カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 2月27日付朝日新聞のスポーツ欄の、西村欣也氏(編集委員)の名物コラム「EYE」。
いつもの5倍くらいのスペースを使った記事に、「えっ、一体何?」と思って読んでみると、ここで定年を迎えるという西村さんの最終記事でした。
西村さんのコラムは“割と好きな方”で、このブログでも取り上げた記憶があり、探したところ、5年程前の夏の高校野球の記事で、以前長嶋さんと一緒に甲子園で観戦した時のエピソードを引用したコラムでした。曰く、
『それは2002年、ミスターこと長嶋茂雄さんと一緒に夏の甲子園大会決勝を観戦した時の長嶋さんの言葉が今も印象に残る、という書き出しで、「このトーナメントではね、優勝チーム以外の全ての球児にただ一度ずつの敗戦が配られるんです。甲子園の決勝でも、地方大会の一回戦でも、ただ一度の敗戦が、野球の神様から配られているんです。壮大なトーナメントの、大きな意義がそこにあると思うんです。つまずくことで得るものが、若者にはきっとある」。そんな長嶋さんの言葉を引用した後、西村さんは最後にこう締め括っています。
「グラウンドにがっくりとひざを折ったあと、立ち上がる少年たち。試合前と試合後のわずか数時間の間に彼等は成長する。スーパースターの誕生や名勝負にではなく、敗者に注目しながら甲子園を観戦するのもいい。」』(第333話)
そして、同じ内容を紹介した上で、朝日新聞の別の記者が「アルプス席」という甲子園報道頁の中の小さな観戦コラムで、「敗れたチームの監督が、甲子園から去る時に、グラウンドに落ちていたゴミを拾ってそっとポケットに入れた」と記事にしたことに触れた内容のブログもありました(第519話)。

 海外駐在からの帰国後、家内から子供たちの入試等でも引用されるからという理由で「朝日新聞」を“強要”され、そのまま(子供が巣立った後も、また捏造問題の後も、変更するのも面倒臭いし紙面に慣れ親しんだことも手伝い)ずっと購読しています。ビジネス用には日経も購読しているので、朝日の政治経済関係の記事は一切読みませんが、「人」に関する朝日の記事は視点が優しい(震災後の津波に襲われた港で、家族を亡くした女生徒が独り海に向かって吹く“鎮魂”のトランペットの写真は、当時大きな話題になりました)と思いますし、土曜日に別刷りで配達される「be」はずっと愛読しています。
同じように、西村さんの記事も、その特徴は「敗者への優しさ」だと感じていました。しかし、冒頭で「割と好きな方」と書いたのは、それは時として「強者」或いは「権威」に対する執拗な批判や攻撃にも映ることがありました。例えば、読売巨人へ対する「金権」批判。だとすれば、当時の逆指名やFAで、同様に金に任せて集めた他球団(ダイエー時代から今に続くホークスや近年の阪神)にも同様の批判があって然るべき(であるならば、論理の一貫性として納得出来ます)なのに、読売球団以外の批判記事を殆ど読んだ記憶が無く、ともすれば大新聞同士のヒステリックな“いがみ合い”的な匂いがして、鼻から信用出来ぬ“似非正義感的な胡散臭さ”を感じざるを得ませんでした。

 そこで思い出したのは、昔報知新聞(読売系列のスポーツ紙ですが、歴史は古く、明治5年に日刊紙として創刊。往時は五大紙の一角を占め、明治末から大正に掛けては発行部数最大だったそうで、昔の事件報道などで引用されることがあります。しかし関東大震災で社屋を失って以降系列下に入り、戦後スポーツ紙へ転換)に掲載されていた「激ペン」というコラム。正しく巨人愛を貫きながら、客観的に他チームの良い所は褒め、球団の悪い所は批判し、時に天下のONをも叱咤し批判する名物コラムでした。気になって調べてみると、記者だった白取晋さんは1993年に53歳の若さで現役記者のまま亡くなっていました(海外駐在中だったためか知りませんでした)。
「激ペン」に貫かれていたのは、必ずしも特定球団への偏愛ではなく、最終的にはプロ野球への愛情と公平性だったように思います。だからこそ、アンチGの人たちからも愛された名物コラムでした。
西村さんの「EYE」には、時に弱者や敗者への優しさは感じられても、そうした公平性が感じられない。結果として、首尾一貫とした論理性が欠けると見做されても仕方がないだろうと、勝手に判断しています。

 とは言え、記憶にも残らずただ読み飛ばすのではなく、そう考えさせられる様な名物コラムが消えるのは一抹の淋しさを感じます。長い間、お疲れ様でした。これからは、“シガラミ”から逃れ、フリーの立場で思う存分に書かれた記事を目にすることを期待しています。