カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
京都に来たら一度食べてみたいと思っていた、「新福菜館」のラーメン。
昭和13年(1938年)創業で80年の歴史を刻んだ、所謂“京都ラーメン”のルーツとされる名店です。
京都での学生時代、貧乏学生だった私メは、当時山科でスタートし、地元京都でチェーン展開を始めたばかりの頃の“餃子の王将”に専らお世話(何しろ、定食が200円ちょっとで食べられましたから)になっていました。
従って、それ程今の様にラーメンに固執した記憶は無く、“天一”を知ったのもずっと後(生来の醤油派故、初めて食べたのも社会人になってから)で、学生時代には行ったこともありませんでした。むしろ京都(関西?)独特の夏の“冷麺”の方が気に入って良く食べた記憶がありますし、温麺だと、京都ではラーメンよりもうどんやニシン蕎麦の方が食べる回数が多かった様な気がします。
そんな学生時代のラーメンで唯一記憶があるのは、店前が思い出せませんが、熊野神社の京大病院の近くのラーメン屋さん。客には迎合せず、時として叱りつける様な、一見頑固そうなご主人でしたが、貧乏学生には優しいオヤジさんで、学生向けの“肉無し”ラーメン(記憶がおぼろげではありますが、時にはオヤジさんの黙ったままのサービス?か、チャーシューが麺の下に隠れている様なこともあったような・・・??)を注文した記憶があります。味は極々普通の優しい鶏ガラベースの醤油ラーメンだったと思いましたが、果たして今でも在るのかどうか・・・。
京都駅から塩小路を東に歩いて5分足らず。「新福菜館」ともう一方の雄「第一旭」が並んでいて、どちらも醤油ベースの“京都ラーメン”の行列店として知られています。どちらにすべきか迷ったのですが、そこは先達に敬意を表し、先ずは新福菜館を食べてから。行列に並ぶ覚悟で行ったのに、たまたまこの日が月曜日だったせいか、どちらの店も店内はそれなりに混んではいましたが行列は無く、すぐにカウンターへ座ることが出来ました。
注文はメニューの中に大盛が見つからなかったので、「特大」とあった新福ラーメン(950円)を選択したのですが、これが後で後悔することに。他の常連さんの様に、普通のラーメン(中華そば)の「小」か「並」を選んだ上で、もう一方の名物であるヤキメシを注文すべきだったかもしれません。
運ばれて来た新福ラーメン。もやしとたっぷりの九条ネギに、薄切りのバラチャーシューが幾枚も載っていて、更に卵黄もトッピングされていました。
先ずは真っ黒なスープをレンゲで啜ります。不思議なコクがあります。京風の薄口醤油ではなく、黒い醤油を使っているので真っ黒ではあるものの、その濃そうな印象とは裏腹に、見た目よりはずっとアッサリとしています。旨い!スープが絶品です。これに中太のストレート麺が良く絡みます。チャーシュー麺では無いのに、薄切りとはいえ、10枚程も載っていて、これでもか!という程に、食べても食べてもチャーシューが無くならずに、スープの中に隠れています。
「特大」とあったように、麺の量がハンパ無い。おそらく大盛より多く、3玉分はあるのではないでしょうか?最後、スープは全て飲み干したものの、終ぞ麺は食べきれずに少し残してしまいました。ラーメンを食べる時は良く大盛を頼むのですが、麺を食べ切れなかったのは、生まれてこの方今回がおそらく初めてです。店の方に申し訳なく、その旨謝って店を出ました。でも、久し振りに醤油ラーメンを食べた様な・・・満足、満足、満腹、満腹・・・で、
「ご馳走さまでした!」
次回は、「第一旭」で食べ比べ!・・・っと。
(それとも、もう一度「新福菜館」で王道の中華そば「小」とヤキメシのセットを食べてからにすべきか?・・・フム、迷うところではあります)
京都に着いた初日。
翌日からはクライアントとの打ち合わせで時間が取れないからと、この日のランチと夕食を娘がアレンジしてくれました。
こちらは二人だと、バーカウンターでお食事が出来る様で、それもなかなか楽しそうですが、我々はそこを抜けて坪庭に面したお座敷へ。
まだ松の内ですので、先付のゴマメに始まり白味噌仕立てのお雑煮など、如何にも京らしいお正月料理も盛り込まれた昼の懐石コースでした。
夜、ディナーに娘が選んでくれてあったのは、珍しくイタリアン。
場所は同じく祇園の『マメトラ』。小路に佇む様な町屋を改装してあり、まだ新しいお店の様ですが既に人気店とのこと。
こちらも事前にディナーコースを予約しておいてくれてあり、すぐに前菜が運ばれて来ました。そのチョコレートのマカロンのフォグラ包み、鮑の蒸し焼き-柚子泡仕立てに始まった前菜から、トリュフのたくさん入ったスープ、初めて知ったイタリアにもあるという(むしろ歴史は・・・考えてみれば当然ですが・・・ローマ時代からか、日本より遥かに古いらしい・・・)というサルジニア島産のカラスミのパペッティーニという細めのパスタ、河豚のフリッと、牛ホホ肉の赤ワイン煮込み。そして最後のドルチェ(奥さまへ)まで全8品。(個人的に)カラスミが些か塩味がきつかった他は、大変美味しゅうございました。
お酒も赤ワインから、しっかりとメニューに在った日本酒まで(選んだのは、奈良の「三諸杉 ひやおろし」。爽やかでスッキリとしているのに、旨味とコクも感じられました。さすがは酒発祥の地)。
「ご馳走さまでした!」
ゴメンね、今日は結構高かっただろうに・・・おかたじけ!・・・っと、フム、京都は何を食べてもナカナカ深い・・・。
清水寺からの帰り路。産寧坂を下ります。
インバウンドの皆さんに人気の清水寺で、しかもこの日は日曜日。参道の清水坂は勿論、お土産屋さんや和カフェと呼ばれる抹茶や甘味処の店など、日本人よりも外国人観光客でどこも大変な混雑。そうした混雑を避けて休憩に入ったのは、産寧坂の途中に見つけた「イノダコーヒ」。
因みに、正式店名は「コーヒ」で、一般的な「コーヒー」の様に長音符(音引き)である「ー」が付いていません。思うに、1940年という創業当時の「珈琲」本来のカタカナ読みなのでしょうか。
店内にはさすがにインバウンドのお客さんは一人もいなくて、落ち着いた店内。東屋風の庵の建つ庭園に面していて、老舗料亭が入る「青龍苑」とのこと。他にも京雑貨の土産物屋さんやお香、八ツ橋、京つけもの屋さんなどが並んでいます。
私にとっては、学生時代に何度か通った懐かしのイノダコーヒ。いつものシアトル系ではありませんが、ケーキセットを頼んだ家内たちにもブレンド珈琲の味わいが意外と好評でした。
そこで翌日、河原町の近くに在るイノダコーヒの本店に朝食を食べに行ってみることにしました。
場所は寺町の先の堺町通三条下る。河原町三条から新京極を抜けて、途中懐かしの十字屋や、如何にも京都らしい扇子のお店など昔から続く店舗も並ぶ通りを抜けて西へ進みます。
暫く行くと、イノダコーヒの三条店がありますが、三条店は確か大きな丸テーブルがあって、一人ならこちらの方がお薦めですが、今回はせっかくなので歴史を感じる本店へ。
二人共、イノダ名物(?)のモーニング「京の朝食」(1440円)をオーダー。
喫茶店のモーニングセットとしては少々お高めかもしれませんが、大きめのお皿に盛られたたっぷりの野菜サラダに、スクランブルエッグと軽く炒めたボンレスハム二枚に櫛型のオレンジも添えられたモーニングプレート。そしてオレンジジュースとクロワッサンも付いて来て、実にボリューミーです。
選んだ珈琲は二人共昨日と同じで、私メがモカベースの「アラビアの真珠」で家内は「コロンビアのエメラルド」。イノダのマークがプリントされた厚手で深めのコーヒーカップに入れられた「アラビアの真珠」は私好みの深焙りタイプで、久し振りの濃い目で酸味の効いたモカベースの珈琲が美味。松本だと、マルモの珈琲の味を思い出します。
家内も昨日飲んだ「コロンビアのエメラルド」が気に入ったらしく、シアトル系やいつものアメリカンタイプではなく、イノダの濃い目のブレンドを美味しいと珍しく喜んでいました。
京都の街は、歩いていると懐かしかったり珍しかったり、結構面白いモノに出会えます。
例えば、産寧坂の老舗の漬物屋さんの店頭に積まれていた、千枚漬に使うであろう聖護院カブ。観光客向けのディスプレイにしても、如何にも冬の京都らしい風景です。
また東山で夕方見つけた、外国人向けのゲストハウスの看板犬ジロー。昼間の仕事疲れで、道に面したウィンドウ越しに只今休憩中とか・・・。気持ち良さそうにグッスリ寝ていて、思わず「お疲れさま!」。
岡崎公園に置かれていた、懐かしの京都市電。河原町通りを走る市電を、私メも毎日通学で使っていました。もし今も残っていれば、LRTとして京都の観光を支える先端の都市交通になっていたかもしれません。
最後に、京都駅の烏丸口に置かれていた「羅生門」の復元模型。1/10のスケールトのことですが、横8m縦2.4mという結構な大きさ。平安遷都1200年を記念して、宮大工組合により造られた復元模型とのことです。
羅生門は、九条通りに置かれた平安京への正門とのことですが、賛否両論の京都タワーをバックに建つ様は、何だか千年の時を越えて、新旧の京都を象徴している風景の様な気がしました。
二泊三日の京都滞在で迎えた“二回”の朝。
明るくなるのを待って(他にすることも無いので)、奥さまと一緒に早朝ウォーキングに出掛けました。
岩盤の上に在るために、「夏は暑く、冬は寒い」と云われる京都。
確かに一回生の夏、いきなりの38℃越えの日が2~3日続き、生まれて初めての体温オーバーの気温にノックアウト。一方、京都の冬は信州から来た学生にとっては“底冷え”と云われてもヘッチャラで、“アルプス颪”に比べれば比叡颪などどこ吹く風だった記憶があります。むしろ、モミジの緑と赤の季節に比べれば、観光客の少ない冬の京都の方が、信州人の自分にとっては、凛とした古都の雰囲気がより深みを持って素敵に感じられた様な・・・。
今回の早朝ウォーキングも、ホテルが東山だったので、先ずは東大路を上って、同じ宗派である浄土宗の黒谷さんからから哲学の道に進み、疏水沿いに歩いて、永観堂から南禅寺へ。
疏水沿いの哲学の道。出勤で歩く方はおられましたが、冬の平日でもあるせいか散歩している方も殆どおられず静かそのもの。
哲学の道を若王子神社まで歩いて永観堂へ。哲学の道は全長2km程で、北は銀閣寺まで続いているので、今度来たら、家内のリクエストに沿って銀閣寺まで歩いてみようと思います。
永観堂から南禅寺へ。冬の永観堂は、紅葉の季節が嘘だった様に誰一人としておらず、静まり返っていました。外から、大好きな見返り阿弥陀さまに手を合わせて南禅寺へ向かいます。
途中、“イノシシ騒動”で有名になった(?)東山高校の前を通り、一瞬、「イノシシ、居ないよね?」と辺りを見回していまいました。
そして二日目は二条通りを西に進んで、鴨川の河原を五条まで歩いてみました。途中、大きな屋根のお寺さんがあり、東山魁夷「年暮る」に描かれたお寺かと思いましたが、良く見ると屋根が東西に向いていて、「年暮る」のお寺は南北ですので違いました。因みにお寺は「妙傳寺」とありましたが、後で調べてみたら、京都ホテル(現ホテルオークラ)から見た「年暮る」の町屋の続く街並みの向こうに描かれているお寺は「要法寺」でした。
早朝の鴨川。夏は川床が並び、広い河原には若いカップルが点線模様の如く規則的に川べりに座っているのでしょうが、冬の、しかも早朝の河原には時折散歩の人が歩いているくらい。川の淵では、青鷺や鴨が小魚を捕まえているようです。また、カモメの様な鳥はミヤコドリとも呼ばれるユリカモメでしょうか。ミヤコドリと云えば、
『名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと』(在原業平)
京都で学生時代を過ごした人間にとっては、有名なお寺や神社よりも、むしろ何気ない日常的な鴨川の風景の方が、いにしえの“都びと”にとってのミヤコドリの様に、学生時代の京都を思い出させてくれる風景です。
三日目、京都での最終日。
午前中打ち合わせがあるという娘とはホテルで別れ、我々は京都駅へ。駅で荷物を預けてから、既にお土産は買ってあるので、最後に京都での半日観光です。時間節約も踏まえて、駅から至便という意味では、もう西本願寺も東寺も以前拝観済み。そこで駅からの移動し易さから選んだのは、宇治の平等院。
以前、娘が米国で日本文化を紹介するために一週間程のショートコースでの茶道研修を宇治の老舗のお茶屋さんで受けた際に、彼女も修学旅行以来でしょうが、平成の大改修後の平等院を訪ねてとても良かったと言っていたのを思い出した次第。我々も平等院は修学旅行以来ですので、殆ど50年振りです。
『平安の人々が終末思想として危機感を募らせた「末法(まっぽう)」が1052年に到来し、その死後への不安から浄土信仰にすがって極楽往生を願い、その翌年に時の関白藤原頼道に依ってこの世に極楽浄土を出現させるべく阿弥陀堂として建立されたのが、この平等院鳳凰堂である。』
・・・ということになります。
平成の大改修を終えて創建時の姿に蘇ったという鳳凰堂の外観は、色褪せた朱ではなく、より“渋さ”の際立つ茶系統の朱色に塗り直されて、変な日本語表現ではありますが、“品のある鮮やかな落ち着き”を湛えているようにさえ感じられます。もし創建時も、阿御堂内部の様な赤や青の極彩色でなく、この色であったとすると、末法思想が背景にあったにせよ、創建当時から結果として日本的な美意識に包まれた御堂だったと知りとても感動しました。
せっかくでしたので、追加料金(300円)を払って鳳凰堂内部への拝観ツァーに参加。15分足らずではありましたが、鳳凰堂内部に入って、見上げる様にご本尊の国宝阿弥陀如来坐像を間近に拝みながら、同じく国宝の天蓋や壁面で様々な楽器を奏でて阿弥陀さまを讃える52体の国宝雲中供養菩薩を間近に眺めることが出来ました。
御堂から出て、池越しに有名な丸く明けられた窓の中からの阿弥陀さまのお顔を拝んでから、宝物館である鳳飛館に向かいました。平成の大修理に合わせて新たに建築されたこのミュージアムは、丘陵地を利用して地下室的に作られていて、その見事な設計に感心しつつ、安置されている国宝の梵鐘、国宝の鳳凰、」同じく国宝の雲中供養菩薩26体を間近に鑑賞することが出来ます。また建当時の鳳凰堂内部の色鮮やかな彩色を再現した部屋なども見学することが出来、記憶はおぼろげながら、50年近く前の修学旅行当時より遥かに見応えがありました。
10円硬貨に描かれた鳳凰堂や一万円札の裏の鳳凰など、我々日本人にとって大変馴染のある平等院鳳凰堂。
現世での極楽浄土を末法思想に慄く平安の人々に見せた鳳凰堂ですが、拝観後不思議な程に、ストレス溢れる現代に暮らす我々の心にも平穏と安寧をもたらせてくれた様に感じました。
宇治平等院鳳凰堂、半生記振りに訪ねて本当に良かったと思います。
京都二日目。午前中から夜の会食まで一中クライアントとの打ち合わせという娘とは別行動で、我々は市内観光へ。
残念ながら冬の特別拝観は未だですし、昨日初詣は済ませたので、
「さて、どこへ行こうか?」
・・・と、冬の京都観光での行き先選びはなかなか難しい・・・。
そこで選んだのは北野天満宮です。子供たちも含めて試験や受験は我が家はもう関係無いのですが、学生時代の後半近くの七番町の下宿に居たので懐かしいこともありますし、梅苑は未だ無理でも、もしかすると早咲きの梅が咲いているかもしれません。
境内の白梅が綻び掛け、早咲きの紅梅が咲いていました。またテントでは如何にも初春の天神さんらしく、家に持ち帰って御利益の梅の花を咲かせるべく、剪定で切った境内の梅苑の梅の枝が厄除玄米の入ったヒョウタンの形の器と一緒に招福の「思いのまま」として販売されていました。もし受験生を抱えていたら絶対に買って帰りたくなりますね、きっと。
手水で手を清め、神様のお使いである牛をなでてから三光門をくぐり、国宝である本殿に参拝。本殿前にはご神木の松と梅が植えられていて、この梅が大宰府の「飛び梅」伝説と同じ種の「紅和魂梅」とか。
天満宮の御祭神はご存知の通り菅原道真。彼を妬んだ藤原氏の讒言に依り大宰府に左遷されて僅か2年で没した後、都に起きた天災が道真の祟りとされたために名誉が回復され、その怨霊を鎮めるために建てられた社です。
『東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』
本殿の周りを一周すると、絵馬の掛所には溢れんばかりの願い事が書かれた絵馬と順番待ちの参拝客がおられました。そして、秀吉が築いた洛中洛外の境界線でもある土塁「御土居場」一部が残っていました。
北野白梅町からのバスは京都駅に行った方が便利なので、明日帰郷するのに楽な様に、駅周辺で親戚や知人へのお土産を購入し、一旦ホテルへ置きに戻りました。
「さて、この後どうしようか?」
すると奥さまから、以前我が家の総本山である知恩院に娘とお参り行った時に、隣にあった「青蓮院」というお寺に行って見たいとのこと。何でも、お庭がキレイらしいのですが、これまで行ったことはありませんでした。
東山の粟田口にある天台宗の「青蓮院門跡」。その名の通り皇室縁のお寺で、江戸時代には内裏が火災にあった時に仮御所が設けられ、「粟田御所」とも呼ばれた由緒あるお寺さんでした。
因みに、京都の夜景の展望スポットである東山の山頂「将軍塚」は青蓮院の飛び地で、そこに2014年に奈良国立博物館に依託されていた国宝「青不動」を納める「青龍殿」が立てられて人気スポットになっている由。
青龍門跡は仮御所らしく、寝殿や小御所と呼ばれる建物があり、寝殿前には橘と桜が左右にも植えられています。こちらのお庭は、相阿弥作と伝わる池泉回遊式の庭園と山裾には霧島つつじの築山を中心とした小堀遠州作の庭があり、華頂殿と呼ばれる書院造りの気品ある室内からの庭の眺めも素敵ですが、外に出て一周しながら歩くことが出来ます。そして、寝殿前の苔むした庭の奥には京都市の天然記念物指定の大きな楠が何本かあり、隅の鐘楼は自由に鐘を撞いても良いのだとか。我々も願いを込めて撞かせていただき、市中に静かに染み入る様に鐘の音が響いて行きました。
観光客の溢れる京都ですが、拝観する観光客も少なく、境内はひっそりと静まっていて落ち着いた雰囲気。
そういえば京都での学生時代、今でも一番好きな仏像なのですが、何かあると、永観堂の誰も居ない見返り阿弥陀の前で手を合わせてじっと物思いに耽っていましたっけ。今では観光客で溢れていてあり得ないと思いますが、そんな懐かしい学生の頃の落ち着いた京都を思い出す様な、とても素敵なお寺さんでした。
松の内も明けきらぬ6日に、米国在住の長女が、クライアントである京都のスタートアップ企業の米国市場進出のための打ち合わせで帰国するとのこと。そこで我々も便乗して、彼女に会うべく京都へ出掛けることにしました。
午後一番で京都に到着。ジパング倶楽部会員である奥さま(女性は60歳からですが、男性は65歳以上。これって差別では・・・?男性の方が寿命も短いのに不公平です)によるとのぞみは割引対象外とのことで、中央西線の特急しなのから名古屋での乗り継ぎはひかりに乗車しましたが、同じ700系で京都までノンストップでした。
冬の京都は、ごった返していた秋の紅葉の頃の京都に比べると、インバウンドの観光客の多さは相変わらずですが、さすがに街中は多少空いている様に感じました。因みに、「京の冬の旅」の特別公開は1月10日から。、7日までは松の内で、市内の寺社仏閣はまだ初詣期間中。今年の正月は年始客の準備で、松本でも初詣には未だ行けていません。先ずはホテルに荷物を預けて、せっかくですので我々も初詣に出掛けることにしました。今年の初詣は京都になりました。
松の内も既に6日とはいえ、四条通から入った境内はたくさんの屋台が並び、初詣の参拝客で混雑していました。八坂神社というと、四条通の突当たりに鎮座する社の朱色の門(西楼門)が思い浮かびますが、正門は南側(南楼門)とのこと。
手水で清めてから本殿に参拝。今年一年、家族の健康と家内安全をお祈りして、正門の南楼門からご挨拶をして退出。
まだ時間もあったので、親バカで、地主神社へ娘の良縁祈願のお参りにも行くことにしました。
地主神社は清水寺の境内にあるのですが、本殿経由で無いと行くことが出来ないため、本殿への拝観料が必要でした。
余りに有名スポット過ぎて学生時代も来たことはなった筈なので、おそらく修学旅行以来であろう清水寺は、現在50年振りという本殿の大修理中。檜皮葺きの屋根の葺き替え工事等で、懸造り(昔は懸崖造りと習った様な?)の舞台も含めて、工事用シートで本殿はすっぽりと覆われていて見ることは出来ませんが、逆に50年に一度しか見ることが出来ない貴重な風景なのかもしれません。但し、懸造りは本殿の舞台に比べれば小規模ながら、舞台の上から山側の奥の院の懸造りを見ることが出来ます。
京都での良縁祈願のパワースポットとして有名な縁結びの地主神社は、さすがに恋愛成就を願う若い女性たちで混んでいました。祭神は大国主命。縁結びで知られる出雲大社と同じだったとは(余り興味関心も無いオトコ故)知りませんでしたが、ナルホドと納得です。親バカ二人で、娘のためにしっかりとお参りをしました。
清水さんでの目的は果たせましたので、観光客で順番待ちの音羽の滝も無視して帰路の途に。
参道は勿論、二年坂、産寧坂(三年坂)も観光客でごった返しています。途中、京都のシンボルでもある八坂の塔(法観寺五重塔)に寄ってホテルに帰りました。昔に比べて、「古ければ只それで良い」と云うつもりは毛頭ありませんが、当たり前の様に“創業何百年”という老舗が軒を連ねていたのに代わって、今風の、特にインバウンド向けの観光客相手の店が増えた様に思います。
明けて2019年。三が日と松の内にお年賀のお客様がありました。
色々(奥さまが)思案の末、久し振りにお重詰めのおせち料理を購入することになりました。娘たちが巣立つ前は、毎年買っていたのですが、その後は、黒豆や伊達巻、煮〆などお正月の定番料理は家内が自分で作って、スーパーで買った数の子や酢ダコなどと一緒にお重に詰めて自家製のおせち料理を用意していました。因みに我が家では、大晦日に年取り魚の鰤(松本は古来“鰤街道”の野麦峠を越えて運ばれて来たブリですが、同じ信州でも、鮭の遡上した千曲川沿いの東北信ではサケになります)、明けて元旦の朝は豆や栗でお茶を飲んで新年を迎え、お昼に芋汁。そして、二日目の朝に初めてお雑煮というのが昔からの我が家独特の(同じ松本でも芋汁ではない家も多い)年末年始の風習です。
久し振りに購入した三段重のおせち。昔は普通に2万円していましたが、今は競争も激しいのか、1万円からあるのだとか。そして、同じ2万円でも昔に比べると随分豪華になりました。
ネット検索すると色々あり過ぎて迷う程とかで、結局高島屋の通販で、少し奮発して3万円弱の3段重を購入。更に、信州らしくと、イワナの骨酒セットも併せて注文(長野県内には無く、岐阜県の飛騨地方のお店から)しました。
次女も、年末の渡航客でごった返す羽田での勤務を終え、たった一泊だけでしたが三が日に帰省して来てくれました。
新年早々、且つあまり新年“ぽくもない”レシピの話題で恐縮ですが、久し振りにタイ米が食べたくなりました。
いつもはここでも紹介させていただいた「ヤマモリ」のグリーンカリー(煮込み用の「こぶみかん」の葉が附属しているなど本格派の本場の味!)なのですが、ワンパターンなので、今回は東南アジア風の“ぶっかけ飯”が無性に食べたくなりました。そこで、生のバジルはもうありませんが、霜が降りる前に作ったドライバジルがたくさんあるので、それを使ってタイ料理のガパオライスに挑戦してみました。
タイ料理の定番の一つでもあるガパオライス。日本語的に云えば、“鶏肉のホーリーバジル炒めご飯”とのこと。以前、国立新美術館に行った際に「クルン・サイアム六本木店」で食べたガパオライスが絶品でした(第1309話参照)。ガパオというのはバジルの一種である熱帯のアジア原産のホーリーバジルのことらしく、またシンガポール風のチキンライス(海南鶏飯)をタイではカオマンガイと呼びますが、ガイというのが鶏肉のことだそうで、ガパオライスも本来現地では「カウパッガパオガイ」というのだそうです。意味は、それぞれ「カウ=ご飯」、「パッ=炒める」、「ガパオ=ホーリーバジル」で「ガイ=鶏肉」。日本ではそれを略して、ガパオライスと一般的に呼ばれています。
自分で作るに当たってのポイントは、何と云ってもナンプラーではないでしょうか。勿論料理名にある通り、バジルも重要なのは間違いないのですが、やはりあの味付けの決め手は何と言ってもナンプラーにある様に思います。
ナンプラーはベトナムのニョクマム同様、アジア独特の魚醤の一種です。日本にも秋田のしょっつる(塩魚汁)や能登のいしるなど、旨味調味料である魚醤が郷土の味として伝わっていますが、同じアジア圏であることを発酵調味料が認識させてくれます。
個人的には、東南アジア風のぶっかけ飯なので、汁気が残る様に液体調味料を少し多目にします。食べる時は、左手にフォーク、右手にスプーンが必須でこれぞ東南アジア風!
“では、いただきます。♪”
新年 明けましておめでとうございます。
2019年、信州松本より謹んで新春のお慶びを申し上げます。
元旦の朝起きてみると快晴で、空には雲一つありませんでした。そこで、日の出の時刻に合わせてナナの散歩を兼ねて家奥さまと初日の出を拝みに家を出ました。7時20分、我が家の辺りからだと、この時期の太陽は美ヶ原の王ヶ頭と鉢伏山の中間。ちょうど山辺の谷の辺りから上って来ます。雲一つ無い、久し振りの見事な初日の出に、家内と一緒に今年一年の家族の安寧を祈りました。
年末年始休暇に羽田から海外に出掛ける旅行客の対応を終えた次女も、この日の朝のあずさで帰省して合流。久し振りに賑やかなお正月になりました。
世の中色々不透明さが増してはいますが、どうか新元号となる今年は災害の無い穏やかな一年であって欲しいと思います。
(写真は、奥さまの正月用の生花です)
今年一年の皆さまのご多幸を、ここ信州松本より謹んでお祈り申し上げます。どうか良い年になりますように。
本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。
カネヤマ果樹園一同+ナナ