カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
10月中旬、13日と14日の土日の週末。里山も色付いて来ましたので、早朝ウォーキングでトレーニングを兼ねて急坂を登ってのアルプス公園と、久し振りの松本城へ行ってみました。市街地の松本城へは、我が家のある高台の沢村からの行きは下りですが、帰りは結構な上り坂になります。
土曜日のアルプス公園へは母をデイサービスに送り出してから。
我が家から一番の急坂を登るコースで、裏山から蟻ヶ崎台を経て旧道からアルプス公園へ向かいます。既に10時過ぎでしたので、マレットゴルフに興ずる高齢の方々のグループが何組もプレーされていて、ボールを打つ音が響いています。ここはかなりアップダウンがあるので、河川敷よりも遥かに面白いのでしょう。人気コースです。
残念なのは、ピクニック広場からの安曇野越しの北アルプスの絶景が、伸びた木々の枝に遮られて、以前に比べると半分ほどしか展望出来なくなってしまったこと。多少でも枝を伐採して落とせば、晴れていれば白馬などの後立山連峰まで見えて、もっと景観が良くなるのに残念です。
ここに限らず、予算が厳しいのか、或いは指定管理者制度により(自治体が管理するのと比べ、どうしても利益優先にならざるを得ないため)隅々まで管理が行き届かないのか、以前に比べて少々荒れて来ているのが地元民としては些か気掛かりです(かと言って、入園料を徴収しては本末転倒ですが)。
廃業した「まきば山荘」の基礎をそのまま活用して整備された「展望広場」も、確かに北アルプスと松本平の景観は素晴らしいのですが、殺風景でナントも勿体ない気がします。全て不要とは云いませんが、過去の“箱モノ”建設に投じられた税収からの建設費の百分の一でも回せたら、もっとちゃんと整備が出来るだろうに・・・。
翌日は松本城へ。そば祭りは既に終了しましたが、日曜日ですので朝早くからインバウンドを含めたくさんの観光客の方々が来られていました。
この日は曇り気味で、残念ながら北アルプスは厚い雲の中。
城内の木々はもう紅葉が始まっています。ただ今年の猛暑の影響か、お堀端の桂や桜の木々は既に葉が枯れたり落ちてしまったりしていて、いつもの秋に比べて些か寂しそうです。
この後、街路樹のナナカマドの実が赤く色付き始めていた大名街を通って、縄手通りから四柱神社に参拝。境内には、最近では珍しい神社での神前結婚式があるのか、正装し着飾った集団がおられました。
「どうぞお幸せに!」
我々も、娘たちの幸せを願って、お手水で清めてから本殿にお参りし、再び松本城の二の丸御殿跡を通り、お城を抜けて帰路に着きました。
二の丸御殿跡の大きな楓が天守閣が隠れる程に葉を拡げていて、こちらは見事な紅葉を見せ始めていました。今日は雲の中ですが、里の紅葉越しに、北アルプスの峰々が白くなるのも間も無くです。
身近な“小さな秋”を楽しめた、信州松本の早朝ウォーキングでした。
東京での三日目、最終日。
ゆっくりとホテルをチェックアウトした後、早昼を食べてから帰ることにしました。
「また活に行く?松本じゃ新鮮な光り物は食べられないんでしょ!」
「う~ん、でもそれじゃあ余りに芸が無い・・・」
と、迷った末に選んだのは“蒲田中華”。ご存知、蒲田は“羽根つき餃子”発祥の地。ホテル近くの「歓迎」はこれまでに何度か食べているので、今回は別の店を試してみることにしました。
有名な“蒲田羽根つき餃子御三家”は、終戦後家族離れ離れになりながら1979年に大連から引き揚げて来られたという八木さんが始められた元祖「你好」と妹さんの「歓迎」、そして弟さんの経営する「金春」です。
その結果蒲田には他にも餃子屋さんが集まり、“餃子激戦区”になったのだとか。勿論、餃子以外の中華メニューも豊富です。「歓迎」で以前食べたニラレバや野菜炒めも絶品でした。
JR蒲田駅東口の駅前ロータリーを渡った先の路地を歩いて3分程で、商店街の中にあります。入ってから知ったのは、このお店は「金春」の息子さんが営む、謂わば「金春」の姉妹店。こちらも競うように、来店した“石チャン”などの芸能人の色紙や来店時の記念写真が店内にたくさん飾られています。
「歓迎」よりは狭い店内ですが、歴史が新しい分だけ清潔そうな雰囲気。奥がガラス張りなので視覚上もっと広く感じますし、テーブルの間隔はギッシリで狭かった歓迎より広めにとってあります。また後で分かったのは二階席もあるようでした。また4人ほどいるコックさんの厨房がオープンキッチン風に見えるのも安心感がありますし、中国語が飛び交って現地風の活気も感じます。
常連と思しきお一人様や会社勤めの方が、この日6種類用意されていた日替わりのランチ定食を注文されると、もう炒めるばかりに材料を分けて事前に準備されているのでしょう、それこそあっという間に料理が運ばれて来ます。
「早っ!」
我々は、メニューを見ながら、羽根つき餃子、エビ入り蒸し餃子、肉野菜炒め、ニラレバを注文(+ノンアルコール・ビールも)。
すると、ニコニコと愛想の良いオバサン(いや失礼!お姉さん)から、
「蒸し餃子は、チョット時間掛かるヨ。イイ?」
「はい、モーマンタイ(無問題)です」
中華料理は大人数でないと色々なメニューを楽しむことが出来ません。本来は前菜に始まり、野菜、魚、肉、スープなどのジャンル毎にコース料理風に頼むのが王道ですが、二人ではこれが限界。
あぁ、シンガポールで良く食べた「蒸したガルーパ」(Grouper:日本で云うハタの一種)が懐かしい!・・・。淡白な白身は勿論美味しいのですが、最後に残った甘い醤油ベースの汁をご飯に掛けて食べる、所謂“ぶっかけ飯”が何より最高でした。
最初に野菜炒めが運ばれて来ました。野菜がシャキシャキして、味付けも薄味で旨!続いて羽根つき餃子。大振りな餃子が5個で320円です。皮が厚めでモッチリとしています。「歓迎」の方が“羽根”がパリパリしていた様な気がします。こちらの餃子もやはりニンニク不使用なので、お勤めの方でも安心して食べられます。肉の臭みも無く、我々的には「春香園」の餃子の方が好みでした。エビ入り蒸し餃子は「歓迎」の方がプリプリだったかな。
ニラレバがなかなか来ないので聞くと、オバサン(お姉さん)が厨房に確認して「メイヨー(没有)!」と応える声が聞こえて来ました。
「ゴメン、注文入って無かったヨ!」
そこで、改めてオーダーし、併せて「歓迎」での反省(ニラレバは少々味付けが濃い目だったので、ご飯と一緒に食べた方が美味)で小ライスも。
すぐに運ばれて来ました。旨!やはりライスに良く合います。レバーは歓迎の方が柔らかだった様に思いますが、野菜がシャキシャキして味付けはこちらも美味!残さず全部残らず平らげて、
「ご馳走さまでした。美味しかったです!」
お腹一杯になって、糀谷の次女のマンションで衣類を積みかえての帰路。
いつもの首都高の羽田ランプ入り口が3月までの工事中で閉鎖とのこと。そのため、ナビの案内で大井JTから高速へ。平日の午後一で空いていて、新宿からの合流もスムーズでした。しかし、田舎者は首都高から中央高速へ合流すると、なぜかホッとします。ふ~っと溜息一つ。
「さて、ゆっくりと信州へ帰るとしますか・・・。」
今回家族四人全員で夕食が食べられるチャンスは一回だけで、長女の仕事での打ち合わせの後。その打ち合わせの場所が五反田とのことで、渡米前に娘が住んでいた場所でしたので、今回選んだのも娘の推薦で「居酒屋ほうせいどう」というお店。奥さまは、一度娘に連れられて来たことがあるお店だとか。ご夫婦二人で切り盛りされているアットホームで美味しいお洒落な居酒屋とのこと。ランチもやっているそうです。
グーグルマップで経路検索し迷うことなく現地到着。娘が五反田に居た頃、何度か家事手伝いに来ていた家内は、お店が朝のウォーキングで歩いたという目黒川近くだったので懐かしがっていました。ご夫婦でやってらっしゃるお店なので店内はそれ程大きくはなく、カウンターを含め20席程度。我々は一番奥の4人掛けのテーブル席へ。
「んもう、お腹ペッコペコ~!」
長女が来るのを待とうという私メに欠食児童の母娘が抗って、何品か先に注文。
メニューを見ると、創作料理風の手書きの品揃えがたくさん書かれています。
ドリンクメニューは今風で、芋や麦含めて本場九州の焼酎類が充実しています。日本酒は埼玉など首都圏中心の焼酎に比べるとやや少なめの品揃え。
先ずおつまみに、懐かしいクリームチーズの醤油漬け(昔次女が学生時代に住んでいた神楽坂で連れて行ってくれた焼鳥屋さんで食べて感動したクリームチーズの味噌漬け。その後自家製でも作って我が家の定番メニューになりました)。奥さまはポテトサラダとコロッケ。次女は大好きな牛タン焼。
その後長女も合流し、追加で刺身盛り合わせ(この日はサンマ、カンパチ、真鯛でしたが、カンパチが新鮮で驚くほどシコシコしていて実に美味!)、チヂミ、ピザ(生地から自家製なのだとか)。そして出汁巻きたまご(薄味ですが、ナントも上品!奥さま曰く、過去最高の逸品!)
決して高級食材を使っている訳ではなく、どのメニューも庶民的な値段設定ですが、新鮮な食材を使ってどれもこれも一工夫がされていて、料理人であるご主人の拘りが感じられます。お二人共テキパキとした仕事振り。我々の前にカウンター先客がいましたが、テーブル席は全て予約の様で満席になりました。平日でも事前に予約しないと無理そうです。
ただ、二人でやっておられるので、こちらにまでお二人の“緊迫感”が伝わって来る程に“テン張って”いるのが分かります。もう少しゆったりとした余裕を以ってやらないと、プツンと糸が切れてしまいそうで、「大丈夫だろうか?」と関係無い我々までもが心配になる程・・・でした。
長女曰く、
「昔は全然混んでいなくて、食事に来ても、すっごくご夫婦がフレンドリーでお話ししたり、家庭的で居心地良かったんだヨ!」
コストばかりでなく人を雇うと管理など色々大変ですし、ご夫婦二人で出来るならそれが一番ですが、でももう少し料理に時間が掛かっても客的には全然許容範囲。
「体が第一。そんなに無理する必要ありませんヨ!」
と何だか声を掛けたい程でした。
料理はどれも美味しくて、しかも(私メ以外はお酒を飲まないのが理由にせよ)4人で1万円ちょっとなのですから、この場所でこの値段ではコスパ良過ぎです。
部外者の大いなるお節介ではありますが、出来れば(例え価格を多少上げてでも)もう少し余裕を以って運営して、出来るだけ長くお店を続けていけるようにと願っています。
東京滞在中、唯一自由時間が取れた10月3日。
コンサート、落語と都内のイベントスケジュールを調べてみましたが、平日でしたので余り興味を惹かれるモノはなく、では美術展は・・・?
この夏トウハクに火焔土器や国宝土偶が全て集結して人気だった縄文展は既に終わっていますし、我が国での開催としては過去最大というフェルメール展は残念ながら5日の開幕。山種は名作揃いではありましたが、今回目玉の御舟「名樹散椿」は後半展示でしたし、既に同館で観賞済み。そこで今回唯一興味を持ったのは、サントリー美術館で開催中の「京都・醍醐寺-真言密教の宇宙」展でした。
大学受験で国立大学を落ちてから遅れて探した下宿が“洛中”には見つからず、結局大学一回生の時に住んだのが大学からも遠い山科でした。
秀吉晩年の「醍醐の花見」でも知られる醍醐寺は、住所は伏見区ですが京都の山科盆地の南側に位置し、その山科でも醍醐寺へは最寄の京阪と隣接するJRの山科駅から更にバスで30分程乗らねばならず、行くには結構不便でしたので京都の学生時代にも一度も拝観したことはありませんでした。
サントリー美術館へは数年前に「若冲・蕪村展」で来ています。3階の受付から入場。平日のせいもあるのか、或いは地味なのか然程混んではおらず、お陰でじっくりと閲覧観賞することが出来ました。
京都醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山。中国唐で修業し、真言密教をもたらした弘法大師空海の孫弟子にあたる聖宝が874年に開山。醍醐天皇の庇護を受けて拡大発展。応仁の乱の戦乱で荒廃しますが、秀吉等の帰依を受けて再興されて今日の姿になったそうです。
醍醐寺は真言密教の一大拠点として、その教えを守り続け、2016年に本家にあたる中国上海と西安で醍醐寺に伝わる寺宝の大規模な“里帰り”展を開催し、80万以上もの現地の方々が来場して大成功を収めたのだそうで、今回の特別展はそれを記念しての開催とのこと。
今回の特別展では、3mを越える薬師堂本尊の国宝薬師如来坐像をメインに、不動明王を始めとする国宝五大尊像、真言密教のポイントをメモ書きしたという空海直筆の国宝大日経開題など、国宝39点、重文58店を含む122件が展示されています。
特に4階の展示会場から3階の会場へ下る階段正面に安置展示されている薬師如来は展示のハイライトであり、薬師如来さまのその神々しいお姿に自然と合掌しながら拝観をしました。また空海直筆の国宝大日経開題は、びっしりと書かれた文字から、先進知識を貪欲に吸収し自国に持ち帰ろうとする“熱き意欲”がほとばしる様な、そんな熱気が感じられました。
遣唐使として、この国のために、進んだ技術や知識を“先進国”に学び持ち帰ろうと正に命を掛けて海を渡って行った青年たち。我が国のそうした若者のほとばしる様な意欲が熱く高揚したのは、遣唐使と敗戦後のフルブライト留学生の二つだけだったのでしょうか。
以前、アジアからの留学生向けの奨学生面接をしていた時に、将来の自身の夢や成功を熱く語る中国人を中心とした若者が多かった中で、例外無く誰もが「遅れている自分の国の発展のために」と留学の目的を必ず語っていたベトナムからの留学生達を思い出しました。
我が国の密教文化に触れて、阿修羅や弥勒といった仏像の様な人気や華やかさとは無縁な、しかしその深い精神性を感じ、少しは密教文化の世界を理解出来た展覧会でした。
二日目の午前中、表参道に用事のある奥さまとは渋谷駅で別れ、私メはそのまま新宿へ。
この前テナントビルが取り壊されていて行けなかったディスクユニオンのクラシック館が、迂闊にもすぐ隣の紀伊国屋ビルの8階に移転していたことを知り、今回の自由時間に行くことにしました。
幾つか欲しかったCDを探した中でスクリャービンの作品の一枚だけが見つかったので購入し、併せて階下の紀伊国屋でも文庫本と新書版を物色して、これまた読みたかった新書版を購入(こちらは勿論信州でも買えるのですが)。
奥さまからのいつもの表参道の駅地下のフードコートでの一緒のランチのお誘いを断り、一人の時しか食べられぬインドカリー(個人的には、南ではなく北インド料理が好み)を今回選択。しかし些かCD探しに時間を要し過ぎて時間が無くなってしまったので、スマホで検索して、一番近そうだった新宿駅の西口から300mらしいインド料理店をチョイス。どうやら都内に何店舗か構えるチェーン店らしいのですが、新宿のガード交差点からすぐの「シディーク新宿店」というインド・ネパール料理店。
食べログ的に評価の高い別の店が東口すぐの所にあるのですが、以前行ったら実際はインド料理専門ではなくメインはタイ料理店でした。
ランチメニューの中から、王道のチキンカレーとナンをチョイスしました。
プチサラダが付いて税抜き780円とのこと。
運ばれて来た大きなナンはあまりバター臭はせず、シンプルな感じ。ナンをちぎって、カレーに漬けて食べます。チキンカレーはスパイスが効いて懐かしのインド料理らしい味ですが、辛さは無くマイルド。ただ、モモ肉のチキンが固過ぎです。もう少し柔らかく煮込んだ方が良いのにと思いました。
これまで色んな所でインド料理を食べました。しかし、例えば昔出張で行ったインドでも、チェンナイ、バンガロール、ムンバイでも昼晩昼晩毎食“様々な”(地元の人は「今日は、昨日とは違う○○料理!」と言って案内してくれるのですが、我々には北と南、或いは食材の違い以外の違いは、正直全く分かりませんでしたが・・・)文字通り“本場”のインド料理を食べた筈なのですが、帰任後の日本国内は勿論のこと、赴任中月一度は食べに行ったシンガポールの北インド料理店、今は無き「モティ・マハール」以上のインドカリーはやっぱり今回も食べられませんでした。
翌日早朝。長女が時差ボケで早く起きたので、早朝ウォーキングに行こうとのお誘い。ホテルには無料のドリップ式のコーヒーサーバーがあるので、帰りにベーカリーで朝食用のパンでも買って来がてら、蒲田周辺にはウォーキングに適したコースは無いのですが、ウォーキングを兼ねて西口方面へ行ってみることにしました。
蒲田と云えば、我々の年代にとってはJR蒲田駅の発車メロディーにも使われている「蒲田行進曲」の通り松竹の蒲田撮影所が浮かびますが(因みに京急蒲田駅では地元出身の鈴木雅之さんがカバーした「夢で逢えたら」が使われています。個人的には作曲者大瀧泳一さんと歌い手は最初のシリア・ポールさんのイメージなのですが・・・)、町工場の集まる下町の工場地帯。最近では「下町ロケット」のイメージでしょうか。
次女が羽田空港勤務でなければ、我々も蒲田に来る機会は多分無かったと思いますが、夜中の治安等は不確かながら、また決して清潔でもありませんが、アーケード街や西口のバーボンロードなどの飲み屋街など、そこかしこに下町らしさが残っているように思います。
少々歩いてから駅ビル内のベーカリーでパンを買って帰ろうとしたら、娘が、
「朝食・・・、パンじゃなくてもイイ?」
と宣うので、
「久し振りの日本だから、お好きなモノをどうぞ!」
すると、選ばれたのが、アメリカでは絶対に食べられないからと、ナント「富士そば」。しかも「朝ラー」ならぬ、こうした蕎麦店も朝からやってるんですね、知りませんでした。
松本駅のホームの駅そば(結構美味しいんです、これが。しかも駅前には、ホーム内の駅そば店舗を運営している「イイダヤ軒」の、カウンターで座って食べられる蕎麦店まであります)を含め、出張や電車での移動中の時間が無い時は駅の所謂“立ち食いそば”をこれまで何度か食べたことはありますが(一番美味しいと思ったのは、関西方面への出張の帰りには必ずと言ってイイ程食べた名古屋駅ホームのきしめんでしょうか)、“蕎麦処”信州在住の我々は「蕎麦を食べるために」こうした“立ち食い蕎麦”店に入ること先ずありません。少なくとも家内はこれまでの人生の中で食べたことなどないと思います。ましてや朝食で“立ち食い蕎麦”など・・・。
信州にはありませんが、「富士そば」や「小諸そば」など都内ではあちこちで良く見掛けます。
今回初めて入って、所謂“立ち食い”ではなく、ちゃんとテーブル席やカウンター席もあって座って食べられることを入ってみて初めて知りました。
長女はとろろそば、家内がわかめそば、そして私メは朝食メニューから朝そば(320円)をチョイス。個人的に温蕎麦(温かい汁そば)ではきつねか月見が好みなのですが、この朝蕎麦には小さいお揚げとわかめに温玉がトッピングされていました。
蕎麦はともかく(ニハチかどうかなどと蕎麦粉割合の詮索は無意味)、つゆも出汁が効いてしっかりしています。例えば“朝マック”はセットで400~500円前後するわけですから、朝メニューで320円というのは非常にコスパが高いと言えます。娘のお陰で、初めての“朝蕎麦”でしたが、結構満足感がありました。
店内には出勤前と思しき方々が次々に入って来られて思い思いに蕎麦を食べておられましたが、やはり女性客は殆ど皆無でした。
ある意味、ハンバーガーやパンケーキなどとは対極的な日本的な朝食メニューなのかもしれません。個人的には、昔ながらの喫茶店のゆで卵と厚いトースト(出来れば+プチサラダ)のモーニングセットが好みなのですが、
「ナルホド、これもありかなぁ・・・。」
10月上旬、アメリカにいる長女が仕事で帰国することこと。滞在中は終日打ち合わせ等で東京に滞在するとのことから、季節便の次女の衣替えも兼ねて車で上京することにしました。
ちょうどこの時期、次女の手配の格安チケットで次女も一緒に台湾へ旅行に行くことにして手配までしていたのですが、せっかくなら久し振りに全員が揃った方が嬉しいので、台湾はまたの機会にして東京で皆で会うことにしたものです。
娘たちへの信州の果物と次女の冬物衣類を積みこんで、昼前に出発。長女の便は羽田に夕刻着と時間的には余裕があるので、スピードは控え目にゆっくりと走ります。
久し振りの秋晴れの中、途中八ヶ岳や甲斐駒などの南アルプスがクッキリと見えて見事なこと。双葉のSAで簡単に昼食を取り、石川SAで奥さまと運転を交代。平日で通勤時間帯でも無いためか、首都高もスムーズに走行し、JR蒲田駅に程近いいつものホテルに無事到着しチェックイン。
予定より少し早めにSFから到着し、到着ロビーに現れた長女と久し振りの再会です。夕食のご希望は勿論和食とのこと。空港内の「つるとんたん」が好きな母娘ですが、この日も行列でしたし、荷物のスーツケースもありましたので、先にホテルにチェックインすることにしてバスで蒲田に向かいました。私が荷物を部屋に運んでいる間に、順番待ちのために彼女等たちは先にJR蒲田の駅ビル内のいつもの「美登利寿司 活」へ。平日の8時半過ぎだったこともあって、行列無しですぐにテーブル席へ座れたとのこと。
珍しく、娘が先ず鯵をオーダーしてあったので私メの分も追加。
鯵は海外だと種類が違うので(大振りなのですが、ゼイゴが無くて大味です)、脂の乗った小振りの鯵(真アジ)はやっぱり日本でしか食べられません。その後、ヒラメや中トロ、いつもの炙りホタテなどを母娘は注文。
私メは、鯵以外はやはり信州では食べられない、鰯、鯖、コハダ。鰯は炙りのトロイワシを二種類、鯖も炙りトロサバと〆サバの二種類。
「光り物ばっかり頼むんだね!」
と言う娘に、家内が
「別に安いからじゃなくて、信州だと美味しいのが食べられないんだって!」
その通りで、特に俗に“足が早い“と言われる青魚は、いくら流通が発達しても内陸の信州では本当に鮮度の良い光り物は食べられません(まさか生簀で活かす程の高級魚ではないので、鰯ではコストが見合いません)。そう云えば、昔次女が成田空港に勤務していた時に成田で食べた鰯は房総沖で採れたの地物とのことでしたが、まるで別モノと言えるくらいに鮮度が良くて脂も乗っていて、生まれて初めてという程に美味しくてオドロキの味でした。
信州ではサーモンとイクラ好きだった次女も、成田に暮らしていた時に食べて、新鮮な魚の本当の美味しさを知ったらしく、その後一緒に食べに行くと、
「えっ、○○も食べるんだ!」
と、それまでは食べなかったネタを頼むのでビックリしたものです。
そういう意味で、北海道や北陸で“回転寿司で十分”と言うのも、内陸に暮らす我々にとっては羨ましい程に納得の鮮度と美味しさなのです。
この日、光り物以外では、ヒラメや炙りのエンガワ、そして中トロ。出汁巻き卵は握りではなく、冷酒のおつまみです。
お腹も一杯になって今回も私メは大満足。アメリカ帰りの長女も満足の(そう云えば、以前渋谷の「美登利寿司」に初めて連れて行ってくれたのは長女です)久し振りの「美登利寿司 活」でした。
澪が医師源斉と所帯を持ち、晴れて身請けされた野江と共に、つる家の面々に見送られて江戸から故郷の大阪へ向かった第10巻「天の梯」を以って、「みをつくし料理帖」が完結してから早4年。
高田郁女史の著作の中心は、現在第5巻まで刊行された「あきない世傳 金と銀」とばかり思っていました。
ところが、女史の作家生活10周年を記念と銘打って、ナント「みをつくし料理帖 特別巻 花だより」が刊行されたのです。ナンのPR(新聞の新刊案内など)も無く全く知らずにいましたが、先日書店で見掛けて迷うことなく購入し、これまたあっという間に読破してしまいましたので、今回も何度か読み返しながら、久し振りの“みをつくし”の雰囲気をしみじみと、そしてまたじっくりと味わいつつ読了しました。
“花だより”と名付けられた通り、その後4年間の澪や野江、“小松原”さま、そしてつる家の面々の様子が記されていて、正に何よりの愛読者への嬉しい“便り”でした。
それにしても、それぞれの息子の嫁の人柄を理解し、信じ、言葉少なに亡き後も或いは遥か遠方からも支え続ける義母二人。小野寺乙緒の亡き義母里津と永田源斉の母かず枝のそれぞれの想いが深く、強く、そして実に優しい。その母二人が教えた「蕨餅」と「江戸味噌」。そして同様に、震災孤児となって吉原に売られて来た野江に前を向かせた又治とそれを再現する辰蔵の「から汁」も・・・。どれも涙無くしては読めません(くくっ・・・)
ところで、NHKのドラマは一体どうなったんだろう?黒木華の演じた澪がイメージ的にピッタリだっただけに、途中で終わったままで続編は無いのかなぁ?
我々同様に居ても立ってもいられずに、実の娘の様な澪に会いに行こうとするつる家の店主種市の「花だより」。
澪の想い人だった“小松原さま”こと御膳奉行の小野寺数馬の日常を知らせる「涼風あり」。
淡路屋を再興した野江の近況と幸せを描いた「秋燕」。
そして最後に、夫源斉と共に、大阪を襲った疫病“ころりの、コレラの苦難を越えて、又一つ成長して行く澪を描いた「月の船を漕ぐ」。
これまでの10巻までと、今回の4編も見事に繋がっています。
「花だより」でせっかく皆に見送られ、皆から託された澪へのお土産を携えて東海道を大阪へ向かった種市が、難所の箱根を越えたところで腰を痛めて大阪行きを諦めてしまう件(くだり)は、
「えっ、一体どうなっちゃう訳!?」
と、それが最後の最後に、
「おーい、おーい、お澪坊よぅ、俺だよぅ!」
ナルホド、そういうことでしたか。イヤ、参りました・・・m(_)m
ただ一つ気になるのは、最終巻だった第10巻「天の梯」の巻末にさり気無く付けられていた二つ折りの「東西料理番付」。
東が「つる家」、そして西は「みをつくし」がそれぞれ最高位の大関に位置付けられていたのですが、その発行日の日付は文政十一年だったんです。そして、今回の特別編の日付は文政六年とありました。
「・・・てことはですヨ、この特別編から五年後に発行される番付なんですね。だったら、それに至る経緯も書いて欲しい、イヤ書くべきなのでは?・・・」
と、読者としては思わざるを得ません。勧進元も「一柳改メ天満一兆庵」となっていますし、それに至る佐兵衛の精進とそれを陰日向に支えたであろう“ご寮さん”芳のあの凛とした佇まいも知りたいところ。
しかも、良く見れば「みをつくし」の大関位の献立は、今回の疫病対応に奔走し精魂尽き果てた源斉を何とか助けようと、幼馴染野江の励ましをヒントに、嘗て源斉に教えられた「食は、人の天なり」の原点に戻って母かず枝に聞いて初めて作った江戸味噌から発展昇華させたであろう「病知らず」であり、特別編の最終編「月の船を漕ぐ」で取上げられる献立も気が付けばちゃんと「病知らず」となっていました。しかも、番付に記載されている店の場所もさり気無く四ツ橋となっているではありませんか・・・。
そうか、4年前から既に張られていた伏線だったのか・・・うーん、やられたなぁ・・・。女史、お見事です!
どれ、久し振りに「みをつくし」をまた全巻読んでみようかな・・・。
【追記】
作家になる前は漫画原作者だったという高田郁女史。
特別巻「花だより」の“帯”に描かれた「みをつくし」の登場人物の面々は、ご本人の描かれたイラストとか。これまた、さすが!・・・でありました。
9月22日にキッセイ文化ホール(県文松本)の国際会議室で行われた、恒例の「第21回まつぶん新人寄席」。前回6月の第20回は都合が付かず聞けませんでしたので、久し振りの生落語です。今回の二ツ目さんは、入船亭小辰さんと金原亭馬久さんです。
入船亭小辰さんは、第17回に柳亭市弥さんと一緒に出演されていて、今回が二度目の出演。この日も紹介されていましたが、東京のご出身ですが、お姉さまが松本の島内に嫁がれているのだとか(ちゃんと客席にも来られていたようです)。前回も書いたのですが、『個人的に感心したのは、入船亭小辰さん。声に張りがあり、トーンも高めでイイ声です。ですので、女性を演じても艶っぽさが声に感じられます』。今回も同じ印象。
この日の演目は、先ず小辰さんが「替わり目」、馬久さんが「真田小僧」。仲入り後に馬久さんが「金明竹」、トリに小辰さんが「井戸の茶碗」という構成でした。
最初の「替わり目」は、酔っぱらって帰って来た主人が家の前に停まっていた車夫や家に入ってから奥さんに絡む噺。時間の関係で小辰さんは途中で端折って下げていました。
続いての馬久さんの「真田小僧」。子供の亀坊が父親から悪知恵を働かせて小遣いをせしめる噺。講談の「真田三代記」がモチーフにとして登場することから、信州での寄席に掛かることが多い噺だとか。以前NHKの新人落語大賞の中で柳亭小痴楽さんが(制限時間の関係で前半だけを)演じていましたっけ。
仲入りの後は、馬久さんが「金明竹」。「どうらく息子」の中で確かさわりだけ登場したと思いますが、聞くのは初めてでした。
「牛ほめ」や「かぼちゃ屋」などと同じく、落語の“愚か者”の代表である与太郎噺の一つです。以前ご紹介した中央図書館で借りた新しく所蔵されていた落語CD「特選落語会」のライブ録音の中で、桂文治師匠が「牛ほめ」同様に前座噺の一つでもある「平林」を演じていて、その中で、“バカ”の与太郎が忘れてしまった「平林」の読み方を道行く人に教えられた通りにしっかりと覚えて繰り返していくのは絶対矛盾していると嘆く件(くだり)があって客席を沸かせていましたが、この「金明竹」も同様。骨董屋さんを営む親戚の叔父さんの所に預けられた与太郎が、傘や猫、最後はご主人を借りに来る客にご主人が教えた通りに、猫には傘という様に、その前の借り物の断り方で与太郎が断るのですが、「良くしっかりと覚えてるジャン!」と思ってしまいます。むしろ真田小僧の亀坊同様に「お主、知恵者ヨのぉ~」
この「金明竹」の聞かせ所は同業の使いの「道具類」の関西弁での“言い立て”(注記:「寿限無寿限無五劫のすりきれ・・・」の様な、決まった長セリフ)ですが、与太郎も最後は手に負えないと女将さんを呼んで来て都合4度。馬久さんも早口で演じていました。お見事!
トリは小辰さんの人情噺の名作「井戸の茶碗」。
先述のCD「特選落語会」の中でも柳家権太楼師匠が演じておられました。登場人物のクズ屋の“正直”清兵衛、長屋に住む貧乏浪人千代田卜斎、細川家家臣の高木佐久左衛門を、小辰さんの明るくメリハリの効いた良く通る声が実にイイ。聴き易く演じておられました。
入船亭小辰さんは2012年に二ツ目昇進だそうですから、次は是非真打ちとして、お姉さんの住むここ松本に凱旋してください。
“お待ちしてま~す!”
母が自室で転んで腰を打ったらしく、その日は自分で歩いてトイレにも行ったのですが、翌日は痛くて動けないとのこと。
その日のデイサービスもお休みにして様子を見たのですが、変色や腫れも無いのでまさか圧迫骨折ということはなく、単なる打撲だとは思ったのですが、翌日も改善する風も無いので、止む無く病院へ連れて行くことにしました。
ところが生憎の日曜日。しかし月曜日まで待っているよりも早い方が良かろうとなりましたが、休日のため救急外来しか開いていません。松本では、信州大学の附属病院と相澤病院に救急外来がありますが、以前家内の骨折の際は最初家から近い信大に行ったのですが、年末年始だったこともあるかもしれませんが、難しいケースはともかく(例えば、山岳遭難者の搬送や、ドクターヘリは中南信地域では信大付属病院が拠点になっています))、簡単なケースは相澤の方が処置が早いと紹介を受けて転院したこともあり、今回は相澤病院の救命救急センターへ行きました。しかし、「痛い、痛い!」と“オンジョ”(松本地方特有の信州弁で泣き言の事)ばかりで立つことも出来ず、結局おぶって(背負って)やっとのこと車に乗せて家内も一緒に向かいました(こんなことでタクシー代わりに救急車は呼んではいけないと思い・・・)。
救急外来で車椅子を借り、スタッフの方にも手伝って頂きながら何とか待合室へ。
受付と手続きを済ませ、レントゲンも二回撮ってもらったのですが、腰の股関節も背骨も、やはり骨には全く異常は見られないとのこと。
医師の診察を終えた後、痛み止めの投薬と共に、看護師の方から家で動けないと困るだろうからとリハビリ指導を受けて下さいとのアドバイス。
お願いしてベッドで寝たまま待っていると、療法士の方が来られ、痛いから起きられないと“オンジョ”(泣き言)を繰り返す母に、先ず体をあおむけではなく横にすること。次に足をベッドサイドに投げ出すこと。続いて、手を横に置いて、少しずつ体を持ち上げて行くこと。最後両手を置いて体を起こすこと。そして、何とか上半身を起こした後は、今度は歩行器を使い歩く訓練です。
腰が痛くて立てないという母に、腰ではなくお腹に力を入れる様に促します(腹筋が大事とのこと)。
「そしたら、少し“このがって”下さい!」
信州弁で、少し前かがみになることを「このがる」と言います。その上で、歩行器を使って立ち上がり、一歩ずつゆっくりと歩かせます。
「ちゃんと歩けたね!」
すると、今度はUターンして歩行器を外し、自分の足で歩かせます。
「お腹に力を入れて!ゆっくりでイイからね!」
すると、一歩ずつゆっくりとですが、自分の足で歩いてベッドまで辿り着いたのです。
「筋肉が衰えるのは年を取ると止むを得ないのですが、お年寄りが痛がって歩かないと、その内本当に歩けなくなってしまいます。暫くは筋肉痛で腰が痛いでしょうから、痛み止めを出してもらいますので、傷みが出たら痛み止めを飲ませて痛みを和らげた上で、自分の足で歩かせてください。」
ナルホドと目からウロコ。療法士の方は、体のどこをどう動かせば「立つ」、「歩く」という動作が出来るのか分かっているので、その動きを分解し、年寄りにも分かり易く指示することで、手で支えて動きを助ける様な手出しや手助けは一切せずに、全て患者自身の動作で最終的にはちゃんと自分の足で立って歩かせたのです。
「イヤぁ、凄いなぁ!」
感心しました。そして、何だか医師よりも余程お年寄りの事を分かっている様にも感じられました。
帰りに病院内で痛み止めの薬も頂いて(相澤病院も一般外来では処方箋の発行だけで市中の薬局で薬を出してもらうのですが、救急外来では薬も処方していただけます)、帰宅後はゆっくりとですが、教えられた通り母に指示することで、ゆっくりとではありますが、ちゃんと自分で車から降りて自分の足で歩いて自室まで戻ることが出来ました。
数時間前にはおぶって(背負って)家を出たことを思うと、更には診察を待っている間も、「もしかしたら、このまま寝たきりになるのかも・・・?」と家内と按じていただけに、本当に信じられない気持でした。
イヤぁ凄い、さすがはプロ!・・・でした。