カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
毎朝、奥さまのウォーキングにタイムキーパーとして付き合って、我が家から1㎞程のところにある大門沢ウォーターフィールド(松本市陸上競技練習場)まで行って、周回する奥さまと別れ(携帯のストップウォッチで計測開始の上)、トラックを4周されるゴール時間を見計らって、その間、私メは常念岳のテッペンを望むべく、また季節の移ろいを感じるべく里山を歩いています。
そんな日々の中での、ここ一ヶ月くらいの信州松本の里山での小さな出来事です。




そして、里山ではありませんが、ご近所のお宅の軒先に巣を掛けた燕。一昨日巣立っていきました。きっとこれから南の国へ渡るための飛行訓練を開始するのでしょう。皆、頑張れ!・・・。

皆様どうぞご自愛ください。信州松本より暑中お見舞い申し上げます。
7月8日、全8回を以って終了したNHK総合で放送された「みをつくし料理帖」。
以前のTV朝日系列に比べ、主役の黒木華嬢を始めとする配役と、番組の最後の「献立帖」として劇中の澪が近代的なキッチンで毎回レシピ紹介をするのも含めて、高田郁の原作に忠実で原作の雰囲気を実に良く醸し出していたと思います。澪やご寮さんの大阪弁も心地良く響きます。だからこそ、であれば余計、最後に“雲外蒼天”を果たす全12巻を、1話45分足らずの僅か8回に収めるというのは土台無理。愛読者にとっては、尻切れトンボの消化不良で、如何にも中途半端。却って欲求不満が鬱積するばかり・・・でありました。
“下がり眉”の黒木華は、実に良く主人公「澪」の雰囲気を出していたし、当初どうかな?と思った「小松原」も悪くは無かったし、水害の中で屋台の親父から排除される澪を助ける時、そして澪のレシピを盗んだ登龍楼の料理人を叱り飛ばす時・・・「これが、あんさんの料理人としての器量かっ!?」という、ご寮さん「芳」の啖呵も良かった。そして、一途に太夫を支えようとする又治も良く雰囲気が出ていたし、つる家が閉まった後に来る「小松原」に付ける燗酒用の銅製のチロリ(銚釐)も風情があって良かった・・・。
でも、やっぱり欲求不満・・・。一柳も登場しなかったし、「鼈甲珠」も登場しない・・・。一方で、これも鍵となるご禁制の「酪」をオリジナルとは異なるエピソードで登場させていた・・・(繋げることは可能ですが)。
最終回の最後に、芳と澪が街中で行方知れずの「佐兵衛」を偶然見掛けて追い掛けようとしたのが「文化12年」と表記されていましたが、澪が雲外蒼天を果たして、“三人”で大阪に戻るのが文政元年とすれば、文化から文政に年号が変わるまでに後2年。この残る2年の“間”が、一体何を意味するのか・・・?。
そして、澪が佐兵衛を追い掛けて「ご寮さんと二人、元飯田町のつる家に居ますから!」としっかり伝わったのが、次に続く(何かが起こる)ことを期待させてくれるような、最終回らしからぬ終わり方では・・・?。
いずれにしても、この中途半端な終わり方は、何としても続編を放送してクリアしてもらわんとなりますまい・・・と、称賛と不満とが“ない交ぜ”の全8回。でも続編を期待したくなる程に、原作の雰囲気を実に良く描写していたドラマ化でした。
最終日は、娘と車でサービスアパートに行って、残った荷物の荷ほどきをして荷物の整理です。大体片付いたところで、娘の運転でTown & Country Village のTrader Joe’sに行って食料品の買い出しです。夕飯は(外食続きだったので)、この日は娘が料理してくれるとのこと。帰路、広大な大学敷地内にある湖に立ち寄り。雨季にはもっと水を湛え、乾季には水が消えるのだとか。格好の散歩コースなのだそうで、一度来てみたかったのだそうです。

奥さまからは、「アンタらは、ホント飲兵衛なんやから!」とのお小言も・・・。(関西弁で記載した方が、実際よりも柔らかく感じますので・・・)
娘の手料理もとても美味しかったのですが、大きな切れ目でしたがサーモンが二切れで$12とか。やはり、アメリカは(特にパロアルトは?)物価が高い様です。
30年位前に来た時に、赴任者が今度日本からの直行便が就航するので便利になると喜んでいたのを思い出します。国内線で利用した当時の空港は如何にも田舎の空港でしたが、広さは変わらないかもしれませんが、ターミナルも新設され見違えるほどスマートになっていました。
「うん、体には気を付けて元気で頑張れヨーッ!」
1週間もすれば婿殿がLAに赴任して来ます。それぞれ難関を突破してのお互いの念願だったMBA留学とはいえ、夫婦としては一年半も離ればなれだっただけに、米国に拠点も出来るので焦らずにじっくりと就活に取り組めば良いと思います。他の多くの留学生の様な組織からの派遣ではないのですから、自分で自分の未来に投資した分は少なくとも回収出来るように・・・。

30数年前のアメリカ西海岸への出張時に、パロアルトの赴任者が車での通り掛かりに「ここがシリコンバレーで有名なスタンフォード大学だよ」と教えてくれた時の記憶は、ヤシの並木道からのフーバータワーを望む景色だったか・・・。それがパロアルト駅から続くその名もPalm Street。当時は想像だにしませんでしたが、まさかそこに(娘のお陰で)自分が立ったとは・・・感慨深いモノがありました。機会を与えてくれた娘に感謝です。

片や、パロアルトでは一切ホームレスの人を見掛けませんでした。パロアルトは全米一物価も高いのだそうです。要するに金持ちしか住めず、結果として治安も良いのか、大学の敷地内では朝など普通にジョギングをしている人たちもたくさんいて、何だか別世界の様でした。

日本と比べ意外だったのは、現地では(西海岸のホンの一部エリアに居ただけですが)ドイツ車が少なく、テスラの様な電気自動車を別にすると、アメ車と日本車が多く目に付きました。確かにスバルやマツダも見掛けます。それに続いてドイツ車(カーメルではドイツ車を多く見掛けました)や韓国車でしょうか。大型のピックアップトラックも日本メーカー(トヨタのタコマやニッサンのタイタンなど)も含めてたくさん走っています。シボレーやフォードなど、アメリカのメーカーの車も想像以上に小型でデザインの良い車が多いのに驚きました。見ているだけでは性能は分かりませんが、見た目は日本車と変わりません。日本市場から撤退したメーカーもありますが、もっと上手く宣伝すれば売れるのではないか(価格は不明ですが)と思えるような魅力的な車を多く街中で見掛けました。日本という特殊な市場のせいではなく(縮小して魅力が無くなったのなら別ですが)、メーカー側の努力不足の様に感じます。
また知的階級だけなのかもしれませんが、専門店だけでなく、Trader Joe’sの様な高級スーパーを見ても、オーガニック食材が並び、サラダも何十種類と売られていて、昔に比べファーストフード一辺倒では無く、健康志向が高まっている様に感じました。それは、シリコンバレーで意外と多くの人が利用していた列車通勤や自転車通勤にも繋がっているのかもしれません。
滞在中CEOが批判もされてもいましたが、UBERが当たり前の様に使われ、テスラが普通に走っている社会。内向きになるのか、短期的な当面の方向性に心配はありますが、少なくともこの国が建国以来持っているであろう活気を感じずにはいられませんでした。
それにしても、全てが桁外れのスケールでした。そして、こういう場面に遭遇するといつも感じるんですよね、こんな国と戦って勝てる訳が無かろう・・・と。
午前中にサービスアパートへの引っ越しを済ませ、我々がシャトルバスでパロアルトのショッピングモールTown & Country VillageにあるTrader Joe’sで買ってきたサンドイッチとサラダで簡単にランチを食べてから、明日の早朝帰国する婿殿の最終日なので、皆で半日観光へ。
元々皆でヨセミテに行こうかと検討したのですが、日帰りでは無理なことが分かり、来月から婿殿のLA赴任が決まっているので、またいつか来れば良いと今回は断念。ワインで有名なナパバレーは、奥さまがもう二度とここで車の運転はしたくないとの仰せで、二人しか飲めないのでは運転する人が可哀想と、これも諦め。
そこで、娘の推奨する通常カーメルと呼ばれるモントレー半島の小さな街、Camel-by-the-Seaへ行くことになりました。パロアルトから高速で南に2時間弱のドライブだそうです。
往路は婿殿の運転。慣れたもので、来月からのLA赴任も問題ありません。
乾季なのか、枯れた草原と松なのか緑の木々が対照的な丘陵地帯を走り、時々牧場や広大な野菜畑や果樹園が拡がっています。米国は機械化された大規模農業というイメージでしたが、それは小麦やトウモロコシなどの穀倉地帯のことなのか、種類までは分かりませんでしたが、ここ西海岸の野菜畑などは思いの外日本の農業に似て労働集約的で、丁寧に栽培されているように感じました。ちょうど旬なのか、日本で云うアメリカンチェリーの観光農園の看板も見受けられました。



「恥ずかしがらずに、チャンと着てよね!」
との仰せに、二人で有難く着させていただいて街歩きです。




サンノゼでも昔の消防署が博物館になっていましたが、たかだか100年足らずのモノでも、歴史の新しい国では大切な“歴史的遺産”にするようです。ある意味、新大陸を求めて故郷の国を捨ててやって来た先祖たちの故郷の中世の街並みを、American Dreamを成し得た人々がその証として再現したかったのでしょうか。でも、テーマパークの様で、統一された実に可愛らしい街並みです。日本で云えば軽井沢や、海岸に近いのでむしろ鎌倉や葉山などの湘南のイメージでしょうか。


どうやら、この日夕日を眺めるのは難しそうなので、我々は早々に海岸を後にして、街歩きに戻ります。

以前日系の会社で秘書をされていたというお店の女性スタッフから、“Oh ! Stanford Parent.”の声に、娘の卒業式に来た旨を伝えると“Congratulations !”。“どうも・・・”でありました。

車をレストラン近くの駐車スペースに移動してのイタリアンは、ビストロ「Little Napoli」。我々が座ると、間もなく満席になりました。どうやら地元の人気店の様で、ガーリックブレッドとアサリの蒸し料理が「大変美味しゅうございました!」。ピザは普通かな。食べ切れませんでした。

大学構内だけなら、自転車さえあれば車は不要。しかし、先輩の方からのアドバイスもあって、企業訪問や友人との人脈づくりには車が不可欠だった様で、留学中の行動範囲を拡げるためにも、帰国する日本人の方から中古の日本車を購入しておいて(その時点では運転免許も無かったのに)とても良かったとのことでした。
事前に予約してあり、この日は二人共同じウエスティンホテルに泊まります。
米国SF到着が、現地時間で朝の10時頃。到着前の機内で軽食が出たので、パロアルトに行ってから皆でブランチです。それにしても、国際線に乗ったのは5年振りくらいでしたが、機内食の質が落ちましたね。
連れて行ってもらったのは、市内にあるオーガニックのサラダ専門店「Pluto’s」。パロアルトは大学の街から発展した高級住宅街。緑豊かで、庭もきちんと手入れされた瀟洒な住宅が立ち並んでいます。そのため、健康志向な人も多いのだとか。そこには何十種類という有機栽培の野菜が大きなサラダバーの様な容器に入っていて、何種類かの希望を伝えると、その野菜を組み合わせて大きなサラダボウルの様な器に盛り、指定したドレッシングで和えてくれます。勿論、オーダーは全て娘にお任せです。


意外だったのは野菜サラダの食材ケール。日本では青汁専用のイメージで、「まずい!」というCM効果かあまり食指は動きませんが、ここアメリカでは普通にサラダで食べられているのだとか。但し、日本で見る青汁用のケールではなく、パセリの様なフリルの付いた葉でカーリータイプのケールです。その後、現地の高級食品スーパー(オーガニック野菜を扱うTrader’s Joeなど)でも、二十種類近いサラダコーナーにもしっかりとケールサラダ(家内の朝食用のお気に入りは、ケールとエダマメのサラダで5ドル程。しかも、アルファベットでちゃんとEDAMAMEでした)が並んでいましたので、どうやら米国では一般的な野菜の様でした。

最初にこれぞアメリカン!と、見つけた「Johnny Rockets」というハンバーガーショップへ。注文したハンバーガーにはポテトかサラダが付くので一つずつオーダー(各$12程度)したのですが、どちらも半端ない大きさ。サラダも優に二人分あり、結局ポテトは食べきれずに残しました。ハンバーガーはシンプルな味付けながら、如何にもアメリカ的味付けで美味しかったです。テーブルに置かれた大きな逆さボトルのHeinzのケチャップも、赤いビニールのベンチシートも60’sの様で如何にもアメリカ的でした。
そう云えば、初めて出張でアメリカに来た時に、オフィスに来る移動販売車で注文してもらったランチのハンバーガーの肉々しくて旨かったこと。また、オレゴン州の色々な地ビールも美味しかったし、エルパソで赴任者に連れて行ってもらったステーキハウスの塩コショウだけで味付けされたTボーンステーキは絶品でした。一方、ロングビーチでランチに行った中華料理店(当時近くにラーメン屋が無く)のザーサイヌードルは、まるで丼がバケツの様で食べ切れませんした。この国のエネルギーを実感します。
東海岸から、西へ西へと大陸を(アメリカ・インディアンの土地をある意味略奪しながら)横断していった、この国の西部開拓史(TVの影響で、当時西部劇の白人はヒーローで、ジェロニモ酋長は悪役でした。征服した勝者が歴史を作るのは、蝦夷も熊襲もどこも一緒です)を想います。
翌日のランチは、サンフランシスコのチャイナタウンで、娘がSingaporeanの親友から教えてもらった(彼女が足で探し出した)飲茶のレストランに家内が是非また行きたいとのこと。何故かサンフランシスコで飲茶(Dim Sum)ですが、特に違和感も無し。娘も我々も6年半のシンガポール生活で、その間シンガポールの水と空気で多少Singaporeanの血が混ざっているのかもしれません。店は「Lai Hong Lounge(荔香小館)」。飲茶は中華料理の中の広東料理ですが、香を香港同様にホンと発音するのは広東語で、北京語では香菜(シャンツァイ)と同じくシャンと発音します。
11時半に付いたのですが、店の外まで行列。しかも次から次へとやってきます。殆ど現地の中国系の方々。一緒に来られた白人の方もチラホラ見掛けましたが、少なくとも日本人は皆無。自分の順番を確認し未だか文句を言っているのか、店側も負けずに言い返しての、ケンカの様な広東語が飛び交います。香港やシンガポールの屋台街(Hawker’s Centre)の喧騒が思い出されて、何だか懐かしい雰囲気です。並んでしまった手前(他に行く所も無く)ずっと待つこと1時間。漸く番号を呼ばれ席に付くことが出来ました。





結局、珍しいマレーシア料理のレストランがあったので入ってもみることにしました。一人なのでワンプレートの料理と懐かしのタイガービールを注文。東南アジアのローカルフードで定番だった、大好きな“ぶっかけ飯”だと想像したのですが、オカズが4種類くらい乗ってはいましたがグレービーでもなく、可も無く不可も無し・・・。でも、ちゃんとフォークとスプーンの東南アジアスタイルでした。






パロアルト周辺にも勿論ホテルはあるのですが、シリコンバレーの中心地で且つ大学の卒業式なので、ビジネス客のみならず全米或いは全世界?から卒業式に家族が出席するためか、かなり早い時期からホテルはどこも満杯。娘に言われて奥さまも大分早くから探して、サンノゼのウエスティンに5泊確保することが出来ました。








:ただ、カルトレインはデッキが高いので、大きなスーツケースなどの荷物の上げ下ろしは結構大変です。従って、SF国際空港からBARTでカルトレインに接続していますが、女性一人では些か大変かもしれません。しかし、早朝(5時台)からサンフランシスコなど渋滞が発生していますので列車で空港に行った方が時間的には遥かに確実でしょう。仕事のためにSF国際空港から一日早く帰国した婿殿も、空港までは列車で移動して行きました。
サンフランシスコやシリコンバレーでは、郊外に行かずにダウンタウン滞在が主であるならば、レンタカーで慣れない運転をするよりも気楽な列車利用がお薦めです。


「誰もそんなに早く行く人なんていないよ、ここはアメリカだよ!」
という娘の忠告にも抗い、奥さまは、
「だって、せっかくの卒業式なんだから、イイ席で見たいじゃない!」
早めに行って娘の寮で着付け、開場時刻に合わせて午後2時半に会場へ。私は勿論、婿殿も止むなくお付き合い。すると、既に数十人の開場待ちの列が出来ていて、
「ほらぁ、アメリカだって一緒でしょ!子供の“晴れの日”だもの!」
・・・恐れ入りました。
スタンドは家族用と卒業生用などに区切られていて、お陰で家族用の前の方の席に座ることが出来ました。待ち時間に、婿殿は娘に渡す花束を買いに行ってくれました。シリコンバレーらしく、インド人も多く、お母様と思しき年配のご婦人はさすがに正装のサリーですし、地元の方々の中にはきちんとスーツとネクタイ姿の紳士もおられ、いくら日本人の正装とはいえ、さすがに着物は家内一人で目立ちますが、ネクタイも違和感はありませんでした。


GSBでは、一人ひとり全員に卒業証書(DIPLOMA Degree)が壇上で手渡されます。それぞれにとって、支えたパートナーや家族にとっても感激の瞬間でしょう。企業派遣の多いMSXでは娘も含め4人いましたが、MBAには日本人は僅か二人だけでした(しかも女性。女性の方が挑戦的なのでしょうか)。留学生ではなく移民なのかもしれませんが、中国系の学生の多さに比べ、如何にも少な過ぎ・・・。昔に比べ、日本人の留学生が減っていることが、日本人の内向き志向として話題になりましたが、気掛かりです。

スタンフォードと言えば、2005年の大学全体の卒業式に招かれたスティーヴ・ジョブズ氏の“Stay Hungry, Stay Foolish”というスピーチが余りに有名です。



夜、彼等はカップルでのパーティーがあるとかで、我々はサンノゼのホテルに戻りました。

生憎西海岸から内陸部に熱波が来襲しており、炎天下のため、既に前日式を終えていたGSBの学生は自由参加とかで、娘も不参加(MSXは80名中20名足らずらずしか参加しなかったとのこと)でしたが、もう二度と無い折角の機会ですので、我々はサンノゼのホテルから直行して後半30分ほど参加してみました。
スタジアムの階段を上ろうとすると、外の階段で涼んでいたご家族と思しきご婦人が、そこから行くとトンデモナク暑いからトンネルの通路を行った方が良いとの優しきアドバイス。お礼を言ってそれに従います。



以前コンサルファームでの長期出張でシンガポールのチャンギに降り立った途端「懐かしい空気を感じた」と娘が言っていたのを思い出しますが、アジア系の人たちの方が何となくフィーリングが合うのでしょうね、きっと。
「皆、優秀だよ」という彼等。シンガポールの彼女はEDBからの派遣で3日後から出社とか。こちらもエリートです。お母様も交え、赴任時代を懐かしんで、シンガポールの話題に花が咲きました。
我々は電車の時間もあり小一時間で失礼し、娘が手配してくれて初めて乗ったUBERの車で駅に戻りました。
二日目も娘たちは昼夜共友人たちとの卒業祝いのパーティーがあるとのことで、我々はサンフランシスコ観光に行くことにしました。今回唯一の一日観光です。
サンノゼからは、ホテル前を走るライトレールからカルトレイン(Caltrain)とバート(BART:Bay Area Rapid Transit)を乗り継いで向かいました。サンフランシスコに近付くと、急に霧が発生し気温も下がって来たようです。さすが霧の街。



「あぁ、ここはアメリカや・・・!」
他のお客さんに倣って、私メも1ドル札をチップで渡します。




ダウンタウンの中心から名物の急坂を上って、今度は急坂を下りチャイナタウンの一角を通過しながら、海が見えると終点のフィッシャーマンズ・ワーフです。







車が無いと、意外と行くところが限られます。東海岸のメトロやMOMA、或いはボストンの様な、世界から集めた名品の美術館も西海岸には無さそうです。夜までいればサンフランシスコ交響楽団のコンサートもあったのですが、些か歩き疲れたので、また電車を乗り継いで、明るい内にサンノゼに戻ることにしました。
サンノゼのホテルに荷物を預け、パロアルトへ向かいます。
先ずはスタンフォード大学へ。杉並区に匹敵する33.3km²という全米でも屈指と云われる広大な敷地を持つ私立大学です。パロアルト(El Palo Alto)はスペイン語で「背の高い木」という意味で、この地の目印だった大きなアメリカ杉(Red wood)を指すのだそうです。大学のロゴも赤いSの字をバックに緑のRed woodが描かれています。

校訓は「Die Luft der Freiheit weht(独語で自由の風が吹く)」(英語で、The wind of freedom blows)だそうですが、なかなかイイですね。



パロアルトの駅からは大学まで歩いて25分程度。平日は、構内は元より、駅からも大学構内へ大学のバス(Free Shuttle)が頻繁に運行されていて、大学構内だけではなく、スーパーやレストランなどの在るショッピングモールへもアクセスしていて、誰でも無料で乗車することが出来るのでとても便利です。
大学にはビジターセンターもあり、無料のキャンパスツァーも行われていますが、3度目の奥さまに付いて見どころを回ります(ツアーで英語で説明されても所詮分かりませんし・・・)。


先ずは大学の美術館(Cantor Arts Center)へ。ロダンの「考える人」を始めとする彫刻群や絵画などを多数収蔵していて、入場無料でしかも撮影可(フラッシュ不可)。






娘に頼まれて、全員が卒業式にレンタルで着用した黒いガウンを返却するためにブックストアへ。角帽は記念で、返却不要とのこと。ついでにブックストアへ。出版物もありますが、文房具やPCは元よりスタンフォードのマークやロゴが入ったありとあらゆるグッズ(帽子、Tシャツ、スタジャン、マグカップなどなど・・・しかも、キッズ用から親用まで・・・)が並んでいました。ブランド戦略、恐るべし・・・。


サンノゼやサンフランシスコではホームレスの人たちをたくさん見掛けますが、ここパロアルトでは一切見掛けませんでした。一方、パロアルトは全米一物価も高いのだとか。要するに金持ちしか住めず、結果として治安も良いのか、大学の敷地内では朝など普通にジョギングをしている人たちがたくさんいて、何だか別世界の様でした。
6月17日に行われる長女の経営大学院卒業式出席のため、アメリカ西海岸に一週間程行って来ました。
米国本土にはこれまで5~6回来ていますが、会社員時代の米国出張以来ですので多分15年振りくらい。しかも、今回のシリコンバレーとサンフランシスコとなると恐らく30年振り?・・・見当もつきません。因みに、奥さまは1年前の留学時の生活セットアップ、次女との観光を兼ねての訪問と併せて、今回で3度目です。従って、搭乗手続きに始まり出国から米国入国まで、慣れた家内の指示通りに金魚のフンの如く付き従います。
9.11以降、厳しくなって時間も掛かると聞いていた米国の入国審査と通関も(今回は)呆気ないほどスムーズに終了し、到着ロビーで彼等と無事再会。日本では不要と運転免許を取らず、留学後に現地では必須と免許を取得した娘の運転で、サンノゼのホテルに向かいます。

サンノゼのホテルに荷物を預け、大学の在るパロアルトへ向かいます。
さて、シリコンバレーの旅がスタートです。