カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 冬の薪ストーブ。その暖かさもさることながら、薪の燃える炎が、実際のその温度以上の暖かさを感じさせてくれる、そんな“荒んだ男心”への癒し効果も期待できる様な、まさにそんなストレス社会に暮らす“男”にとって(?)の究極の趣味なのかもしれません・・・些か、否、かなりオーヴァーな表現ではありますが、実際に薪ストーブの燃える火を見ていると、そんな気さえ沸いてくるから不思議です。因みに、女性(あくまで我が家の奥さまに関してであって、一般的な検証はしておりません)にとっては、暖房効果を別にすれば、その遠赤外線効果による、シチューや冬の間の究極的な楽しみである“焼き芋作り”のための、あくまで実利的な調理器具なのかもしれません・・・。
 ところで、暖房効果や調理器具としては不都合は無いのですが、癒し効果を期待する“暖かな炎”を“視覚的”に感ずるためには、ストーブのガラスドア越しに、その燃える炎が眺められないといけません。
そして、そのためにはガラスは煙で煤(すす)けない様に日常的に透明に保たないといけません。
勿論、そのための専用のガラスクリーナージェルもあって、我が家で使っているのはRUTLAND社製の輸入品。確かにその効果はてき面で、見違えるようにキレイにピカピカになります。但し、1本2000円前後とそれなりに高価です。
例えば、一週間毎に煤けたガラス扉を磨くのであれば、結構煤で汚れているので、そうしたガンコな汚れを落とすには、こうした専用クリーナーで無いと無理。しかし、毎日掃除するのであれば台所にあるキッチンペーパー一枚で十分です。

ガラス扉は、特に四隅から煤け易いので、毎日磨いた方がこびりつかずに効果的です。用いるキッチンペーパーは、出来るだけ表面に凹凸がある方が良い様に感じますが、キッチンペーパーを四つ折りにして、水で少し濡らして、多少力を入れてガラスを拭けば、意外な程キレイになります。ひっくり返して二度拭きをする必要はありますが、予想以上に効果的です。そしてシーズン最後に、専用のジェルで磨いておけば完璧でしょう。
 11月末から薪ストーブを炊き始め、終了する3月末まで後あと1ヶ月。では、今夜も薪ストーブの炎で身も心も癒されたいと思います。

 毎週土曜日に配達されて来る、別刷りの日経プラス1(One)の「何でもランキング」。

 1月12日に掲載されていたのは、全国の「冬こそ訪れたい夜の城」のランキング。そして、全国のお城の中から専門家の投票で選ばれた堂々の第一位が、我が松本城でした。因みに、第2位は夕方5時以降2000個の電飾で星形に彩られるという函館の五稜郭で、3位が背景のビル群のイルミネーションとの対比も美しいという大阪城。国宝5城では、姫路城が5位、彦根城は8位でした。なお、城好きとして個人的に雪の冬に訪れてみたいお城は、第6位の会津若松城と、ランク外で掲載されてはいませんでしたが、越前大野城です。
 紙面に掲載されていた、松本城を1位に選んだ方々のコメントを記すと、
・「その均整の取れた姿は絵画を思わせ、雪の積もる夜は情緒ある光景が現れる」(夜景フォトグラファーの丸山あつし氏)
・「澄んだ空気の中で凛と佇む質実剛健名天守群は別格。時間を忘れる」(城郭ライターの萩原さちこ氏)
そして、説明文でも『400年以上風雪に耐えた漆黒の天守は別名「烏城」と呼ばれ、「白鷺城」の名を持つ姫路城と対比をなす。公園内の地面が堀の水面とほぼ同じ高さにあり、堀に「逆さ天守」が映り込む。』と、松本城の魅力を記してありました。さらに、『松本の住民らが修理を重ね、今も子どもたちが城内の床磨きをする』とも・・・。
 「やっぱりなぁ・・・。さすが、分かってんジャン!」
と、些か(かなり?)“親バカ”的感覚ではありますが、松本市民としては「我が意を足り!」でありました。
 1月25日の夕刻。「食蔵バサラ」での例会に参加するために、家内が不在でバスの便も丁度良い時刻の便が無かったので、ゆっくり歩いて行ったのですが、松本城公園を横切っていくと、ライトアップされた松本城が先述のコメント通りに立っていて暫し見とれていました。確かに凛とした冬の松本城も素晴らしい。
それにしても思い出すのは、城郭ライターの萩原さちこ氏が「松本城ほど市民に溶け込んでいるお城は無い」と評されていたのですが、その理由は、高校の先輩である“居酒屋評論家”大田和彦氏の、
「(見上げなければいけない平山城ではなく)松本城が平城であり、いつでも市民が自由にその周囲の公園に毎日の通勤通学時など立ち入ることが出来るが故に、日常的に市民の視線や目線の中に松本城があることが、市民から松本城が愛された理由だ。」と仰っていたのが、個人的にこれまでで一番納得出来た説明でした。また、以前TVの旅番組で、地元の市民の方が松本城を評して、
「松本藩の藩主は配置換えで次々と代わったので(注:初代石川数政以来、最後の戸田光則まで7代6家)、藩主さんには余り愛着が無い。だからその分お城に愛着を感じるのではないか?」
というのも、確かにそうだなと合点がいく気がしました。
だからこそ、市川量蔵から小林有也先生、そして現代の小学生に至るまで、松本城を市民の宝として大切に感じ大事にしているのだろうと思います。
 先日、朝のウォーキングを兼ねて、娘たちのイベント成功を祈って四柱神社にお参りに行った際に、お城を通るとたくさんの外国人観光客の方々がいました。西山には残念ながら雲が掛かっていましたが、雪をいただいた常念の真っ白い頂上が雲の上に覗いていました。また、松本城公園の西側の梅林には、2月中旬だというのに、一番南側の梅の木がもう綻び掛けていました。今年のお城の桜も早いかもしれませんね。そして、西の端には柵が設けられ、中で発掘作業が進められているようでした。陳情して、何とか国を動かしてでも(法律を変えてでも)、そのために住んでいた方々にもせっかく移動してもらって市が取得した土地ですので、何としてでも、何年掛かろうとも、外堀をちゃんと復元させて欲しいと思います。
 多分、雲の様子や雪化粧など、二度と同じ景観など無いであろう周囲の景色を従えて、石川親子による1597年とも云われる天守の築城以来、420年を超えて聳える現存最古の松本城の天守閣。
明治新政府からの廃城令により解体されて売られたりした全国の天守閣の多い中で、行政の力ではなく、市川量蔵等による市民運動で買い戻された松本城天守閣。地元の人たちの寄付だけで建設された旧開智学校同様に、そういう“市民運動”の土壌が松本にはあるのかもしれませんが、地元の“宝”だという彼等の先見性に感謝するしかありません。そしてその理由も、おそらく大田和彦氏の言われた「日常的に市民の視線や目線の中に松本城があった」からだろうと感じています。

 昨年の春初めて伺った、諏訪IC近くの茅野市宮川にある、とんかつと鰯料理の店「勝味庵 本店」(第1317話)。お義母さんが大好きな店です。
前回初めて来た時に、「トンカツはともかく、この山国信州で鰯料理?」と訝しくは思ったのですが、成田のお寿司屋さんで、新鮮で脂の乗った鰯の美味しさに目覚めた“鰯好き”としては我慢出来ず、半信半疑で頼んだのですが、驚きの新鮮さと美味しさでした。
 「旨っ!おぉ~、信州でも美味しいイワシが食べられるんだ!」
と目からウロコ・・・。

 今回、毎週買い物と日帰り温泉にお義母さんを連れていく家内と一緒に、少し遅めのお年賀にと小正月に実家に伺った際、日帰り温泉の「塩壺の湯」(茅野には、市内に幾つもの公共の日帰り温泉が在って、羨ましい限り)と食料品の買い出しの後で、皆で「勝味庵」へ向かいました。
昔は、「お祖母ちゃんの唐揚げが一番美味しい!」と娘たちが大絶賛する唐揚げを始め、大量に料理を用意していてくれたお義母さんですが、昼間は今は一人なので、家内が何も用意しなくて良いからと念押しをしてあり、代わりに「勝味庵」に行くことにしたもの。
こちらの「勝味庵」に「本店」とあるのは、東御市(2004年に東部町と北御牧村が合併)にも系列店があるようです。穂高にも県道沿いに同じ名前の店があるのですが、前回伺った時に(穂高の方が松本からは近いので、支店なら行こうと思い)ご店主に直接聞いたら「(今は)関係無い」とのこと。
前回も行列の順番待ちでしたが、今回はたまたま一巡目が終わったタイミングか、すぐにテーブル席に着くことが出来ました。

二人はいつもの様にミックス(フライ)定食(1500円)ですが、私メは鰯定食(松1800円)。鰯の刺身、素揚げ、フライとイワシ三昧です。刺身は生姜醤油で、素揚げはモミジおろしとポン酢で。そして、フライはトンカツ同様に自分で擂ったゴマと二種類の自家製ソースを混ぜ合わせて頂きます。昼間からではありますが、お義母さんからの優しいお言葉に甘えて(渋い顔の奥さまを無視して)生ビールも勿論有難く頂戴しました。そして、定食には自家製であろう野沢菜漬けが小鉢で付いていて、これもまたイイ味で良く漬かっていました。
 後日チェックしたお店のH/Pに拠れば、
「当店のトンカツは、岩手のブランド豚である岩中豚、山梨の富士桜ポーク、長野のSPFといった上質のお肉を使用しております。揚油も四種類の油をブレンドした独自のもの、パン粉も当日にお店で作る自家製に拘っております。
もう一つの看板商品であるイワシ料理も、築地、松本、甲府の市場から毎日仕入れておりますので、とても新鮮でおいしいものをご用意しております」
とのこと。

 前回は富山で水揚げされた鰯と伺い、てっきり自前で港から直送しているとばかり思っていましたが、そうではなくて、それぞれの市場経由で全国から旬の新鮮な鰯が届くようです。今では呼子に行かずとも生きたイカも運ばれて活き作りが食べられる時代ですので、輸送方法の改善と流通網の整備で、地元松本の市場にも新鮮な鰯が届くんですね。多少コストを掛けても、そういう活魚を売りにしている店に行けば、ちゃんと新鮮な魚が食べられるのだと知った次第。

 フム、二回目の来訪で確信することが出来ました。
“山国信州にも、鰯料理の名店あり!”。

 昨年末に発表された、3月16日実施の「JR春のダイヤ改正」。
先にスーパーあずさがE351系から新型のE353系に置き換えられたのに続いて、すべての車両に新型のE353系が使われることになり、結果スーパーの名称も廃止されて、「あずさ」と「かいじ」に統一。そして、全ての車両が新型車両に統一されることに伴い、これまで“普通”のあずさとかいじに使用されていたE257系も廃止。
更に、初めて上諏訪駅に停車しない列車が設定され、停車駅が(松本からだと)茅野、甲府、八王子のみでの最速2時間23分と6分短縮。また、上下線で多い方を記すと、長野県内では、塩尻と岡谷が△3本(17→14)、下諏訪は△7本(9→2)、上諏訪△1本(18→17)、富士見△4本(6→2)とそれぞれ停車する本数が減便となります。因みに、茅野は減便無しで全て停車。
これに噛みついたのは、諏訪市を始めとする、塩尻、岡谷などや、塩尻通過に依る接続への影響を危ぶむ中央西線の木曽地方の各自治体です。停車せずに通過する特急が増える各自治体の首長たちは、2月1日に長野県知事(インフル禍で副知事が代行)と一緒にJR東日本本社を訪れて改善を要請しました。

 今回の改正で個人的に一番驚いたのは、たとえ上下各1本とはいえ、あずさが初めて上諏訪駅に停車しない、しかも茅野駅には停車するのに・・・ということ。なぜなら、嘗て、始発の松本から終新宿までの間で(時間短縮のために)、途中、上諏訪、甲府、八王子にしか停まらない最速のあずさがありましたが、少なくとも茅野は通過しても上諏訪には停車していたのに・・・なのです(各自治体唯一の駅とはいえ、岡谷、下諏訪、上諏訪、茅野間は他に駅は無く、もし特急が全てに停車すれば、岡谷~茅野間は各駅停車です)。
10年程前に茅野の人口が初めて諏訪を逆転したことが、諏訪地方でニュースとなりました。恐らく、諏訪大社をいただく太古の昔より、諏訪藩、片倉財閥、東洋のスイスと、どの時代においても地域の盟主として自負して来たのが諏訪であった筈。しかし、それに安住して或る意味何もしてこなかった、否、他責のまま(企業からの税収任せで)自治体としては何もしなくても良かった・・・。
だから、古ぼけた駅舎のままの上諏訪駅ですが、その駅前も地場のデパートが倒産した後も何もせずにゴーストタウンと化し、蓼科高原や八ヶ岳の観光地を抱え別荘地も開拓してきた茅野市に駅の乗降客も抜かれ、人口も逆転され・・・。中央線も諏訪市内だけが単線化のまま。しかも国道20号には踏み切りが2ヶ所も残されています(自虐的な観光スポット化)。
また諏訪のみならず、どの諏訪地域の自治体も“俺が俺が主義”で、結局(合併の是非は別として)県内で諏訪6市町村だけが一つも平成の合併協議がまとまらずに今に至っています。
 以前、地元出身のある財界人の方に聞いた話なのですが、旧国鉄時代に、地元富士見町選出で国務大臣などを歴任した小川平二衆議院議員(父平吉氏も鉄道大臣などを歴任した政治家)が、諏訪の中央線の単線区間の複線化工事について、予算取りを含め政界や官庁、国鉄など全て根回しをしたのに、当時の某I諏訪市長が地元を説得出来ないと断ったのだとか。そのため、メンツを潰された中央の関係者や関係省庁は、「今後、例え地元から複線化工事の要請があっても、こんりんざい(金輪際)認めない(協力しない)」とへそを曲げてしまったのだそうです。その方曰く、あの時に地元を説得して実現していれば、もっと中央線はスピードアップも含めて便利になっていた筈とのことでした。
実際、以前松本からあずさに乗って、停車駅では無い下諏訪駅で単線区間でのすれ違いのために、貨物列車を特急が待ち合わせたのには唖然としたものです。
但し、実際に中央線の松本新宿間を2時間切りにスピードアップをするためには、混雑する首都圏内の複々線化とカーブの多い山梨県内の直線化が推進されないと大幅な改善は無理とのことではありますが・・・。国営時代であればともかく、民営化された現在、巨額投資をするJR東海のリニアが甲府付近に新駅設置を予定している中で、JR東日本が在来の中央線にそうした投資することは期待出来ません。
 オーストラリアや中国など、今や海外からのスキー客が大量に押し掛ける白馬方面。殆どの観光客は北陸新幹線を使って長野で下車し、オリンピック道路経由の直通バスで白馬入りをしています。中央線から大糸線に入るあずさもあるのですが、利用者数は新幹線に敵いません。今回のダイヤ改正で、停車駅を減らすことでの短縮化は最大でもたったの6分。しかし、如何に公共性を指摘したとしても、民営化企業である以上、全便新型車両に変更し、例え僅か数分でもスピードアップさせて更に効率性と利便性を高めて中央線特急の利用者を増やす。高速バスに客を奪われつつある現在、鉄道会社のそうした施策を否定することは無理でしょう。
文句を言うなら、どうしてこれまで利便性や快適性を向上させて地元への乗降客を増やす努力を各自治体がして来なかったのか?「何を今更!」・・・。
七年に一度のお祭りと、夏だけの花火と、そして温暖化進展の中で自然任せの御神渡だけに頼っていてイイのか!?

  「だって、人が来なくてどうしようもないヨ!」
上諏訪駅近くの馴染みの割烹料理屋が、以前定休日でもないのに店を閉じていたので心配し、改めて日を変えて飲みに行った時。店主の、自嘲気味で諦めにも似た苦笑いが忘れられません。

 今回のJR東日本の春のダイヤ改正の対する諏訪を中心とする首長たちの抗議に、諏訪にはこれまでお世話になっただけに、或る意味“可笑しくて、やがて悲しき”・・・情けなくて、何だか涙が出そうです。

 「久し振りにナナと一緒にドライブに行こうか?」
さて、この冬の時期、一体どこに行けばイイのか?・・・ということで、選んだのは「国営アルプスあづみの公園」でした。

 因みに、「安曇野市」の正式名称は「あずみ」ではなく「あづみ」であり、従って公園名も「づ」を採用しています。但し、ローマ字表記は「ZU」。
本来の現代仮名遣いでは「ず」ですが、歴史的な背景として、「海人津神(あまつみ)」を祖神とする古代九州の海人族であった安曇氏に由来するため「つ」を用いるとされています。安曇族の痕跡は、山国信州でお船祭の穂高神社を奉る安曇野だけではなく、滋賀の安曇(あど)川や愛知県の渥美半島にも残されています。
なお、嘗てこの地は松本平や善光寺平などと同様に安曇平と呼ばれていたのですが、「平」が「野」と世間一般に呼ばれる様になったのは臼井吉見の小説「安曇野」から。

 国営公園というのは、国土交通大臣が設置し、国が維持管理する「都市公園」で、現在全国に12ヶ所設置されていて、「国営アルプスあづみの公園」は2004年に開園。因みに、有名なのは、ツアー会社の観光コースにもなっている、一面の青いネモフィラや真っ赤なコキアで知られる茨城県の国営ひたち海浜公園」でしょう。
この「国営公園」を計画推進したのが、当時建設省公園緑地課長だった池田町出身の故塩島大。その後地元長野4区の衆議院議員となり、地元への公園設置を推進し、在任中の急逝後は後任の故村井仁(後年長野県知事)が引
き継いで認可にこぎつけたのだとか。
総面積353haの「国営アルプスあづみの公園」は、先に整備された211haの堀金穂高地区と遅れて開園した142haの大町松川地区の2ヶ所に分かれていて、堀金穂高地区には「田園文化ゾーン」と、NHKの朝ドラ「おひさま」のロケでも使われた東屋と水車のある「里山文化ゾーン」があります。
前回春だったか、行こうとしたら、堀金地区の下の方から数珠つなぎの渋滞で、途中で諦めて引き返してしまい、今まで一度も行ったことがありませんでした。花の無いこの冬の時期はイルミネーションが人気だそうですが、夜は寒いので、我々はドライブとナナの散歩を兼ねて昼間に行くことしました。
公園は2ヶ所に分かれていますし、堀金穂高地区も3ヶ所入口があるそうですが、我々はガイドセンターなどのある堀金「田園文化ゾーン」の中央口へ向かいます。さすがに、広い駐車場もこの時期では車は10数台程しか停まっていません。園内には、薄らと昨夜の雪が積もっています。
 入園料は大人450円。ワクチン注射済み等の手続きが必要ですが、ワンコも入園OKです。
この時期のお目当ては、「あづみの学校」のインドアガーデンを彩る「一万本のアイスチューリップ」。“アイス”というのは、冷蔵したチューリップ球根を、目を覚まさせて春が来たと錯覚させて咲かせるのだとか。
建物内には犬は入れないので、先に家内が入園し、私メとナナは周辺を散歩。広い公園内には、ナナ以外は柴クンが一匹いただけでした。
途中、社会科や理科の「教室」と名付けられた部屋があって、亜高山帯から平地まで、標高に拠って生息生物が分かれたイワナやヤマメなどの淡水魚の水槽があって、実際の生態に近い様に自然を模した状態で飼育されていて、実に興味深く見入ってしまいました。小学生の子供(や孫)がいたら、夏休みの自由研究に“もってこい”だと思います。
お目当ての一万本のチューリップは、「あづみの学校」の一番奥の「多目的ホール」飾られていました。色とりどりのチューリップが模様を描いて円形に並べられていて、雪化粧の外とは対照的に、ここだけは一足早く春が訪れているかのようでした。
因みに翌日が最終日で、このチューリップの鉢が来場者にプレゼントされるのだとか。そして、今度は2月一杯まで15000本の菜の花で彩られるのだそうです。
 見終ってから、園内を少し散策してみました。公園は堀金にあるので目の前に常念を望み、烏川の清流に掛かる吊り橋を渡ってドッグランへ。人っ子一人、ワンコ一匹、さすがに誰もいなくてナナの独占状態でしたが、ナナは全く関心を示さず。
 「ホンジャ、帰るべ!」
・・・と、早々に公園を後にしました。やっぱり、春以降の方が公園は良さそうです。でも、広大な公園ですので、安曇野に観光に来たら、昔の原風景を探しに訪れる価値はありそうです。

 1月13日と14日の厄除け祈願の日。今年もいつもの様に、城山の放光寺へ歩いてお参りに行って来ました。
 今年は次女が厄年(前厄)であることもあり、またお寺に行ってから、我々31年生まれが“八方塞がり”の年であることを知って、また今年新しいチャレンジをするであろう長女の分も併せて、どうせなら家族全員の厄除け祈願のご祈祷をしていただくことにしました。
 城山の放光寺へは、今年もアルプス公園の南入口駐車場が臨時の駐車場として、無料のシャトルバスが参拝者をピストン輸送をしているのですが、せっかくですので、我々はいつもの様に家から歩いて行きました。

 信濃国屈指の厄除観音と云われる、松本市の日光山放光寺。曹洞宗のお寺です。松本地方の厄除けとしては、牛伏寺の方が有名ではありますが、放光寺は聖徳太子作の十一面観音(秘仏)を納めるために、730年に行基が開基し、坂上田村麻呂が伽藍を整備したとされ、また泉小太郎が裏の洞窟に住んでいたと伝わるなど、松本平では放光寺も牛伏寺と共に歴史の古いお寺でもあります。
 この厄除大縁日の二日間で、数万人が参拝に訪れるそうです。
初日の朝は込むだろうからと、二日目に参拝することにしていたのですが、初日に夕刻に時間が空いたので、調べてみると一日目は夜7時過ぎまで祈祷受付(二日目は夕刻4時過ぎまで)とのこと。
「だったら、今日行って来ちゃおうか?夕方の方が、朝よりも空いているかもしれないし・・・。」
そこで、お返しする昨年のお札を持って、歩いて裏山の蟻ヶ崎台を上り放光寺へ出掛けました。
参道の両側にはダルマなどを売る縁日の露店が並んでいて、この日ばかりは賑やかです。社務所の受付で、娘たちと我々の厄除けのご祈祷を申込みます。タイミングでたまたまだったのか、次のご祈祷の先頭でした。順番に待合所で待つこと30分弱。待合室も祈祷を待つ人で一杯になりました。一回100人弱でしょうか。本堂の観音堂に奥から順に座り、読経が流れる中、お払いを受け、お焼香をし、それぞれ申し込んだ厄除けの内容と共に住所と家族全員の氏名が読みあげられていきます。最後に祈祷を受けたお札をそれぞれ受領して終了。

 どうぞ今年一年、家族全員が無事で良い年になりますように。

 今回、バス停で並んでバスを待ちながら家内と話をしていたら、地元の方から二度話し掛けられました。

 一度目は河原町四条で。混雑している車と人の波を見ながら、
 「京都に居た学生の頃は、四条通りは4車線だったし歩道はこんなに広く無かった筈だけど、それに市電も走っていて・・・。廃止しないで、今でも市電があれば、観光客を運ぶのにもっとスムーズで便利だったと思うけどなぁ・・・。」
すると、前に並んでいた人が急に振り向いて、“我が意を得たり”とばかり、
 「その通りですワ。市電無くしたんが間違いや。四条通りも歩道拡げて車線減らしたんで狭うなって渋滞しよるさかい、今は観光客相手のタクシーや道を知らない県外車だけで、私等地元の人間はよう通りません。」
 「昔より観光客増えましたよね。学生の頃は、河原町ももっと人が少なくて、普通に歩けましたもの・・・。」
 「今の市長はんは、パリ並みに観光客を増やしたいらしいんやけど、今でもこない混んでるのに、そない増やして一体どうなるんやか・・・。」

 二度目は岡崎公園のバス停でした。
「山元麺蔵」で早昼を食べてから、北野白梅町方面へのバスを探していて、通りの反対側のバス停もチェックしに行ったところ、声を掛けられて、
 「どこ、行きはるんですか?」
 「あのぉ・・・、北野白梅町方面に行きたいんですけど・・・。」
 「そしたら、向こう側ですワ。白梅町やったら、○番に載ったら宜し!○番でっせ。」
 「○番ですね、ご親切にどうもありがとうございます。」
 「いや、何や分からずに迷うてはったさかい、気になってもうて・・・。でも良かった、良かった。ほな、気ぃつけて!」

 如何にも京都らしい・・・。
良く言えば、外モノに優しい愛想の良さ、悪く言えば、上洛して来た(お上りさん)田舎者への“上から目線”の(=優越感に満ちた)お節介、でしょうか?・・・。
 良く云われるところの“京都らしさ”、曰く・・・、
 「京都で“この前の戦争”というと、応仁の乱を指す」
 「京都は帝が千年いらした都でっせ、百年ちょっと東京に臨時で行かれているだけや」
・・・などと、まことしやかに語られることがあります。
また、京都のお宅にお邪魔していて「ぶぶ漬けでもどうですか?」と云われたら、「(まだ長居しはるんやったら)お茶漬けくらしか用意出来しませんが・・・」は、遠回しに“もうそろそろ帰りはったらどうですか?”という合図・・・云々。
本当かどうか分かりませんが、下宿中、何度も近所の大家さんの家に行っても(多分、当時毎月下宿代を持参した様な記憶が)、確かに一度も上がったこと、ましてやお茶を飲んだこともありませんでした。まぁ、仮に言われても、「単にお愛想なので、すぐに従ってはいけない」というのが、京都での一般常識でしたので・・・。
その辺りは、信州の田舎の“縁側文化”(今では殆ど無くなりましたが、昔の茅葺き屋根の農家では、尋ねて来た人に“縁側”でお茶と野沢菜を出して“茶飲み話”をするのが当たり前だった)とは異なりますが・・・。
 数年前にベストセラーとなった朝日新書「京都ぎらい」(「2016年新書大賞」)。著者の井上章一氏は京都の嵯峨野出身で、国際日本文化研究センター教授。学生時代のたった4年間とはいえ、“ヨソモノ”として京都で暮らした者からすれば、謂わば“生粋の京都人による京都嫌い”といった自虐的著作の様に思えるのですが、決してそうではなく、氏に言わせると「洛中と洛外では厳然たる差別(≒区別)が存在する」ということになります。
さすれば、その洛外より更に外からの“ヨソモノ”たる上洛者は、さしづめ“驕る平家”を都から追い出しながら、田舎者の行状で“木曽の山猿”と罵られて都びとに嫌われた義仲公の様なモノなのでしょうか・・・。
 京都人のプライドの高さ、外面の良さとは異なる“腹の中”(=本心)etc・・・。千年もの間、京都は“帝の御座(おわ)す都”だったが故に、時に権力闘争に巻き込まれ、京都そのものが戦場となった応仁の乱を筆頭に、幕末の蛤御門の変や鳥羽伏見の戦いに至るまで、否応なく京の都は何度も戦乱に巻き込まれざるを得ませんでした。それ故に、時の権力に対して、京の町衆が本心を隠してしたたかに生きざるを得なかったのは、或る意味むしろ当然だったのかもしれません。
しかもそうした争いを間近で見ていて、絶対的な権力など無い、未来永劫には続かないと身を持って知っているからこそ、したたかに何百年という歴史を生き抜いた老舗がある一方で、時の巨大企業や組織におもねない数々のベンチャー企業もこの京都だからこそ誕生したのではないでしょうか。
そうした“進取の精神”で人一倍流行に敏感な京都ですから、変なノスタルジーに浸ること無く、したたかに時代に順応していることの方が、或る意味余程京都らしいのかもしれないと、観光客で溢れる清水や河原町を久し振りに歩いてみて、無責任に昔の京都を懐かしむ、たった4年間京都に暮らしただけの“部外者”なりに感じた次第です。

 今回久し振りに行った、京都観光の定番スポットである清水寺。
参道の清水坂は勿論、二年坂、産寧坂(三年坂)も観光客でごった返していました。インバウンドでも、欧米はカップルやファミリーでの個別行動なのに対して、昔の日本人もそうだった様にアジア系は団体が目立ちます。特に、中国や韓国のグループは、旗を目印に、大声で案内しながらなので周囲からも白い目で見られがちです。しかし、土産物屋さんなど観光客相手の店としては大事なお客さん。如何にもインバウンドの外国人観光客相手と思しき、一風変わった(“ジャポニズム”的な要素を誇張した)店も増えています。

また、京都市内を歩いていると、春はともかく、寒い冬でも(おそらく年中)、観光スポットや街中のどこに行っても着物を着た若い女性やカップルが目立ちます。これは殆どがレンタル着物の観光客で、しかも中国人の観光客が多い。着物を着る習慣が廃れた今、着物業界にとってはこの観光でのレンタル需要は大助かりなのでしょうが、値段相応にしても、柄とかも品が無くて安っぽいし、着慣れぬために歩き方が悪いのか着崩れしている子もいたりして、何となく目を背けてしまいます。これも最近云われる一種の“Over Tourism観光公害”なのでしょうか?・・・。昔の様な、如何にも京都といった雰囲気の、着物を召した品の良い初老のご婦人はめったに見掛けませんでした。
 最近の京都は、本来観光客の少ない筈の冬でも、河原町などを歩いていると昔に比べて何だか人の数が倍になった様な気がします。河原町や新京極も、昔はもっと人通りが少なくてゆったりと歩けた様な?・・・。しかも四条通など、昔に比べて(車線が減らされ、その分)歩道が倍くらいに拡張されているにも拘わらず・・・です。確かに、数年前の11月上旬の嵐山。会社の年金セミナーで行ったのですが、紅葉シーズンには未だ少し早いのに、歩道は歩くのにも難儀する程の大変な混雑でした。
では、100万都市である京都の人口が増えているのかと言うと・・・、調べてみると京都市の人口は146万人強。学生時代の1970年代も140万人台だったようなので、人口そのものはそれ程変わってはいません。従って、増えているのは我々の様な観光客。京都市への観光客は、ここ3年連続で5500万人とのこと。大変な数ですが、京都市長はこれをパリ並みの8千万人にするのが目標とのこと。
しかしそうなってくると、街中に人が溢れ、本来計画された都市機能のキャパとしてのインフラが機能不全を起こしてしまいます。
今回中くらいのスーツケースがあったので、ホテルへの移動に際し、市バスでは他のお客さんの邪魔だろうと地下鉄に乗ろうかと思ったのですが、地下鉄は東西と南北の二路線しか無く移動範囲が限定されてしまいます。調べると、行き先に寄っては、有名観光地向けが多い様ですが、Expressという停まるバス停が少ない系統もあり、これなら大きな荷物を持った観光客ばかりで、日頃利用している地元の人(特に年配者や通学の子供さん)が乗れずにバス停に取り残されるということもないかもしれません。またExpressは、通常の路線バスと違って、車内に観光客向けに荷物を置くスペースも設けられていました。市内観光では一般系統のバスにも乗車しましたが、中国からの観光客も含め、インバウンドの観光客も優先座席には座らずに立っている人が意外と多かったのです。昔に比べれば、そうした一般的なマナーも向上していることに、正直驚かされました。少しずつマナーも向上しているのかもしれません。「衣食足りて礼節を知る」。本来、特に儒教の国では、年配者を敬い、弱者を助ける筈。従って、大声やゴミ、飲食店のドタキャンなどの人迷惑な行為は、ルールの徹底や教育などと共に、その国の民度が上がることに依って改善・向上、して行く可能性もあると思います。
昔シンガポール赴任中、まだ乳幼児だった子供を連れた家内がバスに乗ると、地元の若者が率先して席を譲ってくれたり、子供の乗降時には手助けしてくれたりと、日本よりも余程親切だと感心していたのを思い出します。
また観光客の増加に伴って、既存のシステムや仕組みそのものの変更や工夫も必要でしょう。例えば、Expressを更に発展させて、地元の年配者や子供たちの迷惑にならぬよう、地元の市民向けと観光客向けにバスを分けてもイイかもしれません。

 確かに“公害”と云われる様な弊害もありますが、一方で観光客が落とすであろうお金も、経済効果としては莫大な金額になりましょう。かと言って、観光業に拘わらない地元市民はただ迷惑を被っているだけなのか?・・・。京都では昨年秋から宿泊税が徴収されていますので、その税収による市民への還元効果も、当然将来的には期待出来るでしょう。
インバウンドに依る経済効果を期待するのであれば、弊害を減らして行く工夫が、メリットを享受する側、一義的には行政や観光業などの団体の義務としての努力や工夫、そして二義的には副次的効果を享受しうる住民の理解と協力も不可欠だと思います。共存共栄を目指して・・・。
いずれにしても、京都に限らず、せっかく訪れる、尋ねるのであれば、そこで良い思い出を作り、そこを更に好きになってまたいつか再訪する。是非、そんな好循環が生まれます様に・・・。

 奥さまが前回娘と来た時には2時間待ちと言われて諦め、結局食べられなかったという京都で評判のうどん店、岡崎は平安神宮近くの「山元麺蔵」。
今回はリベンジで、何としても食べたいとの奥さまの仰せに、然らばと11時開店とのことから、最終日(平日の火曜日でした)に朝食をスキップして開店前の10時半前にはお店へ到着しました。
すると既に何名か待っておられて、我々は3組目。並んでいると、事前にお店のスタッフの方からメニューが配られて、事前にオーダーを確認。ナルホド、蒲田のトンカツの人気行列店「檍」同様で、お客さんにとってのメリットは勿論ですが、それ以上に、店にとっての回転効率UPも良く考えられています。
 開店予定の11時よりも早めにオープンして入店。カウンターに奥から順番で座ると、すぐに順番毎に(事前に調理済みではなく、座ってから目の前で、それぞれの注文したメニューの)調理が始まり、順々に目の前に運ばれて来ます。
外では次々とお客様が来られて、凡その待ち時間をふまえつつ、整理券が渡されて大体の再来店時間を店の方と確認しているようです。

 我々のオーダーは、私メが冬季限定メニューの土ゴボ天のみぞれうどんに揚げ餅のトッピング、奥さまはセットで土ゴボ天と揚げ餅が付いている「赤い麺蔵スペシャル」。辛味の苦手な家内ですので、悩んでいたら「辛さは調整出来ますよ!」とのことでしたので、辛く無くしていただき、謂わば「麺蔵スペシャル」でしょうか。
こちらのうどんは、モチモチとして腰もあるツルツルとした太麺で、京らしい柔らか目のうどんというよりも、どちらかというと讃岐うどんタイプでしょうか。そして鰹出汁の良く効いたスープが「旨いなぁ!」。
店の名物らしい土ゴボ天はサクサクでゴボウ自体に甘味があります。別皿に盛ってもくれます。その場合はカレーの粉が添えられていますので、そのまま付けて食べても良し。残りをトッピングとして麺つゆに浸けても良し。スープが絶品でしたので、全て飲み干して・・・。常連さんが食べていた、ざるうどんやカレーうどんも実に美味しそうでしたので、今度食べてみよ!・・・っと。
揚げ餅も入ってボリュームがあったので、家内が土ゴボ天を食べ切れずに残すと、お店の方が持ち帰りにとパックに詰めてくれました。
 大行列店の「山元麺蔵」。勿論、その人気の一番の理由は味にあるのでしょうが、何と言っても素晴らしいのは、その接客振りです。
カウンター10席と4人掛けのテーブル2卓だけの小さな店内なのですが、4人程のスタッフがいて、明るい笑顔でお客さんに気配りをしています。着席してから食べ終わるまで、大丈夫か、何か問題は無いかと、3度程声掛けをされました。しかも全く嫌味が無く、自然で、そして心から・・・と感じられて、食べているこちらが、味だけではなく、店内の空気も実に居心地良く感じられるのです。
 「そりゃぁ、当然人気店、行列店になるワ!」
味一筋の頑固オヤジも良いですし、もしかすると“京都人の外面の良さ”かもしれませんが、でも良いに越したことは無いし、全く嫌味の無い、極々自然な振る舞いで、実に素晴らしい!この店の人気の理由が知れて、大いに納得した次第です。

 尚、京都のうどんと云われて個人的に思い出すのは、昔河原町四条にあった「冨美家(ふみや)」。本来は白玉あんみつなどの甘味処だったと思いましたが、ここの鍋焼きうどんが安くて美味しかった記憶があります。今は河原町四条に店舗が無かったので、閉店したと勝手に思い込んでいたのですが、今回錦市場を歩いていたら、ナント「冨美家」と書かれた店があるではありませんか!店頭にうどんのメニューの写真があったので多分間違いない!
今度来たら、昔ながらの?“京うどん”を食べに、家内を連れて来てあげようと思います。確か、「冨美家」の鍋焼きうどんにはお餅が入っていた様な・・・。懐かしいなぁ。