カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
今年の階段状のフラワーガーデン。
細長い棚田状の階段毎に、黄色、白、赤(ピンク)、青(紫)系と色を分けて、春の定番であるビオラやプリムラ、クロッカス、ヒヤシンス、チューリップなどの植栽が秋に植えられています。
雪の下の方が暖かで保温されるのでしょうが、今シーズンはそれ程の降雪が無かったので、低温に直接晒される期間の方が長かったように思います。
因みに、黄色系花壇の脇のムスカリは前の庭の生き残りです。家を建てた時に自身で作庭したフラワーガーデンが数年後にミントジャングルと化し手に負えなくなったため、8年前に知り合いの専門家に頼んで全面的に作り直していただいた(第70話。興味おありの方は「我が家のガーデニング日記」を参照ください)のですが、ムスカリは生命力が強いのか、また芽を出して次第に増えてきたものです。
この時期、雑木林風ガーデンの樹下では、グランドカバー(本来はGround Cover Plantsの筈ですが、園芸雑誌でも殆どこの表記)のポテンチュラに囲まれて満開のクリスマスローズ。ヤマボウシやソロなどの雑木の中では、今は株立ちのコナラが美しい銀色の芽吹きを見せています。そして、今年は街路樹やどのお宅でもハナミズキの花芽がたくさん付いている様な気がしますが、我が家でも紅白のハナミズキ(注)が咲き出して(紅のハナミズキは、芽吹いているので枯れてはいないのですが、片側半分しか花芽が付きませんでした)、随分と庭が賑やかになりました。
このハナミズキ(アメリカヤマボウシ)は、この「ガーデニング日記」の中でも何度か触れたように、1912年に尾崎行雄東京市長から米国に贈られてポトマック河畔に植えられた桜の返礼として、1915年(大正4年)にタフト米国大統領から返礼として贈られて来た木です。
ハナミズキは、そのサクラが散ってちょっぴり寂しい日本人の気持ちを埋めてくれるかの様に華やかに咲くので(秋の紅葉も素敵です)、僅か100年の間に日本でもすっかりポピュラーになりました。ハナミズキは病害虫にも強く、またそれ程の大木にもならないので、今では庭木としてだけでなく街路樹としてもあちらこちらで見掛けます。因みに、ハナミズキの花言葉は「答礼」だそうです。
加えて、最近奥さまがご自分で植え替えるようになった寄せ植え。
開花後も更に花芽が幾つか出て来たシビンジウムの鉢も、氷点下の心配が無くなった時点で玄関先に並べてありますが、今年の春はなかなか見事です。
朝早く出て、先ず長女の住む五反田で先に行っている奥さまと合流してからお届け物を済ませ、その後せっかく、且つ(私メは)久し振りの東京故、希望を聴かれ「上野へ!」と即答。
都美術館のボッティチェリ展は終わってしまったのですが、東京国立博物館で始まっていた特別展「生誕150年記念大回顧展-黒田清輝」を見たかったのと、それに加えて、今年の東京は開花後の花冷えか、長くもった上野の桜も楽しめるかも・・・と考えた次第。
黒田清輝(1866年~1924年)。明治期の日本の西洋画壇をリードした巨匠。1884年(明治17年)、18歳で法律を勉強するために渡仏し(明治政府が民法や刑法制定の手本としたのがフランス法だった)、パリで触れた絵画に生来の画才が目覚め、20歳で画家になることを目指して外光派と呼ばれたラファエル・コランに師事。その後、印象派の影響も受けながら、サロンに初入選を果たした「読書」でパリ画壇にデビュー。帰国後は、日本で最初の裸体画を出展するなどの画家としての制作のみならず、パリの美術教育(アカデミー)を導入し、東京美術学校で指導するなど後進の育成にも努めます。しかし後年は、子爵の家系で貴族院議員でもあったため、自身の制作よりも洋画界の近代化(帝国美術院第2代院長)を担わざるを得ず、そういた功績もあって、我が国の“近代洋画の父”と称されています。
「読書」や「湖畔」は教科書でもお馴染み。特に「湖畔」は1967年(昭和42年)の切手趣味週刊の記念切手にもなり、小学生の頃に収集しました。
今回は“大回顧展”と称するに相応しく、代表作の殆ど全てが網羅され展示されています。今回の特別展のキャッチが、“教科書でみた。でも、それだけじゃない。”見終わっての感想も「ナルホド!」でありました。
展示の解説で知った“外光派”という言葉がナルホドと思えた、作品を見ての最初の印象が“光の画家”。窓から陽光が差し込み、シャツに当たる光の陰影が印象的な「読書」。「厨房」も、彼が印象派に惹かれてアトリエを構えた、フォンテーヌブローに在る小村グレー・シュル・ロワンの農家(借りたアトリエは、その農家の小屋)の娘マリア・ビヨー(当時の彼の恋人とされる)をモデルに描いた作品。
とりわけ興味深かったのは、何とオルセーの協力で今回出展された、バルビゾン派(自然主義)ミレーの“三大名画”の一つと云われる「羊飼いの少女」(残る二つは「晩鐘」と「落穂拾い」で、何れもオルセー美術館蔵)と彼の「祈祷」、或いは師匠コランの「フロレアル(花月)」と彼のポーラ美術館所蔵「野辺」、そして吉野石膏所蔵(山形県美術館寄託)の印象派モネ「サンジェルマンの森の下草」と黒田の「落葉」が並べられて展示、解説されていて、その構図や色使いの類似性が一目瞭然だったことでした。
勿論、初めて見たホンモノの「湖畔」も「舞子」、そして「智・感・情」(いずれも東京国立博物館蔵の重要文化財指定)も素晴らしかった。
個人的に一番心惹かれた作品は、「祈祷」の静謐さと、静養中に描かれた絶筆「梅林」の鬼気迫る程の緊迫感・・・。それは、自然に抗う生への執着か、或いは本来の画家としてもっと描きたいという筆への想いか・・・。
それにしても彼自身の作品や資料200点(デッサン、模写、下絵、手紙等も含め)に、ミレーやモネ、師匠コランの作品や、友人久米桂一郎や黒田の教え子たちの作品を加えた全240点という作品群に圧倒された2時間余り。
「うん、良かった!」。
この展示からは、政治経済、学術、芸術、どの分野にせよ明治期の青年たちが抱いたであろう「この国を変える」という強い意志に揺さぶられるような、そんなパワーを感じました。
「うん、腹減った!!」
と、我々も強い意志を持って、 “花より団子”とばかりに当初の希望はどこへやら・・・。賑わう上野公園の桜に見向きをせず(駅周辺のレストランにも脇目も振らず)いつもの緑寿司の回転寿司「活」を目指しました。
「うん、腹が減っては運転出来ぬ!」
(・・・とお腹一杯いただきました。炙りトロイワシが旨かった・・・)
次女の住む羽田エリアからは、途中(大幅な時間短縮にはなる半面、入口が分り辛いのと、皆さん結構飛ばすので)緊張を強いられる首都高中央環状新宿線を経由して、4時間の長丁場です(中央道の田舎道に入るとホッとしますね)。
無事義父を見送った週末の4月9日。
その週はバタバタと慌ただしかったので、(家内の)気分転換も兼ねて、母をデイサービスに送り出してから、久し振りのウォーキングへ誘ってみました。
「どこへ行くの?」
という奥さまからの問い掛けに、
「この時期、お城しか無いっしょ!」
松本城の桜は例年より早く4月1日の開花でしたので、4日から13日まで『国宝松本城 桜並木光の回廊』として、夕刻女鳥羽川の桜並木のライトアップ、シナノキの並木にイルミネーションが飾られた本町通、そしてお城の桜もお堀端も囲むようにライトアップがされました。また、これに合わせて11日まで夕刻本丸庭園が無料開放されて「夜桜会」も行われました。毎年恒例で市民の間にすっかり定着した感がありますが、地元のタウンペーパーに拠ると、今年は海外からの観光客の方も多く、夜桜会は昨年の1.4倍に当たる4万4千人近い来場者だったそうです。ありがたいことです(12日のタウンペーパーには、お堀の水面に浮かぶ散った花びらの写真も掲載されていました。“花筏”、如何にも風流ですね。室町時代の撰歌集には既に登場しているようですが、誰が名付けたか、“もののあわれ”でしょうか・・・いとをかし)。
先ずは、途中の深志高校の桜。春、桜の下でお弁当を食べるのが恒例でした。老木で、病んだ幹を切ったので、大分樹形が小さくなりました。今年も新入生を迎え、恒例の応管(応援団管理委員会)による応援練習「歌練」が屋上で行われ、放課後の大太鼓の音が風に乗って我が家まで聞こえて来ました。そのお陰で、今でも校歌も応援歌も空で歌えます(多分)ので、新入生諸君も頑張れ!ガンバレ!(と陰ながら応援)。
そして、坂を下って松本城へ。内堀沿いの桜はもう満開で、早い木は散り始め。この日は、青空を背景に残雪の北アルプスも見えていました。お堀端をゆっくりと一周しながら歩いて行くと、確かに例年以上の人出で、歩道も人の波が続きます。お国ことばを聞くと、県外からの方々も多そうでした。サクラ前線を追いかけて、皆さん北上されて来られたのでしょうか。
突然聞えてきた懐かしい“シングリッシュ”に、思わず声を掛けて写真も撮ってあげたカップルはマレーシアのジョホールからとか。
「どうぞ、日本のサクラを楽しんで行ってください!」
彼等も気を使って、私たちを撮ってくれました。
“おもてなし”文化度はともかく、東南アジアの人たちは、日本人以上に(例えば老人や子供たちなどの弱者には)親切です。
翌10日には、朝帰京する娘を駅で見送ってから、ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール。通称“音文”)へ。弘法山か迷ったのですが、“花より団子”の面で、「コメダ珈琲」ではなく初めての「支留比亜珈琲」へ行ってみたかったので、音文に決定(弘法山の桜は来年に取っておきます)。
こちらも、周辺の公園に結構大木となった桜があって見事です。ここは戦前からの紡績工場の跡地。帰りがけ、遮断された大糸線の踏切で電車の通過を待っていたら、踏切名が書かれていて「鐘紡踏切」との表示。
「そうか、ここは鐘紡だったんだ。」
嘗ての工場の面影は、大きなヒマラヤスギと桜の老木だけかもしれませんが、今でも踏切にその痕跡がしっかりと残されていました(公共ではなく、JRの私的資産名称でしょうから、特に問題が無ければ変えなくてもイイのでしょうね、きっと)。
そして、一週間後の先週末の4月16日。
松本では、市中のサクラは既に散って葉桜になっていますが、標高が800mを越えるアルプス公園は満開とか。遅い年はゴールデンウィーク中に家族総出で花見(&BBQ)をした記憶がありますが、今年は4月中旬に満開となったようです。
そこで、週末の4月16日。早朝ウォーキングを兼ねて、アルプス公園へ行ってみることにしました。
拡張されて70haを越える広い公園内には、ソメイヨシノを中心に1300本の桜があるそうです。古くは私が子供の頃の県の種畜場時代からあったソメイヨシノの老木ですが、旧道沿い(今では車も通らず、またメインエリアからも外れるため、マレットゴルフに興ずる人たち位しか目にしないかもしれませんが、勿体ない程)に見事な桜並木を造っていました。また広場のサクラも満開で、既に散り始めたようですが、明日は荒天予想のため、週末旧市内での最後の花見を楽しもうという方々が既に早朝から場所取りをされていました。
この日はやや霞が掛かっていましたが、常念を始めとする北アルプスも眺望出来て、残雪のアルプスとサクラの花がコントラストを描いていました。
松本の桜の季節は、今年は何だか足早に過ぎて行きました。
来年の桜はリタイアして曜日は関係なくなっているので、すいているであろう平日に、地元(だけ?)では“西の吉野、東の陸郷”と称されているという陸郷桜を、ウォーキングも兼ねてノンビリと見に行こうと思っています。
3.11以降、何度となく目に触れ、自身も使った“災害列島日本”。
東日本以降も、直下型地震、火山噴火、洪水と、列島は何度も災害に見舞われて来ましたが、今回の熊本大地震では、堅牢を誇り、500年の風雪にも耐えて来たであろう熊本城が被災し、石垣が脆くも崩れ落ちるのをTV画面を通じて目の当りにして、何とも居たたまれない気持ちになりました。
災害列島に暮らす我々日本人の宿命とはいえ、何度痛めつけられれば気が済むのでしょうか?余震がいまだ終息する気配を見せない中で、
「もう、イイ加減終わりにしてもイイじゃないか!」
加藤清正公が築城し、武者返しや普通のお城の天守閣並みの宇土櫓など、壮大な熊本城が、今にも崩壊しそうな程のダメージとは・・・。自然に対する人間の小ささなど頭では理解していたつもりでしたが、人間が造った堅固で壮大な城が、荒ぶる大地の猛威の前に成す術もなく崩れ落ちていくのをただ見ているだけの無念さ。
3.11直後に松本で発生した震度5強の直下型地震では、松本城にもひび割れが生じましたが、今回の破壊力の凄まじさ。地元の方々にとっては、松本城同様に、日々の生活の中で日々仰ぎ見る心の拠り所、シンボルであっただろうと思います。
その心のシンボルの被災は、被災地の方々に対して、物理的なダメージ以上に心理的なダメージを倍加させてしまうのではないかと危惧します。
頑張れというのは容易いし、出来る支援はするつもりですが、是非九州男児、肥後もっこす、何でもイイ、誰でもイイから、
「ほんなこつ、負けんばい!」
と、一日も早く自ら立ち上がってください!・・・そう祈らざるを得ません。
因みに、聖母教会は旧東独時代は一切手がつけられず、市民は瓦礫の山を大切に守り続け、漸く再建されたのはドイツが統一され、崩壊してから60年後だったそうです。
諏訪も桜が咲き始めた中で、上社の山出しが終わった4月7日の朝、病気療養中だった義父が旅立ちました。86歳でした。
長男ではなかったので檀家宗派もなく、故人の遺志により身内だけの家族葬にて、ささやかではありますが本当に暖かく見送ることができました。
虫の知らせか、当初の予定より一週間前倒しして、前週義父を見舞いに帰って来て“お爺ちゃん”と心ゆくまで話が出来た娘たちも、忙しい中、今回もとんぼ返りでそれぞれ帰って来てくれて、最後のお別れをすることが出来ました。
火葬場で(今では煙は出ませんが)外に出て、サクラ咲く中、天に上って行く義父を想いながら、
『願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の望月のころ』(西行)
(写真は、西行が詠った「花」であろう、アルプス公園の山桜です)
どうしようかと悩んでおりましたが、妻の実家は無宗派でもあったので、禁忌期間でもある忌中を殊更意識せず、このブログも亡父の時の様に休止せずとも良かろうという家内の意見もあり、中断せずにここで再開することにしました。
しかしながら、喪中故年始の挨拶等はできませんので、ご了承ください。
末筆ながら、熊本を中心とする九州を襲った大地震。亡くなられた方々に衷心より謹んでお悔やみを申し上げますと共に、被災された方々にお見舞い申し上げます。どうか、“荒ぶる大地よ、鎮まれ!”
しかし、弘前城や高田城を始め、城址公園の桜は、明治になっての廃城後に、城跡を公園等に利用した際、サクラ(ソメイヨシノ)が植生として推奨されたことによるのだとか。「城と桜」は、必ずしも武士(もののふ)の時代からでは無かったようですが、でもやはりお似合いです。
今年の大河ドラマ「真田丸」で人気の上田城。
4月1日に開花した翌日の土曜日。上田での会議の休憩時間に行ってみると、普段の数十倍と言えそうな予想以上の人の波。“大河”効果は想像以上の様です。ソメイヨシノは前日開花したばかりですが、ピンク色の濃い枝垂れ桜は先に見頃を迎えていました。この人気が、単年で終わらずに暫く続いてくれると良いのですが・・・。
翌日の4月3日の日曜日。朝別件があり、昼過ぎにウォーキングを兼ねて松本城へ。松本城の桜も、4月1日に開花宣言が出されました。
東京は、開花後の花冷えか、結構今年の桜は長くもったようですが、このところの暖かさで、松本は4月1日の開花宣言の後、一気に開きました。早い木は、3分から5分咲き。
松本城にも、国内外からのツアーの方々含め、たくさんの観光客の皆さんが来られていました。恒例のお堀端のライトアップと、それに合わせた本丸庭園の無料開放が、4日から11日まで、ライトアップは13日まで行われています。
この日は生憎の花曇りでしたが、まだ雪をいただく北アルプスの峰々が望めましたので、屏風の様な山並みを背景に、モノトーンで武骨な5層六階の天守に、ピンクの桜がこの時期だけの華やかさを加えていました。
“センバツ”とプロ野球開幕・・・。
球春到来とはいえ(新聞報道では好ゲームが多かったようですし、古豪高松商の健闘には拍手です。松商もグワンバレ!)、何となくいまひとつ、個人的には盛り上がりませんでした。理由は、春の選抜高校野球に地元長野県チームが選ばれていないことが一番の要因ですが、話題の“スーパースター予備軍”が出場出来なかったことも一因でしょうか。そして、高校によっては、県代表とは言えない様な地元出身の選手が皆無であったり、居てもベンチ入り1名だったりと、何となく「違うんじゃないかなぁ・・・」と考えさせられたり。
人望ある監督(例えば、鍛治舎監督は明るくてイイですね)を慕って進学する選手を否定する気は全くありませんが、それ程関西地区で少年野球が盛んであれば、関西地区のセンバツ出場枠を増やすか、夏の大阪府の代表を2校にしても(予選最多参加校の神奈川も、でしょうか?)良いのにと思ってしまいます。
プロ野球では、賭博と金銭授受問題。賭博は勿論、金銭授受も褒められたことでないのは確かですが、某新聞の偏った報道ぶりが開幕に水を差しました。
選手は、とにかくこれぞプロと唸らされるような“金の取れる”プレー(例えば、巨人のクルーズ選手の守備には華がある。前ロッテ時代からGグラブ選手ですから当然とはいえ、ノーステップで振り向きざまのジャンピングスロー。同じ巨人の嘗ての名二塁手、ジョンソン選手を思い出しました。やはり日本人とはスナップの強さが違うのでしょうか。それと、昨夏の甲子園で一躍話題を集めた楽天のオコエ選手も、あの守備だけでも金の取れる選手になるでしょうね)を、球場で一所懸命にただただ見せれば良いと思います。
それと、今年から導入されたコリジョンルール。きっかけになった先行するMLBの危険タックル禁止による怪我防止(ケガで一生を棒に振る選手もいる)という目的は賛成ですし、反対するつもりは毛頭ありませんが、スリリングなクロスプレーが激減したような気がします(このルールの影響で生まれたプレー、DeNAロペス選手のタッチを避けて跳び上がってのホームインは巧かった)。
選手のケガ防止と見る側の感じるスリリングさの両方を満たす、何か良い知恵と工夫は無いものか・・・?
そこで思い出すのは、巨人V9時代、1969年の阪急との日本シリーズで、確か阪急岡村捕手のブロックを掻い潜って、捕手の股の間からスライディングした足を伸ばして一瞬早くホームベースを踏んだランナーの土井選手とそれを見ていた岡田主審。タイミング的にはアウトでしたが、セーフの判定。
激高した捕手の審判への暴力行為で退場処分となり、その後の試合も荒れましたが、翌日のスポーツ紙に掲載された写真にホームベースに伸びた土井選手の左足の写真が写っていて、ジャッジの正しさが証明されたという伝説のプレーでした。
ナポリタン、喫茶店の代表的ランチメニュー。
パスタではなく、あくまでスパゲッティ。しかも、現地ナポリには存在しないという、日本独特の洋食です。
一時、パスタ屋さんやビストロなどがブームで、あちこちにイタリアンレストランが出来、今や日本中どこでも割と手軽に本格的な(と思われる)イタリア料理が食べられるようになったこともあってか、“紛い物”(似非イタリアン?)のナポリタンは当然そのパスタのメニューの中には無く、また昔ながらの喫茶店もシアトル系やファーストフードなどに押されて廃れ、何となく街中からナポリタンが姿を消したような感がありました。
今や家庭でも、レトルトで手軽に本格的なパスタソースが入手出来ますし、バジルなどのハーブも家庭で栽培もしています(我が家ではジェノベーゼソースも自家製です)ので、家で食べるパスタも、バジルや、ペペロンチーノ、ボロネーゼ(ミートソース)、カルボナーラ、ボンゴレ、はたまたタラコや和風キノコ・・・。ここでもナポリタンはなかなか出て来ませんでした。
最近何となく懐かしくなって(子供が巣立って年寄ばかりになったことも手伝い?)、我が家で「今日はパスタ」という日は、ナポリタンをリクエストしています(奥さまは作り置きのソースを使って、専らジェノベーゼ)。
タマネギのスライスとキノコ(出来ればマッシュルームのスライス。無ければシイタケでも)やベーコン(或いはウィンナーソーセージ)を炒め、茹でた麺を一緒にトマトケチャップ(決してトマトソースではない)で炒めて出来上がり。出来れば新鮮な刻んだパセリを散らして、たっぷりタバスコを掛けて。中年世代にとっては懐かしい、謂わば“青春の味”でしょうか。
探してみると、田舎も含め、街角に佇む町の洋食屋さんや昔ながらの純喫茶、そんな所に、今でもちゃんと昔ながらのナポリタンが堂々と生き残っています。
昔ながらの普通のナポリタン。それでイイんです。イヤそれがイイんです。
(こちらで使われていたケチャップは、調理用なのか、店頭に並んだケチャップに比べて、甘味よりも酸味の強い本格的?なケチャップソースが使われていました。“街の洋食屋さん”の拘りでしょうか)。
弥生3月最後の週末。
奥さまは娘の所に上京していて不在。朝からの通院の後で食料品の買い出しをして帰り、いただいたサトイモがたくさんあるため、家内から頼まれていた芋煮汁をたくさん作っておきました(手の痒くならぬ私メがサトイモや長芋の担当です)。我が家では、山形県でも内陸風の醤油ベース(但し豚肉使用)での芋煮です(庄内地方では豚肉を使っての味噌味だそうですが、いずれにしても芋煮会は山形では秋の風物詩)。「あぁ。手が痛い・・・」
翌日曜日は、前話でご紹介した通り、朝から芝焼きです。終ってから、庭を久し振りに庭の様子を眺めてみると・・・。
そして階段状のフラワーガーデンも、冬の寒さを越えて、春咲きのビオラやプリムラなどが、より元気に、そして色鮮やかになってきました。今年も、例年同様に、黄、白、赤(ピンク)、青(紫)と階段毎に色を揃えています。
その中には、定番のクロッカスやヒヤシンス、チューリップなど秋に植えた球根も花芽が覗いているので、間もなく咲き揃うことでしょう。
昼頃、開智学校の裏にある中央図書館に借りた本やCDを返却に。
すると、10日程前に開花したロトウザクラ(魯桃桜)も、すっかり満開の様です。スマホで写真を撮っていると、通り掛かった若い女性から「それはサクラですか?」と聞かれたので、第1075話でご紹介する時に調べた内容を、早速教えてあげました。
またお隣のアパートのヒガンザクラ(彼岸桜)は、大分蕾も膨らんで日毎に赤味を帯びてきました
直近の予想で松本城は更に早まって今日4月1日という、ソメイヨシノが開花する前に、早く咲かないと「サクラ」としての主役を奪われてしまいます。昨日、ナナの散歩で見たら、アパートのヒガンザクラが綻び始めたようでした(ヤレヤレ・・・最後に掲載した写真は今朝撮ったヒガンザクラです)。間もなく春本番。
何となく、陽光だけではなくて、風の“匂い”も春めいて来たような気がします。気のせいか、沈丁花の香りが風に乗って運ばれて来たような・・・。姿が見えずに漂ってくる季節の香りで、秋が金木犀なら春は沈丁花でしょうか。