カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
実際に歩いて登った林大城での「山城体感」の現地説明会の翌日。
次に小笠原氏城跡の国史跡指定記念事業の一環として行われたのが、市の音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール。県のキッセイ文化ホールの略称“県文”に対し、こちらは“音文”)で開催された「小笠原氏城跡と魅力あふれる松本の山城」と題した講演会と対談です。
演者は昨日の中世城郭研究の第一人者中井均先生(滋賀県立大学教授)と昔からの“山城好き”で知られる噺家春風亭昇太師匠(落語は一切なく、対談のためだけに松本へ来演とは、ナントモ勿体無い!)。
いくら山城ブームとはいえ、松本にそんなにたくさんの山城好きがいるとも思えず、人気噺家の昇太師匠が来るものの、“地味”なテーマなのでそうそう混むこともなかろうと勝手に思っていたのですが、トンデモナイ!開館時間過ぎに着いた駐車場は既にかなり埋まっていて、係員の方が誘導していました。そして会場の600人収容の大ホールもナント満席。いやはや、お見逸れしました。松本にも、山城好き、歴史好きの市民の方々は多いんですね。
それにしても、今回(昨日も配布)一番感心したのは、「信濃守護小笠原氏の城と館-井川城跡・林城跡-」というA4版8ページのパンフレットと、実際に林城を登りながら現地でも見られるようにと、ポケットサイズに折り畳まれた「林城跡 大城・小城ガイドマップ」です。
どちらもフルカラー印刷で、正確な縄張図(昨日林城にも同行された、遠藤先生の描かれた実測図)とポイント毎の写真入りの解説や、パンフには小笠原氏の系譜と年表、更に井川城跡や林城下の館跡と見られる山腰遺跡から発掘された陶磁器などの写真も掲載されていて、国史跡に指定された記念とはいえ、実に良く出来た(これだけを見ていても楽しい)力作だと感心しました。
市教育長による開会あいさつの後、司会者の「中井先生」の紹介でステージに登場したのは春風亭昇太師匠。新婚早々の昇太師匠。会場からの祝福の拍手や声援に応えて、暫し会場を笑いで沸かせてくれました。中井先生とも旧知の仲で、先日の師匠の結婚披露宴にも中井先生を招待されたのだとか(その披露宴での中井先生の「結婚後も山城に行かせてやってください」というお祝いのスピーチが一番嬉しかった由)。
しかも驚いたことに、この日1時の開演に向け、中央線のあずさが運休中のために北陸新幹線の長野経由で9:50分に松本駅に到着し、迎えに出られた中井先生と一緒に林城の大城と小城の両方とも登って見学し、開演15分前のギリギリ12:45分に会場に到着したのだとか。2時間で両方の山城を登って見るというかなりのハードスケジュールで、「ハァ~、大したもんだ!」と本物の山城好きに感心(確か以前TVで師匠が一番好きな城は、地元静岡県の美しい「障子堀」や「畝堀」で知られる、北条氏が築城した山中城だと仰っていましたっけ)。
さて、師匠に代わって登場された中井先生のお話によると(昨日も概略の説明は現地でもありましたが)、松本平を含めた信濃の山城の特徴として、この林城だけではなく近くの山家(やまべ)城や埴原城にも平石積(安山岩や玄武岩)の石垣が見られるのが大きな特徴であり、それは旧四賀村の虚空蔵山の殿村遺跡で発掘された15世紀の石垣は石積みの宗教遺跡との関連性(山城築城時に参考にした)も伺えるのだそうです。
松本に平積みの石垣が多いのは、三城から美ヶ原への登山道に見られる鉄平石(安山岩の一種)も板状に剥がれますので、このエリアではそうした積み易い平らな石が多く産出されるからだろうと思います。
因みに、平積みではありませんが、松本城の野面積の石垣にも山辺地区で産出された山辺石が使われています。
先生の説明では、1576年の信長の安土城築城により初めて石垣と瓦葺の天守などの建物が出現し、その後の近代城郭のモデルとなったそうですが、城という漢字が石ヘンではなく土ヘンに成ると書いている様に、それ以前の中世の山城は殆ど土で築かれている中で、安土城以前の15世紀から16世紀始めにかけて石垣が築かれている山城が限定的に見られるとのこと。それは近江、美濃、播磨と備前の一部、北九州、そしてこの松本を中心とする信濃の一部。
例えば、近江(滋賀県)の守護だった六角氏が築いた観音寺城は有数の石垣を伴う山城で、名前から推測される様に観音正寺との関連が伺われるが、寺院には古くから石垣が使われていることから、寺の持っていた石積みの技術を取り入れたことが考えられるとのこと(安土城築城の20年前1556年の寺の記録に、観音寺城の石垣の石積みに協力させられた記述があるとのこと)。
近世城郭のモデルになったその安土城も、信長が比叡山の焼き討ちの時に寺院の見事な石垣を目にして、その石工集団であった穴太衆(あのうしゅう)を使って安土城の石垣を築かせたというのは云います知られた話ですから、安土城そのものも寺院の石垣を参考にしていることになります。
松本でも、旧四賀村の虚空蔵山にある殿村遺跡は、近くに山城もあって、信仰の山である虚空蔵という名前の通り、宗教施設も在ったと考えられることから、松本周辺の山城に石積みが見られるのは殿村遺跡との関連性も考えられるとのこと。
それにしても、なぜ中世城郭の方が面白いのか。
それは松本城も然りなのですが、江戸時代まで残った近世城郭は、明治維新以降、城郭の殆どが壊されて改修されており、現存している城郭も残っているのはせいぜい本丸の一部で、当初の全体城郭の1~2割なのに対し、中世城郭は(廃城されたが故に)その遺構がほぼ100%残っていて、その全体像を見ることが出来るからだとか。しかも、全国には3万とも4万とも云われる山城が存在するのだそうです。ナルホドなぁ・・・と納得然りでした。因みに、長野県内にも800近くもの山城があるのだそうです。確かに小学生の頃に学年(といっても1クラス)の遠足で行ったことがありますが、多分桐原城と林城(大城)だったと思います。
そして、お二人のお話で印象的だったこと。
それは、各地の山城を訪ねて現地に行って、タクシー運転手に行先を伝えたり地元の方に場所や道を聞いたりしても、帰ってくる答えは必ず決まって、
「そんな所に行っても、何にも無いヨ!」
お二人曰く、
大人たちがそうなのだから、それを聞いて育った子供たちも自分の故郷には何も無いと思ってしまうのは当然。
「そんな“何も無い”故郷に、大人になっても帰って来る筈が無いじゃないですか!。」
松本の林城が素晴らしいのは、地元の人たちが地元のお宝としてその価値を知っていて、昔から古城会を作ってコツコツと登山道や説明の看板を整備して、更には手作りのパンフレットや、登り口にはお手製の竹の杖まで用意されていたこと。
是非、今回の国史跡指定を機に松本の皆さん全員がその価値を知って、この松本に来れば、近世城郭の代表である国宝松本城と共に大規模な林大城小城や他にも小笠原氏に関連した山城を一緒に見学して、それこそ中世から近世への日本の城郭の変遷を一度で体感することが出来るということを、是非松本のお宝として認識し大切にして行ってください!・・・。
我々、地元の松本市民以上に熱く語るお二人に感動すら覚え、松本に暮らす人間としてその認識を新たにした次第です。
対談の最後に昇太師匠曰く、
「明日じゃないと特急あずさは動かないので、来た時と同じように当初は長野経由の北陸新幹線で東京に帰るつもりだったのですが、せっかくの機会なので、別の松本の山城も見たいですから、さっき奥さんに電話して、今日まであずさが動かないのでしょうがないから明日帰ると電話をしてOKしてもらいました。だから、明日は松本のどこかの山城でお会いしましょう!」
・・・師匠、さすがデス!