カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
毎朝、奥さまのウォーキングにタイムキーパーとして付き合って、我が家から1㎞程のところにある大門沢ウォーターフィールド(松本市陸上競技練習場)まで行って、周回する奥さまと別れ(携帯のストップウォッチで計測開始の上)、トラックを4周されるゴール時間を見計らって、その間、私メは常念岳のテッペンを望むべく、また季節の移ろいを感じるべく里山を歩いています。
そんな日々の中での、ここ一ヶ月くらいの信州松本の里山での小さな出来事です。
梅雨時だったか、葉っぱの上でお休みしていたアマガエル。松本も35℃を超える猛暑日がありましたが、大丈夫でしょうか?少なくとも、アマガエルにカンカン照りの太陽は似合いません。
一方で、夏を代表する昆虫と云えばセミ。道端で見つけたセミの抜け殻。何年間地中に居たのでしょうか。何蝉かは分かりませんが、鳴き声がもの憂げなヒグラシは我が家周辺では7月20日の早朝(明るくなる4時半頃)初鳴きを聞きました。
そして、里山ではありませんが、ご近所のお宅の軒先に巣を掛けた燕。一昨日巣立っていきました。きっとこれから南の国へ渡るための飛行訓練を開始するのでしょう。皆、頑張れ!・・・。
少しずつ、少しずつではありますが、そうした小さな営みの中で季節が移ろっていきます。そして、あと10日もすればやがて立秋。同じ猛暑酷暑でも、季節の時候は暑中から残暑へ・・・。呼び方が変わってもまだまだ暑い日が続きます。
皆様どうぞご自愛ください。信州松本より暑中お見舞い申し上げます。
7月8日、全8回を以って終了したNHK総合で放送された「みをつくし料理帖」。
以前のTV朝日系列に比べ、主役の黒木華嬢を始めとする配役と、番組の最後の「献立帖」として劇中の澪が近代的なキッチンで毎回レシピ紹介をするのも含めて、高田郁の原作に忠実で原作の雰囲気を実に良く醸し出していたと思います。澪やご寮さんの大阪弁も心地良く響きます。だからこそ、であれば余計、最後に“雲外蒼天”を果たす全12巻を、1話45分足らずの僅か8回に収めるというのは土台無理。愛読者にとっては、尻切れトンボの消化不良で、如何にも中途半端。却って欲求不満が鬱積するばかり・・・でありました。
“下がり眉”の黒木華は、実に良く主人公「澪」の雰囲気を出していたし、当初どうかな?と思った「小松原」も悪くは無かったし、水害の中で屋台の親父から排除される澪を助ける時、そして澪のレシピを盗んだ登龍楼の料理人を叱り飛ばす時・・・「これが、あんさんの料理人としての器量かっ!?」という、ご寮さん「芳」の啖呵も良かった。そして、一途に太夫を支えようとする又治も良く雰囲気が出ていたし、つる家が閉まった後に来る「小松原」に付ける燗酒用の銅製のチロリ(銚釐)も風情があって良かった・・・。
でも、やっぱり欲求不満・・・。一柳も登場しなかったし、「鼈甲珠」も登場しない・・・。一方で、これも鍵となるご禁制の「酪」をオリジナルとは異なるエピソードで登場させていた・・・(繋げることは可能ですが)。
最終回の最後に、芳と澪が街中で行方知れずの「佐兵衛」を偶然見掛けて追い掛けようとしたのが「文化12年」と表記されていましたが、澪が雲外蒼天を果たして、“三人”で大阪に戻るのが文政元年とすれば、文化から文政に年号が変わるまでに後2年。この残る2年の“間”が、一体何を意味するのか・・・?。
そして、澪が佐兵衛を追い掛けて「ご寮さんと二人、元飯田町のつる家に居ますから!」としっかり伝わったのが、次に続く(何かが起こる)ことを期待させてくれるような、最終回らしからぬ終わり方では・・・?。
いずれにしても、この中途半端な終わり方は、何としても続編を放送してクリアしてもらわんとなりますまい・・・と、称賛と不満とが“ない交ぜ”の全8回。でも続編を期待したくなる程に、原作の雰囲気を実に良く描写していたドラマ化でした。
最終日は、娘と車でサービスアパートに行って、残った荷物の荷ほどきをして荷物の整理です。大体片付いたところで、娘の運転でTown & Country Village のTrader Joe’sに行って食料品の買い出しです。夕飯は(外食続きだったので)、この日は娘が料理してくれるとのこと。帰路、広大な大学敷地内にある湖に立ち寄り。雨季にはもっと水を湛え、乾季には水が消えるのだとか。格好の散歩コースなのだそうで、一度来てみたかったのだそうです。
奥さまからは、「アンタらは、ホント飲兵衛なんやから!」とのお小言も・・・。(関西弁で記載した方が、実際よりも柔らかく感じますので・・・)
娘の手料理もとても美味しかったのですが、大きな切れ目でしたがサーモンが二切れで$12とか。やはり、アメリカは(特にパロアルトは?)物価が高い様です。
翌朝、娘にホテルへ迎えに来てもらって、サンノゼ国際空港から帰国。
30年位前に来た時に、赴任者が今度日本からの直行便が就航するので便利になると喜んでいたのを思い出します。国内線で利用した当時の空港は如何にも田舎の空港でしたが、広さは変わらないかもしれませんが、ターミナルも新設され見違えるほどスマートになっていました。
娘は、通関するまでずっと見送ってくれました。
「うん、体には気を付けて元気で頑張れヨーッ!」
1週間もすれば婿殿がLAに赴任して来ます。それぞれ難関を突破してのお互いの念願だったMBA留学とはいえ、夫婦としては一年半も離ればなれだっただけに、米国に拠点も出来るので焦らずにじっくりと就活に取り組めば良いと思います。他の多くの留学生の様な組織からの派遣ではないのですから、自分で自分の未来に投資した分は少なくとも回収出来るように・・・。
30数年前のアメリカ西海岸への出張時に、パロアルトの赴任者が車での通り掛かりに「ここがシリコンバレーで有名なスタンフォード大学だよ」と教えてくれた時の記憶は、ヤシの並木道からのフーバータワーを望む景色だったか・・・。それがパロアルト駅から続くその名もPalm Street。当時は想像だにしませんでしたが、まさかそこに(娘のお陰で)自分が立ったとは・・・感慨深いモノがありました。機会を与えてくれた娘に感謝です。
日本以上の格差社会であるアメリカ。サンノゼやサンフランシスコでは、ホームレスの人たちをたくさん見掛けました。決して老人だけではなく、若い人もいましたし、金髪の若い女性すらいました。行き交う人は視界から消すのか、誰一人として見向きもしませんでした。
片や、パロアルトでは一切ホームレスの人を見掛けませんでした。パロアルトは全米一物価も高いのだそうです。要するに金持ちしか住めず、結果として治安も良いのか、大学の敷地内では朝など普通にジョギングをしている人たちもたくさんいて、何だか別世界の様でした。
モータリゼーション発祥の国アメリカ。石油危機、環境問題で、燃費の悪い大型車は敬遠され、小型車が主流となりました。
日本と比べ意外だったのは、現地では(西海岸のホンの一部エリアに居ただけですが)ドイツ車が少なく、テスラの様な電気自動車を別にすると、アメ車と日本車が多く目に付きました。確かにスバルやマツダも見掛けます。それに続いてドイツ車(カーメルではドイツ車を多く見掛けました)や韓国車でしょうか。大型のピックアップトラックも日本メーカー(トヨタのタコマやニッサンのタイタンなど)も含めてたくさん走っています。シボレーやフォードなど、アメリカのメーカーの車も想像以上に小型でデザインの良い車が多いのに驚きました。見ているだけでは性能は分かりませんが、見た目は日本車と変わりません。日本市場から撤退したメーカーもありますが、もっと上手く宣伝すれば売れるのではないか(価格は不明ですが)と思えるような魅力的な車を多く街中で見掛けました。日本という特殊な市場のせいではなく(縮小して魅力が無くなったのなら別ですが)、メーカー側の努力不足の様に感じます。
また知的階級だけなのかもしれませんが、専門店だけでなく、Trader Joe’sの様な高級スーパーを見ても、オーガニック食材が並び、サラダも何十種類と売られていて、昔に比べファーストフード一辺倒では無く、健康志向が高まっている様に感じました。それは、シリコンバレーで意外と多くの人が利用していた列車通勤や自転車通勤にも繋がっているのかもしれません。
滞在中CEOが批判もされてもいましたが、UBERが当たり前の様に使われ、テスラが普通に走っている社会。内向きになるのか、短期的な当面の方向性に心配はありますが、少なくともこの国が建国以来持っているであろう活気を感じずにはいられませんでした。
それにしても、全てが桁外れのスケールでした。そして、こういう場面に遭遇するといつも感じるんですよね、こんな国と戦って勝てる訳が無かろう・・・と。
午前中にサービスアパートへの引っ越しを済ませ、我々がシャトルバスでパロアルトのショッピングモールTown & Country VillageにあるTrader Joe’sで買ってきたサンドイッチとサラダで簡単にランチを食べてから、明日の早朝帰国する婿殿の最終日なので、皆で半日観光へ。
元々皆でヨセミテに行こうかと検討したのですが、日帰りでは無理なことが分かり、来月から婿殿のLA赴任が決まっているので、またいつか来れば良いと今回は断念。ワインで有名なナパバレーは、奥さまがもう二度とここで車の運転はしたくないとの仰せで、二人しか飲めないのでは運転する人が可哀想と、これも諦め。
そこで、娘の推奨する通常カーメルと呼ばれるモントレー半島の小さな街、Camel-by-the-Seaへ行くことになりました。パロアルトから高速で南に2時間弱のドライブだそうです。
往路は婿殿の運転。慣れたもので、来月からのLA赴任も問題ありません。
乾季なのか、枯れた草原と松なのか緑の木々が対照的な丘陵地帯を走り、時々牧場や広大な野菜畑や果樹園が拡がっています。米国は機械化された大規模農業というイメージでしたが、それは小麦やトウモロコシなどの穀倉地帯のことなのか、種類までは分かりませんでしたが、ここ西海岸の野菜畑などは思いの外日本の農業に似て労働集約的で、丁寧に栽培されているように感じました。ちょうど旬なのか、日本で云うアメリカンチェリーの観光農園の看板も見受けられました。
曇天で太陽も隠れていて、外は肌寒いくらいです。そこで、家内が一年前のサンフランシスコで(余りの寒さに)買って来たNORTH FACEのジャンバーをお互い羽織ろうとしたら、この日に合わせたサプライズで、娘がこれを着て欲しいと車のトランクから出して来たのは、それぞれ“STANFORD DAD” と“STANFORD MUM”のロゴが入った真っ赤なスタジャン。留学したため、一年遅れでの我々二人の還暦祝いの“ちゃんちゃんこ”代わりとの由。
「恥ずかしがらずに、チャンと着てよね!」
との仰せに、二人で有難く着させていただいて街歩きです。
通常カーメルと呼ばれる小さな街Camel-by-the-Seaは、元々はミッションと呼ばれる伝道所が作られて、カトリックの静養所を目指した街造りがされ、1900年代に入り芸術家や詩人が集まる街になったのだとか。現在でも芸術家が多く住み、そのため街中には多くのギャラリーがあり、またセレブの別荘やリタイアした方々などが住む街なのだとか。クリント・イーストウッドが市長を務めたことでも知られているそうです。
お洒落で可愛らしい街並みが続き、どの家も中世のヨーロッパを模した様な、それこそグリム童話やお伽話に出るような家をわざわざ造っているようです。
サンノゼでも昔の消防署が博物館になっていましたが、たかだか100年足らずのモノでも、歴史の新しい国では大切な“歴史的遺産”にするようです。ある意味、新大陸を求めて故郷の国を捨ててやって来た先祖たちの故郷の中世の街並みを、American Dreamを成し得た人々がその証として再現したかったのでしょうか。でも、テーマパークの様で、統一された実に可愛らしい街並みです。日本で云えば軽井沢や、海岸に近いのでむしろ鎌倉や葉山などの湘南のイメージでしょうか。
街を下ってカーメルの海岸へ降りてみます。白浜の続く海岸は、SFやLAなど加州で随一の夕日のスポットだそうで、肌寒いのに海水浴に興じる人や、ペットに優しい街として知られるというカーメルは、犬連れの人たちが海岸にたくさんいました。しかし、半世紀以上前の「名犬ラッシー」のイメージと異なり、SFやサンノゼ、パルアルトでも大型犬よりもむしろ小型犬を連れている愛犬家の方が多くいたのには驚きました(ナナはシーズーですが、もしかすると最先端かも・・・。その一方、人気と云う日本犬は今回一匹も遭遇せず)。
どうやら、この日夕日を眺めるのは難しそうなので、我々は早々に海岸を後にして、街歩きに戻ります。
娘が検索して、婿殿と私メ二人のためにワインのテイスティングへ。一人$15で4杯の異なるワインが試飲出来ます。このモントレーも気温の寒暖差が大きいため、ナパ程ではありませんが幾つかワイナリーがあるのだそうです。ワインのことは良く分かりませんが、ピノ・ノワールやシャルドネが美味でした。
以前日系の会社で秘書をされていたというお店の女性スタッフから、“Oh ! Stanford Parent.”の声に、娘の卒業式に来た旨を伝えると“Congratulations !”。“どうも・・・”でありました。
その後、早めに夕飯を食べて帰ることにしました。娘が検索し、イタリア料理のお店に。最初、他の欧州料理のレストランを予約していたのですが、街歩きの途中で、「ん!?こっちの方が良さそう!」と突如変更。こんな娘に付き合う婿殿も大変ですが、ヒラメキ派とじっくり型、大胆派と慎重型で意外と凸凹で夫婦としてはバランスが取れているのかもしれません。
車をレストラン近くの駐車スペースに移動してのイタリアンは、ビストロ「Little Napoli」。我々が座ると、間もなく満席になりました。どうやら地元の人気店の様で、ガーリックブレッドとアサリの蒸し料理が「大変美味しゅうございました!」。ピザは普通かな。食べ切れませんでした。
還暦祝いの真っ赤なスタジャンと不思議なカーメルの街。良い記念の旅行になりました。帰路は娘の運転で1時間でサンノゼのホテルに到着(・・・ん!?ちょっと早くネ?)。運転、お疲れさまでした。
大学構内だけなら、自転車さえあれば車は不要。しかし、先輩の方からのアドバイスもあって、企業訪問や友人との人脈づくりには車が不可欠だった様で、留学中の行動範囲を拡げるためにも、帰国する日本人の方から中古の日本車を購入しておいて(その時点では運転免許も無かったのに)とても良かったとのことでした。
事前に予約してあり、この日は二人共同じウエスティンホテルに泊まります。
米国SF到着が、現地時間で朝の10時頃。到着前の機内で軽食が出たので、パロアルトに行ってから皆でブランチです。それにしても、国際線に乗ったのは5年振りくらいでしたが、機内食の質が落ちましたね。
連れて行ってもらったのは、市内にあるオーガニックのサラダ専門店「Pluto’s」。パロアルトは大学の街から発展した高級住宅街。緑豊かで、庭もきちんと手入れされた瀟洒な住宅が立ち並んでいます。そのため、健康志向な人も多いのだとか。そこには何十種類という有機栽培の野菜が大きなサラダバーの様な容器に入っていて、何種類かの希望を伝えると、その野菜を組み合わせて大きなサラダボウルの様な器に盛り、指定したドレッシングで和えてくれます。勿論、オーダーは全て娘にお任せです。
意外だったのは野菜サラダの食材ケール。日本では青汁専用のイメージで、「まずい!」というCM効果かあまり食指は動きませんが、ここアメリカでは普通にサラダで食べられているのだとか。但し、日本で見る青汁用のケールではなく、パセリの様なフリルの付いた葉でカーリータイプのケールです。その後、現地の高級食品スーパー(オーガニック野菜を扱うTrader’s Joeなど)でも、二十種類近いサラダコーナーにもしっかりとケールサラダ(家内の朝食用のお気に入りは、ケールとエダマメのサラダで5ドル程。しかも、アルファベットでちゃんとEDAMAMEでした)が並んでいましたので、どうやら米国では一般的な野菜の様でした。
その日と翌日は、娘たちは友人たちと卒業祝いのパーティーがあるとのことで、食事は自分たちで。滞在したサンノゼのホテル周辺で済ませました。
最初にこれぞアメリカン!と、見つけた「Johnny Rockets」というハンバーガーショップへ。注文したハンバーガーにはポテトかサラダが付くので一つずつオーダー(各$12程度)したのですが、どちらも半端ない大きさ。サラダも優に二人分あり、結局ポテトは食べきれずに残しました。ハンバーガーはシンプルな味付けながら、如何にもアメリカ的味付けで美味しかったです。テーブルに置かれた大きな逆さボトルのHeinzのケチャップも、赤いビニールのベンチシートも60’sの様で如何にもアメリカ的でした。
そう云えば、初めて出張でアメリカに来た時に、オフィスに来る移動販売車で注文してもらったランチのハンバーガーの肉々しくて旨かったこと。また、オレゴン州の色々な地ビールも美味しかったし、エルパソで赴任者に連れて行ってもらったステーキハウスの塩コショウだけで味付けされたTボーンステーキは絶品でした。一方、ロングビーチでランチに行った中華料理店(当時近くにラーメン屋が無く)のザーサイヌードルは、まるで丼がバケツの様で食べ切れませんした。この国のエネルギーを実感します。
東海岸から、西へ西へと大陸を(アメリカ・インディアンの土地をある意味略奪しながら)横断していった、この国の西部開拓史(TVの影響で、当時西部劇の白人はヒーローで、ジェロニモ酋長は悪役でした。征服した勝者が歴史を作るのは、蝦夷も熊襲もどこも一緒です)を想います。
翌日のランチは、サンフランシスコのチャイナタウンで、娘がSingaporeanの親友から教えてもらった(彼女が足で探し出した)飲茶のレストランに家内が是非また行きたいとのこと。何故かサンフランシスコで飲茶(Dim Sum)ですが、特に違和感も無し。娘も我々も6年半のシンガポール生活で、その間シンガポールの水と空気で多少Singaporeanの血が混ざっているのかもしれません。店は「Lai Hong Lounge(荔香小館)」。飲茶は中華料理の中の広東料理ですが、香を香港同様にホンと発音するのは広東語で、北京語では香菜(シャンツァイ)と同じくシャンと発音します。
11時半に付いたのですが、店の外まで行列。しかも次から次へとやってきます。殆ど現地の中国系の方々。一緒に来られた白人の方もチラホラ見掛けましたが、少なくとも日本人は皆無。自分の順番を確認し未だか文句を言っているのか、店側も負けずに言い返しての、ケンカの様な広東語が飛び交います。香港やシンガポールの屋台街(Hawker’s Centre)の喧騒が思い出されて、何だか懐かしい雰囲気です。並んでしまった手前(他に行く所も無く)ずっと待つこと1時間。漸く番号を呼ばれ席に付くことが出来ました。
早速たくさんの飲茶メニューから注文します。香港などで一般的な、店内を回るカートでの販売はありません。我々もシンガポールで何度も飲茶のレストランには行っているので推測出来ますが、漢字と英語表記だけで写真は無いので、日本人観光客には注文は難しいかもしれません。スタッフのサービスは丁寧とは言い難くても、実にテキパキとして迅速です。お馴染みのエビの蒸し餃子に始まり、シュウマイ、小龍包、フィッシュボール、そして娘の親友お薦めという独特のチャーシュウパオ(叉焼包≒肉まん)。どれも米国式かビッグサイズなので注文は控え目にとの、お友達からの事前のアドバイス。
どれもセイロ一籠(或いは一皿)に3個か4個ずつ。蒸し餃子はエビがプリプリで美味!最初に出て来たので、久し振りで嬉しくて写真を撮り忘れてしまいました。小龍包はシンガポールの様にレンゲが無いので些か食べ辛いのですが、スープの味は良し。フィッシュボールは懐かしいシンガポール風ではありませんでしたが、香菜(コリアンダー)が効いて懐かしい味(他の点心は、意外な程香菜は使われていませんでした)。そして、イチオシという叉焼包。メロンパンの様だという形容通りの、蒸しでは無く焼いてある(Baked)独特の叉焼包です。因みに、3個の品は、こちらが二人連れなので、その場でシェア出来るように鋏をいれてくれます。結局食べきれず、残った叉焼包2個は袋をもらって持ち帰ることにしました(そして、この日の夜の奥さまの夕飯になりました)。
私メは、叉焼包では物足りず、一人ホテル周辺で夕飯を食べることにしました。ハンバーガーショップは既に行ったし、ステーキハウスは見つからず、そうかと言って、ここで寿司はイイかぁ・・・。
結局、珍しいマレーシア料理のレストランがあったので入ってもみることにしました。一人なのでワンプレートの料理と懐かしのタイガービールを注文。東南アジアのローカルフードで定番だった、大好きな“ぶっかけ飯”だと想像したのですが、オカズが4種類くらい乗ってはいましたがグレービーでもなく、可も無く不可も無し・・・。でも、ちゃんとフォークとスプーンの東南アジアスタイルでした。
GSB卒業式の二日後の朝が退寮日に設定されており(室内を手早く清掃して、娘が一年前にそうだった様に、1週間後くらいには次年度の生徒が入寮して来ます)、朝早くからサービスアパートへの引っ越しを手伝い。お昼もそこそこで、一日中作業。何とか目処が付きそうで、夕刻「何だか、久し振りに日本のお蕎麦が食べたい」と云う娘が、ネットで探してパロアルト郊外の「怒髪天」というヌードルショップへ。ところが、蕎麦ではなくラーメン店。娘と家内はつけ麺。婿殿は豚骨醤油で、私メは親子丼。いずれも何となく大味気味・・・。久し振りの冷や奴が美味でした。でも、東南アジア中心の「味千」を始め、今では海外でも普通に日本式のラーメンが食べられるんですね。昔の赴任者は、日本のラーメンに近い味を探して歩き回ったものですが・・・。他の食事と比べると、量はやや多めですがほぼ日本並みでしたので、残さずに食べる事が出来ました。
無事退寮とサービスアパートへの引っ越しを済ませ、仕事の為に翌日の朝早く婿殿は帰国して行きました。我々は、サービスアパートで残った荷物の荷ほどきをするために、ホテルから車でパロアルトへ向かいました。途中、パロアルト近くのパンケーキが有名と云う店で朝食です。私がアメリカン、娘がパンケーキ、奥さまがシュリンプサラダ。どれも二人分の量。特にシュリンプの数ときたら・・・。結局家内は全部食べ切れませんでした。
それにしても、この国の食事の量の凄さ。日本の優に倍はありそうです。しかし、以前のファーストフード全盛だった頃と比べると、今ではサラダ専門店などもあったり(高級)スーパーでもオーガニック野菜が並んでいたりと、それなりに健康にも気を使う人が増えているかもしれませんが、そのサラダも量は日本の倍・・・。本質的には変わっていないのかもしれません。
パロアルト周辺にも勿論ホテルはあるのですが、シリコンバレーの中心地で且つ大学の卒業式なので、ビジネス客のみならず全米或いは全世界?から卒業式に家族が出席するためか、かなり早い時期からホテルはどこも満杯。娘に言われて奥さまも大分早くから探して、サンノゼのウエスティンに5泊確保することが出来ました。
モータリゼーション発祥の国であり、どこよりも車社会である筈のアメリカですが、ここ西海岸のベイエリアは(東海岸はNYの地下鉄くらいしか知りませんが)、サンフランシスコ名物のケーブルカーのみならず(同じく市交通局が運営するやMuniメトロと呼ばれる路面電車やトロリーバスもあります。写真は、フィッシャーマンズ・ワーフ付近を走るPCCカ―と呼ばれるレトロな路面電車です)思いの外列車の便が良くて、路線もサンフランシスコとサンノゼを結ぶ通勤用のカルトレイン(Caltorain)とサンフランシスコのダウンタウンと国際空港も結ぶバート(BART:Bay Area Rapid Transit)、サンノゼを中心とする近代的“路面電車”の都市交通機関であるライトレール(VTA:Santa Clara Valley Transportation Authority)がそれぞれ接続しています。そして、アメリカ的なのはライド&レールで、勿論最寄り駅には列車利用者の為の安価な駐車場もありますが、自転車で駅に来てそのまま列車に乗せ、到着駅でまた自転車に乗ってそのままオフィスまで自転車で通う人のために、自転車も駐輪出来るバイクカ―(Bike Car)が設けられていること。確かに車中心の社会ではありますが、大統領のパリ協定離脱宣言はともかく、日本よりも健康と環境を重視していると感じました。
カルトレインは非電化のため、巨大なディーゼル機関車が牽引しています。客車は全て2階建て車両でアルミ製の如何にもアメリカ的なゴッツイ車両ですが、車内のドアの上に「日本車両製造」のロゴプレートが貼られていました(組立てはGEとの説明)。因みにサンノゼのライトレールは超低床車両で、こちらは近畿車両製だそうです(ホテルのすぐ近くに停留所がありました)。
今回が三度目の訪問である奥さまは慣れたもので、日本のスイカに当るプリペイド方式の非接触型ICカードであるClipper(3路線とも共通利用可)を二人分購入し、事前に駅で必要金額を入金してあります。乗車駅と降車駅で機械にタッチすると都度課金徴収される仕組みです。コスト削減で駅は無人駅で車内にも車掌さんはおりませんが、もしチェックされた時に正規料金を払わずに無賃乗車などの不正が発見されると、何百ドルと云う罰金が科せられる旨の警告が車内に掲示されていました。
朝夕の通勤時間帯は想像以上に利用客があり、立っている人もいるほどカルトレインは混んでいますが、その時間帯を外せば殆ど座れます。特に2階席からは日本とはまた違ったアメリカ的な沿線風景を楽しむことが出来ます。
:ただ、カルトレインはデッキが高いので、大きなスーツケースなどの荷物の上げ下ろしは結構大変です。従って、SF国際空港からBARTでカルトレインに接続していますが、女性一人では些か大変かもしれません。しかし、早朝(5時台)からサンフランシスコなど渋滞が発生していますので列車で空港に行った方が時間的には遥かに確実でしょう。仕事のためにSF国際空港から一日早く帰国した婿殿も、空港までは列車で移動して行きました。
サンフランシスコやシリコンバレーでは、郊外に行かずにダウンタウン滞在が主であるならば、レンタカーで慣れない運転をするよりも気楽な列車利用がお薦めです。
開場は式開始の2時間前。
「誰もそんなに早く行く人なんていないよ、ここはアメリカだよ!」
という娘の忠告にも抗い、奥さまは、
「だって、せっかくの卒業式なんだから、イイ席で見たいじゃない!」
早めに行って娘の寮で着付け、開場時刻に合わせて午後2時半に会場へ。私は勿論、婿殿も止むなくお付き合い。すると、既に数十人の開場待ちの列が出来ていて、
「ほらぁ、アメリカだって一緒でしょ!子供の“晴れの日”だもの!」
・・・恐れ入りました。
スタンドは家族用と卒業生用などに区切られていて、お陰で家族用の前の方の席に座ることが出来ました。待ち時間に、婿殿は娘に渡す花束を買いに行ってくれました。シリコンバレーらしく、インド人も多く、お母様と思しき年配のご婦人はさすがに正装のサリーですし、地元の方々の中にはきちんとスーツとネクタイ姿の紳士もおられ、いくら日本人の正装とはいえ、さすがに着物は家内一人で目立ちますが、ネクタイも違和感はありませんでした。
MSX とMBA合わせて総勢400人程度。星条旗とスタンフォードの校旗(?)を先頭に、英国式なのか、エルガーの「威風堂々(第1番)」に合わせて入場開始。皆さん、真っ黒なガウンと茶色に縁取られたフード、真っ赤なスカーフと角帽という、アカデミック・ドレスと呼ばれる卒業式の正装です。客席から大きな拍手や歓声が上がります。天井からつり下げられた4面のスクリーンにも様子がライブで映されています。
GSBでは、一人ひとり全員に卒業証書(DIPLOMA Degree)が壇上で手渡されます。それぞれにとって、支えたパートナーや家族にとっても感激の瞬間でしょう。企業派遣の多いMSXでは娘も含め4人いましたが、MBAには日本人は僅か二人だけでした(しかも女性。女性の方が挑戦的なのでしょうか)。留学生ではなく移民なのかもしれませんが、中国系の学生の多さに比べ、如何にも少な過ぎ・・・。昔に比べ、日本人の留学生が減っていることが、日本人の内向き志向として話題になりましたが、気掛かりです。
祝辞のゲストスピーチは、オバマ政権で最後の商務長官を務めたOGのPenny Pritzker(ペニー・プリツカー)女史。
スタンフォードと言えば、2005年の大学全体の卒業式に招かれたスティーヴ・ジョブズ氏の“Stay Hungry, Stay Foolish”というスピーチが余りに有名です。
ドクターコースに始まり、MSXからMBAと、一人一人全員に壇上で卒業証書が授与されます。式が終了し、最後に士官学校の様に角帽を投げ上げる学生さんもいて順番に退場。会場外で娘と合流し、GSBに戻って友人や家族と思い思いに記念撮影です。
1時間後、GSBの構内に設けられた屋外の会場で学生だけでなく家族も参加してのMSXの卒業記念パーティー。学友やご家族の方々だけでなく、日系3世という大学の女性スタッフの方とも談笑。日本語は話せないそうですが、日本からの留学生を気に掛けてくれて、何かとお世話いただいたとか。お祝いの言葉と共に、留学中の頑張りも褒めていただき、お世辞とはいえ有難い限りでした。家内は“着物効果”で、卒業式の会場でもすぐに娘の母親と認識されたらしく、このために着物をわざわざアメリカまで運んで来た甲斐がありました。
夜、彼等はカップルでのパーティーがあるとかで、我々はサンノゼのホテルに戻りました。
翌18日は、フットボールスタジアムでの学部生を含めた大学全体の卒業式。
生憎西海岸から内陸部に熱波が来襲しており、炎天下のため、既に前日式を終えていたGSBの学生は自由参加とかで、娘も不参加(MSXは80名中20名足らずらずしか参加しなかったとのこと)でしたが、もう二度と無い折角の機会ですので、我々はサンノゼのホテルから直行して後半30分ほど参加してみました。
スタジアムの階段を上ろうとすると、外の階段で涼んでいたご家族と思しきご婦人が、そこから行くとトンデモナク暑いからトンネルの通路を行った方が良いとの優しきアドバイス。お礼を言ってそれに従います。
スタンフォード・スタジアムというアメフトのコートに式場が作られ、壇上に並んだ教授陣は皆さんガウンで正装。学生も半分以上はガウンを着ています。今回、退場の際に流れた音楽は、少しでも涼を届けたいのか、ヘンデルの「水上の音楽 アラホーンパイプ」でした。皆さん、炎天下で可哀想なほど。この日サンノゼでは観測史上最高の華氏で105度を記録したそうです(摂氏40.6℃!)。ただ、日本ほど湿度は高くないので、気温程の暑さは感じませんが、しかし間違いなく暑い!
この日の夕刻、親しい学友と家族を交えての寮のパテオでのBBQパーティーに我々も参加しました。日本人留学生は4人で、娘以外の男性3人は企業派遣で皆さん家族連れでの留学。卒業後すぐに帰任するため、既にお別れ会は済ませてあるとのことで、この日集まった親しい友人は皆アジア系。シンガポール人女性の親友とベトナム人の男性と遅れて参加のインド人の女性。
以前コンサルファームでの長期出張でシンガポールのチャンギに降り立った途端「懐かしい空気を感じた」と娘が言っていたのを思い出しますが、アジア系の人たちの方が何となくフィーリングが合うのでしょうね、きっと。
「皆、優秀だよ」という彼等。シンガポールの彼女はEDBからの派遣で3日後から出社とか。こちらもエリートです。お母様も交え、赴任時代を懐かしんで、シンガポールの話題に花が咲きました。
我々は電車の時間もあり小一時間で失礼し、娘が手配してくれて初めて乗ったUBERの車で駅に戻りました。
二日目も娘たちは昼夜共友人たちとの卒業祝いのパーティーがあるとのことで、我々はサンフランシスコ観光に行くことにしました。今回唯一の一日観光です。
サンノゼからは、ホテル前を走るライトレールからカルトレイン(Caltrain)とバート(BART:Bay Area Rapid Transit)を乗り継いで向かいました。サンフランシスコに近付くと、急に霧が発生し気温も下がって来たようです。さすが霧の街。
Market Streetのケーブルカーのターミナルには8時頃到着したのですが、既に長蛇の列。フィッシャーマンズ・ワーフの朝食が10時半オープンとのことから、ちょうどターミナル横にあった懐かしのバーガーキング(シンガポールではマックよりも人気でした。特にシンガポールでケチャップ代わりだったチリソースは、マックより美味でした)で朝食を済ませてから列へ。まるでディズニーランドのアトラクション待ちです。その間、車両の方向転換などの“見世物”もあり、チップ目当ての路上演奏などもあって行列も飽きさせません。ナンバーは「風に吹かれて」や「悲しみのジェットプレイン」など・・・。
「あぁ、ここはアメリカや・・・!」
他のお客さんに倣って、私メも1ドル札をチップで渡します。
3台ほど待って、フィッシャーマンズ・ワーフへ向かう車両に乗り込みます。途中の停留場では、降りる人数も踏まえ、何人乗ってもイイ!と運転手が待っている人たちに声を掛けます。
ダウンタウンの中心から名物の急坂を上って、今度は急坂を下りチャイナタウンの一角を通過しながら、海が見えると終点のフィッシャーマンズ・ワーフです。
こちらは、カニなどのシーフードやサワーブレッドに入ったクラムチャウダーが有名ですが、ランチには娘がSingaporeanの親友から教えてもらったというチャイナタウンの飲茶のレストランへ行く予定だったので、その前にフィッシャーマンズ・ワーフで霧に浮かぶ金門橋やアルカポネが収監されて脱獄不可能と言われた“監獄島”アルカトラズ島を眺めながらハーバーを散策し、お土産用のクラムチャウダーの缶詰を買うためにBoudin Bakery & Caféの売店へ。こちらの店がサワードブレッドの中をくり抜いてクラムチャウダーを中に入れたのが名物の始まりとか。赤い缶が目印です(写真のクラムチャウダーは前回母娘で来た時のもので、Boudinとは別の長女推奨店)。
その後、ゆっくりと歩いてチャイナタウンへの坂を登り、飲茶でランチを堪能し、腹ごなしに歩いて、色とりどりの野菜や果物などが並んだ八百屋さんなどの活気あるチャイナタウンを歩き、コイトタワーの聳えるテレグラフヒルの横を通過して、今度はお土産用のリンツ(Lindt)のLINDORチョコレート専門店を探して歩いてダウンタウンへ戻りました。
それにしても、婿殿の運転中のナビもそうでしたが(娘は英語案内のまま)、家内のスマホもAT&TのSIMカードにしたので、Googleマップでの日本語案内でルート検索もされて実に便利。そう言えば、Google本社もシリコンバレーのMountain viewに本社を構えていますし、シリコンバレーではテスラが当たり前のように走っていましたし、滞在中にCEOの行動が批判を集めていたUBERもここシリコンバレーから。そうした光と影はあるにせよ、Startupsと呼ばれるベンチャーの起業家たちの活気を感じます。
さて、お土産用にチョコレートを購入し、同じく他のお土産を購入すべく市内のTrader Joe’sへ。このTrader Joe’sもスタンフォードの卒業生が創業した店なのだとか。フム、観光に来たのかお土産を買いに来たのか分かりませんが、“名物”のケーブルカーにも乗り、Fisherman’s Wharfにも行ったし、坂も上り下りしてサンフランシスコの街歩きもしたし・・。
車が無いと、意外と行くところが限られます。東海岸のメトロやMOMA、或いはボストンの様な、世界から集めた名品の美術館も西海岸には無さそうです。夜までいればサンフランシスコ交響楽団のコンサートもあったのですが、些か歩き疲れたので、また電車を乗り継いで、明るい内にサンノゼに戻ることにしました。
サンノゼのホテルに荷物を預け、パロアルトへ向かいます。
先ずはスタンフォード大学へ。杉並区に匹敵する33.3km²という全米でも屈指と云われる広大な敷地を持つ私立大学です。パロアルト(El Palo Alto)はスペイン語で「背の高い木」という意味で、この地の目印だった大きなアメリカ杉(Red wood)を指すのだそうです。大学のロゴも赤いSの字をバックに緑のRed woodが描かれています。
校訓は「Die Luft der Freiheit weht(独語で自由の風が吹く)」(英語で、The wind of freedom blows)だそうですが、なかなかイイですね。
先ずは娘の寮へ。スタンフォードのビジネススクールであるGSB(Graduates School of Business 経営大学院)は、2年制のMBAと実務経験の長い人向けの集中制フルタイムでの1年制MSXの2コースがあり、娘はMSXに属していて、それぞれコース毎に寮が完備され、遠隔地からの学生は基本的に寮生活。中には子供連れの学生もいることから、家族向けの寮もあるのだとか。4階建ての寮の娘の部屋はシャワールームと洗面所が独立したワンルームで、キッチンは隣室の寮生と共同。それだけの学費を払っていると言えばそれまでですが、寮内にはジムも完備されていて、寮生はいつでも無料で使うことが出来るのだそうです(廊下に置かれたコーヒーサーバーも無料でした)。寮からGSBへは道を一本挟んですぐ。GSB内にはカフェ(ビールやワインも飲めるそうです。奥さまのイチオシはポピーシ-ドケーキとか)や学食も整備されています。
広大なキャンバスは自然が活かされ、まるで公園の様です。自然林の様な林も残されていて、野生のリスやピーターラビットに似たウサギも生息しているのだとか。実際、リスは至る所で見掛けましたが、今回はウサギには会えませんでした。
パロアルトの駅からは大学まで歩いて25分程度。平日は、構内は元より、駅からも大学構内へ大学のバス(Free Shuttle)が頻繁に運行されていて、大学構内だけではなく、スーパーやレストランなどの在るショッピングモールへもアクセスしていて、誰でも無料で乗車することが出来るのでとても便利です。
大学にはビジターセンターもあり、無料のキャンパスツァーも行われていますが、3度目の奥さまに付いて見どころを回ります(ツアーで英語で説明されても所詮分かりませんし・・・)。
構内は南欧の様な赤いレンガのイメージで統一されたコロニアル風の建物が続きます。周囲を取り囲む木々や芝生の緑と、建物の赤の対比が鮮やかです。そして、空は正に“カリフォルニアの青い空”(Albert Hammondでしたっけ、古いな・・・)。
先ずは大学の美術館(Cantor Arts Center)へ。ロダンの「考える人」を始めとする彫刻群や絵画などを多数収蔵していて、入場無料でしかも撮影可(フラッシュ不可)。
次に、広大な芝生の前庭(The Oval)を抜けてMain Quodと呼ばれる中庭を通り、教会(Memorial Church)へ。こちらは創立者であるLelandが亡くなった時に、妻Janeが寄進した教会だそうです。色鮮やかなステンドグラスを通して差し込む光だけの静謐な世界に、荘厳な雰囲気が漂います。背後には立派なパイプオルガンも設置されていました。
大学のランドマークは高さ87mのフーバータワー(Hoover Tower)。卒業生である第31代フーバー大統領を称え、創立50周年記念として1941年に建設されたそうです。娘の大学のIDがあれば無料でしたが、既に失効していた卒業後に行ったため入場料は$4でした。14階の展望台からは絶景の360度。眼下の大学全景のみならず、シリコンバレーや遠くサンフランシスコ湾までが遠望出来ます。
30数年前の出張時に、パロアルトの赴任者が車での通り掛かりに「ここがシリコンバレーで有名なスタンフォード大学だよ」と教えてくれた時の記憶は、ヤシの並木道からのフーバータワーを望む景色だったか・・・。それがパロアルト駅から続くその名もPalm Street。当時は想像だにしませんでしたが、まさか今そこに(娘のお陰で)自分が立っているとは・・・。
娘に頼まれて、全員が卒業式にレンタルで着用した黒いガウンを返却するためにブックストアへ。角帽は記念で、返却不要とのこと。ついでにブックストアへ。出版物もありますが、文房具やPCは元よりスタンフォードのマークやロゴが入ったありとあらゆるグッズ(帽子、Tシャツ、スタジャン、マグカップなどなど・・・しかも、キッズ用から親用まで・・・)が並んでいました。ブランド戦略、恐るべし・・・。
米国の有力大学はどこもスポーツにも力を入れていますが、スタンフォードも同様。構内には、立派なフットボールスタジアムや陸上競技場、テニスコートなどは元よりゴルフ場まで完備されていて、トム・ワトソンは卒業生。タイ・ガーウッズもここで腕を磨き、中退してプロになったのだとか。
サンノゼやサンフランシスコではホームレスの人たちをたくさん見掛けますが、ここパロアルトでは一切見掛けませんでした。一方、パロアルトは全米一物価も高いのだとか。要するに金持ちしか住めず、結果として治安も良いのか、大学の敷地内では朝など普通にジョギングをしている人たちがたくさんいて、何だか別世界の様でした。
6月17日に行われる長女の経営大学院卒業式出席のため、アメリカ西海岸に一週間程行って来ました。
米国本土にはこれまで5~6回来ていますが、会社員時代の米国出張以来ですので多分15年振りくらい。しかも、今回のシリコンバレーとサンフランシスコとなると恐らく30年振り?・・・見当もつきません。因みに、奥さまは1年前の留学時の生活セットアップ、次女との観光を兼ねての訪問と併せて、今回で3度目です。従って、搭乗手続きに始まり出国から米国入国まで、慣れた家内の指示通りに金魚のフンの如く付き従います。
9.11以降、厳しくなって時間も掛かると聞いていた米国の入国審査と通関も(今回は)呆気ないほどスムーズに終了し、到着ロビーで彼等と無事再会。日本では不要と運転免許を取らず、留学後に現地では必須と免許を取得した娘の運転で、サンノゼのホテルに向かいます。
大学の在るパロアルト(実際は隣接とのこと)はサンフランシスコからはサンノゼ寄りの途中にあるのですが、我々の荷物を先にホテル預けるため、パルアルトを通り越して先にサンノゼに向かいます。サンフランシスコとサンノゼ間は当然ハイウェイでルート101を1時間程度のドライです。家内は気が気ではない様ですが、追い越し車線も含め流れに合わせた運転で実にスムーズ。もしかすると、日本国内での運転経験が無いので、右ハンドルから左ハンドルへの違和感や先入観が無い分、慣れも早いのかもしれません。或いは、私メの運転に似て、どんなに飛ばしてもDNAの波長が合うのかも・・・。
サンノゼのホテルに荷物を預け、大学の在るパロアルトへ向かいます。
さて、シリコンバレーの旅がスタートです。