カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 5月20日頃、地元紙に掲載された写真。
それは、松本市内から捕えた槍ヶ岳に沈むバラ色の夕日。まるで、槍の穂先に夕日が突き刺さるかのようです。
地球の自転軸の傾きと公転により、地上から見た太陽の高度との関係で、松本では、この時期しか見られない構図。この時期は、TVドラマの“白線流し”の舞台にもなった、市内を流れる薄川から眺められ、槍に沈む夕日は、その後少しずつ(日に100~300mとか)ずれながら(太陽が北へ上る結果)、次第に(夕日の見える地点は)市中の南部(見える南限は中山地区まで)に移っていくのだとか。

 元々、常念岳の左肩にチョコンと除く槍ヶ岳は、平地では松本市内の一部(松本駅西側から東部)からしか望むことが出来ませんので、そこに周期で移動する太陽がちょうど沈むように重なるのは非常に限定され、この時期のみとか(地上から見て、太陽が一番北へ上る夏至が最も高く、その後また南へ下がっていく7月頃まで)。因みに、松本周辺だと、もっと標高の高い美ヶ原などでも北アルプスが一望出来ますので、その位置関係により平地とは時期がずれますが、同様に槍に沈む夕日が眺められるそうです。
地元紙に以前も掲載されたこともあり、結構有名な構図らしく、この時期になると、それを望む絶好のポイントである薄川に架かる金華橋には、アマチュアカメラマン諸氏が絶好のタイミングを狙って陣取りをして三脚を構えて、その時を待っているのだそうです。
 会社の同僚Kさんが、ここに掲載した写真を送ってくれました。
薄川の金華橋付近からの撮影とのこと。見事な景色です。
 最近、北アルプスが見られず些か欲求不満気味でしたので、実物の景色ではありませんが、暫し見とれていました。
松本は山の街。「この景色があるからこそ、イイ街なんだ!」と確信させてくれる、そんなとっておきの絶景です。

 春の時期、田んぼの土手や畔などに雑草に交じってたくさんの野蒜(ノビル)が生えています。
松本地方(少なくとも我が家周辺)では「ネンボロ」と呼んでいます。家内の生まれ育った諏訪地方では「ネンビル」と呼んでいたとか。この方が野蒜に近い感じでしょうか。いずれにしても、日本中で生育し、古事記や万葉集にも登場するなど、古くから親しまれてきたネギ属の野草です。
そう言えば、最近読んだ「みをつくし料理帖」でも、「にゅうめん(入麺)」に載せる具材で、関西のネギ(青葱)と違って、江戸のネギは白い部分が多く(根深)、白髪ネギが白い麺とでは寒々しくて色味が合わないと思案する澪に、種市が「それなら野蒜を使ったらどうだい。野蒜なら野っ原にいくらでも生えてからよぅ!」と薦める件(くだり)がありました。
アサツキのような葉(茎?)は勿論、小さな玉葱のような根(鱗茎)も食べられますが、飽食の時代と言われて久しいので、最近の子供たちは食べたことも無いのかもしれませんね。少なくと、我が家の娘たちは無いと思います。
私が小さかった頃は、良く刻んでご飯に掛けて食べましたし、また祖母がヌタにして、祖父や父の晩酌の肴になっていました。
一年中見掛けますが、5月も中旬を過ぎると小さなネギ坊主のような花茎が伸びてきて、アサツキのような部分が強(こわ)くなるので、食用にする場合は春先の方が向いています。

 そんな子供の頃の記憶に刺激されるのか、年に一度、この時期になると無性に食べたくなり、週末のナナの散歩の途中(チロルは足腰も弱ったので、今では我が家周辺の散歩のみ)で5本ほど摘んで来て、夕食時に刻んで醤油を掛けてご飯に載せただけの“ぶっかけ飯”で食べました。ポン酢でも試してみましたが、やはりシンプルに醤油の方が良く合います(お好みで花鰹を加えて)。
私にとっては、懐かしくも野趣満点の“春の味”です。春の元気を、人間が分けていただいています。鱗茎は、夜エシャレットの様に生で味噌を付けて。これも、冷酒に良く合いました。今度食べたくなるのは、また来春でしょうか。
(美味しそうに見えないのは、写真のせいです)

 奥さまが、ご親戚が穂高のワサビ農家というお友達から、野生のクレソンを何度かたくさん頂きました。

 何でも、ご親戚の湧水のワサビ田にクレソンがたくさん自生しているのだそうで、ワサビの花(結実させず、芋が大きくなるように春に花芽を摘んだ茎)をいただいた時に、クレソンの話題になり、家内が「我が家ではクレソンが大好物で、主人がプランターで水耕栽培をしている」と話すと、「湧水の流水でないと上手く育つ訳がない」と同情され、「誰も採らないから」と、再度ワサビの花を摘みに行った折に一緒に“山のように”採って来ていただいたのだそうです。夏になるとクレソンは強(こわ)くなるので、もう収穫出来るのもシーズン最後だから、とのこと。
しかもメインのワサビの花は、コツがあるからと、ご自分で湯がいて砂糖で揉み、十分に辛味が出てから一緒に届けていただいたのだとか。有り難いことです。

 それにしてもたくさんのクレソン。スーパーでは、ハウス栽培物を10本100円強で売っていますので、サラダの付け合せに食べる程度しか買えず、10年近く前でしたか、ハーブブームの折にはアメリカンクレスという地植え可能なクレソンがポット苗で買えたのですが、ブームが去った以降は、ネットで調べても種も売っていません。 
そこで止む無く、苦労して水耕栽培を毎年試みていますが、やはり湧水で育てる(或いは自生している)様なクレソンと比べれば、育ち方は雲泥の差です。川縁でも野生化して自生している(クレソンは非常に丈夫で、料理に使った端切れだけでも自生します)そうですが、川の上流に何があるか分らないので、湧水地や余程の清流でないと衛生的に不安だそうです。  
 クレソン。ステーキなどの付け合せでお馴染みですが、生でのサラダは勿論、好き嫌いはあるかもしれませんが、エグ味が何とも美味で、茹でてのおひたしや、炒めても美味しくいただけます。サラダ以外では、鍋材料、おひたしで、また今回はオリーブオイルで炒めてみました。最初はシンプルに醤油炒め、二度目はオイスターソースで味付け。果たして、チリカンコン風にチリソースで炒めたらどうかなぁ?・・・と悩むほどの量。

 また、いただいたクレソンを20本程、水を入れた2瓶に分けて挿しました。昨年までのスーパーで買ったクレソンに比べ、水揚げの早いこと。茎が太く元気な証拠でしょうか(伸びた茎を、既に一度サラダに使いました)。
髭根が一杯生えて来たら、例えバカにされようとも、今年もプランターでの水耕栽培に挑戦します。

 風薫る五月。野山の新緑が目に鮮やかです。
この時期、通勤路の峠道は、さしずめ“若葉街道”でしょうか。里山も若いエネルギーに満ち溢れている気がします。
 朝の峠道を走りながら、道路に迫る山肌を見ていると、淡かったり濃かったり、柔らかだったり、黄味がかっていたり、白っぽかったり、赤味がかっていたり・・・と、同じ緑色といっても随分色々な“緑色”があることに気付きます。
世界中の言語の中で、「緑」を表す語彙(若緑、黄緑、深緑、萌木色などなど)が一番多いのは日本語だというのも頷けます。
 厳冬期の大型トラックの往来で凸凹に傷んだ路面の補修工事がまた始まり、大掛かりな工事になると途中片側交互通行の箇所(三才山トンネル松本側入り口手前の本沢橋。どうやら舗装ではなく橋そのものの付け替えらしく、11月上旬まで半年間の工事とのこと)もあって、信号待ちになります。
イライラしそうになっても、逆に停車中にじっくりと若葉の緑を観察することが出来、むしろ心が和みます。11月上旬まで、ということは、三才山峠の素晴らしい紅葉も今年は間近で楽しめそうです。
広葉樹の山肌が道路脇まで迫り、折角の初夏の若葉や秋の紅葉の素晴らしい峠道ですが、これまで写真を撮りたくても車を停車させる場所もありませんでした。たまたま偶然にも、この本沢橋は絶好のポイント(もう一つは上田側の鹿教湯大橋付近)なので、工事が終わっても、この仮設道路をそのまま停車スペースとして残しておいてくれたら良いと思います。
 蓼科の御射鹿池(みしゃかいけ)で、その時に脳裏に流れていたというモーツァルトのピアノ協奏曲第23番の第二楽章アダージョを白馬に例えて描き入れ、新緑の美しさを“響く”と評したのは東山魁夷ですが、毎朝通勤していると、日に日に緑が鮮やかに、そして濃くなって、日光に照らされてまるで輝いているような気がします。
(写真は、5月の連休明け7日から20日までに撮り溜めた、通勤路の峠道と上田市荻窪地籍付近の里山の様子です)

 上田市上田原にある「拉麺酒房 熊人」というラーメン屋さん。
会社のメンバーから、「この辺りでお薦めのラーメンと言えば・・・!」と推奨(激賞)された店で、雑誌でも良く取り上げられ、評判を聞いてラーメン好きの人が県外からもわざわざ食べに来るのだとか。会社からは車で10分程度ですが、人気店で昼時間だけではリスクがあるので、これまで行ったことはありませんでした。
先日、外出の帰りに昼時を過ぎてしまったので、「どうせなら・・・」と寄ってみることにしました。

 上田原の信号から200m程高台に登った道沿いにその店はありました。
この近くに住む職場のメンバーから、「店らしくなく、普通の民家で一見公民館風の建物ですよ」と聞いていた通りの一軒家。知らなければ通り過ぎてしまいそうなほど(実際少し行き過ぎてから、もしや?・・・!)で、目立つ看板や幟旗も無く、全く以ってラーメン屋らしくありません。
店の裏に、結構苦労して10台ほどの駐車スペースが確保されています。玄関で靴を脱いで上がると(やはり民家を改装したのか、店内もラーメン屋らしくありません。むしろ田舎の蕎麦屋風)、広めの座敷にテーブルが6卓程と、厨房横に設えられたカウンターに5席。満席ではありませんでしたが、昼時を過ぎても次々とお客さんが訪れて来ます。      
 メニューにはつけ麺や味噌もありましたが、ここのイチオシであろう「醤油拉麺」(730円)をオーダー。「かけ拉麺」(550円)という聞き慣れないメニューもあり(昔、京都熊野神社近くのラーメン屋さんに「肉抜きラーメン」という学生向けのメニューがあり、貧乏学生には時々オヤジさんが黙ってチャーシューを載せてくれましたっけ・・・。就職後の出張の際、そのお礼にと伺ったら、もう店はありませんでした)。
 最初に「夢かおり」という小麦を塩で炒ったものが出され、「つまみ代わりに味わってみてください」とのこと。小麦本来の香りの強さが分ります。
 待つ間に読んだメニューに書かれていた説明によると、この小麦を始め、出来るだけ地元や県内産などの原材料を使っての地産地消と自家製に拘っているのだとか。自家製粉(石臼挽き)、手打ち風自家製麺機(仏製とか)、チャーシューやメンマも全て自家製とのこと。スープは、鶏ガラをベースに、鯖枯節と宗田鰹枯節で出汁を取り、そこに松本の大久保醸造の醤油(「甘露」)を加えて味付けをしいるとの記載(醤油系では、やはり大久保醸造の別の「紫大尽」という醤油を使う「薄口醤油拉麺」もあり)。
 運ばれてきた醤油拉麺。トッピングは、チャーシューとメンマ、青菜、海苔とナルトに刻みネギ。
一口スープを啜って驚きました。今までに全く食べたことの無い味です。透き通ったスープは、確かに鶏ガラベースを感じさせますが、枯節と醤油での味は、むしろソバツユ。非常にあっさりとシンプルですが、味に深みを感じます。それもその筈で、(蕎麦屋を営む義弟に依れば)拘りを持つ殆どのそば屋が「返し」に使っているのが、この松本の大久保醸造の醤油なのだとか。これなら「かけ拉麺」があるのも頷けます。また、高級小麦を粗挽きした自家製粉で、これまで何年も色々試行錯誤されて辿り着いたという自家製麺は、多加水麺とのことで、モチモチした食感の中細麺。
 熊人の「拉麺」。それは、中華そば、支那そば・・・とは呼べぬ、また「蕎麦」とも違う、「和風」と簡単には言えないラーメンです。シンプルなのに深い・・・。「ウ~ン」と唸りながら啜る内に、いつしかスープは完食。そこでまた「う~ん?・・・」。
ただ、私の好みではありません。個人的には、もっと鶏ガラを効かせた“中華そば”の方が好み。しかし、こういうラーメンがあってもイイと思います。
そう言えば、カウンターの中には上田の地酒(信州銘醸)がたくさん並べられていましたが、店主がわざわざ「拉麺酒房」と名付けた意味。
その意図は、夜、締めでのビールと一緒のラーメンではなく、和風の小鉢をつまみつつ、むしろ日本酒(地酒の冷でも燗のどちらでも)に合うラーメンなのかもしれない・・・と勝手に推測した次第。そう言えば、メニューにあった自家製のギョウザも、焼きではなく水ギョウザでした。

 大事に、味わうように、じっくり二度繰り返して読んだ高田郁著「みをつくし料理帖第9巻 美雪晴れ」(ハルキ文庫)。

 巻末には、次巻予告として「2014年8月発刊予定 第10巻 天の梯」。そして続けて「みをつくし料理帖 完結」の文字が・・・。文庫書き下ろしとして刊行されて5年だそうですが、
「そうか、遂に終わっちゃうのか・・・。」
思い起こせば、何気なく本屋で手に取った第1巻でハマり、年2巻の発行を待ち遠しく感じながら、これまで全9巻を読み通してきました。

 淀川の大洪水で天涯孤独となった澪を偶然助けたご寮さんの芳に連れられ、奉公した大阪の名料理屋で、料理の味が変わった理由を明らかにしたことから料理の才を見出だされ、その後料理人として、幾多の試練を乗り越えながら江戸で成長をしていく澪。
全編に一貫して流れているのは、人の縁(えにし)と、その偶然“袖触れ合った”皆それぞれが、辛さを抱えながらも愚直なまでのお互いへの思い遣りでしょうか。
その5年間の途中では、実際に大震災の悲劇があり、現実が偶然の物語の設定にも投影されて、「物語とはいえ(いや、物語だからこそ現実への道標に)、何とか幸せになって欲しい」と、その“思い入れ”をより一層強めさせたのかもしれません。
「自分だけが幸せになれない」と、幼馴染を救うべく奔走する澪。
「雲上蒼天」の願いは叶うのか、皆に幸せな未来が予感されるのか・・・。
第10巻となる完結編を待ちたいと思います。

 今年のゴールデンウィーク。次女は空港勤務故、人が遊ぶ(出掛ける)時 は繁忙期で休み無し。長女も責任が重くなって毎日忙しいらしく、娘たちの帰省は諦めていたのですが、後半になって、思いがけずも長女夫婦が二泊で帰って来てくれました。

 そこで、5日のこどもの日。折角ですので、木曽路を観光がてら、婿殿がまだ行ったことが無い、木曽の「時香忘」に蕎麦を食べに行くことにしました。我々も一年振りくらいでしょうか、久し振りです。子供たちが帰省して来た折や、県外からのお客様をお連れする時(途中奈良井宿の観光がてら)しか行きません(第554話&642話参照)が、「時香忘」は、その後もTVの旅番組で何度も紹介されるなど、地元客よりも県外からお客様の方が多い行列店です。
奥さまが、開店前に並んで一日10食限定の二色蕎麦(黒い田舎と白い更科を別々に打って、二枚貼り合せて切った蕎麦)を是非食べたいとの仰せ。然らば・・・と、開店30分前の11時到着前提に9時半に出発することにしました。松本からは、ゆっくり走って1時間半の行程です。
出がけにネットでチェックすると、11時半ではなく11時開店との表示に、「げっ、ダメかも・・・」。

 今回もショートカットで、奈良井川の堤防道路から善光寺街道(北国西街道)で洗馬を抜けて国道19号に合流するルートで向かいます。
松本では曇り空が、木曽に近付くにつれて雨脚が強まり本降りの様相。
でも、“全て山の中”という木曽路は、道路沿いを流れる奈良井川と木曽川(鳥居峠が分水嶺)の清流とも相俟って、若葉が雨に洗われて目にも鮮やかです。
また、シダレやオオヤマザクラなのでしょうか、木曽路では未だ桜も咲いていて目を楽しませてくれました。木曽路名物の「桜茶」(八重桜の塩漬け)にするのか、そこ彼処(かしこ)に植えられた八重桜がちょうど見頃を迎えていました。

 木曽福島から開田高原に向かう361号線を上り10分弱。予定通り、開店時間の11時に到着。何と、既に20台近く停められる筈の駐車場は満杯で、道路脇にまで車の列が・・・。
家内が順番待ちの記帳をして戻って来て、12番目で2時間待ちとの仰せに皆絶句。車に戻る途中で様子を聞かれたというキャンピングカーで来られた中年ご夫婦は、札幌ナンバー。しかも二度目の来訪とか。「う~む、時香忘恐るべし・・・!」。
「どうするぅ?」と聞かれても、ここまで来て他に行ったのでは、何しに1時間半も掛けて来たのか分りません。ただ、本降りの雨で、付近の散策も無理ですし、店に入っても行列なので、車内で待つしかありません。
ただ、蕎麦は江戸時代のファーストフード。コース料理でも無く、されど・・・とは言え「たかが」蕎麦ですので、「多分、2時間も待つことはありますまい!」
しかし20台近い駐車場は、我々ともう一台の松本ナンバー(地元木曽も同様)を除けば全て県外車。木曽という位置的に、総じて中京方面が多いようです。待つ間も、道路には、駐車場に入れない車が次々と順番待ちの列に加わります。やはり、時香忘恐るべし・・・。
 結局、予想通り1時間ちょっとで席に着くことが出来ました。
打つのに手間暇が掛かるであろう限定の二色蕎麦(「夜明けそば」)は、連休中は提供していないとのこと。全員粗挽きのオヤマボクチの大盛りを注文。待つ間、事前に供される薬味用の生わさび(芋)を、茎の付け根近くの香りが一番良い(辛味は先端の方が強い)という、ご親戚が穂高のワサビ農家という奥さまのお友達からのアドバイスをふまえ、鮫皮のおろし金でしっかりギリギリまで擦り卸します(お隣のテーブルは半分しか・・・。あっ、勿体ないですヨ!)
 飯山の富倉蕎麦同様に、ツナギにオヤマボクチを使う粗挽きの蕎麦は香りもあり、相変わらずのモチモチした食感です。蕎麦粉を入れて溶いた蕎麦湯も美味。ただ、いつもより蕎麦が短く切れていたような気もしましたが・・・?(お値段も大盛りで1800円と、前回よりも300円近く値上げされたような)。
婿どのも満足されたようで、何よりでした。もし次回ご両親が来られたら、観光がてらお連れすることにしました。
しかし、二色蕎麦を食べるためにも、やはり連休は避けた方が無難の様です。

 帰路は、雨降りのため開田高原も奈良井宿散策も諦め、松本へ直帰しました。

 松本市美術館で開催されている特別展「ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器-IMARI伊万里」に、奥さまのご要望で4月末に行ってきました。
今回も、3年前のマイセン同様に、サントリー美術館から松本(6月8日まで)を経て、大阪市立東洋陶磁美術館への巡回展。「伊万里焼」として、東洋陶磁美術館の所蔵品を中心に、本邦初公開を含むヨーロッパの王侯貴族に愛された輸出伊万里190点の謂わば里帰り展です。
前回の学芸員の方の解説付きでの鑑賞「ギャラリートーク」が大変有意義でしたので、今回もと思ったら、全て平日の金曜日開催。4月27日の日曜日だけが、所蔵元の大阪市立東洋陶磁美術館の主任学芸員の方(小林仁氏)のゲストトークという、願ったり叶ったりでの午前午後2回の各先着20名とのことに、勇んで早めに美術館へ。

 因みに、なぜ大阪の市立の美術館が陶磁器専門の美術館(しかも国宝・重文を含む逸品揃い)を持っているかと言うと、あの安宅コレクションを引き継いだ住友Gが市へ寄贈したものだとか。

 さて、早めに着いて集合のアナウンスまで少し時間がありましたが、結局集まったのは20人弱でしょうか、勿体ないことです。でも、お陰でゆったりと伊万里の歴史や展示品の解説などのお話を伺いながらじっくりと眺めることが出来ました。勿論限られた時間ですので、展示品全部は無理で、終了後にもう一度、お話しを思い出しながら一品毎にしっかりと味わうことが出来ました。

 ところで良く陶磁器と言いますが、これは土で焼いた器の総称。瀬戸モノに代表される粘土を焼いたものが陶器で、ガラス質の多い磁土を焼いたものが磁器。日本での最初の磁器は、秀吉の朝鮮出兵に同行した佐賀の鍋島藩主が朝鮮から多くの陶工を連れ帰り、藩内の有田で磁土を発見し焼いたのが始まり(1610年代)とか。ただ朝鮮半島では青磁・白磁が中心なので、染付技法は中国から直接もたらされたのだろうとのこと。土器も陶器の一種ですので、伊万里や九谷など、日本での磁器の歴史は陶器に比べれば遥かに新しいことになります。
景徳鎮に代表される中国磁器(英語でも磁器はchina)が、明が滅び清になった混乱で、一時期海禁政策が採られ、その需要を埋めるために東インド会社から有田に大量注文が入ったことで、1660年代以降、日本の磁器が飛躍的に成長拡大していったのだそうです。有田で焼かれ、伊万里(港)から積み出されたことで、伊万里焼と呼ばれることになったのだとか(因みに、浮世絵が海外に知られるようになったきっかけは、輸出磁器の包装紙だったというのも興味深い)。
なお、近世に入り鉄道輸送網の発達で有田焼・伊万里焼と実際の産地で区別して呼ばれるようになったことから、江戸時代までの伊万里焼を区別するために「古伊万里」と呼ばれることもあるそうです。TVの「鑑定団」だけでは分らぬ“ナルホド”でした。
 景徳鎮の代替品として欧州の王侯貴族の注文を受けて、当初は依頼に沿って景徳鎮を模倣するだけだったのが、柿右衛門様式などの開発により、やがて日本独自の染付や文様が施され人気を博し、その後輸出が再開された景徳鎮もそれを逆に模倣(チャイニーズ・イマリ)し、また東洋以外で初めて磁器の生産に成功したマイセンもそれを模倣。シノワズリからジャポニズムへというブームの変遷にも似て、時に漆の蒔絵を施すなど豪華絢爛さを誇っても、その後は中国の圧倒的な生産力に対抗出来ず、コストで負けて衰退をしていくなど、何だか歴史が繰り返されている感を持ちました。
また、宮殿の四方の壁一面に埋め込まれた「磁器の間」に代表されるように、海外の展示では何点もケースに一緒に並べて展示されるのに対し、日本での展示は対で対比して展示するように、“一品を愛でる”という民族の美意識の違いのお話も、「古池や・・・」の句で、欧米人は池に飛び込む何百匹もの蛙を連想するという話にも似て、大変興味深いものでした。

 それにしても、何とも柔らかな乳白色(乳白手=にごしで)の柿右衛門の“白”に魅せられました。実物を見比べてみると、他の青味がかった白との違いは一目瞭然です。この白だからこそ、赤や緑も一層映えるのでしょう(お話によると、今回展示されていた東洋陶磁美術館所蔵の柿右衛門様式の相撲人形よりも色目の落ちる相撲人形が、数年前のオークションで一億円で落札されたとか・・・)。

 初期伊万里の青の染付に始まり、重要文化財(サントリー美術館蔵の色絵花鳥文八角大壺)を含む190点(展示室へのアプローチには、これらとは別に、松本城三の丸跡から発掘された伊万里焼も参考展示)という、年代別に区分けされた展示品を鑑賞しながら、
 「何だか、ウチにも似たような感じのお皿とか、無かったっけぇ・・・?」
 「うん、何となくそんな気もするよネェ~!?」
ま、そんなことがある筈も無いのですが・・・。
しっかりと目の保養になりました(その後中年カップルは、今度はお腹の保養に何故かマクドへ・・・?)。
【追記】
草間弥生さんに因んだ、構内の赤い水玉のデコレーションが、以前に比べて何だかパワーアップしていました。

 我が家のフラワーガーデン。芝生ガーデンとの通路を挟んだ、広い所でも巾1m程の狭い土地の傾斜を利用した階段状の花壇。
ミント・ジャングルと化した自作のハーブガーデンに業を煮やした奥さまが、園芸店にリフォームをお願いした際のご自身のリクエストで、黄色、白、赤、青とエリア毎に植栽も色分けされています。 

 日陰になることが多いので、少し遅れて、ここで漸く色とりどりの春の花々が咲き揃い、春爛漫の様相。
冬から春に掛けての定番のビオラ/パンジーやプリムラ(サクラソウ)、また秋植え球根のチューリップやヒヤシンス、スノードロップなどなど。
 芝生ガーデンに植えた紅白のハナミズキ。
ワシントンへの桜の返礼に東京に送られたというハナミズキが、今や、日本中で桜の後の街中の花の定番になった感がありますが、我が家のハナミズキも、今年は特に白の花芽が多く、ここで満開になりました。
 まさに春爛漫・・・、といった感じの我が家の春の庭です。

 標高1000mを超える峠道を毎日通勤(文字通り山を上り下り)していると、平地(と言っても我が家は、松本市役所で590mという市中からは50m程高台へ上った標高640m位)とは少し時間のずれた四季を目にすることが出来ます。とりわけ、真冬の凍結路から解放された春の季節は、その移ろいに心も浮き立つような気がします。
    
 里では既に桜のシーズンも終わりましたが、松本からですと、峠道に差し 掛かる稲倉地区や、上田側に下った鹿教湯地区では、2週間近く遅れて桜が開花します。峠の頂上付近は勿論ですが、山影で日当たりの悪い場所では更に遅れての開花になり、お陰で何週間も、或いは一ヶ月近くも所を変えて桜を楽しむことが出来ました。桜の名所のような華やかさはありませんが、数本ずつ地区の学校や民家の周辺などに植えられたソメイヨシノや、お堂の脇の枝垂れ桜など。

「日本人て、本当に桜が好きなんだなぁ・・・」と改めて認識させられるほど、この時期に花が咲いて初めて知る、あちらこちらに点在する桜です。
そうした里の桜が終わっても、人里離れた峠道からは、淡い山桜が山懐にひっそりと白い花を咲かせています。西行始め、古来大和人が愛でた“本来の”桜です。
また、まだ芽吹く前の茶色の山肌に、山桜よりもっと白い樹形がぱっと目に飛び込んで来ると、それはコブシの花だったりします。
 桜だけではなく、晩秋から冬に掛けて単色系だった景色が、春になって急に色鮮やかに感じられるようになります。とりわけ上田側は、白馬の青鬼地区ほどではありませんが、荻窪地区などの集落に向井潤吉画伯の絵を彷彿させるような茅葺屋根の古民家(但し、現在の屋根は全てトタンで覆われています)が結構何軒も残っていて、色とりどりに咲く庭先のレンギョウ、花桃、ユキヤナギ、水仙、芝桜などと相俟って、昔懐かしい風情を漂わせています。特に今は花桃が鮮やかです。
心の原風景とも云える、日本の里山の景色に心和む通勤路です。
(写真は、4月26日の平井寺トンネル付近の桜と5月1日と2日の荻窪と平井寺付近の道路沿いの様子です)
 そして季節は、次第に芽吹きの青葉若葉へと移っていきます。特にこの時期は、信州に多いという落葉松(カラマツ)の芽吹きの清々しさに心洗われる気がします。