カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 生まれて初めての毎日のルーティンとして、保育園から中学卒業まで通った岡田地区の通学路を、会社生活最後の異動により、今は上田までの通勤路(の一部)として、“通勤”というルーティンの最後を迎えるまで、全く同じ道を通っているのは、ある意味偶然の必然とは言え感慨深いものがあります。

 さて、通勤で毎日通るその岡田地区。国道143号線の岡田神社(注)参道の鳥居横に在る「とんぼ食堂」。松本市筑摩の人気ラーメン店「寸八」の姉妹店(実際に、寸八のお姉さまとか)です。
以前は松本には珍しい讃岐?うどんの店「寿々流」としてスタートしたのですが、やはり蕎麦文化の地でのうどん店経営は難しかったのか閉店してしまい、その後“手打ち麺の中華そば”をウリにしたラーメン店「とんぼ食堂」として再出発。オフィスや工場、大学が近くにある訳でもなく、飲食店の場所としては必ずしも良い立地条件ではありませんが、確かにラーメン店になった以降、結構繁盛していて昼時には外まで行列が出来ていることも。毎日その前を通るので気になっていたのですが、うどんも食べずに終わってしまい、ラーメンも未だトライしていませんでした。
本店「寸八」は地元の超人気店で、どちらかというと流行の豚骨コッテリ系がイチオシという店なので、個人的嗜好は異なるため未だ入ったことは無いのですが、筑摩の店の横を通っても確かに常に行列状態です。

 先日、娘の留学に伴う引っ越しで、東京の家財道具を松本で保管するため、一日お休みをもらい、午前中他の家事を済ませて迎え入れの準備万端。その搬入予定時刻まで小一時間ほど時間が空いたので、「とんぼ食堂」へ行ってみることにしました。
車だと我が家からホンの5分足らずです。混み出す前にと、12時前に到着。平日のためか、先客はご夫婦二組だけ。店内は、オープンキッチンを囲むL字型のカウンターに7席と小上がりが二卓だったか、思った以上に狭めでしたが、狭いくらいでイイんです。女性お二人で、連携良く切り盛りされていました。メニューは、醤油、味噌、塩の三種類。“食堂”と名付けた通り、定食類や夜の一品のおつまみ(唐揚げや餃子など)も用意されていました。
先ずは看板メニューであろう、醤油ラーメン(税抜き650円)の平打ち麺を選択(他に細ちぢれ麺も選択可能)し、味玉(+100円)をトッピング。鶏油が無料で増量可能とのことでしたが、先ずは基本のスープで頂きます。

 案内書きに依れば、鶏ガラと豚骨をメインに、アゴと北海道産の真昆布で出汁を採っているそうです。但し壁の貼紙曰く、「最近アゴ節の出汁が不調のため、暫くの間はアジ節を使用します」とのこと。麺は、寸八と同じ小麦粉にカンスイと卵を練り込んだ、平打ちの太麺と細ちぢれ麺とのこと。醤油は、地元「丸正醸造」(我が家の常備「二年みそ」の醸造元)の特製醤油とか。

 この日は平日故にお客さんも少なく、程無くサーブされてきました。
トッピングの基本が、刻みネギと種類の違うチャーシュー二枚、穂先メンマ、焼き海苔、ナルト、茹でた青菜という如何にもオーソドックス。先ずはスープを一口。透き通った醤油スープが美しい。これぞ中華そば・・・でしょうか。食べる内に気にならなくなりますが、思った以上に魚介系の出汁が効いています。個人的には鶏ガラがもっと効いた方が好み。醤油はさすがに香り高いのですが、塩気がちょっとキツい。もう少し塩梅は甘い方が好み。トッピングでは、輪切りではなく、縦に包丁を入れてから刻んだネギは好み。ホウレンソウかと思った青菜は小松菜で、ホウレンソウよりも歯応えがあります。チャーシューは、わざわざ豚バラとモモの二種類。どちらも濃くなく、優しい味付け。太麺の面は喜多方風の平打ちの手もみ麺。スープは良く絡みますが、個人的にはやはり細打ちのちぢれ麺の方が好みでした。途中、ギャバンのブラックペッパーがあったので、途中コショウを振って試してみました。
ラーメン通の方が言われる“無化調”で、尖ったところの無い優しいラーメンです。個人的な嗜好で云えば、惜しむらくは塩気のみ、でしょうか。あと、「大盛り」の記載がメニュー表のどこにもありませんでしたが、大盛りは出来ないのでしょうか。

 スープを殆ど飲み干して、「ごちそうさまでした!」。会計の時に
 「一度、うどんの時に来ようと思っていたのですが、機会が無くて・・・」
 「スイマセン、ラーメン店にしちゃいました!」
と、明るく仰っていたのが救われた、かな・・・。
【注記】
平安時代の「延喜式」に、松本市島内の沙田神社、塩尻市阿礼神社と共に「信濃国筑摩郡(ごうり)の三座」の一つとして記録される格式ある神社で、五穀豊穣の保食神と豊受神が祭神です(歴代藩主の庇護を受けて大きくなった岡宮神社はこの岡田神社の分祀であり、むしろこちらが本家です)。
縄文遺跡が点在する岡田地区の歴史は古く、平安末期に平氏討伐の勅命を受け挙兵。その後木曽義仲の大将格となって活躍し、「火牛の計」で知られる「倶利伽羅峠の戦い」で討ち死にした源親義は、この地に館を構え、近くの井深城(その後小笠原氏の配下である井深氏が居城とした)に砦を築いていたと云われています。その源親義は、岡田冠者親義として「岡田」の名を歴史上に残しています。

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