カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 京都をお昼に立つ日の朝一番で、JR嵯峨嵐山駅に荷物を預け、徒歩で、前日疲れて断念した真言宗大覚寺派総本山の大覚寺へ行って来ました。こちらは、元々嵯峨天皇の離宮嵯峨院が置かれたことから、今でも旧嵯峨御所とも称され、天皇の信任厚かった弘法大師空海がお堂を建てたのがお寺の起源とか。また、亀山上皇や後宇多法王が院政を執り、その後南朝も置かれるなど、皇室ゆかりの門跡寺院です。

 開門の9時前に到着。まだ人も疎らで、南朝方だったせいではないでしょうが、庭園の華やかな天龍寺や旧御室御所の仁和寺に比べ、優美ながらもどこか儚げで“侘び”を感じさせる嵯峨菊と片や華やかな御室桜との対比もイメージの中にあるのか、何故かその落ち着いた佇まいにも“侘び寂び”の儚さを感じます。
 ミニ紫宸殿ともいえる宸殿は、白砂に右近の橘と左近は「梅」。古来(万葉では)花と言えば梅だったのが(平安頃から)桜に代わったのだそうで、南北朝時代に現在の地に移った京都御所の紫宸殿では左近の桜となっていました。御所の紫宸殿の中に立入ることは出来ませんが、こちら大覚寺では宸殿も拝観することが出来ますので、王朝の雅な雰囲気に触れることが出来ます。
五大堂(本堂)で、年配のご婦人が凛として一人静かに写経をされていたのが印象的でした。疫病を鎮めんと、嵯峨天皇が弘法大師の勧めで心経を写され祈願されて(心経殿に勅封され、60年に一度開封)以来、大覚寺は1200年に亘る写経道場の本山(根本道場)として毎日写経をすることが出来るのだとか。般若心経262文字、一時間弱でしょうか。県内でも善光寺や上田の前山寺でも出来ますので、リタイアしたら、心を鎮め自らを見つめるべく、一度写経を経験してみたいと思います。
 ちょうど境内では菊花展が開かれていて、茶筅の様な細長い花弁が特徴の“嵯峨菊”が気品ある清楚な姿で境内を飾っていました。この菊は、嵯峨天皇が好まれて(舟遊びで大沢池の菊ヶ島に自生していた菊を見つけ、嵯峨天皇が手折って活けたのが華道嵯峨御流の始めとか)門外不出とされ、今では門徒の方々が菊花展に合わせて育てられているのだそうです。何でも天皇が建物の中から愛でられるようにと、以来高さ2mに仕立てるのが慣わしだとか。その清楚な嵯峨菊を寝殿から暫し眺め、境内を出てから大沢池を散策して今回の京都観光を締めくくり、大覚寺から嵯峨嵐山駅を経由して京都駅へ向かいました。
(この大覚寺の1㎞程北には、これまた女性に人気の直指庵があるのですが、学生時代に行った時に、 “想い出草”に記されたそれぞれの真剣さが揺らぐ訳ではないにしても、お寺自体に興醒めした記憶があり、今回もパス)。
 先にお土産を買ってから、新幹線改札に近い八条口に移動しての昼食。
上品な京料理とおばんざいばかりだったので「動物性タンパクを補給したい!」(ナルホド)とのことから、洋食の「グリル&ビア 八条ダイナー」へ。
今回の京都での“食”は、お寺巡りに疲れ、老舗や有名店を探して行く(且つ並ぶ)気力も無く、(京都での“食”に、“食い倒れの街”大阪のような期待をしてはいけませんが)全体に今一つだったでしょうか。久し振りにイノダコーヒーとかにも行って見たかったのですが、体力も時間もありませんでした。今回は、三条・四条河原町や、新京極、寺町など京都の中心街に行けなかったので、これぞ京都!という満足感が(私メは)やや不足で、何か忘れモノをしたような気がします。多少お寺さんへの移動には不便でも、街中に宿を取った方が夜の京都も楽しめたかもしれません(JRでの移動や荷物を考えれば京都駅が便利ですが、今回行った嵐山へは嵐電で、また東福寺へは京阪でも行けたことを考えると、四条周辺でも良かったかも・・・と反省)。
「ビール飲んで、ホテルですぐ寝てたの誰ヨ!?」
「えっ、そうだっけ?」。
まぁ何はともあれ、今回の京都では結構歩いたので、「お疲れさま~♪」で、(私メは)生ビールで乾杯!「あぁ、しんど・・・」。
 今回、私の一番好きな“見返り阿弥陀”さまにお会い出来なかったのがチョッピリ残念ですが、“仏像を見るなら奈良へ、庭を見るなら京都へ”を実感し、お陰さまで卒業以来35年振りの“秋の京都”を満喫することが出来ました。その中で気になったこと。仏教は不勉強で詳しくありませんが、奈良時代に伝来した仏教が、聖徳太子や聖武天皇などの歴代天皇の庇護により全国各地に拡がり、やがて平安時代から鎌倉時代に掛けて各宗派が伝来/誕生して、時に権力抗争を繰り広げながら、その自らのアイデンティティー確立のためにより重要だったのは、ご本尊である御仏よりも宗祖(開祖)であるかのように、御影堂(みえいどう、或いはごえいどう)の方が本堂よりも大きく立派なことが、時代的な変遷の中での奈良と京都のお寺の違いなのだろうかと感じた次第。
 今回久し振りの京都を巡ってみて印象的だったのは、昔に比べ、東南アジアからの観光客の多さと、レンタルの着物を着て散策する若い人たちの多かったこと。また、特別公開の飛雲閣や知恩院などで、スーツ姿でボランティア?の説明ガイドをされていた、各大学サークルの「古美術研究会」という腕章を巻いた若い学生さんたち(“学生の街”らしい試みだと思います)。そして近代的になった京都駅と観光シーズンとはいえ、以前にも増して増えた人の波・・・でしょうか(会話していても、イントネーションとかが、どう見ても地元出身とは思えぬ店員さんが、最後決まって「おおきに」と付け足すのは、まぁ、ご愛嬌・・・)。
学生時代を過ごした京都は、東京とは違い、もう少し落ち着いた街だったような気もしますが・・・。いずれにしても、京都人は「そうかて、東京に都が移らはって、まだたったの百年どすえ。京には千年もの間、ずーっと帝がいはったんやし・・・」と絶対に思っているに違いない・・・と想わせるような、何となく懐の深さ(余裕?プライド?)を感じます。
 王朝の雅と現代が、何の違和感も無く生活の中に同居する古都。
相変わらず、「そうだ、京都へ行こう!」と思わせる程に、久し振りの京都も人を惹き付けて止まない魅力に溢れた街・・・でした。

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