カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
今回、バス停で並んでバスを待ちながら家内と話をしていたら、地元の方から二度話し掛けられました。
一度目は河原町四条で。混雑している車と人の波を見ながら、
「京都に居た学生の頃は、四条通りは4車線だったし歩道はこんなに広く無かった筈だけど、それに市電も走っていて・・・。廃止しないで、今でも市電があれば、観光客を運ぶのにもっとスムーズで便利だったと思うけどなぁ・・・。」
すると、前に並んでいた人が急に振り向いて、“我が意を得たり”とばかり、
「その通りですワ。市電無くしたんが間違いや。四条通りも歩道拡げて車線減らしたんで狭うなって渋滞しよるさかい、今は観光客相手のタクシーや道を知らない県外車だけで、私等地元の人間はよう通りません。」
「昔より観光客増えましたよね。学生の頃は、河原町ももっと人が少なくて、普通に歩けましたもの・・・。」
「今の市長はんは、パリ並みに観光客を増やしたいらしいんやけど、今でもこない混んでるのに、そない増やして一体どうなるんやか・・・。」
「山元麺蔵」で早昼を食べてから、北野白梅町方面へのバスを探していて、通りの反対側のバス停もチェックしに行ったところ、声を掛けられて、
「どこ、行きはるんですか?」
「あのぉ・・・、北野白梅町方面に行きたいんですけど・・・。」
「そしたら、向こう側ですワ。白梅町やったら、○番に載ったら宜し!○番でっせ。」
「○番ですね、ご親切にどうもありがとうございます。」
「いや、何や分からずに迷うてはったさかい、気になってもうて・・・。でも良かった、良かった。ほな、気ぃつけて!」
如何にも京都らしい・・・。
良く言えば、外モノに優しい愛想の良さ、悪く言えば、上洛して来た(お上りさん)田舎者への“上から目線”の(=優越感に満ちた)お節介、でしょうか?・・・。
良く云われるところの“京都らしさ”、曰く・・・、
「京都で“この前の戦争”というと、応仁の乱を指す」
「京都は帝が千年いらした都でっせ、百年ちょっと東京に臨時で行かれているだけや」
・・・などと、まことしやかに語られることがあります。
また、京都のお宅にお邪魔していて「ぶぶ漬けでもどうですか?」と云われたら、「(まだ長居しはるんやったら)お茶漬けくらしか用意出来しませんが・・・」は、遠回しに“もうそろそろ帰りはったらどうですか?”という合図・・・云々。
本当かどうか分かりませんが、下宿中、何度も近所の大家さんの家に行っても(多分、当時毎月下宿代を持参した様な記憶が)、確かに一度も上がったこと、ましてやお茶を飲んだこともありませんでした。まぁ、仮に言われても、「単にお愛想なので、すぐに従ってはいけない」というのが、京都での一般常識でしたので・・・。
その辺りは、信州の田舎の“縁側文化”(今では殆ど無くなりましたが、昔の茅葺き屋根の農家では、尋ねて来た人に“縁側”でお茶と野沢菜を出して“茶飲み話”をするのが当たり前だった)とは異なりますが・・・。
数年前にベストセラーとなった朝日新書「京都ぎらい」(「2016年新書大賞」)。著者の井上章一氏は京都の嵯峨野出身で、国際日本文化研究センター教授。学生時代のたった4年間とはいえ、“ヨソモノ”として京都で暮らした者からすれば、謂わば“生粋の京都人による京都嫌い”といった自虐的著作の様に思えるのですが、決してそうではなく、氏に言わせると「洛中と洛外では厳然たる差別(≒区別)が存在する」ということになります。
さすれば、その洛外より更に外からの“ヨソモノ”たる上洛者は、さしづめ“驕る平家”を都から追い出しながら、田舎者の行状で“木曽の山猿”と罵られて都びとに嫌われた義仲公の様なモノなのでしょうか・・・。
京都人のプライドの高さ、外面の良さとは異なる“腹の中”(=本心)etc・・・。千年もの間、京都は“帝の御座(おわ)す都”だったが故に、時に権力闘争に巻き込まれ、京都そのものが戦場となった応仁の乱を筆頭に、幕末の蛤御門の変や鳥羽伏見の戦いに至るまで、否応なく京の都は何度も戦乱に巻き込まれざるを得ませんでした。それ故に、時の権力に対して、京の町衆が本心を隠してしたたかに生きざるを得なかったのは、或る意味むしろ当然だったのかもしれません。
しかもそうした争いを間近で見ていて、絶対的な権力など無い、未来永劫には続かないと身を持って知っているからこそ、したたかに何百年という歴史を生き抜いた老舗がある一方で、時の巨大企業や組織におもねない数々のベンチャー企業もこの京都だからこそ誕生したのではないでしょうか。
そうした“進取の精神”で人一倍流行に敏感な京都ですから、変なノスタルジーに浸ること無く、したたかに時代に順応していることの方が、或る意味余程京都らしいのかもしれないと、観光客で溢れる清水や河原町を久し振りに歩いてみて、無責任に昔の京都を懐かしむ、たった4年間京都に暮らしただけの“部外者”なりに感じた次第です。