カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
一周忌を前に、春めいて雪の消えた3月末に義父の納骨を済ませることが出来ました。義父は長男ではないので、生前に市営墓地を抽選で申込み事前に確保してありました。忙しい義弟に代わり、事前に義母と家内で石材店と打ち合わせてしっかりと墓石も用意されていました。
茅野市の永明寺山の南斜面に、昭和50年から造成されたという市営の永明寺公園墓地。実家の墓地は第3期造営部分とのことですが、家内の道案内で車で登って行くと、結構な高台で南側に開けた茅野の市街地が望めます。
しかも、お墓に行く途中には、石室跡と思しきスペースに「釜石古墳」、「一本椹(さわら)古墳」という案内板が建てられています。
「えっ、古墳!?」
しかも、造成中の2013年には直径11mという諏訪地域最大級の7世紀の円墳「永明寺山古墳」が発見され、ほぼ未盗掘で鉄製の直刀6本を始めとする300点余りの埋葬品が出土。墓地の上部にその円墳が復元されていました(この古墳発見により墓地造成が遅れたのだとか。縄文と仮面のビーナスの二つの国宝土偶が発見された茅野であれば、市内の遺跡に一体どんな古代の“お宝が”埋まっているやもしれず、それも止むを得ないでありましょう)。
説明書きに依れば、この永明寺山古墳の石室へ至る進入路(羨道)は入口からやや東に曲がっているのが特徴的で、この標高872mの高台から晴れた日に臨める富士山と正対しているだとか。古代から富士山(不死山?)を崇め奉った故ではないかとの説明がありました。
確かに古墳時代もまだ富士山は、科学現象を説明出来ぬ古代人にとって、鎮まれぬ神の怒りとしての畏るべき活火山ではあったのでしょうが、しかし思うに、古代この地に至近の目の前に聳ゆる八ヶ岳の方が、むしろ畏敬の神の如く(八ヶ岳の裾野に住まいし縄文の諏訪の民から脈々と受け継がれた)畏れ崇め奉る存在ではなかったのか・・・と個人的には感じられました(但し、この古墳のある場所からは永明寺山の山肌に遮られて八ヶ岳を望むことは出来ませんし、八ヶ岳の最後の噴火は遥か130万年前とされています)。
古墳時代前期とされる3世紀の前方後方墳で、東日本最大級の松本市の弘法山古墳。前方後円墳では、東日本最大級の石室を持つという千曲市(更埴)の森将軍塚古墳(4世紀)。それらに比べると、出雲族の関わりが考えられる諏訪(須羽)国は円墳中心であり、ヤマト王朝との関わりは科野(信濃)国よりも遅かったように思われますが、登ると一目瞭然での弘法山同様に、この地一帯を眼下に見下ろして眠るのは、やはりこの地を治めた首領に違いないであろうと納得させられる絶景の場所でありました。
その意味で、古来この地は、古代ミシャクジ信仰にも繋がる諏訪国の民の子孫の行く末や安寧を願って、この地に関わった人々が眠るのに相応しい場所の様にも感じられ、諏訪の人だった義父を偲びながら暫し眼下に広がる茅野の街を眺めておりました。