カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
ここ数年、BS放送で日本の城に関する番組が幾つか放送され、“お城ファン”の一人として興味深く視聴しました。松本城も、全国に4つしかない天守閣を持つ国宝の城(姫路城、彦根城、犬山城)の一つとして、勿論登場しました。また、日経新聞の日曜日版に「美の美」というシリーズ(TV東京・BSジャパン系「美の巨人たち」とのタイアップ企画)が掲載されていて、内外の美術品を題材にその系譜などが紹介されているのですが、2月に入って『国宝四城』と題して、姫路城、彦根城と掲載されましたので、次回は恐らく松本城ではないかと思います(上、中、と来たので「下」で犬山城と一緒の紹介になるのかもしれません)。
観光ポスターなどでの、ここ信州松本のキャッチフレーズは、“北アルプスの城下町”。
確かに、バックに屏風のように聳える、北アルプスの高き峰々を従えて立つ白黒の松本城は、特に3000m級の峰々が真っ白く雪化粧をした冬など、本当に絵になります。しかし、どうして“こんな”山国松本に“こんな”立派なお城があるのか、市民としては大変有難いことですが、客観的に考えると些か疑問を感じます。
別所温泉のある塩田平(現上田市)は、北条一族が治め、現在“信州の鎌倉”と呼ばれる通り、そこで鎌倉仏教が花開いた(因みに戦前の長野県内国宝指定第一号は、松本城でも善光寺でもなく、塩田平の安楽寺と大法寺の三重塔です)ように、信濃は重要な地域でもあったことが伺えます。
しかし、群雄割拠した戦国時代になると、信州は盆地毎に分かれていることもあったのでしょうか、小笠原氏や村上氏など源氏の名門とされる武将はいたものの、残念ながら有力大名は生まれず、結局武田信玄の侵攻を許し、援助の要請を受けた上杉謙信が川中島で5度に亘り戦ったように、両雄の支配下にありました。松本や諏訪は武田信玄に支配されました。
なお、武田氏滅亡後、小笠原氏が領地を回復(“待ちに待った本懐を遂げた”として改名)するまで松本という地名は無く、現代まで残る長府や甲府と同様に、松本はそれまでは先述の信府(或いは深志)と呼ばれていました。また小笠原氏の居城は山城の林城であり、現在の松本城の場所には支城がありました。
現在の松本城に居城を移す基礎を築いたのは、信濃の半分を制圧した後に、得意の治水工事などを行って暴れ川だった女鳥羽川を改修し、湿地帯を埋め立てた武田信玄です。侵攻してきた武田信玄によって、防御だけではなく統治と経済活動も行なう城下町・松本としての街割の基礎が初めて作られたことになります。
また領地(石高)からすると場違いなほど“立派な”現存の五層六階の松本城(例えば諏訪藩の高島城は三層三階。明治になってから取り壊されてしまいましたが、もし残っていれば“諏訪の浮城”と呼ばれた優美な城だっただけに、おそらく重文クラスにはなっていたかもしれず、惜しいなぁ!)は、その後秀吉の命を受けて、東国の家康を睨む目的で石川数正・康長親子が築いた戦のための城。
実際に関ヶ原の戦いでは、中山道を進んだ秀忠の大軍を真田勢が上田城(天守閣は造営されず)で足止めさせたのは有名な話であり、その意味でも信濃は東国への押さえとしては適当な場所だったことが分かります。
築城の名手と言われた数正は、家康とは幼い頃からの言わば“竹馬の友”でもありながら、何故か支え続けた家康の元から出奔し、敵とも言える秀吉に仕えたことから、家康の送ったスパイ説さえあるようですが、徳川の世になっても石川家は決して優遇されませんでした。
江戸時代の松本藩は、当初10万石で中規模藩だったと思われますが、その後お家騒動で一時期6万石に減らされ(その後増石され最終的に8万石)、小藩となりましたので、余計小藩には不釣合いなほどの立派な城だったかもしれません。
ただ、8万石の小藩であっても外様ではなく、松平家、水野家など親藩・譜代大名が配置されてきただけに、それなりの位置付けではあったと思われます。
戦のための松本城に不似合いな月見櫓は、時の松本藩主、従兄の松平直政に将軍家光が会いに来る(実際は実現せず)という際に、観月でもてなすために増築された唯一風雅な建物です。
有力な戦国大名がいた訳でもなく、また後の大藩でもなかった松本ですが、謂わば、秀吉と家康の東西のパワーバランスの結果、石川数正という築城名人を得て生まれた“天下の名城”と言えるのではないでしょうか。