カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 信州松本は梅雨の真っただ中の、6月22日土曜日。
翌週に「女性のための登山教室」参加を控えた奥様が、足慣らしをしたいとのことで、兼ねてよりこの時期に行くならと考えていた美ヶ原へ登ることにしました。
 我々の様な初心者は冬山や雪の残る春山は無理ですので、雪の消えた初夏が登山シーズンの解禁です。そしてその6月は、美ヶ原や鉢伏、高ボッチなど、松本から望む東山々系ではレンゲツツジの咲く時期でもあります。
日々更新されている王ヶ頭ホテルのブログ写真では、美ヶ原の頂上付近のレンゲツツジの群落は未だ二分咲き程度とのこと。今年は少し遅れているのかもしれませんが、レンゲツツジではなく翌週の奥様のための足慣らしが主目的で、週末のこの日は母がデイサービス日で昼間不在のため、母を送り出してから三城に向けて出発しました。
他の日を選べなかったので最初から覚悟の上ですが、この日の天気予報は曇りで、しかも午後からは雨。生憎の空模様ですが他の日を選べないので、展望の悪さと場合によっては午後の雨降りも覚悟の上で、私メにとっては(奥様は既に山梨や神奈川の山で行われた登山教室に参加済み)シーズン開幕となる美ヶ原登山です。
途中のコンビニで昼食を購入し、我が家から「三城いこいの森広場」の無料駐車場へは40分足らずで9時45分頃の到着。思い立ったらすぐ行ける、このフットワークの良さが松本からの美ヶ原登山の魅力です。
駐車場には3台ほどしか停車しておらず、週末とはいえ梅雨の最中でこの日の天気予報では登山客も少なかろうと納得。駐車場からは、王ヶ頭のテレビ塔はこの日は雲に隠れて望めません。
駐車場のトイレが壊れていたので、センターハウスのトイレを使わせていただき(勿論、こちらも有料です)、9時55分にいざ出発。今回も百曲がりコースです。

 オートキャンプ場のサイトを抜け、登山道を沢沿いに広小場へ。
暫くはなだらかな道が続くのですが、梅雨で湿度が高いせいか何だかいつもより汗が出ます。そのため下にタイツをはいていて暑かったので、広小場の東屋でスパッツの下半分を外して半ズボンにして、水分補給をしていよいよ百曲がりの急登へ。
この季節の美ヶ原登山は初めてですが、実に緑が濃い。梅雨時で先週も雨が降ったのか登山道は結構湿っていて、場所によっては水溜まりがあってぬかるんでもいます。
梅雨時で多分湿度も高いのでしょうか、予想以上に熱くて汗が出て、何度もタオルで汗を拭います。そのため思いの外バテテしまい、何度か立ち止まって水分補給をしながら樹林帯を抜けると、漸く風が通る様になって体感上も涼しく感じました。それにしても、美ヶ原では今回登るのを初めてキツく感じました。奥様によれば、それも日ごろの鍛錬不足で怠けているせいだからとのこと。
「イヤハヤ、面目無い・・・」と、些かトホホでありました。
そのため百曲がり園地へは、今回は三城の登山道入り口から1時間40分掛かりました。事前の予想通りで、この日は全く展望が利きません。周囲360度全て雲の中です。従って、アルプス展望コースを行っても何も見えないので、園地から塩くれ場を経由して、牧場内を通って王ヶ頭へ向かいました。
既に牛の放牧が開始されていて、塩くれ場にはハイカーの一団が休憩されていましたが、梅雨時のためか週末ですが観光客も疎ら。美ヶ原のシンボル「美しの塔」も霞んでいましたが、歩いている人はあまり見当たりませんでした。
美ヶ原の最高地点となる2034mの王ヶ頭。東側の谷間から雲が流れて来て、半分は雲に隠れていて全く展望が利きませんが、これも梅雨時ならではの景色なのかもしれません。初めて来られた観光客の方々にはこの日の天候は気の毒ですが、いつでも来られる我々の様な地元民にとっては、これはこれでこの時期ならではの風景として楽しむべきなのかもしれません。
しかし“この時期ならでは”である筈のレンゲツツジは、百曲がりの登山道脇に何本か咲いてはいましたが、登山道や塩くれ場からの高原の牧場内には全く見ることはありませんでしたし、小梨(ズミ)の白い花ももう散っていました。
車でビーナスラインを来ると見られるのかどうか分かりませんが、このエリアのレンゲツツジの群落は王ヶ頭より先の自然保護センター周辺とのこと。しかしホテルのブログ情報に拠ると、山頂はまだ二分咲き程度で見頃を迎えてはいないそうです。従って美ヶ原高原のこの展望コースエリアの花の見頃は、高山植物の咲く盛夏からマツムシソウなどが咲く秋口になるのでしょうか。
 王ヶ頭ホテル前の広場に12時半過ぎに到着。少ないとはいえ、観光客の皆さんはホテル内の食堂で、また登山の若いグループの方々は広場のテーブル席でお湯をバーナーで沸かしてカップヌードル等でそれぞれランチ中。
我々も広場に座って、コンビニで買ってきたサンドイッチやオニギリで昼食です。それにしても、前回は二本(1.3リッター弱)持って来て殆ど手付かずだった水が、今回は予想以上の発汗で750㏄入りの水筒はもう殆ど空。そこで、念のためにホテルの自販機でミネラルウォーターを購入して、帰路用に水筒へ補充しました。
昼食を取っている間に雨がパラパラ落ちて来ましたし、この日の天候では王ヶ鼻へ行っても北アルプスの眺望は全く望めないため、午後一からの雨予報だったこともあり、ここ王ヶ頭から早めに引き返すことにして、せっかくですので、帰りはアルプス展望コースで百曲がり園地までのトレッキングを楽しむことにしました。
 尾崎喜八『高原詩抄』に収められた「松本の春の朝」第6編(昭和17年)に、
  『(前略)夜明けに一雨あったらしく、
       空気は気持ちよく湿っている。
       山にかこまれた静かな町と清らかな田園、  
       岩燕が囀(さえず)り、れんげそうの咲く朝を、
       そこらじゅうから春まだ寒い雪の尖峰が顔を出す。
       日本のグリンデンヴァルト、信州松本。(後略)』
果たして、松本の市街地に尾崎喜八の言うイワツバメが舞っているかは定かではありませんが、この王ヶ頭ホテルに巣作りをして群舞する様に飛び交っているのは正しくそのイワツバメでしょう。
生憎この日はコース名の様なアルプスの峰々の展望は全く利きませんでしたが、さすがに美ヶ原でのトレッキングを楽しむ方々は皆さんこのコースを歩かれていて、途中何組もすれ違いました。
烏帽子岩を過ぎてもう少しで園地という所で、先方から歩いてくる30人ほどのグループが見えたので、少し広い場所ですれ違うために我々が待っていました。
登山らしく、スイマセン、コンニチワと思い思いに挨拶を交わしながらすれ違います。我々同様に三城から登って来られたという、若い女性が多いグループでした。すると家内が突然「アッ!」と言って、グループの中に居た女性の方と挨拶を交わしています。そのため、私はてっきり「女性のための登山教室」でこれまでにご一緒された方なのかと思ったのですが、続いて家内が「この前、鈴木さんの講演も山岳フォーラムでお聞きしました!」というので良く見ると、ナント、山好きが高じて東京からご家族で移住されて今松本市の観光大使にも任命されている松本在住の漫画家、鈴木ともこさんではありませんか!
その一行は、鈴木さんの山好きのお仲間か、彼女を中心とするトレッキンググループでした(後で調べると、トレッキング雑誌主催のイベント中での「鈴木ともこさんと行く美ヶ原トレッキング」だった由)。
続いて百曲がり園地では、我々よりも遥かに年配の方々の男女のパーティーが、やはり百曲がりコースを登って来られました。「今日はどうでした?」という質問に、コースの様子をお話ししました。お話によれば、先頭におられた(失礼ながら80才位のお歳とお見受けしました)年輩の女性の方が、この美ヶ原でナント百座目なのだとか。「日本百名山全山登頂達成!」となる最後100座目が、この美ヶ原なのだそうです。そこで思わず、
 「おめでとうございます!」。
お話によれば、(車で来る?)他の方々と山本小屋(美ヶ原高原ホテル)で合流してから(?)頂上となる王ヶ頭へ記念登頂されるのだとか。そこで、きっと百座達成記念のバナー(横断幕)を掲げて、記念写真を撮影されるのでしょう。
それにしても、体力のあるお若い頃に槍や穂高などは登頂されたのでしょうが、80歳近くになって百座登頂達成されるとは凄い!の一言。(山好きの方々の中では、決して珍しいことではないのかもしれませんが、我々初心者にとっては夢の様な)偉業達成の機会に遭遇させていただいたことに感激し感謝でありました。
 ご挨拶をして、我々は帰りも百曲がりコースを下ります。
暫くすると男性の方が登って来られ、道を譲るべく待っていると、ポツポツと遂に雨が振り出しました。
 「午後は雨予報だったので、我々は王ヶ鼻も行かずにこれから下るところです。」
と言うと、その男性も、
 「ヨシ、私も引き返します!今日はもう行かない方が良さそうだ・・・。」
と、もう少しで百曲がり園地だというのに、さっと踵を返して一緒に下り始めました。こういう判断(≒引き返す勇気)が山登りではきっと重要なのでしょう。
その方の下山しながらのお話によると、この日は燕岳に登るつもりで早朝中房温泉に行くと、既に夏山シーズンか第一駐車場は満車だったそうですが、ラジオが雷の電波を拾ったようなバリバリという雑音がしたために西山への登山は諦めて、逆側である東山の美ヶ原に来たのだとか。
美ヶ原登山はどれ位標高差があるのかという質問にお答えすると、片道2時間弱で三城の登山口から王ヶ頭まで500m程の美ヶ原に対して、“北アルプスの女王”2763mの燕岳は、中房温泉の登山口から燕山荘(2712m)まで片道5時間で標高差1260mとのこと(高さも登山時間も2.5倍です)。
この日は足慣らしのトレーニングと言われるこの男性。お聞きすると、地元在住のお医者様で、登山が趣味のため、地元だけでなく松本エリアの東筑の中学校から依頼されて、学校登山に学校医として毎年何校も同行されるのだとか。この日も、近く燕岳への学校登山に同行するための予行演習として日帰りで燕岳へ登る予定だったのを、登山口で雷雨を予想して断念し、反対側の美ヶ原へ(休診日である週末での)トレーニングへ来られたのだとか。
「北アルプス3大急登」とも言われるキツイ燕岳への学校登山が最近は減って(最近の若い先生は登山未経験でもあり)、代わりに、例えば山頂近くまでバスで行ける乗鞍岳やロープウェイで行ける木曽駒などへ登る学校もあるが、どちらも3000m級の山であり、いきなり2500m地点から開始する登山は逆に高山病への注意が必要とのお話に、ナルホド!と、登山が趣味の先生らしい、色々医学的な興味深いお話をお聞きしながら一緒に山を下りました。
そこで、この日の天候でバテタことや、昨年唐松でへばったことをお話しすると、こまめな水分補給が不可欠とのことで、この日も先生は習慣で水2リットルを持参されているとか・・・。
 「ちょっと重いんですけど・・・ネ」
ナルホドと、この日美ヶ原なら・・・と750㏄しか持参しなかった私メは大いに反省することしきりでした。
雨が本降りになったため、カッパを着るべく、我々は先生とは別れリュックから雨具を取り出しました。この日の雨は、山沿いのためか(松本地方の)予報以上の本降りでしたが、三城の駐車場に着く頃になって漸く小振りになりました。
 残念ながら天候が悪く、展望は全く利かぬ様な悪条件での美ヶ原登山でしたが、地元在住とはいえ、漫画家の鈴木ともこさん、百名山達成記念の方、そして学校登山に毎年同行される学校医の先生・・・。今回多くの山好きの方々にお会いして、パワーや山好きの方々の気持ちの一端に触れさせていただいて、風景への感動とはまた一味違った清々しい山の良さが感じられた、そんな素敵な山旅でした。

 先日の夜、好きな番組であるNHK総合TVの「サラめし」に続いて放送されていたのが「うたコン」。他局はつまらないバラエティーばかりで見る番組も無く、然程興味があった訳でもないのですが何となくそのまま見ていました。
たまたま、その日の出場歌手の一人が演歌の島津亜矢さん。アイドルと違い、演歌を歌う人は昔から歌が上手いというのは当然なのでしょうけれど、本来の演歌ではないポップスや他の歌手とのデュエットに唖然!その旨さに、思わず聴き入ってしまいました。

 後で知ったのは、彼女のファンであるマキタスポーツ氏が彼女を形容して付けたという「歌怪獣」というあだ名(綽名)。演歌歌手にも勿論おキレイで、ある種妖艶とも形容可能な様な美しい方もおられますが、片や魔除けフィギュアになるような天童よしみさんの様な大御所もおられ、島津さんもどちらかというとそちら系でしょうか。
従って、女性に対しては何とも失礼ですが、島津さん(の容姿ではなく、むしろその歌いっぷり)に対しての「歌怪獣」というそれが言い得て妙と思える程に納得出来る、ある意味“凄まじい”くらいに鳥肌モノの歌唱力でした。

 演歌歌手の皆さんは、嘗ての三橋美智也始め、細川たかしさんなど民謡出身の歌い手の方も多いだけに、小節はともかくその歌唱力、特に声量は皆さん折り紙付きなので、演歌を聴いている限りは目立たないのですが、演歌ではないポップスなど別のジャンルを歌うと、何故かその歌唱力に耳目を奪われるのです。多分それは、口パクの歌手などは論外としても、顔がイイだけで然程歌唱力の無い歌手(但し、歌唱力の無さ=音楽性の無さではない)とは、特にゴマカシの効かない(録音音源ではない)“生歌”になればなるほど、それが目立つのだろうと感じた次第です。

 それにしても、彼女の歌った「ボディガード」の主題歌で有名な“I Will Always Love You”は、本当に惚れ惚れする程上手かった・・・。

 奥様のお友達から今年も山蕗をたくさん頂きました。昨年は奥様がきゃらぶきを煮て、実家や友人に分けたりしていましたが、今年は奥様から、
 「暇だったら、あなたが作ったら!?」
と焚き付けられたので、「んだば・・・」とチャレンジしてみることにしました。
 そこで、ネット検索をして下ごしらえを確認。
先ずは板ずりで産毛の様な毛を落としてから、次に洗って5㎝くらいの長さに切り揃えます。続いてレシピを参考に、醤油と味醂、日本酒や酒などで煮汁を作りコトコトと煮込みます。
煮込む前に灰汁抜きをするレシピが殆どですが、家内によると、昨年灰汁抜きをして作ったら「山蕗らしい苦みが無い!」と私メから酷評されたので、二度目は灰汁抜きせずに作ったら大好評だったとのこと。
そこで、山蕗の苦み(えぐみ)を楽しむべく、今年も灰汁抜きはせずにそのまま煮込むことにしました。
落し蓋をしてとろ火で結構長い時間煮込み、煮汁も無くなってきたところで火を止めました。ところが味見をすると些か強い(コワイ=硬い)。きっと、薹が経ってコワくなった蕗のせいだろうと思い、そのままにしておきました。
後で試食した奥様曰く、
 「これじゃコワ過ぎてダメ!落し蓋して煮た?」
と言うので、「当然じゃん!」。すると奥様曰く・・・、
 「落し蓋をして、蓋もチャンとしたんだよネェ!?」
 「えっ!??、落し蓋だけでイイんでしょ!?蓋するんだったら、落し蓋要らないジャン!???」
 「あぁ、そのせいだワ!落し蓋をして、更に蓋もしなかったら柔らかくなる訳ないジャン!!そんなの常識でっしょ!?」
 「エーっ、うっそー!!!」
というようなやり取りが続きました。落し蓋をして、更に鍋に蓋をするなど・・・???今まで聞いたことがありません。
そこで調べてみると確かにありました。正確には「落し蓋」ではなく「着せ蓋」と言うのだとか。曰く、
『(前略)材料に煮汁が行き渡るように、また煮崩れを防ぐために、鍋よりひとまわり小さい蓋を材料の上に直接のせることを「落し蓋をする」と言います。特に、煮魚を作るときには欠かせません。魚の皮がはがれないように、蓋を水でぬらしてからのせます。柔らかくて煮崩れしやすいものを煮るときは、紙蓋やアルミホイルを落し蓋代わりにするといいです。
落とし蓋では水分が早く蒸発しすぎて、材料に十分火が通らないことがあります。 そんなときや、ふっくら仕上げたいときには、落し蓋をした上に普通の蓋をします。それを「着せ蓋」といいます。着せ蓋は料理の状況によって、すき間を開けたり、閉じたり、外して煮汁を蒸発させたりします。
特に魚などの様に生臭さがこもる場合は着せ蓋を鍋から僅かにずらした方が良く、このやり方を「切り蓋」と言う場合もあります。』
とのこと。ナルホド!でした。

 コワ(強)かったきゃらぶき。そのため、家内が再度落し蓋と着せ蓋をして煮込んだところ、まるで別物の様に柔らかくなりました。味もしっかりと染みて、山蕗らしいホロ苦さもあって美味!ナルホドなぁ、さすがだなぁ!これで、ご飯のお供に一年間もちそうです。たくさん出来たので、実家にも持って行ってもらいました。
それにしても、フム、「着せ蓋」ですか・・・初めて知りました。

 知り合いから筍(タケノコ)を頂きました。この時期信州で直売所などに並ぶ淡竹(ハチク)の筍です。淡竹というのは、孟宗竹よりも細いせいぜい直径5㎝程度の細めの竹(太い物でも10㎝)で、孟宗竹よりも耐寒性があるため日本海側に多く、5月下旬から6月中旬くらいがタケノコのシーズンだそうです。

信州でも店頭に並ぶ地物のタケノコはこの淡竹。因みに、雪深い北信濃が本場の根曲がり竹は、竹ではなくチシマザサ(千島笹)のタケノコ。海の恵みの豊かな庄内地方は、山国の信州とは違いタラの芽などの山菜には見向きもしないのに、地元で“赤いダイヤ”とも称されるこの根曲がり竹(月山竹)だけは毎年遭難者も出るほどに血眼になるのだそうです。シンプルに、ただ焼いて味噌を付けて食べる根曲がり竹は確かに最高です。そして、この根曲がり竹は食べるだけでなく、昔から民芸品でもある竹細工にも使われています。
一方の淡竹。奥山に行かないと採れない根曲がり竹よりは、里の竹林に生える分、昔から筍としては一般的。因みに、「ハチクの勢い」という時のハチクは、この「淡竹」ではなく「破竹」で、竹は一筋割れ目が入るとさっと割れることから名付けられたという、「三国志」からの慣用句なのだとか。
 さて、タケノコ料理と云えば、何と云っても信州だとタケノコ汁でしょうか。しかしタケノコ汁と云っても、有名なのは基本的には先述の根曲がり竹を使った味噌汁。しかも、北信(長野県北部)では必ず水煮の鯖缶が使われます。
昔、長女の高校時代に評議員で学校に行った際、長野市出身の校長先生が教員住宅に生えていたタケノコでのタケノコ汁を振舞ってくれたのですが、初めて食べる鯖缶が入った味噌汁で、これが北信の定番と教えていただき随分驚いたことがありました。
個人的には、素材の味を生かす(何も混ぜない)方が良いように思いますし、今でも根曲がり竹のシーズンになると、東信が本拠のスーパーであるツルヤでも鯖缶が山積みされているのですが、子供の頃の我が家の五目御飯やカレーにまで、時として(肉の代わりに)鯖缶が使われていたせいで、何となくですが、鯖缶だけで(醤油と大根おろしで)食べるのは好きですが、最近どんなに人気になっても、鯖缶を入れたカレーや五目ご飯などは個人的に子供の頃の貧しさの象徴の様な気がしてしまいどうしても好きになれません(結婚して家に入った家内曰く、決して農家は貧しいのではなく生活が質素だからだと云いますが、それでも子供時代の“貧しい”という印象は変わりません)。
 従って、今回の淡竹でのタケノコ料理も、味噌汁には鯖缶は使いません。
先ずは、家内の指示に従い、米のとぎ汁で茹でて灰汁抜きをします。淡竹は灰汁が少ないので茹でるだけで良いというレシピもありましたが、とぎ汁で茹でると結構な灰汁が出ました。
タケノコは頂いた三本の淡竹だけでも結構な量がありましたし、他にいただいた蕗もあったので、先ずは蕗の味を殺さぬ様に筍と一緒に薄味であっさりと煮物にしました。なお、柔らかい薄皮は「姫皮」と言って食べられるので、キレイに全て剥いてしまう必要はないのだそうです。
 続いてタケノコだけの煮物にします。こちらは多少日持ちがする様に少々濃い目の味付けです。
そして最後残ったタケノコはシンプルにタケノコ汁に。但し、北信ではないので、鯖缶は使わずに素材そのものの味が際立つ様、煮干しで出汁を採っただけで、具材はシンプルにタケノコのみ・・・です。
因みに、個人的にはタケノコの煮物が一番美味しかった様に思います。更に、煮汁が余ったので、煮たタケノコも少し使って筍ご飯も作りました。あっさりとした味に仕上がり、こちらも何とも乙な炊き込みご飯になりました。

 いただいた太くて長い三本の淡竹。結構色んなバリエーションで、竹冠に旬と書く、まさに旬の筍を存分に頂くことが出来ました。これで一週間くらいは寿命が延びたのでしょうか・・・。
 「大変ごちそう様でした!」

 先日、市内中山にある松本市立考古館へ企画展である「~我が地区の逸品~岡田地区の遺跡」展を見に行ってきました。
市立考古館を見学するのは二度目。市内からは随分離れているのですが、中山地区は古代大和朝廷に献上する馬の牧場である埴原の牧が置かれ、また古墳群も在り、その意味でこの地域に相応しい施設でもあります。中山に限らず、松本市内には東日本最古級の前方後方墳である弘法山古墳や内田地区の縄文晩期の大遺跡であるエリ穴遺跡など、古代からの遺跡も多く発見されており、市立考古館ではそうした市内の遺跡からの発掘品を常設展示しています。

          (エリ穴遺跡の予想復元ジオラマ)
今回、期間限定の企画展示の特別展として、市内特定地域の遺跡からの発掘品だけを展示するという「地区展」で、今年度は私の生まれ育った松本市岡田地区が取り上げられました。
旧市内北部の高台に位置する岡田地区は、この松本盆地でも古代より人が住み着いたエリアであり、旧石器時代、縄文時代の遺跡が幾つも発見されています。ただこの地区は水利が悪く、後になって江戸時代には幾つも溜池が作られたのですが、そのため稲作を行った弥生時代の遺跡は岡田には存在しません。しかし、中世になると古代の幹線道路であった東山道が信濃(科野)国を通ります。まず難所の神坂峠を越えて伊那谷を抜け、善知鳥峠から松本盆地に入り、岡田から、切り株だらけの峠を歩いて防人として東国警備に向かう夫を心配して、
「信濃路は 今の墾道刈株(はりみちかりばね)に 足踏ましむな 履(くつ)はけ我が夫(せ) 」(万葉集東歌)
と詠んだという保福寺峠を越えて、「見返りの塔」国宝三重塔の大宝寺(青木村)の脇を通って小県から碓氷峠に抜けて行きます。中世の岡田地区は交通の要衝でもありました。
また「延喜式」に記載された式内社である、この地方きっての古社岡田神社が置かれ、近くには
源氏の岡田冠者親義(おかだかんじゃちかよし:源親義)が郷の領主として館を構えていました。彼は、朝廷からの平家討伐の令旨を受け、木曽義仲からの呼びかけに応えて大将格で義仲の軍勢に加わって数々の武功を立て、最後に倶利伽羅峠の戦いで討ち死にをしました。
また奈良・平安時代、良質な年度が採取出来た現在の田溝池周辺には須恵器を焼く大規模な窯(北部古窯址群)が幾つも置かれ、信濃国最大級の須恵器の生産地だったともされています。
そうした古い歴史を持つ岡田地区ですので、確認調査されているだけで20ヶ所もの遺跡が点在しており、今回はそうした遺跡から発掘された興味深い出土品が時代区分毎に、常設展示室隣の第2展示室に展示されていました。
私メが小学生の頃、我が家の畑からも(狐塚遺跡:最後の2枚の写真の)石器や土器片が拾えたため(第102話参照)古代史に興味を持ち、同じ下岡田の友人達と一緒に彼の家の畑(塩倉池遺跡)で一緒に土器片を探したりと、自分の住む岡田地区の古代にロマンを馳せたこともありました。因みに、塩倉池遺跡の近く、現在母もデイサービスでお世話になっている特養施設「岡田の里」の南側では「塚山古墳群」として中期の古墳が確認発掘されていますが、その場所は弘法山を挟んで相対する様に松本盆地を見下ろす高台にあり(たまたま本ブログ巻頭の遠景写真がその場所からの撮影です)、前期の弘法山古墳程の規模ではありませんし時期も異なりますが、この地を治めた有力者の眠るに相応しい場所でもあります。
 今回展示されている出土品と時代ごとの遺跡の解説を読みながら、生まれた地であり、また中学までお世話になった故郷岡田地区の古代に、そして自分の少年時代にも思いを馳せることが出来ました。

 THE ALFEE。「星空のディスタンス」や「メリーアン」のヒット曲で知られる三人組の“フォークロック“グループ、と形容すれば良いのでしょうか?
メンバーは桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦の三氏。トレードマークのサングラスとはイメージの合わない?艶のある美声の桜井さん、何でもこなすミュージシャンの坂崎さんと天使の羽を模したエンジェルギターのヘヴィメタ風で名ギタリストの高見沢さん。高校時代からバンドを組んでいたという彼等。

 個人的に、彼等の音楽そのものは私メの好みではなく、学生時代、一時的に好きだったアリスやチャゲアス、その後のオフコースやふきのとうに対し、アルフィーはレコードもCDも今まで一枚も購入したことはないのですが、アルフィーがパーソナリティーを務めるNHK-FMのレギュラー番組「THE ALFEE 終わらない夢」を(朝の「クラシックカフェ」からそのままFMを聞いていると、週一の再放送があり)時々聞いていて、まるでコントの様な掛け合い漫才風のトークに爆笑すること暫し。
特に良く二人で担当することの多い、桜井さんのボケ具合と高見沢さんのツッコミが何とも楽しい感じがします。そこに時々坂崎さんが加わると、更にエスカレート・・・。

 やがてはメンバーの考え方や志向性の違いからとかく解散する、或いは実際に解散したグループがとかく多い中で、三人という構成が良いのか、個々のマイナスをお互いの長所がそれをカバーして、お互いのプラス効果を足し算では無く掛け算の様に何倍にも増殖させているのでしょうか。
アルフィーは、1973年結成以来ナント46年というのですから、何とも凄い!の一言に尽きます。先述のNHKの番組も既に290回を数えるというのですから、同じパーソナリティーのままというだけでも凄い!のに・・・。

 THE ALFEE。誠に失礼ながら、歌ではなく、掛け合い漫才のようなトークを楽しませてもらっています。

 “中高年も肉を食え!”ということで、以前ご紹介したイワタニ産業製の焼肉専用のカセットコンロタイプの“カセットガス・スモークレス焼肉グリル”「やきまる」購入以降、“スモークレス”の謳い文句通りに、驚くほど実際に煙の発生が無いこともあって、自宅で焼肉をする機会が想像以上に増えました(「やきまる」の使用レビューは、第1336話を参照ください)。
以前下呂に行った際に現地で購入して来たブランド牛である「飛騨牛」は確かに美味しくて、すき焼きやしゃぶしゃぶでは脂の甘味が感じられ「さすがは飛騨牛!」と感激したのですが、焼肉では逆にそのサシの多さが我々には脂っぽ過ぎて胃がモタレてしまい、思いの外食べられませんでした。従って、一度にそれほどの量を食べる訳でもない我々中高年にとっては、サシの少ない肉の方が胃モタレせずにむしろ好ましく感じられました。
幸い、「やきまる」購入と期を同じくして、いつも週末にまとめ買いをする地元スーパーにニュージーランド産ではありましたが、シンガポール時代にいつも購入して慣れ親しんだGrain-fed (穀物飼育)ビーフ(シンガポールではUSBビーフでしたが)が肉売り場に並ぶようになり、またイオンモールでは自社飼育のタスマニアビーフやイベリコ豚が買えるので、併せて柔らかなラムも必ず購入し、高価な黒毛和牛でなくても十分美味しく且つ頻繁に(多い時は月に二三度も)焼肉が自宅で楽しめるようになりました。

 一年間使ってみて、表面のフッ素加工の劣化か、煙というよりも使用後の匂いが気になる(翌朝まで室内に残っている)ようになりました(勿論、使用中は常時換気扇を回しておくことが必須)。
このプレートは交換部品として購入出来るので、調べてみると通販で2000円弱しています。購入したホームセンターに確認すると、メーカーからの取り寄せで2206円とのこと。因みに、製造元でも通販サイトがありプレート価格そのものは1260円でしたが、会員にならないといけませんし、送料は別とのこと。宅配便でも送料が1000円近く掛かることを思えば(ホームセンターでの取り寄せも同様ですが)、恐らく2千円前後にはなるだろうと思います。であれば家内がプライム会員で送料は掛からないため通販の方が安いので、結局通販で1980円で購入しました。
因みに、イワタニではカセットコンロ用に「やきまる」同様の形状の焼肉用プレートを大小2種類販売していて、これだと最安値は1200円位から通販で購入可能ですし、ホームセンターでも1500~1700円程度で販売されていました。
しかし、「やきまる」の煙の出ないポイントは、商品レビューに拠ると・・・、『煙が出ない秘密は「温度」と「脂の通り道」にあり、一つめの「温度」の秘密は、肉の脂が煙を出さず、かつ肉がおいしく焼けるという210℃~250℃にプレートの温度をキープすること。そして、「脂の通り道」では、その名の通り、肉から流れ出た脂をプレートに溜めない仕組み。焼肉プレートは中央がわずかに盛り上がった形状で、プレート上の脂がスムースに流れるよう放射線状の溝が掘られています。さらに、プレート外周部にはスリットがあり、流れた脂が自然に下に落ちるため、肉の脂が炎に当たることがなく、煙も立たないというわけです。ちなみに、スリットの下には脂を受ける「水皿」があるので、落ちた脂がこれ以上加熱されることはありません。』とのこと。
従って、別売りの焼肉プレートを購入しても、「脂の通り道」や「水皿」は同じ形状であれば効果は期待出来ます(ホットプレート等で焼くよりは煙発生は少ない筈)が、もう一つのポイントである210°~250℃の低温でキープする「温度」管理は、同じイワタニ製のカセットコンロでは「やきまる」の様に低温管理が自動的には出来ないので、自分で一度計測して炎の大きさを管理出来れば良いのですが、「やきまる」で自動的に管理した方が遥かに楽。従って、多少高くても「やきまる」専用のプレートを購入して交換した方が良いと思います(炎の大きさによって発生する熱量とプレートと炎との間隔が結構離れているのが「やきまる」のポイントだと思います。多分、他のコンロだと炎が大きく、またプレートとの間隔が近いので、温度が高くなり過ぎて煙が発生するのではないかと思います)。

 プレート交換で「やきまる」は新品同様になりました。これで煙や匂いを気にせずに、自宅での焼肉がまた一年間楽しめます。
「さて、今夜も“肉を食う”かな・・・?」

 雑誌では定期配信サービスのdocomoの「dマガジン」を愛読していますが、音楽配信はこれまで全く利用したことはありませんでした。
 携帯音楽プレーヤーとしては長年iPod nanoに自分のCDを保存して愛聴していましたが、アップルのiPodは製造中止になり買い替えは不可能で、しかも経年劣化か、最近不具合気味。そこで止む無く、遅れ馳せながら音楽配信サービスを利用することにしました。
私メの場合、ジャンルはクラシックだけで良いので検索してみたところ、J-popを含め国内外のポップス系の曲やアーティストを網羅した、例えばApple musicやスウェーデンの世界最王手の配信サービス会社Sportfyなどの月額定額制(サブスクリプション方式)の配信サービスはあるのですが、ポップスに比べて意外なほどクラシック音楽の楽曲が少ないのです。

 そんな中で、曲数や演奏者数なども含めて一番充実していたのがClassic Managerという無料の音楽配信サービスでした。無料の理由は、著作権の切れた音源のみが使われているため。50年で著作権が切れるので、最新の音源でも1969年ということになります。従って、音源の中にはMono録音も少なくありませんし、演奏者でも、例えば指揮者でみると、クライバーはカルロスではなくお父上のエーリッヒですし、メンゲルベルクやミートロープス、また日本にお馴染みという意味ではマタチッチなど、或る意味伝説的、レジェンド的な巨匠の録音もあります。
他にも、先述のSportfyにもクラシック音楽の配信サービスもあったのですが、無料配信の場合はCM入り(により無料を可能としている由)でしかもシャッフルのみ。勿論有料の場合はそうしたことはなく楽章の順番に楽しめますし、例えばクライバーはちゃんとカルロスの録音が有料で配信されています。
しかし無料配信のClassic Managerでも、カラヤン、バーンスタインを始め、ワルター、セル、ベーム、オーマンディ、ショルティ、お馴染みのサヴァリッシュやスウィトナー、そしてクーベリックやケルテス、ムラヴィンスキー、更にはバルビローリ、ミュンシュやクリュイタンス、ザンデルリンクやケンペといった、学生時代に夢中になった巨匠達の録音したStereo音源も結構な数で含まれているのです。
例えば、当時名盤とされたベームのモーツァルトやシューベルト、ワルターやバーンスタインのマーラー、ケルテスやクーベリックのドボルザーク、ムラヴィンスキーのチャイコフスキー、バルビローリやカラヤンのシベリウス、そしてサヴァリッシュやクーベリックのシューマン・・・etc。勿論、当代の人気演奏家の最新の音源は無くとも、私メが学生時代に胸を熱くした(しかし貧乏学生故、最新のLPは買えず、NHK-FMでの、今や死語となった“エアチェック”で確認するしかなかった)往時の名録音が並びます。
音質も通信量の違いで高音質と低音質の2種類が選択可能。Free Wi-Fiであれば通信料金も気にせずに聴くことが出来ます。
それにしても良く作ったなぁ。・・・と感心するのですが、これ韓国製の配信サービス。最新の5Gサービス推進でも取沙汰されているように、通信ネットワークやソフトウェアの進化では韓国や中国の方が余程進んでいるのかもしれません。

 Classic Managerの唯一のネックは、演奏者や楽曲名などが全て英語表記のため、曲名によっては日本語のタイトルが連想しにくいものがあったり(「悲愴」や「運命」は分かり易いのですが、例えば有名な小品であるマスネ作曲の「タイスの瞑想曲」の英語表記は“Massenet Thais Meditation”)、また録音データが、例えば指揮者だと録音年月日と録音場所は分かっても、演奏団体(オーケストラ名)が記載されていないなど、少々不親切な部分も無いではありません。
しかし、クラシック音楽専門でこれほど充実しているアプリが無料で配信されていることに驚かずにはいられませんでした。
先述したような学生時代に憧れた名録音も多いので、大いに楽しめそうです。

 前話の旧開智学校から用事のある大名町へ行くために、新旧対比となる開智小学校の横を通ってもう一つの国宝である松本城公園に向かいました。松本城には既にたくさんの観光客の皆さんが来られています。

 お堀端や場内などに320本の桜があって、春の桜の名所でもある松本城。また秋になるとケヤキや桜の紅葉もまた見事なのですが、その間の夏の時期はせいぜい城内の本丸庭園(拝観料が必要です)の白い花の小笠原牡丹(注)など、紅白の牡丹くらいだろうと思っていました。
すると、この日の公園にはハスの花や見事な藤が咲いていて、駐車場脇の花壇には珍しいナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)が真っ白な花を付けていました。
 ハスの花はアジアからの観光客の方々は珍しくないのか、だれも気に留める風もありませんが、藤の花は人気で藤棚の下では皆さん眺めたり写真を撮ったりしていました。藤は昔から愛でられ、万葉集にも詠まれたという日本原産の固有種。しかも藤紫というように、古来よりムラサキは高貴な色でもあります。
松本城公園の藤はそれほど広い藤棚ではありませんが、1m近くにも伸びた房は見事でした。
 また定年前の上田の事業所への通勤時、平井寺トンネルを抜け下った道端に咲いていたナンジャモンジャの木。その時の記事(第972話)によれば、
『モクセイ科ヒトツバタゴ(一葉たご)という落葉高木。「たご」というのはトネリコの一種で、トネリコが複葉なのに対し、単葉なことから名付けられたそうです。中国福建省原産で、朝鮮半島の一部、国内では対馬や木曽川流域(特に東濃地方)のみに自生(対馬の群生は天然記念物指定)している絶滅危惧種(Ⅱ類)で、岐阜県の土岐市では「市の花」に制定し、街路樹として植えられている「なんじゃもんじゃ街道」があるとか。植栽としても、神宮外苑や深大寺などに植えられた木の写真がありましたが、全国的にも珍しい木のようです。』
その珍しいナンジャモンジャが松本城公園横の駐車場脇の花壇にも植えられていて、ちょうど今、雪のような白い花を咲かせていました。
【注記】小笠原牡丹(松本城由緒書き等より)
天文19年(1550年)7月、甲斐の武田信玄に攻められた小笠原長時は、林城館にあった純白の牡丹が敵兵に踏み荒らされることを憂い、これを里山辺の兎川寺(とせんじ)に託して落ち延びて行ったと伝わる。
その後同寺の檀家であった久根下(くねした)家が、この牡丹を「殿様の白牡丹」として400年もの間秘して大事に守り、昭和32年に小笠原氏子孫の忠統氏へ贈られて初めて公になり、忠統氏から戦国時代に林城の支城だった松本城内本丸庭園の月見櫓前に移植され、 更に平成18年にも久根下家から寄贈されて、現在7株が毎年5月に白く美しい花を咲かせている。
因みに、その後譜代大名として復興を遂げた小笠原氏が、松本から明石を経て、最後の移封先となった北九州小倉城にも小笠原牡丹が株分けされているとのこと。

 5月17日の夕刻。松本市民にとって思いもかけない嬉しい知らせが、しかも全国ニュースで飛び込んできました。

既に皆さんご存知の通りの「旧開智学校の国宝指定」(文化庁審議会答申)です。
世界遺産などと違い、事前登録などの報道が無く、全く突然の発表でしたので驚きも尚更でした。明治以降の近代建築としては、迎賓館赤坂離宮、富岡製紙場に次いで三番目。教科書にも日本で最初の学校として掲載されているので、代表的な存在とは云え、学校建築としては全国初の国宝指定だそうです。「擬洋風」と呼ばれる和洋折衷の建築様式が明治初期の代表的な木造建築でもあり、当時としては生徒数100人、先生も30人を超えて、全国的にも大規模校だったそうです。また生徒の作文なども含めて、当時の教育資料が保存されていることも評価されたとか。因みに、学校は今の場所ではなく町の中心部の女鳥羽川沿いに在って、その場所にはひっそりと石碑が立っています。
 翌18日の地元紙に依れば、さっそく市役所に祝賀の懸垂幕が張られたそうですので、関係先には内々の連絡が事前にあったのかもしれません。
たまたま、その日大名町のお店に行く用事があったので、10時の開店時間に合わせて、早朝ウォーキングを兼ねて奥様と一緒に、中央図書館、開智学校、松本城公園を通って歩いて行くことにしました。
すると、旧開智学校の入り口には「祝国宝指定の」立て看板が置かれていて、いつもの倍以上の見学客の方々がいて、何となく祝賀ムードで華やいだ雰囲気に包まれていました。私自身は今までお客さんを案内して多分3度ほど見学していると思いますので、今回入館はせず。
それにしても、僅か500m足らずの距離で、松本城と旧開智学校の二つの建造物が国宝指定になるなど、京都や奈良でもないのに或る意味凄いことだと思わざるを得ませんでした。謂わば、松本の“二枚看板”です。
しかも、そのお城は廃城の危機を、開智学校は明治になって未来への財産としての子供達の教育投資へと、双方とも中心となったのが行政や公的権力ではなく、市井の人たちの努力や寄付(建築資金の7割)によって守られ或いは造られたことが、地元に暮らす我々にとっての最大の宝物なのだろうと思います。
しかも、1973年まで信州大学(当時は文理学部)の校舎として実際に使用されて現在重要文化財に指定されている「あがたの森公園」の旧制松本高校校舎も然りなのですが、旧開智学校も1961年に重要文化財に指定された後も1963年まで現役の小学校の校舎として実際に使われてきたというのも凄いことだと思います。
 因みに開智学校の南に隣接して建つ現在の開智小学校。謂わば新旧の“開智学校”ですが、私立ではない市立の小学校にしては珍しく、旧開智学校の八角の塔に似た尖塔の様な部分が目を引きます。観光コースが、お城からは必ずこの開智小の横を通って旧開智学校へ向かうので、開智学校のイメージを損なわないように配慮されたデザインなのでしょうか。
この二つの“開智学校”の間に在る小学校の校庭では、子供たちが国宝指定など我関せずと歓声を上げて元気に遊んでいるのが如何にも学校らしく、まるで“旧”開智学校が今でも現役の様で何とも微笑ましく感じられました。「重要文化財の校舎で勉強した」という今60歳くらいのOBに対し、今度はこの子供たちは“国宝”の横で走ったりボールを蹴ったりしたことが、将来大人になってからプチ自慢の思い出になることでしょう。

 令和最初の国宝指定となる旧開智学校。地元にとって嬉しいニュースでした。因みに、“国宝指定”効果で拝観者がこれまでの倍になっているそうです。