カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
標高1100mの峠越えの通勤のため、平地より早めに冬用タイヤへの交換が必要です(街乗りだけだったら、松本では12月中旬で十分ですが)。
今年は厳冬予想だそうです。列島に寒波が襲った13日は、早くも長野市など北信地方は今年初めての積雪があったそうですが、幸い松本の平地は雨。しかし、道路は影響なかったものの、三才山峠の頂上付近も薄らと雪化粧をしていましたので、例年より1週間早く、その週末にスタッドレスタイヤへ履き替えました。
昨シーズン末にGSで「来年は、もうタイヤ替えた方がイイよ!」と、ダメ出しをされていましたので、10月にセールの始まったタイヤ専門店で新しいタイヤを購入してありました。アルミホイール(10年使いました)も融雪剤でボロボロに劣化しているので、併せて購入しました。その際、タイヤについてお店でスタッフの方に教えてもらったこと。
スタッドレスは、凍結路でも効くように柔らかいゴムが使われていて、数年経つと劣化してゴムが硬くなり、効きが弱くなります。従って、ノーマルタイヤと違い、山や溝が十分残っていても硬くなってしまうとダメ。
峠越えの通勤のため再度使い始めた10年落ちの4駆のSUVなので、あと3年弱で乗り潰す予定。従ってスタッドレスも残り3シーズンのみ。
「そんなに長持ちしなくても良いので、安いタイヤでも・・・」と思いましたが、例えば韓国製。国産の半値です。その店でも一応扱っていて、聞けば、昨シーズン、大量に購入するタクシー会社が韓国製のタイヤを使ったそうですが、山に登れなかったとかで、結局国産に買い替えたとか。圧雪路ではそこそこ効いても、凍結路での効きは条件の厳しい日本国内での試験で鍛えたタイヤメーカーに適わないとか。ミシュラン(日本で開発し全世界に輸出)、ダンロップ(現在では住友系)など外国のメーカーも、スタッドレスタイヤに関しては日本で研究開発しているのだそうです。
「価格も大事ですが、スタッドレスタイヤは、何より安心・安全、命を乗せて走ることを考えれば、値段よりも先ず性能です。」(仰る通り!ご尤もです)
なお、シーズン毎に新モデルが出ます。メーカーも日々研究しているので、年々進化しているのでしょうが、例えば古いモデルはどうなのでしょうか。上述のように、ゴムが劣化(硬化)していくと思いますが、劣化は使用した時から始まるのだとか。従って、5年も前のモデルならともかく、昨年モデルの新品だと殆ど劣化は無いのだそうです。
新品タイヤに履き替えて感じたこと。多分5シーズン近く?使ったであろう古いタイヤと比べての違い・・・。
「あっ、こんなに柔らかいんだ!」と、触っては勿論、走行しても本当に驚くほど(極端に言えば、フワフワした乗り心地)でした。これで、いつ雪が降っても安心して通勤出来ます。そういう意味では、雪道での性能も勿論ですが、値差は安心料だと思った方が良いかもしれませんね。
でも、こんなに柔らかくて高速道路は大丈夫なんでしょうか?・・・気になりますが、タイヤに記されているサイズ記号の末尾の記号から、そのタイヤの最高速度が分かるのだそうです。因みに、私の車は「215/70/R16 100Q」との記載で、その末尾“Q”は160km/hとのこと。全く問題ありませんでした(但し、冬用タイヤは、ノーマルタイヤに比べて雨天走行時のグリップ力は落ちるので要注意だそうです)。
前山寺に行った際に、境内の直売所で見つけて買って来た「ねずみ大根」(3本で100円!でした)。前回(第802話)和田の道の駅で買った大根の辛味が気に入って、またまた自宅で松本熊谷製麺の「古城そば」での「辛味そば」(おしぼり蕎麦)です(最近では強制休肝日の定番メニューになりました)。
11月中旬に家内がスーパーで買って来た「古城そば」は、緑色のステッカーも鮮やかに「新そば」の文字。
「おお、古城そばも新そばになったんダー!」。
ねずみ大根をすりおろし、大根おろしの搾り汁(辛味のために、搾った手が暫くヒリヒリする程です)で、濃縮の「つゆの素」(時々変なところに贅沢する奥さまが常備する「創味のつゆ」)を割って、「おしぼり蕎麦」。
家内たちは古城そばに付いているそばつゆをそのままで、そこに薬味として大根おろしと刻みネギ。辛味がケンカしますので、パックに入っているワサビは不要。同じねずみ大根でもモノ(個体差)によりますが、その辛さで(汗かきの私メは)汗が吹き出る程です。
新そばになった「古城そば」。茹で加減もちょうど良かったようですが、のど越しの良さに加えて、もちもちとした食感とそばの香りもしっかりあって、さすが新そばです。専門のそば屋(松本では、例えば「井川城」)にはさすがに負けますが、二人前1パック250円でこの味。ヘタな食堂の「ざるそば」なら適わないほどの美味しさです。松本平のスーパーには普通に並んでいる「生そば」も色々種類がありますが、その中では「古城そば」が父の代からの我が家のイチオシ(第340話参照)。しかも「新そば」のこの時期が一番の食べ頃でしょう。騙されたと思ってお試しください。
8月下旬に欧州在住のお客様をご案内して“信州の鎌倉”塩田平へ来た際に、初めて食べて感動した前山寺の「くるみおはぎ」(第780話)。
持ち帰りが出来ないことから、今度(スイーツ好きの)奥さまにも食べさせてあげたいと思っていたので、この日、前話の長野市へ行く前に、そろそろ見頃の最後を迎えた通勤路の紅葉を愛でながら前山寺に立寄って行くことにしました。ご住職の奥さまが作られる名物の「くるみおはぎ」は、春のお彼岸から11月末頃までの提供。“花の寺”とも云われる前山寺ですが、秋の紅葉にも期待して、里山も色付いた11月上旬が見頃の最後でしょうか。
いつもの通勤路、国道254号線の三才山(みさやま)峠も、里までまさに錦秋の装い。
「日光いろは坂」とまでは言いませんが(行ったこともありませんし)、この三才山峠も(松本からだと)麓の稲倉(しなぐら)地区の里山から始まり、三才山有料トンネル松本坑口まで続く山沿いの峠道、トンネルを抜けて上田側料金所手前の鹿教湯大橋からの深い谷あい、上田側に下る峠道の両側に拡がる落葉松林、鹿教湯(トンネル)を過ぎて内村川沿いに走る道沿いの古びた茅葺民家(今は殆どがトタン屋根で覆われています)の屋敷林などの大きなケヤキとのどかな里山など、それぞれ色とりどりの見事な紅葉に目を奪われます。この三才山峠の良い所は、色付いた山裾が峠道の真横まで迫っている点。“三才山紅葉街道”とでも名付けて(春ヴァージョンは“三才山新緑街道”?)、有料トンネルを管理する県がもっとPRをしたり、途中休憩スポットも無いので車の駐車スペースを広く取って展望台などを設置したりすれば(車の待避所以外、停車して写真を撮る場所すらありません)、観光的に効果があると思えるほどの素晴らしさでした。
その年の気候により多少のズレはあると思いますが、概ね10月下旬から11月上旬が三才山峠の紅葉の見頃のようですので、塩田平の松茸小屋や松本での新そばを味わいながらの、来秋の信濃路のドライブにお薦めです。
お寺の紹介は前回(第780話)を参照いただくとして、今回は写真を中心にご紹介します。
先ず、参道入り口から望む紅葉が見事。そして、“未完成の完成塔”という重要文化財の三重塔周辺の公孫樹や桜なども色付いて、紅葉シーズン最後の見頃に間に合ったようです。
事前に予約してあった「くるみおはぎ」。本堂脇の庫裏で頂きます。前回同様に、向付での紫蘇巻きの梅漬けと刻んだ味噌漬けがほうじ茶と一緒に供されます。この日は、紅葉シーズンの“信州の鎌倉”を巡る団体客やグループで来られたお客様もいて、庫裏も賑やか。なかなかの盛況でした。
「如何でござる?美味しかろう!」
「うん、懐かしい味・・・」
「ん?・・・えーっ、食べたことあるのォ!?」
何のことは無い。家内によれば、今は亡き祖母ちゃんが元気だった頃は、我が家のおはぎも自前のもち米だけで作ったおはぎだったとか(これまた自前の黒ゴマやきな粉を擂ってまぶしたおはぎ。ここのくるみおはぎと違い甘過ぎて、私メは食べませんでしたが)。また、向付に出された甘く漬けられた自家製の梅漬けも、お祖母ちゃんの味にそっくり(紫蘇は巻かずに梅と一緒に漬けますが)だったそうで、家内が大層懐かしがっています。そこまで言うなら・・・と、私の分も一緒に食べてもらって満足のご様子(口ぶりでは、第797話でご紹介した小布施堂本店の“朱雀”よりも気に入られた?)で何より。お連れした甲斐がありました。
お寺の方にお聞きしたところ、“花の寺”としてのお薦めは、桜か藤の時期だとか。雪を被った三重塔も水墨画のような趣がありそうですが、その時期は「くるみおはぎ」は休止中。今度は母も一緒に、花の季節にまた連れて来てあげようと思います。
縁側から中庭の紅葉越しに望む塩田平の眺望も楽しんでから、「懐かしい味だから」と、母へのお土産に箱入りの梅漬けを購入し、また境内の売店に並んでいた地元農家の野菜の中に“発見”した「ねずみ大根」も買って、コンサートに行くために上田経由で長野へ向かいました。
学生時代に生まれて初めて買ったLPがチャイコの5番で、彼の6曲の交響曲の中で一番好きな曲。学生時代はお金も無く、もし生を聴くくらいなら、その分でLPを何枚か買っていました(唯一の例外が、ノイマン指揮チェコ・フィル京都公演)。
シンガポールに赴任して、地元のシンガポール交響楽団(SSO。旧東欧圏や中国からの移民団員が多く、当時も日本の中堅プロオケに十分比肩しうる水準)の定期を、当時S席でも1000円くらいでした(S$15)ので、毎月のように聴きに行きました(しかも欧米流に夜8時開演で、オフィスから歩いて行けました)が、この5番は生で聴く機会が無く、初めて聴いたのが一昨年の佐渡裕指揮DSO(第549話)。そして、5番好きを知って娘がプレゼントしてくれた昨年のロジェヴェン指揮読響(第671話)。
先日、念願の十束さん指揮でのチャイコフスキー(4番ですが)の快演を聴いたばかり(第792話)ですし、もうチャイコフスキーは十分かな・・・と思っていたら、今回家内の知り合いの方から、「頂いたチケットですが、良かったらどうぞ」と譲って頂いたのが、11月9日のマチネでの長野市の県文(ホクト文化ホール)開館30周年記念としての、飯森範親指揮東京交響楽団特別演奏会。これが“オール・チャイコフスキー・プロ”で、メインがまた5番。有り難く聴かせていただくことにしました。芸術の秋の、思いがけないサプライズです。
しかし、こんなこともあるんですね。今一番生で聞きたいのはマーラーの1番(巨人)ですが、そんなことを言ったらバチが当たります。他に、ヴァイオリン協奏曲も(記念演奏会に相応しく、ソロは地元長野市出身の湯本亜美嬢とか)。東響正指揮者の飯森範親さん。生で聴くのは初めてですが、あの「のだめ」の千秋の指揮のトレーナーの筈。因みに東響は、先日のミューザ川崎がフランチャイズ。
開館30周年という長野県県民文化会館(ネーミングライツによりホクト文化ホール)は、若里公園にある最初の県立ホール(他に、伊那と松本)。広々した公園の木々も色付き、申し分の無い環境の中に、大中小の多目的ホールを持つ堂々たる建物。大ホールは、2173席とか(松本の県文は2000席ですが、同じ県立なのでホールの雰囲気は良く似ています)。
指揮者のプレトークから始まり、歌劇「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ、ヴァイオリン協奏曲。休憩を挟み、交響曲第5番というプログラムで、会場はほほ満席のようです。
湯本さんは、長野市出身の25歳。高校時代に日本音楽コンクール最年少第3位で、芸大を出て現在ドイツに留学中とか。地元での演奏のせいか、最初は緊張気味でしたが、音程のしっかりした伸びやかな音で、オケに挑むような気迫に満ちた演奏でした。もう少し柔らかさが出て来るとイイでしょうね。きっとVn.コンチェルトの大曲に集中した結果なのでしょう、せっかくの凱旋公演なのに、残念ながらアンコールはありませんでした。席の周囲の一群が休憩で居なくなりましたが、きっと応援に来られていたお知り合いの方々が楽屋に激励に行かれたのでしょう。
メインの交響曲第5番。第1・2楽章と第3・4楽章をそれぞれ続けて演奏された飯盛さんの指揮振りは、ゆったりと入りながらアッチェランドを効かせて、という感じの、かなりアゴーギクを強調した演奏。
東響の管楽器群は素晴らしく、第2楽章でのホルン・ソロも見事でしたし、特に第4楽章のコーダはまさにブラスの咆哮。ただ、ホールの音響や聴いた席の場所にも因るのかもしれませんが、管楽器に比べて弦楽器が負けていて(管楽器はソロでも手に取るように近くで鳴っているのに、弦はステージ上で篭って鳴っている感じで響いて来ない)、ややバランスを欠いた演奏でした。
最近はあまり耳にしませんが、「女性奏者が多いとパワーが無い」。第1Vn.は11名中7名、Va.に至っては10名中9名が女性奏者。最近では他にも女性が多いオケもありますが、この日に限っては久々にそんなことを思い出した次第。
演奏終了後はブラヴォーが掛かり、カーテンコールが繰り返された後のアンコールは、長野での記念公演に相応しく、県歌「信濃の国」。客席からは自然と手拍子もおきました。カーテンコールでは、きっと編曲者なのでしょう、第二ヴァイオリン奏者の女性の方を指揮者が立たせ、満場の拍手を受けられていました。
地元紙の報道に拠れば、県文の開館30周年記念行事として、キッズコンサートを定期的に開いている東響らしく(多分N響だったら、頼まれたってやらないでしょ!?)、前日も東北信地方の小学生を対象にした名曲コンサートや、団員の方々が各小学校を訪問して「楽器クリニック」なども行って指導いただいた由。プレトークで飯盛さんが、昨夜はオケのメンバーとフットサルでリフレッシュして来たと仰っていましたが、前日から長野に滞在されていたようで、大変お疲れ様でした。
SKFでも毎年小中学生を対象にして、小澤征爾音楽塾オーケストラによるオペラ(フンパーディンク「ヘンゼルとグレーテル」)や、今年は十束尚宏さん指揮での第九演奏会を松本だけではなくここ県文長野でも開催していましたが、今の県下の子供たちは幸せですね。都会でなくても、小学生の頃から生のオーケストラ演奏に触れられるのですから。いずれにしても、ありがたいことです。
長女夫婦からのプレゼントで出掛けた川崎でのチェコ・フィル演奏会。
せっかくの上京ですので、今回も翌日は上野の森へ。話題の「興福寺仏頭展」が、東京藝大美術館で開かれています。
中学時代の修学旅行に始まり、京都での学生時代など、多分5回近くは興福寺国宝館で阿修羅像などと共に拝観している筈ですが、最後に奈良に行ったのは恐らく20年位前。今回は東金堂ゆかりの国宝25点とのことですが、何でも国宝指定の仏像の15%を所蔵するという興福寺は、正に国宝の寺。
11月2日で10万人突破という記事が日経に載っていましたので、昨今の仏像ブームもあるのか人気のようです。上野駅のコンコースに美術館などの総合窓口があり、ここで各チケットが買えるようで、多少の行列でしたが、まだ10時前でしたので、美術館に行って並ぶよりはと駅で事前に買って行くことにしました。
(上の写真は、美術館2階休憩ロビーからの芸大美術学部方面)
東京藝大美術館は、大学併設の美術館とは思えないほど立派な建物。
前身の東京美術学校の教授陣や卒業生たちの重文指定の作品(教科書でお馴染みの、狩野芳崖の「悲母観音」、浅井忠「収穫」や高橋由一「鮭」はここにあったんですね)を始め、これまで我国の近代美術界をリードしてきた卒業生を中心に28000点余という膨大な作品を収蔵する美術館でした。
今回の「仏頭展」の展示室は地階と3階に分かれていて、途中階にはショップやホテルオークラが運営するカフェテリアなども備えていました。展示では、地階に興福寺の宗派である法相宗に関する経本などが展示。3階に十二神将やお目当ての仏頭が展示されていました。
仏頭は元々飛鳥の山田寺のご本尊を、1187年の戦乱で本尊を消失した興福寺の僧兵たちが、その代わりにと強奪してきたものだとか。
白鳳時代の685年に鋳造(開眼)されたという記録が残る薬師如来で、興福寺の東金堂の本尊として安置されていました。その後、1411年の火災で首だけを残して焼け落ち、新たに造られた本尊の台座の中に(本尊と同じ方向にお顔を向けて)格納されていつしか寺でも忘れ去られていたのが、昭和12年の東金堂の解体修理中に500年振りに発見されたという数奇な運命を辿った仏さまです。頭だけの仏さまで唯一の国宝指定(しかも発見の翌年という、異例のスピード指定だったとか)。
その第一発見者である、当時奈良県の若き技官だった黒田昇義さん(フィリピンで戦死)の98歳になられる奥様さまの手記が、10月中旬の日経文化欄に掲載されていて大変興味深く読みました。因みに発見は10月30日夕刻だったため、発見者の黒田さんはその夜一人で寝ずの番をし、差し入れの一升瓶のお酒を飲んでも、興奮して体の震えが止まらなかったそうです。
今回の特別展では、焼け落ちるまで東金堂のご本尊として、その周囲で守護神としてお護りをしていた国宝の木造十二神将立像(鎌倉時代)も600年振りに再会し、主従が一堂に展示されています。また我が国の浮彫り(レリーフ)の最高傑作という国宝板彫十二神将(平安時代)も併せて展示されています。なお、同じ白鳳仏として、深大寺(そばと植物園しか思い浮かばなかったのですが)の重文釈迦如来倚像(弥勒菩薩の半跏思惟像のように足を組まずに、椅子に腰掛け両足を付けたお姿)も参考出展されていました。
本来、仏像は安置されているそのお寺でこそ拝観すべきものだと思いますが、こうした美術展では周囲360度から見ることが出来るので、(美術工芸品として鑑賞するには)その点は非常にありがたいと思います。
今回も、“白鳳の貴公子”と呼ばれるというその涼やかで若々しいお顔立ちを、360度からぐるりと拝観することが出来ました。我々だけではなく、その尊いお姿に無意識に手を併せながら見ている方が何人もおられます。“美男におわす”と鎌倉の大仏さまを讃えたのは与謝野晶子ですが、この“白鳳の貴公子”も大層美男におわします。
11月24日まで開催されている「創建1300年記念興福寺仏頭展」。
常設の興福寺国宝館で拝観するのとは違った今回の展示での個人的な発見と一番のお薦め。それは、十二神将を左右両脇に配置し奥の正面に安置されている仏頭を、奥行きが25mほどもある展示室に入って直ぐの中央正面から、一番奥の仏頭まで(一通り見終わった最後に)25m程離れて正対し拝観すること。
池越しに丸窓からのお顔を拝むことが出来る平等院鳳凰堂のご本尊(阿弥陀如来座像)同様に、一丈六尺(4.8m)あったという立像のお顔の視線がちょうど正面に感じられるポイント。あたかも幻の元のお姿がそこにあるようで、思わず合掌・・・。何だか御仏に温かく見守られているような気がしました。
11月3日の日曜日。
午後12時半に新宿駅に到着し(独り重いボストンバッグを持って先にホテルにチェックインした後)、長女と待ち合わせての昼食の後で、コンサートは午後7時開演で時間があるので「さて、どこに行こうか?」。
コンサート会場は川崎なので、川崎大師へと思いましたが、娘によれば門前町はそれ程でもないし、京急だから不便とのことで、結局お上りさん宜しくまだ我々が行ったことがない浅草寺へお参りに行くことになりました。
地下鉄の浅草駅で降りると、熊手を持った人が何人も歩いて来られます。どうやらこの日は、ちょうど酉の市だったようです。
仲見世を歩きながら、途中お賽銭用の小銭が無いからと、大福を何故か3つも買って・・・、娘と私から「一つでイイじゃん!」という詰問には、「だって、全部味見してみないと分からないから・・・」との仰せ。何が分からないのか良く分からぬままに「入れておいて!」と、結局これも何故か私のリュックの中に納まることになりました。
漸く仲見世を抜け宝蔵門を過ぎ、本堂へしっかりとお参りを済ませ、帰りは人通りの少ない観音通りへ。人形焼や今半など老舗が軒を連ねます。途中、昭和の風情漂う喫茶店で一休み。
TVニュースなどで見る熊手を売っている露店が仲見世には無かったことから、お店の方に聞くと、酉の市は浅草寺ではなく、鷺(おおとり)神社だそうで、浅草からは歩けば20分近いとのことから今回は諦めました。知らぬとはいえ、商売繁盛は観音様ではなく神様の方でした(ただ、学生時代を関西で過ごした私メは、「商売繁盛!」と聞くと、どうしても「笹もって来い!」と“えべっさん”を想像してしまいます)。
翌11月4日の朝は、見たかった「興福寺仏頭展」のために早めに上野へ。
「仏頭展」の様子は次回ご紹介するとして、幾つもの美術館や博物館、動物園が集まる上野も多くの人出で賑わっていました。
広大な「上野恩賜公園」は、彰義隊との戊辰戦争で焼け野原のになった跡地を都市公園化したものとかで、お花見などでの都民の憩いの場である上野の森は、戊辰戦争の賜物と云えるのでしょうか。大きな木々がまさに森を作っている中で、春の桜のみならず、色付き始めたケヤキなどの秋の紅葉もなかなか見事です。
東京国立博物館では、恐らく最初にして最後の「洛中洛外図屏風」重文指定7点(国宝上杉本や岩佐又兵衛筆舟木本など)が一堂に会するという興味深い展示や、他にも東京都美術館での「ターナー展」など、上野の森は、紅葉のみならず、芸術の秋も真っ盛りでした(都会はイイなぁ)。
他にも、子供に人気の国立科学博物館の恐竜展や動物園もあり、上野公園はかなりの人出です。国立博物館の「特別展京都」も人気のようです。
JR上野駅からは、秋色に染まり始めた上野の森をちょうど通り抜ける感じで、東京都美術館を過ぎ、重文指定という旧東京音楽学校の泰楽堂(我国初の音楽ホールで、滝廉太郎がここでピアノを弾き、山田耕作も歌曲を歌ったのだとか)の横を通り、「仏頭展」が開催されている東京藝大美術館へと向かいました。
黒曜石で有名な旧和田村(現長和町)。日本全国の縄文遺跡から、和田峠産出の黒曜石で作られた石器が見つかっています。
諏訪に外出した帰りに、和田峠を下ってきた緊張感から開放され、トイレ休憩(+一服)で立ち寄った「道の駅」。その直売所に珍しい「ねずみ大根」(辛味大根の一種)が置かれていました。一般的な大根に比べると長さがせいぜい15cm程度と短く、辛味大根の中でも、下膨れで根が伸びた形状が鼠に似ていることから、そう呼ばれています。
ねずみ大根は、その坂城町を中心に東信地区などでも栽培されていて、ここ和田地区でも地元の生産者の方が持ち込んだ物のようです。
残り2袋だけでしたが、2本で100円だったので、興味があり購入してみました。
ねずみ大根などの辛味大根は、長野県内だけではなく、京都などでも地場野菜として栽培されており、特に蕎麦の薬味としても最近人気だとか。
しかし、ねずみ大根とは言い得て妙。下膨れの形と尻尾のように見える根が本当にネズミのようです。
そこで、地元のスーパーで市販の生そばでは我が家イチオシ(第340話参照)の松本熊谷製麺の「古城そば」を2パック(1パック二人前)購入し、辛味大根の絞り汁で食べる「おしぼり蕎麦」を試してみることにしました。
高遠から会津に移封された際に、保科正之公が高遠からそば職人も連れて行ったため、今でも会津には「高遠そば」として、辛味大根の絞り汁に味噌を溶いて食べる風習が残っているそうですが、私メはいつも通りに、濃縮麺つゆを薄める水代わりとして大根おろしの絞り汁を使います。薬味は大根おろしと刻みネギ。十二分の辛味がある筈なので、ワサビは不要(写真はミルクのように白いしぼり汁)。
このねずみ大根は、一般的な大根に比べ水分が少なく身が硬いので、卸すのにも力が要って時間も掛かります。
早速食べてみると・・・もっと辛いのかと思った一本目に比べ、二本目の辛いこと!。同じ畑でしょうから、個体差なのでしょうか?
家内は、古城そばだけではなく、坂城町に習って「おしぼりうどん」も試して満足気なご様子でした。蕎麦もこれだけ家庭で食べられるなら(茹で方にもよりますが)、十分満足の「古城そば」でした。
11月3日(日)。ミューザ川崎シンフォニーホールでのチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演。
今年も、「誕生日と、結婚記念日と、お中元とお歳暮もぜ~んぶまとめて!」と、長女夫婦がプレゼントしてくれました。ミューザ川崎は、サントリーホールと同じヴィンヤード型のコンサートホールで、ステージ後方にパイプオルガンを備えた2000席の堂々たるホールです。今回は、折角だからとステージ後方の席を娘が確保してくれました。但し、真後ろ(P席)だとピアノが殆ど聞こえないからと、ステージ左手後方の2階席(LA席)です。
川崎というと神奈川県ですので、信州人の感覚では都心からは遠い印象でしたが、東海道線だと品川から最初の停車駅。娘たちの住む五反田からは、すみだトリフォニーに行くよりもミューザ川崎の方が遥かに近くて便利です。
さて、この日のコンサート。イルジー・ビエロフラーヴェクが20年振りに首席に復帰し、ノイマンの黄金時代以来、久し振りのチェコ出身の指揮者となりました。マエストロはBBC交響楽団の首席なども歴任しており、チェコ物ばかりを売りにしている訳ではありませんが、やはり期待は高まります。
この日は、グリンカの「ルスランとリュドミラ序曲」に始まり、現地のチェコ・フィル定期デビューで絶賛されたという河村尚子が、その時同じ「ラフマニノフ2番」。休憩を挟んで、最後に十八番(おはこ)の「新世界」。
ほぼ満席で、2階正面には評論家の思しき方々も。
最初の歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲。以前NHK‐BSで放送されたマゼール指揮N響定期での快演が耳に残っていたので、それに比べると、しかも片やアンコールでしたので、先ずは肩慣らしといった軽めの演奏で、マエストロは余裕の指揮振り。その音は、私たちの客席の場所もあるのか、最後部中央に横に8本並べたコントラバスを始め、弦の低音が決して重たくならずに重厚に響き、一方管楽器には温かみが感じられ、ステージ全体が鳴っている感じで、このホールの音響の良さに驚かされました。ただ、日頃ステレオに慣れた左右のバランスと、ヴィンヤードのステージ後方席での音のバランスに最初は違和感がありましたが、慣れると、ステージ左後方からのTVカメラの目線で、指揮者の生の表情が手に取るようで、日頃のコンサートとは違う面白味を堪能出来ます。
続いて、河村尚子嬢をソリストに迎え、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。席からは、後姿ですが、指の動きが良く見えます。二の腕の予想以上の逞しさでの力強い打鍵で、オケと対峙しながらも流れるようなタッチで奏でていきます。惜しむらくは第1楽章でオケとのテンポにズレもあったものの、全体に決して叙情的に成り過ぎず、メリハリの利いた意志の強さが感じられる演奏でした。アンコールはショパン(リスト編)の「私の愛しい娘」。
休憩時間にロビーに行ってみましたが、この立派なホールにしては、廊下とロビーが少々狭いのがちょっぴり難点でしょうか。
メインのドヴォルザークの交響曲第9番「新世界」。
米国で初演された120年前(初演はNYP)以降、恐らくチェコ・フィルは自国の大作曲家のこの曲を、それこそ何百回と演奏してきたことでしょう。それが伺えるような、マエストロの指揮に統率されての自信に満ち溢れ、安定した余裕の演奏。しかも、聴く場所もあるのか、手前の第一ヴァイオリンなど、まるで一つの楽器のようにさえ纏まって聞こえて来ます。
“弦の国”チェコを代表し、その響きを絹にも例えられるチェコ・フィル。(良い意味で)くすんだような、何とも温かみと包容力ある音色にウットリと聞き惚れていました。弦楽器のみならず管楽器も含め、決して火花散るような熱い演奏ではありませんが、「任せなさい!」とでもいうような余裕の演奏。きっと、これが十八番(おはこ)というものなのでしょう。第2楽章でのイングリッシュホルンのお馴染みの主題も、ボヘミアの哀愁を漂わせているかのようでお見事でした。終了後、ブラヴォーが飛び交いました。
アンコールには、先にドヴォルザークの恩師ブラームスのハンガリー舞曲第5番、続いてお馴染みのスラブ舞曲第3番。会場が熱狂に包まれました。
そして、上から見る団員の譜面台にはまだ楽譜が置かれていて、何とアンコール三曲目。耳慣れない序奏から流れてきたのは、「故郷」のメロディー。大震災の日本を想っての選曲か、目頭が熱くなります。ありがとう!と言いたいほどに、客席には(後ろが邪魔にならない席では)スタンディング・オベーションの方々も。何度も繰り返されたカーテンコールの後に、団員の方々が一礼されて袖に下がって行いかれる時も、最後まで拍手は鳴り止みませんでした。
東欧圏の名曲シリーズとも言えそうな、そして思いがけない「故郷」のエンディングでの何とも心暖まる演奏会でした。幸せなひと時をプレゼントしてくれた娘夫婦に(特に彼は海外出張帰国の成田から直行してくれました)感謝、感謝でありました。
【追記】
最後に苦言を一言。
オケのテュッティでの「ジャン」の後に、すーっと消え入るように終わる「新世界」の第4楽章。2LA席で2つ左隣の席に居た若いお嬢さんが、まだ指揮棒が下ろされない内にフライングの拍手。
何年に一度オケが来るか来ないかの、ド田舎の演奏会ならいざ知らず、都会のコンサートでのぶち壊しのひんしゅくモノに、思わずキッと睨みつけてしまいましたが、開演前に聞くとも無く聞こえてくる会話では、何だか学生オケで楽器をやっているような感じの、クラシック音楽に詳しそうな彼でしたので、お連れの彼女には(連れて来るなら)少なくともちゃんと注意すべきでしょう。思い出しても腹立たしく、折角の良いコンサートでしたのに唯一の残念でした。
そう言えば、茅野市民館での小菅優のピアノリサイタル。
最初の悲愴の第2楽章で、ウットリし過ぎたのか、かすかに鼻息を漏らしてコックリと眠ってしまった前列のお母さんを、多分ピアノを習っているのでしょう、隣の小学生の女の子が即座に肘で突いて起こしてから、目でお母さんにしっかりと注意をしていましたっけ。微笑ましくもエライなぁ・・・と思った次第。
北アルプスの峰々から紅葉の便りが届いた後に、毎日通勤で通る三才山峠も最初に周囲の2000m級の山々の頂が紅葉し、緑の中の赤や黄色の点描が段々と鮮やかさを増しながら、且つ稜線から山裾へ、更には谷底へと少しずつ山を下って来ました。10月中旬には標高1000mくらいまで、その後次第に里山から里へと下り、11月に入ると市街地(と言っても信州ですから、標高500~600m)でも所々赤や黄色が点描のように見られるようになりました。そして、山では次第に落葉松の黄葉が始まり、山が一瞬黄金色に染まります。
(11月初旬の三才山峠の標高1000m~900m付近。差し替えました)
そんな季節の中で、市立博物館へ考古展を見に行った10月下旬の松本城。
ケヤキが随分色付いていて、モノトーンのお城との対比が鮮やかでした。
松本城と言えば春の桜ですが、こうして見るとお城の周囲には桜やケヤキもあるので、秋の紅葉もなかなか見事です。
その後で、いつもの『そば処 井川城』へ。
前回(第790話)の9月末には、早くも北海道産の玄蕎麦での新そばが食べられましたが、10月中旬以降には地元木曽開田産の新そばに切り替わるとのことでした。
店先には新たに「新そば」の幟(のぼり)も立てられています。既に1時半過ぎでしたが、ほぼ満席の盛況で何より。駐車場には県外車も何台か。遠くは愛媛ナンバーも。四国はうどんの国なので、信州まで(観光がてら)食べに来られたのでしょうか。
今年の春先から、粗挽き(従来の二八)も含めて全て自家製粉変えられたご主人が、「今年の蕎麦が良いのか、今までに無いくらいに良い粉が挽けました。」と珍しく仰っていた通り、もっちりとした十割は蕎麦の香りが高く、粗挽きもこれまでに無いくらいに腰がありました。
「やっぱり旨いなぁ!」さすが木曽開田産。そば打ち名人のご主人の腕と相俟って、大満足の新そばでした(写真は、いつもの粗挽き二枚分と、いつもの奥さまの三種盛から更科の「大名」です)。
その年の日本各地の遺跡の発掘調査での出土品を展示する、『発掘された日本列島』展。
毎年、日本各地では約8000件近い発掘調査が行われているそうですが、その中で、近年、特に注目されている32遺跡からの約520点の出土品を集めた「発掘された日本列島2013」展が文化庁主催で開催されており、しかも今年は特に宮内庁との共催により、幻の卑弥呼の墓とも云われる箸墓古墳や仁徳天皇陵などの、宮内庁が管理する天皇陵などの「陵墓」から、これまでの保全整備などの際に出土した様々な埴輪の展示も初めて行われるという、全国の考古学ファン垂涎!(多分)の特別展です。
それが、何と全国5ヶ所の巡回展の一つとして、今年は何故か(理由なんてどうでも良いのですが)松本にやって来ているのです!。
因みに松本の他には、東京、福島、高槻、大宰府のみ。東京は当然として、福島は若冲展然りですし、高槻周辺は古代ヤマト有数の古墳地帯でしょうし、大宰府は全国に4つしかない(筈の)九州国立博物館だし・・・何だか(全国の考古学ファンの方々に)申し訳ない気がします。確かに「何で松本なの?」と訝る向きもあろうかとは思いますが、東日本最古級の前方後方墳もありますし、一説には、天武天皇が都を松本(律令時代の束間=筑摩)に移すための調査まで行わせた(崩御により幻に)と云いますので、古代信濃の重要性に鑑み、どうかお許しください。
なお、光に弱い絵画とは違って、土で焼かれた土器や土師器などはフラッシュさえ焚かなければカメラ撮影OK(の筈)ですので、カメラ持参です(と言いながら、じゃあ、フラッシュを使わなければ絵画だって問題無いのでは・・・?と疑問が湧いて来ますが、もしかしたら、保存よりも著作権の問題か・・・?)。
ケヤキや桜が色付き始めたお城の中央公園の隅に建つ、松本市立博物館。
「発掘された日本列島2013」展は、特別展として2階フロアに展示されていて、入館料300円(常設展示+100円とのこと。係員の方に松本での開催理由を尋ねたら「さぁ、知りません・・・」というツレナイお返事でした)。旧石器時代から近世に至るまで広範囲の遺跡の発掘品が展示されています。
中でも注目は、国立市の緑側東遺跡から発掘された、縄文の宗教的儀式との関連が伺える、1mを超える石棒4本が発見時の状態が分かるように並べられ、つくば市の上境旭台遺跡からは縄文時代の完全なミミズク土偶と共に、切り取られ樹脂で固められた貝塚の地層(貝層)も併せて展示されていました。山国では見たくても見られなかった昔の考古学(好き)少年は、初めて見る古代からのタイムカプセルとも言える貝塚の実物(要するに縄文時代の“ゴミ捨て場”ですので、貝殻だけではなく、食べた獣や魚の骨、割れた土器の破片なども見られます)に興奮し、「凄いなぁ!」を連発。
また古墳時代からの浜松市の鳥居末遺跡からは、金の眩さが柄に残る太刀。
そして、今回の何と言っても目玉である、宮内庁管理の陵墓出土品の埴輪群。仁徳天皇陵出土の巫女と思われる女子頭部(人物形埴輪)、箸墓古墳の壷形埴輪、神社建築との繋がりが伺える御廟山古墳の囲・家形埴輪、中百舌鳥古墳群からの馬形埴輪の頭部など。出土した古墳名を見るだけでも「おぉ・・・」と溜息で、実物はどれも想像以上に大型の埴輪でした。
今回初めて一般に公開されたこと自体が宮内庁の英断だと思いますが、卑弥呼の墓かどうかの決着も含め、将来的な学術的発掘調査の実施が望まれます。
いずれにしても、長年の論争に決着を付ける邪馬台国の金印を始め、まだまだこの列島には今までの歴史認識を覆すような古代の遺物が眠っている筈です。いつか、ミッシング・リンクを埋めるピースが発見されることでしょう。
今回は、震災による高台移転などに伴う東北の遺跡発掘の展示や、地元松本平の発掘品の展示もあり、とても興味深い内容でしたが、一般受けはしないのか、もしくは期間終盤だったこともあるのか、恐らく松本に来ることなど二度と無いでしょうに、見学者が少なかった(見学中僅か数人!)のが残念でした。
ヤマトだけではない、旧石器時代からこの列島を選び住みついた我々民族の営みを知り、古代に想いを馳せる・・・どうして、火山や地震、台風が襲うこの災害列島にやって来たのか?・・・もしかしたら、時に自然災害はあっても、陸続きで日々異民族同士の争いのある大陸を避けて来たのかもしれない・・・小学生くらいの子供たちにこそ、是非実物を見て何か感じて欲しい。
この三連休の11月4日まで松本で開催されていて、その後は大阪、九州へと巡回します。