ)』(本放送は日曜午後で、月曜朝はその再放送)。以前は『きままにクラシック(同きまクラ)』で、番組構成は大体同じ傾向ですが、確か4月に司会者が交代。以前の笑福亭笑瓶さんと声楽家(コロラトゥーラソプラノ)の幸田浩子さん(さすが、アナウンサー顔負けの美声でした。確か大晦日のジルベスターコンサートの司会もされていたような)のコンビから、タレントのふかわりょう、チェリストの遠藤真理(東京芸大在学中に2003年日本音楽コンクール第1位に輝き、芸大、その後のモーツァルテウム音楽院共に首席で卒業したという実力者)のご両人へ。
最初何気なく点けたところ、司会が誰か分からず、プロの音楽家と“育ちの良さそうなクラシック好きの知的な青年?”との会話がなかなか面白く、そのクラシックファンとしての知識の豊富さとセンスの良さに感心していたところ、「ふかわりょう」という名前を聞いて一瞬「・・・!?」。同一人物とは思えませんでしたが、考えてみればクイズ番組での回答ぶりを思うと、いつものイジラレ役とは違う、こうした一面を持っているのも不思議ではないのかもしれません。彼を起用した、局の担当の方の慧眼に敬服します。
生まれた頃から、父親の好きだったクラシック音楽が流れる家庭で育ち、ご自身ピアノも習っていたそうですが、若い頃の反抗期にはクラシック好きの父親への反発もあって、一時はジャズに夢中になり、そのアドリブの中にも主題・変奏というクラシックとの共通性(例えば提示・展開・再現のソナタ形式)を理解して、またクラシックを聞くようになったと言います。小品から大曲まで、結構聴き込んでいるのが分かります。
チェリストの遠藤さんもプロとしてのうん蓄のみならず、ふかわさんの自由奔放なコメントに誘発されてか、堅苦しいイメージのクラシック音楽家とは一味違ったお茶目な一面も垣間見え、なかなかの名コンビ。あっという間の小一時間です(放送そのものは約2時間)。』
そして、『きらクラ』を聴いている中で、MCの遠藤真理さんは勿論なのですが、番組にゲストで登場された演奏家で、ピアニストのイリーナ・メジューエワ、小菅優を初めて知って感動し、その後、小菅優さんは茅野(演奏会終了後サインも頂きました)と松本で、イリーナ・メジューエワさんは彼女の拠点である京都に旅行で行った際、偶然彼女のリサイタルコンサートの日と重なり、それぞれ生で聴くことが出来ました。また番組でリスナーの方が紹介された現代作曲家であるアルヴォ・ペルトを知り、中世のグレゴリオ聖歌にも似た彼の作品に興味を持つことが出来たりと、この番組を通じてクラシックの中でも今まで知らなかった新しい世界に触れることもありました。番組に招かれた日本や世界の第一線で活躍するゲストの中で、とりわけその宇宙人的ユニークさに唖然としたのが、東フィルのビオラ首席奏者でもある須田祥子さん。ビオラの魅力を広めるためにビオラだけの演奏集団SDA48を主催したり、ジルベスターコンサートでカウントダウン演奏後に毎年必ず干支の被り物をしたりするのはその一端か・・・。シャベリも面白かったので、「きらクラ」の後番組のMCにも期待していたのですが・・・。
定年退職後は、ワンコの散歩やウォーキングに行ったりするので、会社員時代の通勤時と同じ様に毎日ルーティーン的にFMを聴くことが無くなったのと、退職後も暫くは聞いていたのですが、正直『きらクラ』が常連さん中心のマニアックな内容になってしまった気がして、最近ここ一年程は聴いていませんでした。
そして、先日久し振りに聞こうと思ったら、8年間続いた『きらクラ』は昨年度一杯で終了し、今年度から『×(かける)クラシック』という新しい番組になっていました。少し聴いてみたのですが、何も無理矢理鉄オタとクラシックをくっ付けなくても良かろうに・・・と、MCのトークや内容が、正直「趣味じゃないなぁ、こりゃ」・・・でした。
『きらクラ』での遠藤真理さんのチェリストとも思えぬ様な自然な“シャベリ”。とりわけ、“芸人”でシャベリのプロであるふかわさんとの掛け合いも楽しく、通勤時間に聴いていた時は、彼女のあの「ガハハ・・・」という大らかで豪快な笑い声に本当に癒されてもいたので、番組終了を知った時は、正直残念!で、
「そうか、君はもういないのか・・・」
と(番組終了の)喪失感に暫し苛まれていました。東京に居れば、読響の定演にも行けるでしょうし、室内楽など彼女の出演する演奏会も結構あるのですが、田舎の松本ではいつでも会いに行けるという機会は残念ながらありません(これまでサイトウキネンにも参加されているので、他の地方都市よりも松本は彼女の演奏に触れられる可能性には恵まれているのかもしれませんが・・・)。番組では、2020年読響の指揮者に就任したマエストロ鈴木優人さん(お父上はBCJ率いる鈴木雅明氏。日本人でただ一人バッハメダルを授与されたバッハ演奏の第一人者)を高校時代からの友人とのことで「優人クン」と呼んだり、ザルツブルグだったか、ミュンヘンだったかに行くと、「いつも優チャンが車で迎えに来てくれるんだよね」と親友の小菅優と話していたのが、実に大らかな大物ぶりでナントモ微笑ましかったです。
余談ですが、因みに今回の「そうか、君はもういないのか・・・」は、お気づきの方もおられると思いますが、そう城山三郎氏の名エッセイ『そうか、もう君はいないのか』をそのままパクッテ使わせていただきました。
ただ個人的には、川本三郎さんの同じく名エッセイである『いまも、君を想う』の方が心に切なく染みています。
今期の冬は良く分からない冬でした。
最初の頃は諏訪湖が三年振りで全面結氷した程凄く寒かったのですが、その後緩んで諏訪湖も結局“明けの海”で御神渡りは出現せず。2月の松本で雪ではなく雨が降ったりして春めくかと思うと急にまた寒くなったりと、例年にも増して寒暖差が大きく、体感的には実際の温度以上にむしろ寒く感じられた日も結構多かった様な気がします。
ウォーキングの中で例え冬の寒さを感じる日であっても、三寒四温、行きつ戻りつしながらも季節が少しずつ進んでいく中で、気を付けて見ると“小さな春”を見つけることが出来ます。そんな、信州松本で見つけた“小さな春”をご紹介させていただきます。
続いて、松本城の白梅(2月21日)と雪の北アルプスをバックにする松本城のお堀端の柳(2月28日)。遠目にも少し緑がかっていました。芽吹きももうすぐ。
日当たりの良い住宅地で見つけた、水仙とタンポポ(2月28日)。もうここは“春そのもの”の気がしました。