カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
飛騨高山から下呂温泉へは国道41号線一本です。途中結構な山道があり、宮峠とのこと。峠の前後で川の流れる方向が変りましたので、どうやら分水嶺の様です。宮峠から下呂へは木曽川の支流である飛騨川が流れていて、下呂へはその飛騨川沿いに国道41号線が走っています。途中「野麦峠」へ至る案内板がありました。国道41号線は、名古屋と富山を結んでいますので、富山湾の氷見鰤が飛騨高山に運ばれる謂わば「鰤街道」で、その氷見鰤が“年取り魚”として信濃への「鰤街道である」野麦峠を超えて松本平へと運ばれていました。そう云えば、飛騨国は長野県の中南部と、明治の廃藩置県後の一時期「筑摩県」を構成していましたし、平成の大合併により、今では高山市と松本市は飛騨山脈を挟んで背中合わせですので、安房や野麦など厳しい峠越えでないと往来不能ですが、松本市民にとっては何となく親近感があります。
古川から高山経由で、ゆっくり走って1時間半の道のりでした。沿線は、ほぼ同様に富山と岐阜を結ぶJR高山本線が走っていて、同じJR東海の管轄ですので、中央西線の特急しなのと同色の特急ひだが走っていますが、単線で非電化のためディーゼル特急の筈。
信州とは隣接していても急峻な飛騨山脈で隔てられているためなかなか往来は難しく、また車以外での交通手段もありませんので、下呂へ来るのは初めてです。そのため、41号を走りながら初めて知ったのは、越前越中越後、或いは地元だと上諏訪下諏訪同様に、「下呂」にもちゃんと「上呂」と「中呂」があったこと。「そうなんだ!」と目からウロコでした。
下呂温泉は、江戸時代の儒学者である林羅山に由り、有馬・草津と共に「日本三名泉」に数えられた由。湯ヶ峰の山裾沿いから飛騨川の河川敷に拡がる急傾斜の温泉街で、飛騨川を挟んで、下呂駅から山の中腹まで大きな旅館やホテルなどが林立していました。その名の通り、平安時代に湯ヶ峰山頂付近で温泉が湧出しているのが発見されたのが始まりで、その後鎌倉時代に湧出が止まってしまったのですが、良くある話として、薬師如来が一羽の白鷺に姿を変えて飛騨川の河川敷に温泉が噴出しているのを教えたのが下呂の開湯伝説とか。因みに、信州上田の鹿教湯温泉は文殊菩薩が鹿に姿を変えて教えたのが始まりですが、そのため下呂には白鷺に因んだ名称がたくさんありました。しかし、観光客的には恐縮ながら、由来を聞かぬと分からない白鷺伝説や、それこそ存在理由の全く分からぬ(少なくとも来たことは無いらしい)チャップリン像よりも、下呂の音に引っ掛けての蛙(“ゲロゲロ”)の方が遥かにイメージ的にはピンと来ます。
温泉街はGW直後ということもあり、また若い人には温泉というと古めかしいのか湯治客はチラホラ。むしろ日本全国どこも同じかもしれませんが、GWとは無関係なインバウンドの中国系観光客の方が目立ちます。でも温泉地としては、松本の浅間温泉よりは遥かに賑わっている感じがします。
温泉街の中心は、「せせらぎの小径」と名付けられた阿多野川に沿った両岸の柳の並木道。傾斜が急なため、滝の様な急流になって飛騨川に流れ込んでいて、その飛騨川への合流点に掛かる橋が下呂大橋。下呂駅側の橋のたもと河川敷に無料の露天温泉である「噴泉池」があり、脱衣所も仕切りもない混浴のため、5年ほど前から入浴の際は男女とも水着着用とのこと。我々は雨の上がった翌日に温泉街を散策して行ったのですが、男性が2名入っておられました。
「せせらぎの小径」には、林羅山と何故かチャップリンの像もあって、そこで写真を撮るのが下呂での定番の様でした。
また、街中には10ヶ所近い足湯があるとのことで、ちゃんとタオルも2本リュックに入れて持って行ったのですが、
「ホテルにちゃんと温泉があるのに、ナンで足湯に入らないといけないの? ホテルでゆっくり温泉に入った方がイイじゃん!」
とのお言葉で(トホホ)、滞在中に温泉街の足湯や外湯に入ることはありませんでした。
その温泉。アルカリ性の単純温泉だそうですが、すべすべした滑らかなお湯で、ホテルの大浴場の内湯と露天を朝夕2回楽しみました。朝は6時からで、また宿泊の皆さんは車で遠出されているのか、午後も殆ど一人きりで入浴していましたので、まさに温泉三昧。下呂温泉を満喫することが出来ました。
“プハァーッ!”と、湯上りのビールの美味しかったこと。極楽、極楽!
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