カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
奥さまが、知り合いの方(降旗監督のご親戚)から薦められ、公開中の「少年H」を是非見たいとのことから、南松本のシネマライツへ出掛けました。
昔、市内に6館もあった映画館もDVDや他の娯楽などの影響か、次々に閉館し(その内3つの跡地はマンションへ)、今や映画館は郊外を含めても2軒のシネコンしかありません。
シネコンに改装し残っていた市中心部最後の映画館、演技座が数年前に閉館になってからは、我が家からは些か離れているので、映画館からは足が遠のいてしまいました。
それに昔の映画館と比べると、シネコンは画面が小さい(学生の頃、古い.名画を格安で上映してくれていた中劇附属のシネサロン並み)ので、昔ほどの大迫力を画面からは感じなくなってしまいました(一方、家庭ではホームシアターの普及で、画面も大きくなり音響も向上しています)。
今回は奥さまのご要望もあり、DVDレンタルを待っているといつになるか分からないので、買い物がてら(私メは)初めて出掛けました。
午後の予定もあったので11時過ぎからの第一回上映を見に行きましたが、思いの外空いていました。やはり映画人口は減っているのでしょうか?(でも館内はお子さん連れが多かったので、子供向け映画は盛況だったかも知れません)。
見終わっての印象は、「戦争シーンの登場しない、市井の人たちの戦争映画」。
時代に翻弄された日本中の市井の人たちを通しての、戦争の愚かさ、悲惨さ。そして、例えば雨のように降り注ぐ焼夷弾へのバケツリレーなど、(戦争を知らぬ人間が)アイロニックな言い方をすれば滑稽さ(と同時に沸き起こる同じ日本人としての惨めさ・・・)。
戦時中に周囲で起こる悲惨な現実に少年らしい素直さで「何かおかしい」と感じていた主人公の肇(H)少年が、敗戦での玉音放送の後、林の中で「この戦争は、一体何だったんだー!」と大声で叫ぶシーンに、全てが凝縮されていたように思います。
エピソードの中で、父敏夫がお得意先の神戸居留ドイツ人から頼まれて修繕するボロボロの洋服が、「日本のシンドラー」こと杉原千畝がリトアニアで発給したビザを持ったユダヤ系の人たちの洋服だったとは知りませんでした(その多くは、シベリア鉄道経由でウラジオストックから敦賀などに上陸し、神戸経由で当時ユダヤ租界のあった上海などに向かったそうです)。
地元TV局のインタビューだったか、79歳になられる降旗康男監督が少年だった頃(終戦の一年前)、国民学校の先生が放課後「普通の軍国少年」だった彼を呼び出して「この戦争は負ける。だから、少年兵の募集があっても絶対に手を挙げるな!」とか、(降旗監督とは関係なく、地元紙でも取り上げられましたが、当事旧松本空港での飛行訓練のために浅間温泉に寄宿していた)特攻隊員から「君たちは絶対に兵隊にはなるな!」と諭されたと述懐されていて、この少年Hは戦時中の自分自身をも描いたと語っておられました。また最近のCGの進歩(その第一人者である「Always三丁目の夕日」の山崎貴監督は松本県ヶ丘高校OBです)も映画化可能と判断させた要素だったとか。
(家内が伺った)親戚の方の話によると、原作が妹尾河童さん自身の記憶を元に書かれていて、結構記憶違いや事実や年代に誤認があったりするのを、映画化にあたり、監督自らが丹念に記録などの事実確認を行って、年表を作るように時系列にきちんと並べ直したのだそうです。
終わって出ると、入り口に「少年H」のポスターがあり、故郷に舞台挨拶に訪れたであろう降旗監督直筆のサインが描かれていました。
そう言えば、深志高校の学校犬「クロ」が映画化された際、「どうしてOBの降旗監督にメガホンを撮ってもらわないのか?」という非難の声が同窓会で上がったそうですが、先述のTVインタビューの中で、故郷松本でのロケはしないのですか?という問い掛けに対し、今でも知り合いがいる故郷松本で「ヨーイ、スタート!」とは照れ臭くて言えないからと笑っておられました。また、10年前程前、娘が在学の頃、主演の高倉健さんを伴って母校を訪れ、「鉄道員」を上映し、高倉さんと共に後輩諸君にお話をいただいたのを思い出しました。
さて、予告編によれば、原作を読んで感動した百田尚樹著「永遠の0(ゼロ)」が12月封切りとか。これは絶対に見に行かなければ・・・と思っています。奥様は、きっと悲惨な映画は嫌と言われるかもしれませんが、この映画(原作)は、単なる戦争の悲惨さを描いているのではなく、究極の家族愛を描いている筈ですので。しかも、これまた松本出身の先述の山崎貴監督作品(ご自身は、CGではなくVFX=Visual Effectsと称す)です。
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